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現在の民主党と共和党の慣習からすれば、大統領候補が副大統領候補を指名する。副大統領候補指名は、政治イデオロギー、政治経歴、地理、年齢の違いなどを考慮して選ばれる。なぜならしばしば副大統領候補がランニング・メイトと称されるように、選挙戦を戦うのに不可欠な存在だからである。
フランクリン・ルーズベルトは自ら副大統領候補を選んだ最初の大統領候補になった。1948年、共和党の大統領候補のトマス・デューイもルーズベルトに倣って自ら副大統領候補を選んだ。こうした前例が確立される前、党の幹部が地理的条件や党内の均衡を勘案して副大統領候補を選んでいた。
最初の2人の副大統領であるジョン・アダムズとトマス・ジェファソンは大統領選挙で次点になったために副大統領に就任した。憲法では副大統領職に関して、上院で票が均衡した場合に決定票を投じる以外、ほとんど何も規定していなかったので、2人は独自に副大統領の地位を築かなければならなかった。
ワシントン政権下でアダムズはワシントンから助言を求められることがほとんどなかった。しかし、上院でアダムズは積極的な役割を果たしている。法案の諾否について上院議員に働き掛けを行うだけではなく、議事手続きや政策課題についてしばしば教示した。
ジェファソンはアダムズ政権で副大統領を務めたが、アダムズが連邦派に属しているのに対してジェファソンは民主共和派に属していた。ジェファソンはアダムズに協力する代わりに民主共和派の強化に努めた。また外国人・治安諸法に反発してジェファソンは秘かにケンタッキー決議を起草した。現職副大統領が現政権に反するような行為をとった事例は他にはない。歴史家によっては、ジェファソンは反逆罪に問われる危険性があったと指摘する者もいる。ジェファソンは副大統領として「議会運営の手引き」をまとめたことでも知られている。それは今日でも議員が参照する文書になっている。
19世紀において副大統領職は行政府に属するのではなく本質的に立法府に属すると考えられていた。副大統領は滅多に閣議に参加せず、行政府の運営にほとんど携わらなかった。あくまで副大統領は大統領選挙で地域間の均衡を保つだけの存在であった。したがって、大統領選挙が終われば副大統領の需要性は完全に薄れた。 現代とは違って、副大統領職は大統領に至る道を約束する地位ではなく閑職に過ぎなかった。ジョン・アダムズとジェファソン以後、セオドア・ルーズベルトの当選まで約一世紀の間に22人の副大統領が在職したが、大統領に選出されたのはマーティン・ヴァン・ビューレンのみである。それに対して国務長官経験者が大統領になった例は5例もある。
こうした事実にもかかわらず、注目すべき副大統領もいる。ジョン・クインジー・アダムズ政権とジャクソン政権で副大統領を務めたジョン・カルフーンは、州にとって有害だと考えられる連邦法を無効にする権限を州は持つという連邦法無効論で知られている。そうした論理は、奴隷制度と、州権と連邦からの脱退を一つに組み合わせる助けとなった。カルフーンは、1832年に、連邦上院議員に選出されたために副大統領職を辞任した。カルフーンは上院の指導者として1850年に亡くなるまで活躍した。
リチャード・ジョンソンはヴァン・ビューレン政権下で副大統領を務めた。ジョンソンは、大統領選挙で過半数の票数を獲得できなかったために上院によって選ばれた唯一の副大統領である。ジョンソンは問題のある人物であった。ジョンソンは公然と奴隷の女性と子供をもうけたことを認め、上院に出席するよりも自分の宿屋でお客の相手をしている時間のほうが長いくらいであった。
ジョン・タイラーは初めて大統領職を引き継いだ副大統領となった。タイラーは自分が「大統領代理」であることを拒否し、自らの権利で完全な大統領職に就任したと主張した。副大統領が完全に大統領職の義務と権限を引き継ぐという主張は重要な先例となった。
タイラーの先例のお蔭で、1850年にザカリー・テイラー大統領の死去によって、ミラード・フィルモア副大統領が大統領職を引き継いだ時にフィルモアの地位に関する議論はほとんど起きなかった。
数人の副大統領が上院議長職の職務に真剣に取り組んだ。ポーク政権のジョージ・ダラス副大統領、ベンジャミン・ハリソン政権のリーヴァイ・モートン大統領、マッキンリー政権のギャレット・ホバート副大統領などは上院の規則と先例を真剣に学び、議長職を円滑にこなした。グラント政権下のヘンリー・ウィルソン副大統領のように在職中に三巻にのぼる奴隷制度の歴史をまとめた者もいる。
副大統領の役割は、大統領の性格、優先課題、管理形態などを反映して時とともに変化している。リチャード・ニクソンが副大統領を務めた20世紀半ばから副大統領職は重要性を高めるようになった。政争から離れた超党派的立場に身を置きたいと考えるドワイト・アイゼンハワー大統領に代わってニクソン副大統領は積極的に行動した。
ジミー・カーター大統領は、副大統領に儀礼的義務以上の責務を与えた最初の大統領になった。ウォルター・モンデール副大統領はカーターの親密な助言者となり、大統領の会議に出席し、大統領に関連する書類を見る権限を与えられた。
次第に副大統領は政権内部で主要な役割を果たすようになり、政策に影響を及ぼすようになっている。ロナルド・レーガン大統領は、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領に国家安全保障危機管理チームを主宰するように求めた。ジョージ・H・W・ブッシュ自身も大統領になった際に、ダン・クエール副大統領に国家宇宙会議の議長職を与えた。アル・ゴア副大統領はビル・クリントン大統領の重要な助言者となって行政組織改革で中心的な役割を果たした。同時多発テロの際にジョージ・W・ブッシュ大統領は、湾岸戦争の間、国防長官を務めた経験を持つリチャード・チェイニー副大統領に頼って多くの判断を下した。2013年、オバマ政権下でジョー・バイデン副大統領は銃規制に関する特別調査委員長に任命され、銃規制の取り組みをまとめた。他にも副大統領が果たす行政的役割として、閣議、国家安全保障会議、スミソニアン協会理事会への参加などがある。
これまで副大統領の中で大統領職に就くことができたのは14人である。約3人に1人の副大統領経験者が大統領になっていることになる。
ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソン、マーティン・ヴァン・ビューレン、リチャード・ニクソン、ジョージ・H ・W・ブッシュの5人は大統領選挙で勝利して大統領職に就いた。残りの9人、すなわち、ジョン・タイラー、ミラード・フィルモア、アンドリュー・ジョンソン、チェスター・アーサー、セオドア・ルーズベルト、カルヴィン・クーリッジ、ハリー・トルーマン、リンドン・ジョンソン、ジェラルド・フォードは大統領の死亡、辞職で昇格して大統領になった。 セオドア・ルーズベルト以前、大統領職を継承した副大統領が大統領選挙で自ら勝利してさらなる任期を勝ち取った例はなかった。ルーズベルトはマッキンリー政権下で1901年3月からマッキンリーが暗殺される9月まで副大統領職を務めた。高い人気を誇るルーズベルトは共和党の大統領候補指名を獲得し、1904年の大統領選挙で勝利して自ら新たな任期を初めて勝ち取った。その後、クーリッジ、トルーマン、リンドン・ジョンソンの3人が同様に引き継ぎ任期に加えて自ら新たな任期を勝ち取った。しかし、これまで引継ぎ任期に加えてさらに2期8年務めた大統領は1人もいない。 |
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