大統領が急死した場合の継承
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アメリカ大統領が在職中に死亡した場合、どうなるのか。大統領が不在になる期間を短くするために、副大統領ができる限り迅速に大統領宣誓を行うのが原則である。しかし、実際に行われた継承例を見ると、必ずしも原則通りではないことが分かる。大統領の急死による継承例は8つの例がある。実際に継承にはどの程度の時間がかかるのか。
ウィリアム・ハリソン大統領は1841年4月4日午前0時30分に死亡した。大統領が在職中に初めて死亡した例である。
4月5日午前6時頃、ヴァージニア州ウィリアムズバーグにあるジョン・タイラー副大統領の自宅を訪問する者がいた。それはダニエル・ウェブスター国務長官から派遣された息子のフレッチャー・ウェブスターであった。
急報を受け取るタイラー
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タイラーは急報に特に驚く様子はなかった。なぜなら大統領の容態が深刻だと既に別の筋から聞いていたからである。
タイラーは息子のロバートとジョンを伴ってリッチモンドを経て列車でワシントンに向かった。そして、ハリソンの死後、約53時間で大統領宣誓を行った。
ザカリー・テイラー大統領が危篤だと報せを受けた時、ミラード・フィルモア副大統領は上院議長を務めるためにワシントンにいた。フィルモアはホワイト・ハウスにすぐに向かった。そして、一旦、滞在先のホテルに帰った。すると暫くして使者がやって来て大統領の死亡を宣告した。フィルモアの死亡時刻は1850年7月9日午後10時35分である。フィルモアはそのまま眠れない夜を過ごした。翌日正午、フィルモアは宣誓を行った。テイラーが死亡してから13時間半が経過していた。
アンドリュー・ジョンソン副大統領は、狙撃されたエイブラハム・リンカーン大統領が1865年4月15日午前7時22分に死亡が宣告された後、午前10時にカークウッド邸で大統領職を継承した。リンカーンの死亡から約2時間半が経過していた。
リンカーンの暗殺計画の他にジョンソンの誘拐も計画されていたが、実行犯が酩酊していたためにジョンソンは危難を免れた。もし誘拐が実行されていれば、大統領職の継承危機が起こる可能性があった。大統領が死亡し、さらに継承順位一位の副大統領が誘拐された場合、どうすればよいのか明確な決まりはない。
アンドリュー・ジョンソンの大統領宣誓
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1881年7月2日午前9時30分、ジェームズ・ガーフィールド大統領は狙撃されたものの即死ではなかった チェスター・アーサー副大統領はハドソン川を航行する蒸気船からニュー・ヨーク市に降り立ったところであった。そこで大統領が狙撃された報せを受け取った。
同年9月19日午後10時35分、ガーフィールド大統領がニュー・ジャージ州エルブロンで亡くなった。その時、アーサーはその北方50キロメートルにあるニュー・ヨーク市の自宅にいた。約1時間後に大統領の訃報を受け取って午前2時15分に大統領宣誓を行った。大統領の急死から約4時間後のことである。
チェスター・アーサーの大統領宣誓
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セオドア・ルーズベルト副大統領は、ウィリアム・マッキンリー大統領がニュー・ヨーク州バッファローで狙撃された報せを電話で受けた。その時、ルーズベルトはヴァーモント州シャンプレーン湖の島で開かれた昼食会に出席していた。
ルーズベルトはすぐにバッファローに駆け付けた。その後、医師が大統領の回復を保証したので安心したルーズベルトは、アディロンダック山脈に家族とともに休暇旅行に出掛けた。3日後、マーシー山の登山から戻ったルーズベルトを電報を持ったガイドが待っていた。それは大統領の容態が悪化したことで帰還を求める電報であった。
ルーズベルトは暗闇の中、35マイル(約56キロメートル)先の駅まで荷馬車を借りて最寄りの駅に向かった。9月14日未明、ルーズベルトはノース・クリークにある駅に到着した。そこで9月14日午前2時15分に大統領が死亡したことを知らされた。
すぐにルーズベルトは特別列車に乗ってバッファローに急行した。バッファローに列車が到着したのは同日午後1時30分である。ルーズベルトをバッファローの駅で出迎えた友人のアンスレー・ウィルコックスは、「街は興奮に包まれていた。そして、彼の安全に万全の注意が払われた。[中略]。彼は私の家に再び急行した。群衆を近付けないために少し離れて気少数の騎馬隊が随行した」と書いている。
最も問題となったのは、ルーズベルトはどこでどのように大統領宣誓を行うかであった。ウィルコックスは次のように書いている。
「宣誓を行う決まった計画はなく、どこで宣誓を行うかさえ決まっていなかった。最初、ミルバーン邸に直接向かって宣誓を行ってはどうかという案が出たが、大統領の遺体が安置されているので不適切だと却下された。そこで彼は昼食を撮るために私の家に行くことにして、到着するとすぐに服を借りて旅装を改めた。それから彼は、故大統領の家族に弔辞を述べるためにミルバーン邸に向かうと言った。結局、そうなって彼は3時頃に家に帰って来た」
ウィルコックス邸
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閣僚もウィルコックス邸に到着し始めた。午後3時半頃、大統領宣誓が行われた。その場にいたニュー・ヨーク西部管区連邦裁判所判事が大統領宣誓を執り行った。ウィルコックスはその時の様子を次のように記録している。
「新大統領は部屋の南側にある張り出し窓の前に立っていた。その他の者達は、ルーズベルト氏が話した時、少し後に下がっていた。ルーズベルトの応答の後、ヘイゼル判事が宣誓を執り行った。[中略]。それからルーズベルト大統領は閣僚に留任するように求めた。閣僚がこの家に入ってから30分以内に儀式は終了して解散した。残ったのは大統領と6人の閣僚のみであった。彼らはすぐに非公式の会合を書斎で開いた」
マッキンリーが死亡してからルーズベルトが大統領宣誓を行うまで約13時間が経過していた。
1923年8月2日午後7時30分(太平洋時間:東部時間では午後10時30分)、ウォレン・ハーディング大統領がサン・フランシスコのパレス・ホテルで客死した。その報せが東海岸に届くまで4時間かかった。8月3日午前2時30分(東部時間)、その報せがカルヴィン・クーリッジ副大統領の父親の家に電報配達人によって届けられた。父の家にクーリッジが滞在していたからである。
クーリッジの父が息子を起こして灯油ランプの明かりの下、大統領宣誓を行った。クーリッジの父は公証人を務めていた。親族が大統領宣誓を行った例は後にも先にもこの一度しかない。その時の様子をクーリッジは次のように書いている。
カルヴィン・クーリッジの大統領宣誓
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「1923年8月2日夜、私は階段を上がってきて私の名前を呼ぶ父に起こされた。私は父の声が震えているのに気付いた。これまで訃報が家族に届いた時のみに見られるような様子だったので、私は何か大変なことが起きたのだと悟った。父は私に公式な報告を渡して、ハーディング大統領が亡くなったと告げた。私と妻はすぐに着替えた。部屋を出る前に私は教会の祭壇前にいるかのように跪いて、アメリカ国民のために、そして、私にアメリカ国民に奉仕できる力を与えてくれるように神に祈りを捧げた。最初に頭に浮かんだことは、遺族にお悔やみを述べることであった。それから閣僚を更迭せず、政権の方針に大きな変更がないことを国中に知らしめることであった。私はすぐにハーディング夫人に電報を打たなければならないかったので、その目的のために短い公的声明を発表した。その間に私は大統領職を継承するためにどのような手順が必要か見極めるために憲法を調べた。副大統領が[昇格して大統領]宣誓を行う場合、さらに[通常の大統領宣誓に加えて]何か宣誓が必要なのかは明確ではなかった。[通常の]大統領宣誓と同じ書式しかない。その書式を憲法で確認して私はそれをタイピングして、長年にわたって公証人資格を持つ父に宣誓を執り行ってもらった。灯油ランプの明かりの下、居間といつも呼んでいる部屋で宣誓を行った。灯油ランプは最も近代的な照明であり、既にこの界隈でも使われていた。私の母の持ち物である聖書がテーブルに置かれた。その上に私は手を置いた。聖書の使用は公式なものではなく、ヴァーモント州やマサチューセッツ州でも宣誓と関連して聖書を使用しないのが慣例となっている。父と私の他に、妻、たまたま数マイル先に滞在していたデール上院議員、速記者、運転手がその場にいた」
ハーディングの急死後、約4時間でクーリッジは宣誓を行った。
ハリー・トルーマン副大統領はホワイトハウスに急遽呼ばれ、フランクリン・ルーズベルト大統領の急死を大統領夫人より知らされた。大統領が急死したのは1945年4月12日午後3時35分のことであった。トルーマンはその時の気持ちを、「まるで月とすべての惑星とすべての星が私の上に落ちてきたようだった」と後に回想している。
最初、トルーマンは話すことさえできなかったが、夫人にやっと「あなたのために私ができることは何かありますか」と聞いた。夫人は冷静に「今、困難に陥っているのはあなたなのよ」とトルーマンをたしなめた。
同日午後7時9分、トルーマンは大統領宣誓を行った。ルーズベルトの死後、約4時間のことであった。その日の日記にトルーマンは次のように記している。
ハリー・トルーマンの大統領宣誓
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「私は非常に衝撃を受けた。大統領の死を告げられ、政府の重責が私の肩にのしかかってきたことを知った時、本当に衝撃を受けた。これまで多くの人々に尊敬されてきた人物の死に国民がどのような反応を示すのかわからなかった。特に私は軍部がどのような反応を示すか心配していた。戦争の遂行、物価統制、戦時生産体制、そして、当時の緊急事態にどのような影響を及ぼすかもわからなかった。私は大統領がチャーチルとスターリンとともに多くの物事を決定していたことは知っていた。こうしたことに不慣れでも何をすべきか考えなければならなかったが、私ができることは、家に帰ってできる限り休んで、音楽を楽しむことだった。私の妻と娘、義母は、私の隣人のアパートにいた。[中略]。彼女達はターキーを食べていて、私にも何か食べるように薦めた。私は正午まで何も食べていなかったからだ。私は就寝してもうそれ以上、何も心配しないことにした」
リンドン・ジョンソンの大統領宣誓
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1963年11月22日午後1時、テキサス州ダラスで狙撃されたジョン・ケネディ大統領の死亡がパークランド病院で宣告された。
午後2時38分(中央標準時)、エアフォース・ワンに搭乗したジョンソンは大統領宣誓を行った(Audio)。ケネディの死後、約1時間半であった。大統領継承の8つの例の中で最も迅速な継承であった。その日のジョンソンの日程表には次のように記録されている。
「12時30分、ケネディ大統領が車列で撃たれた。12時40分、大統領の車列とともにジョンソン夫人と副大統領はダラスのパークランド病院へ。1号室と2号室で待機。1時、ケネディ大統領死亡。1時40分、ジョンソン大統領夫妻は目立たない警察車両でパークランド病院を出発。1時50分、エアフォース・ワンに到着。エアフォース・ワンに搭乗。2時38分、エアフォース・ワンで宣誓式」
またジョンソン夫人は以下のように述べている。
「すべてが美しく始まったように思えた。朝の細雨の後、太陽は明るく輝いていた。我々はダラスに向かった。先行する車には、ケネディ大統領夫妻、ジョンとネリー、それから人員を満載したシークレット・サービスの車、そ我々の車。リンドンと私、ヤーボロウ上院議員が乗っていた。通りは人でいっぱいだった。たくさんの人々に子供達はすべて笑っていた。プラカードや紙テープがあった。窓から手を振る人々もいた。最後の幸福な瞬間に私はメアリ・グリフィスが窓から身を乗り出して手を振るのを見た。メアリは長年にわたって私がダラスの店で購入した衣服の手直しを担当していた。街の外れに入って昼食会を行う予定のトレード・マートに向かう途中、我々はカーブに差し掛かって丘を下っていた。突然、鋭い声が告げた。『銃撃』と。私の肩の上、右方の建物から来たように私には思えた。立て続けに2発の銃声が響いた。祝賀ムードの中だったのでそれはきっとクラッカーか何か祝賀の音ではないかと思った。シークレット・サービスが突然、先行する車から降りた。私は『ここから出るように』と通信システムが告げるのを聞き、我々とともにいたシークレット・サービスのルーフ・ヤングブラッドが前部座席にいるリンドンに覆い被さって床に伏せさせて『姿勢を低く』と言った。ヤーボロウ上院議員と私は頭を隠した。車は急加速した。それから突然、急ブレーキがかかった。おそらくカーブを左に曲がりきるためだろう。我々は建物の中に引きずり込まれた。私が建物を見上げると『病院』だと言われた。いったい何が起きたかようやく私はわかった。ヤーボロウが興奮した声で『奴らは大統領を撃ったのか』と言ったので私は『いいえ、そんなことはありえない』と答えた。我々が立ち止まっていると、我々はまだ三番目の車にすぎなかったが、シークレット・サービスが我々を急がせて先導した。私は大統領の車を肩越しに最後に見た。鮮血がまるで花が咲くように後部座席に広がっていた。大統領の身体に覆い被さっているのはケネディ夫人だったように思う。シークレット・サービスは我々を右に左に先導して病院内の静かな部屋に導いた。とても小さな部屋だった。白いシーツが並んでいたように思う。人々が出入りした。ケニー・オコネル、ソーンベリー下院議員、ジャック・ブルックス下院議員など。常にルーフ、エモリー・ロバーツ、ジェリー・キヴェット、レム・ジョーンズ、ウディ・タイラーがいた。我々がどこに行くべきか話し合った。ワシントンに戻るか、飛行機に行くか、家に帰るか。こうしたことを人々はいろいろ話し合っていた。そうのような中でもリンドンは非常に冷静沈着だった。そこにすべての面々が揃えていたが、その中から知るべき答えを探さなければならない。私が見続けたのはリンドンを愛しているケニー・オコネルの顔だった。いつもであれば最初に考えを出すのはリンドンだったが、それは期待できそうになかった。オコネルは『ジャッキーとネリーに会えるか試してみたほうがよいのではないか』と言った。我々はジョンに何が起きたか知らなかった。私はシークレット・サービスに彼らのもとに連れて行ってくれるか聞いた。シークレット・サービスは我々を先導して廊下を通り、裏階段を下し、さらにもう一つ裏階段を下った。それから私はネリーに会った。1938年以来、ネリーと私は多くの困難を切り抜けてきたので他の人とは違った。私は彼女を固く抱き締めて泣いた。そして、私は『ネリー、何とかなるわ』と言った。するとネリーは『ええ、ジョンはきっと良くなるわ』と言った。優れた資質の中でも彼女は勇気を持っている。私はリンドンがいる小さな白い部屋に戻った。キルダフ氏とケニー・オコネルが入って来た。私はケニーから『大統領が死んだ』と聞いたように思う。キルダフ氏が入って来て『大統領閣下』とリンドンに言った。すぐに空港に向かうことが決定された。どのように車に乗るか、誰が車を運転するかすぐに決定された。覆面の車で飛行機に向かうべきだと主張したのはリンドンだった。我々はできるだけ速く車を走らせた。既に弔旗を掲げている建物を見た。途方もないことが起きたのだと私は初めて実感した。我々が飛行機に到着して、初めてエアフォース・ワンに乗った。そこにはテレビが置かれていてコメンテーターが『リンドン・ジョンソンが今や合衆国大統領』と言っていた。彼らは、疑惑を抱いていると言っていた。彼が暗殺者であるか確かではない。大統領は30-30ライフルで撃たれた。飛行機ではすべての窓の覆いが下げられた。リンドンは、ケネディ夫人と棺を待つべきだと言った。大統領としていつ宣誓すべきかに関して議論された。ワシントンに電話した。相手は司法長官だったように思う。できる限り迅速にダラスで宣誓すべきだと決定された。なぜなら国際関係の問題もあるし、我々は容疑者に関してどのような話が広まるか分からなかったからだ。ダラスの連邦判事であるサラ・ヒューズ判事がすぐに来た。ケネディ夫人はこの時までに棺とともに到着した。飛行機の狭い部屋の中でジャッキーは顔に髪を垂らしたまま彼の左にいたが落ち着いていた。そして、リンドンと私は彼の右にいた。ヒューズ判事が聖書を持って、彼女とシークレット・サービス、そして、長年、知り合いの議会の面々の前で宣誓を執り行った」 |
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