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アメリカ歴代大統領研究ポータル

アメリカ大統領と日本の首相の違い
閣僚

閣僚の構成

 伝統的に閣僚の構成員は行政府の省の長官である。大統領が長官を指名し、上院の承認を得る。閣僚の顔触れは創設順に以下の17人である。陸軍長官と海軍長官は1947年以降、防衛長官の下属になったので現在は閣僚に含まれない。数字は創設年度である。

 国務長官(1789)
 陸軍長官(1789)
 財務長官(1789)
 司法長官(1789)
 海軍長官(1798)
 内務長官(1849)
 農務長官(1862)
 商務長官(1903)
 労働長官(1913)
 国防長官(1947)
 保健福祉長官(1953)
 住宅都市開発長官(1965)
 運輸長官(1966)
 エネルギー長官(1977)
 教育長官(1980)
 退役軍人長官(1989)
 国土安全保障長官(2002)

 さらに近年は副大統領、大統領首席補佐官、中央情報局長、行政管理予算局長も閣僚と同等と考えられている。

ニクソン大統領と閣僚
ニクソン大統領と閣僚

参考:閣僚制度の歴史

閣僚制度の発端
 閣僚は確立された制度のように思えるが、その存在は憲法の明確な規定に基づくものではない。ただ憲法第2条第2節は、大統領は書面で職務に関する意見を各省庁の長官に求めることができると規定して間接的に閣僚について言及しているのみである。
 閣僚の歴史的な起源はワシントン政権にまで遡る。議会は国務省、財務省、陸軍省、そして、法律顧問として司法長官職を創設した。ジョージ・ワシントン大統領は最初、各省庁の長官に個別に意見を求めていたが、次第に閣議を開くようになった。各省庁の長官が集合的に閣僚と呼ばれるようになったのは1793年頃からである。そして、そうした閣僚が法によって正式に認められる制度になったのは1907年のことである。
 アメリカの閣僚制度はイギリスの内閣と異なり、立法府との繋がりをまったく持っていないという特徴を持つ。行政府が行政官を立法府に送り込んで影響力を拡大することを阻止するために、合衆国憲法は連邦の行政官が在任中に連邦議員になることを禁じている。それは三権分立の原理を守るための規定である。しかし、閣僚が議会に自ら出向いて審議に臨んだり提案を行ったりすることは禁止されていない。

台所内閣
 非公式の助言者から構成される「台所閣僚」と呼ばれる集団が歴史上、存在している。その歴史的起源はジャクソン政権である。1829年から1831年にかけて、定例の閣議を開く代わりにアンドリュー・ジャクソン大統領は友人や顧問と秘密裡に協議することが多かった。それは非難の意味を込めて、台所の階段を通ってこっそり大統領の書斎に行くために「台所閣僚」と呼ばれた。台所閣僚の構成員は絶えず入れ替わり、恒常的に助言を行う組織ではなかった。台所閣僚に対して従来の閣僚は「客間閣僚」と呼ばれた。
 憲法上、アメリカ大統領は、個人、または集団で公的にあるいは私的に助言をすることを禁じられていない。つまり、たとえ大統領が「台所閣僚」を重用しても違憲ではない。
 こうした台所内閣と同様に非公式な助言者からなる閣僚としてフランクリン・ルーズベルト大統領の「黒い閣僚」が知られている。「黒い閣僚」は、雇用、教育、アフリカ系アメリカ人の権利などの特定の問題に関する助言者から構成された。

閣僚の一斉辞任
 タイラー政権は閣僚が一斉に辞職したことで知られている。もともとジョン・タイラー大統領は、元民主党員であり、ホイッグ党の主流から外れていた。なぜタイラーが大統領になったのかと言えば、ウィリアム・ハリソン大統領の急逝によって副大統領から昇格して大統領職を継承したからである。そもそもタイラーが副大統領に指名されたのは、南部の州権を重視する一派を宥めるための妥協策であった。 
 大統領職を継承した後、タイラーはホイッグ党の理念に反して積極的に大統領の権限を行使し、ホイッグ党の有力な指導者たちが推進するアメリカ体制の実現を脅かした。ホイッグ党が議会で制定した多くの国内政策に対してタイラーは拒否権を行使した。そのためホイッグ党はタイラーを党内から追放してしまった。その結果、ダニエル・ウェブスター国務長官を除くすべての閣僚が辞任してしまうという異例の事態が起きた。その後、タイラーは南部の保守派を代わりに閣僚に任命した。
ライヴァルのチーム
 エイブラハム・リンカーン大統領の閣僚は、「ライヴァルのチーム(Team of Rivals)」と呼ばれる。それはリンカーンがかつて強力な政敵であった人々を閣僚に迎え入れてうまく政権運営を行う手腕を示している。
 リンカーンは閣議の中で「不賛成7、賛成1、そして、賛成に決まった」と発言している。また奴隷解放宣言を発表する前、リンカーンは閣僚に向かって「私はあなた達を私が書いたことを聞かせるために集めた。私はこの問題に関してあなた方の助言を求めていない。私は私自身で決定した」と言っている。これは閣僚があくまで大統領に対して助言を行う機関に過ぎないことを示している。決定事項が発表される時も閣議の決定事項としてではなく大統領の決定事項として発表される。後にバラク・オバマ大統領はそうしたライヴァルのチームを参考に組閣している。
閣僚制度の形骸化
 リチャード・ニクソンは1968年の大統領選挙で閣僚を再編し強化することを公約した。ニクソンは閣僚の宣誓を初めてテレビで放映させた大統領になった。ニクソンは閣僚に次官級人事を一任したが、すぐに後悔し、人事権を取り戻した。ニクソンの閣僚は政権の政策に忠実な者が集められていたが、ニクソンは閣僚に不信感を抱くようになった。長年の友人であったロバート・フィンチ保健教育福祉長官でさえニクソンと衝突して辞任している。
 ニクソン政権初期に、国内安全保障会議が設立された。国内安全保障会議は、国務長官と国防長官を除くすべての長官が含まれた。しかし、この新しい組織はほとんど有効活用されなかった。ニクソンは議会に閣僚を再編する許可を求めたが、議会はそれを拒否した。
 そこでニクソンは、ホワイト・ハウスを再編することで自らの目的を達成しようとした。ホワイト・ハウス補佐官のアーリックマンを長として新たに国内政策会議が設立され、国内政策の形成を担当した。国内政策会議はニクソン政権の1期目の終わりまでに60人以上の職員を抱えるようになった。国内政策会議は、閣僚を通さずに直接に省庁の職員と協働して政策を形成する機関であった。政策形成を主導する権限は閣僚ではなくホワイト・ハウス補佐官に与えられた。つまり、ニクソンは閣僚ではなく大統領府に権限を集中させることで自らの政策を実行した。そうした姿勢は他の要素も合わせて「帝王的大統領制度」と非難されることになる。
閣僚制度の強化
 1976年の大統領選挙で勝利したジミー・カーターは閣僚に政策形成に関して白紙委任状を与えることを約束した。ホワイト・ハウスの職員よりも閣僚に政策形成における決定権を持たせようと考えたのである。しかし、カーターが政権内の混乱に気付くのに長い時間はかからなかった。カーターは意見の衝突がそうした混乱の原因であると考えた。カーターは閣僚全員に辞職を求めた。その結果、5人の閣僚が辞任することに同意した。
 このように閣僚制度には大きな振れ幅がある。閣僚制度を活用するか否かは大統領の一存にあると言える。