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アメリカ歴代大統領研究ポータル

ジョン・アダムズ大統領
初代アメリカ大統領
飾り

ジョージ・ワシントン

ジョージ・ワシントン
説得力 88.2 5位
危機対応力 92.5 3位
経済管理力 82.7 1位
カリスマ 96.8 1位
外交力 87.2 1位
行政手腕 87.2 1位
議会連携力 78.7 4位
決断力 92.3 3位
公正性 51.2 13位
ヴィジョン 97.7 2位
C-SPANのランキングに拠って作成
 ワシントン大統領の能力値
完全な詳細は『ジョージ・ワシントン伝記事典』に収録。

ジョージ・ワシントン大統領の詳細




概要

George Washington

 Father of His Country
 連邦党 Federalist
 在任期間 1789年4月30日〜1797年3月4日
 生没年日 1732年2月22日〜1799年12月12日
 身長体重 183.0cm/79.4kg

農園主の子

 ジョージ・ワシントン大統領は1732年2月22日(ユリウス暦1731/32年2月11日) 、ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡ポープズ・クリーク(現ウェイクフィールド)で生まれた。10人中5番目の子供であった。父オーガスティン・ワシントン(1694-1743.4.12)は再婚であり、ジョージ・ワシントン大統領が母メアリ(1708/9-1789.8.25)の初めての子供になる。ヴァージニア邦民兵の将校になるまで測量士として働いたこと以外は、ジョージ・ワシントン大統領の少年時代についてはあまりよく分かっていない。

革命の剣

 独立戦争勃発直後に、フレンチ・アンド・インディアン戦争でヴァージニア連隊を率いた経験を買われ、ジョージ・ワシントンは大陸軍総司令官に任命された。そして、1775年から1783年まで続いた困難を極めた戦争で勝利をおさめた。「革命のペン」トマス・ジェファソン、「革命の舌」パトリック・ヘンリーと並んで、ジョージ・ワシントンは「革命の剣」と称される。または「祖国の父」とも呼ばれる。
ジョージ・ワシントンの横顔 ドチェスター高地に立つジョージ・ワシントン
(上)アレグザンダー・エイムズ『ワシントン』
(右)ギルバート・ステュアート『ドチェスター高地のワシントン』

初代アメリカ大統領として連邦制の基礎を作る

 合衆国憲法が制定されるとワシントンは新たに創設された大統領職に圧倒的な票数で選出された。初代大統領として建国されたばかりのアメリカの基礎を固めるために、ワシントン大統領はフランス革命戦争とは距離をおいた。党派対立の激化を憂慮しつつワシントン大統領は2期8年にわたる大統領任期を終えた。大統領任期を2期8年までとする慣例はワシントン大統領が作った。また初代大統領としてのワシントンの最大の功績は、強力な中央政府に基づく今日の連邦制の礎を築いたことである。

年表

 1732年2月22日  ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡ポープズ・クリーク付近に生まれる 
 1735年  ワシントン一家、スタッフォード郡に居を移す
 1743年4月12日   父オーガスティン死去
 1744年3月15日  ジョージ王戦争勃発
 1748年3月11日  測量団に加わり、測量技術の実地経験を積む
 1749年7月20日  カルペッパー郡の測量技師に任命される
 1752年7月26日  異母兄ローレンス死去
 1752年11月6日  ヴァージニア植民地民兵の将校に任命される
 1754年5月28日  初陣を勝利で飾る
 1754年7月  フランスとインディアンの連合軍に敗退する
 1755年4月19日  フレンチ・アンド・インディアン戦争勃発
 1755年7月9日  モノンガヒーラの戦いに参加
 1755年8月14日  ヴァージニア連隊の司令官に任命される
 1758年7月24日  ヴァージニア植民地議会議員に選出される
 1758年12月5日  ヴァージニア植民地民兵の将校を退役
 1759年1月6日  マーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚
 1765年3月22日  英議会の印紙条例可決により北米植民地各地で反対運動激化
 1774年9月5日  第1回大陸会議開催、ヴァージニア植民地代表の一人として参加
 1775年4月19日  レキシントン=コンコードの戦い、独立戦争始まる
 1775年6月15日  大陸軍総司令官に指名される
 1776年7月4日  独立宣言公布
 1781年10月19日  ヨークタウンの戦いでコーンウォリス率いる英軍を包囲降伏させる
 1783年3月15日  ニューバーグの陰謀を阻止する
 1783年12月23日  大陸軍総司令官退任
 1787年5月25日  フィラデルフィアで憲法制定会議開催、議長に就任する
 1788年6月21日  合衆国憲法発効
 1789年4月30日  大統領就任、ニュー・ヨークのフェデラル・ホールで就任演説
 1789年7月14日  フランス革命勃発
 1792年12月5日  大統領再選
 1793年4月22日  フランス革命戦争に関して中立を宣言
 1794年7月  ウィスキー暴動勃発
 1797年3月4日  大統領退任
 1799年12月14日  急性喉頭蓋炎で亡くなり、マウント・ヴァーノンに埋葬される

出身地

ヴァージニア王朝

ヴァージニア植民地
 第1代大統領のワシントンを初め、第3代ジェファソン、第4代マディソン、第5代モンローと引き続いてヴァージニア出身の大統領が誕生した。そのためこの4人の大統領をまとめてヴァージニア王朝と呼ぶ。4人はいずれも農園主の家庭に生まれ育ち、公職に就くことを上流階層の名誉であり義務だと考えていた。ヴァージニアは、他にも第9代ウィリアム・ハリソン、第10代タイラー、第12代テイラー、第28代ウィルソンを輩出し、「大統領の母」と呼ばれる。
 ヴァージニアは最も早くから開けた南部植民地である。ピルグリム・ファーザーズに先立つこと13年、1607年にジェームズタウンに到着した一行が植民地樹立の足掛かりを作った。ヴァージニアではタバコを中心に藍、米、綿花など換金作物の栽培を主な産業とした。労働の担い手として黒人奴隷が早くから導入され、その数は白人人口に匹敵するほどであった。広大な土地に大農園が散在し、その主はまさに郷紳であった。大農園の大半は代々限嗣相続により分散から免れたので、そのような郷紳の緊密な紐帯を中心にした自主独立的な社会制度が存続したのである。
 18世紀の中頃までタバコ農園主は、委託販売制を通じてタバコの国際取引に直接関与し、タバコ売買における優位性を保持していた。しかし、18世紀の中頃から商館制、つまりスコットランド商人による直接買い付けが浸透し、国際取引におけるタバコ農園主の優位性が失われた。ワシントンやジェファソンは自らも農園主としてこうした変化を如実に感じていた。
 ヴァージニアの1790年の人口は約69万2000人に達し、1792年の大統領選では15州の中で最も多くの選挙人を抱える州であった。ワシントンの生誕地のポープズ・クリークは、ヴァージニア州の北東部、ポトマック川沿いに位置する。現在は、ジョージ・ワシントン生誕地国定史跡になっている。

家系

騎士の末裔

 ワシントンという家名の起源は12世紀末に遡る。1183年、ウィリアム・デ・ハートバーンという騎士が、ウィリアム征服王から封地としてウェシントンを授かり、デ・ウェシントンという家名を使い始めたという。さらに7世の祖ローレンス・ワシントンは、ノーザンプトンシャーの荘園から得ている。その荘園は、「ワシントン荘園」として知られるようになった。またワシントンはシェイクスピアの戯曲で有名なイングランド国王エドワード3世の血を受け継いでいる。他にも、はるかに系譜をたどれば、エリザベス2世やウィンストン・チャーチルとも繋がりがある。
 イングランド内戦が勃発した際に、ワシントン家はチャールズ1世に加勢したが王の凋落とともに封地を失い困窮した。そのためワシントンの曽祖父ジョンは、バルバドスを経て1656年にヴァージニアに移住し、最初はほとんど資金はなかったが最終的には約6000エーカーの土地を得た。その土地の中には後のマウント・ヴァーノンも含まれている。ジョンはヴァージニア植民地議会議員に選ばれ、1675年から1676年のフィリップ王戦争でヴァージニア民兵を指揮した。アメリカでのワシントン家の礎はジョンによって築かれた。祖父ローレンスもジョンと同じく、ヴァージニア植民地議会議員を務めた。
 またワシントンは、母メアリを通じて、14世紀のイギリスの農民一揆の指導者の1人であり、「アダムが耕し、イヴが紡いだ時、いったい誰がジェントルマンであったか」という韻文で知られるジョン・ボールの血を引いている。

家庭環境

父の死

 父オーガスティンは大農園を管理する傍ら、フレデリックスバーグ付近にあった鋳鉄場の共同所有者でもあった。自らの地所で鉄鉱石を見つけたために鋳鉄場の経営を始めたという。オーガスティンはその当時の上流階層の習慣に従ってイギリスのアップルビー・スクールで教育を受けている。1715年4月20日に初婚、前妻と死別後、1731年3月6日にメアリ・ボールと再婚した。
 オーガスティンの鋳鉄場は大規模な事業であり、自前の船でイギリス市場に製品を輸出していた。他にも土地投機を行ったり、治安判事を務めたりしていた。こうした仕事で家を空けることが多かったオーガスティンだったが、ワシントンを随分と可愛がったらしい。
 ワシントン一家は1735年、ウェストモーランド郡からエプスワッソン(後のマウント・ヴァーノン)に移転している。エプスワッソンは、スタッフォード郡(1742年以後フェアファックス郡)のリトル・ハンティング・クリーク付近に位置する。さらに家屋が焼失したために、1739年、ラパハノック川沿いにあるフェリー・ファームに移転している。同地は鋳鉄場も近く便利な場所であった。1739年から1747年の少年時代の大半をワシントンはフェリー・ファームで過ごした。
 1743年4月13日、父オーガスティンが亡くなった。その遺産は、約1万エーカーの土地と約50人の奴隷であった。大半をローレンスが相続し、ワシントンには、21歳になった時に260エーカーのフェリー・ファームと4区画の土地、そして10人の奴隷が分与されることになった。
 父の死後、ワシントンは母とともにフェリー・ファームに住んだ。農園の管理を手伝い、それに必要な様々な事柄を学んだ。また猟や魚釣り、ボート遊びなどを楽しんだ。中でもダンスはワシントンの最も得意とする娯楽であった。

憧れの兄

 オーガスティンの死後、ワシントンは14才年上の異母兄ローレンスを父親代わりにして成長した。ワシントンはしばしば兄が住むマウント・ヴァーノンを訪れている。

ローレンス・ワシントン
 ローレンスは、1740年に英軍のカルタヘナ攻撃に従軍した経験を持ち、ヴァージニア植民地全軍の軍務将校になった経歴を持つ。そうした兄はワシントンの憧れの的であった。またローレンスは、有力者のフェアファックス家の姻戚となりヴァージニア植民地議会議員も務めた。フェアファックス家は500万エーカー(約2万平方キロ)にわたる広大な土地を支配する一族であった。ローレンスの後ろ盾のお蔭でワシントンはフェアファックス家と親交を深めることができた。
 ワシントンの将来を案じたローレンスは、イギリス海軍の士官候補生になるように勧めた。ワシントン自身もその考えが気に入ったが、母メアリが強固に反対したために諦めざるを得なかった。

兄弟姉妹

異母兄弟

 父オーガスティンの再婚により、ワシントンに異母兄弟と同母兄弟がいた。異母兄弟は以下の4人である。

バトラー・ワシントン
 長兄バトラー(1716-1729?)は、ヴァージニア植民地ブリッジス・クリークで生まれたが早世した。ワシントンの異母兄にあたる。

ローレンス・ワシントン
 次兄ローレンス(1718-1752.7.26)は、ヴァージニア植民地ブリッジス・クリークで生まれた。ワシントンの異母兄にあたる。1740年から1742年に西インド諸島方面でイギリス軍に従軍した。1743年7月19日、有力な一族であるフェアファックス家の娘アンと結婚した。父から相続した農園をマウント・ヴァーノンと改名している。ヴァージニア植民地全軍の総務将校を務め、ヴァージニア植民地議会議員も務めた。1752年、結核のためマウント・ヴァーノンで亡くなった。子供はいずれも夭折した。

オーガスティン・ワシントン
 3兄オーガスティン(1720-1762.5)は、ヴァージニア植民地ブリッジス・クリークで生まれた。ワシントンの異母兄にあたる。ヴァージニア民兵(名誉)大佐であり、ヴァージニア植民地議会議員を務めた。1762年に亡くなった。

ジェーン・ワシントン
 姉ジェーン(1722-1734/5.1.17)は、ヴァージニア植民地ブリッジス・クリークで生まれた。ジェーンは早世した。ワシントンの異母姉にあたる。

同母兄弟

  ワシントンの同母兄弟は以下の5人である。

エリザベス・ワシントン
 長妹エリザベス(1733.6.20-1797.3.31)は、ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡ウェイクフィールドで生まれた。ワシントンの同母妹にあたる。1750年5月7日に結婚し、1797年に亡くなった。

サミュエル・ワシントン
 長弟サミュエル(1734.11.16-1781.12)は、ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡ウェイクフィールドで生まれた。ワシントンの同母弟にあたる。ヴァージニア民兵(名誉)大佐であり、治安判事、保安官などを務めた。

ジョン・ワシントン
 次弟ジョン(1735/6.1.13-1787.1.8?)は、ヴァージニア植民地スタッフォード郡で生まれた。ワシントンの同母弟にあたる。ヴァージニア民兵大佐であり、1775年から翌年にかけてヴァージニア革命協議会議員を務めた。1787年、ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡ブッシュフィールドで亡くなった。長男ブッシュロッド は、1798年から1829年まで連邦最高裁判事を務めている。

チャールズ・ワシントン
 末弟チャールズ(1738.5.2-1799.9.16?は、ヴァージニア植民地スタッフォード郡で生まれた。ワシントンの同母弟にあたる。ヴァージニア民兵(名誉)大佐であり、現ウェスト・ヴァージニア州チャールズ・タウンの建設者である。1799年、ヴァージニア州ジェファソン郡ハッピー・リトリート(現ウェスト・ヴァージニア州) で亡くなった。チャールズはワシントンに残された最後の兄弟であった。

ミルドレッド・ワシントン
 末妹ミルドレッド(1739.6.21-1740.10.23)は、 ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡ウェイクフィールドで生まれた。ワシントンの同母妹にあたる。ミルドレッドは早世した。

母親との確執

 ワシントンは、父オーガスティンに母メアリの面倒を生涯みると誓ったが、母との確執に長年悩まされた。「ノーザンネックの華」と呼ばれ美人の誉れ高かったメアリは早くに両親を亡くしていたとはいえ十分な遺産を受け継いでいるために生活に困窮することはなかったはずだが、しばしばワシントンに金品を要求した。1755年、ワシントンが軍務に服している時に、バターと新しい召使を要求する手紙を送り付けたこともある。
 さらにメアリは、ジョージが独立戦争を指揮するようになると著しく憤慨したという。つまり、農園の管理を怠るだけではなく母親も放置してまで戦争に出かけるのは間違いだとメアリは思ったのである。ワシントンはできるだけ要求に応じるようにしていたが、それでもメアリは部外者に子供達に無視され困窮しているとしばしば訴えたという。それだけにとどまらず、メアリはヴァージニア邦議会に経済的援助をしてくれるように請願した。ジョージはメアリに「怠け者と見なされ、世間から不孝息子だと思われる」のでそれを止めるように懇願したが、親子の仲は拗れるばかりであった。結局、メアリが亡くなるまで不和の溝は埋まることはなかった。ワシントンが大統領になるまでメアリは存命していたが、就任式には出席していない。
 しかし、不和と言ってもワシントンはメアリに対して極めて鄭重に接していたことは指摘しておくべきだろう。ワシントンは手紙を送る際に、必ず「名誉あるご婦人」という尊称を母につけ、末尾には必ず「あなたの忠実な息子」と記している。

学生時代

家庭での教育

 この当時、ヴァージニアの上流階級では、家庭教師を雇って子弟に一定の教育を施した後、本国イギリスの学校に入学させることがごく普通のことであった。しかし、異母兄たちがイギリスの学校で学んだのにも拘わらず、母メアリはワシントンをイギリスの学校に通わせることを拒んだ。そのためワシントンはイギリスの学校に行く機会を得ることができなかった。
 伝記作家メイスン・ウィームズによると、信憑性は低いが、ワシントンが初めに教育を受けたのは、父オーガスティンの借地人のホビーという人物が運営していた小さな学校だったという。スタッフォード郡に居を移した1739年頃、ワシントンは近くにある学校に通い始めた。どこの学校に通っていたかは明らかではない。その学校では随分と腕白だったようである。ある冬の日、雪合戦をしていた際に目の周りに大きな痣をこしらえ、母メアリは数日間、ワシントンを家から出さなかったという。
 ワシントンは読み書きと算数の他に地理や幾何、三角法などをを学んだ。中でも三角法は測量士になるために役立った。しかし、その当時、外交の場で多く用いられていたフランス語や文学を学ぶ機会に恵まれず、さらに大学に進学する機会も得ることができなかった。ワシントンが学校に通っていたのは14、15才までである。その頃から生涯にわたって日記と出納簿を几帳面につけている。
 建国初期の大統領で大学に進学していないのはワシントンのみである。そのため後にジョン・アダムズは、ワシントンを「その身分にしては無学過ぎるし、文盲で教養が無い」と批評している。しかし、1749年5月5日、ウィリアム・アンド・メアリ大学はワシントンに測量技師の免許を与えている。それは工学の学位に相当するのでワシントンが全くの無学だったとは言えない。

少年の頃の指針

 ワシントンが少年の頃に熱心に学んでいたのは、「交際と会話における礼儀作法」と『若者の手引き』である。前者は、16世紀末にイエズス会がフランス貴族の作法のお手本として書いた格律で、イギリスを経てヴァージニアにもたらされた。その内容は、大きな声で話したり、笑ったりし過ぎてはいけない、感情を抑制することが大事であるといった社会的規範から健康法、外見に至るまで多岐に及ぶ。後者は、イギリスの若者向けの書物で、手紙の書き方や測量の仕方、家の建て方やエチケットなどについて解説している。

職業経験

測量技師

ワシントンの青年時代に関するさらなる詳細は以下に。
アメリカ人の物語 青年将校 ジョージ・ワシントン

遠征隊に参加

 18世紀当時、測量技術は極めて重要な技術であった。なぜなら未だ境界が定まっていない地所を正確に測量することで領域を確定する必要があったからである。ワシントン自身も測量技術は、「大きな地所を所有する者にとって何にもまして必要な」技術であると1771年に書いている。ワシントンは倉庫から父が使っていた測量器具を引っ張り出して測量に励むようになり、1747年10月、測量で初めて2ポンド3シリングの対価を得た。さらに1748年3月11日、ワシントンは、ジョージ・フェアファックス率いる測量団に加わりシェナンドア渓谷遠征に出発した。

測量技師の仕事と兄の病気

測量技師ジョージ・ワシントン
 測量団に随行して実地経験を積んだワシントンは、1749年5月5日、ウィリアム・アンド・メアリ大学から測量技師の免許を得た。そして、ヴァージニア植民地に新たに建設されたアレクサンドリアの区割りに加わった。さらに7月20日に新しく設置されるカルペッパー郡の測量技師に任命された。ワシントンが最初に就いた公職である。1752年10月までにシェナンドア渓谷を中心に190回もの測量を行ったという。測量を通じてワシントンは、情報を簡素に、しかも精確に伝える経験と明らかな指示を下す訓練を積んだ。こうして培われた見識は後々、軍隊を指揮する際に大いに役立った。
 当時、測量技師は現金収入を得ることができる数少ない職業の1つであった。ヴァージニア植民地では現金の代わりにタバコで決済されることが多かったためである。ワシントンは友人や親戚に貸したお金やトランプやビリヤードなどの勝ち負けを克明に記している。さらにワシントンはこの頃から西部の土地の購入を始めた。1750年末には1500エーカーの土地を所有するまでになっている。
 測量技師としてのキャリアは1751年秋に中断を余儀なくされた。結核を患っていた兄ローレンスの転地療養のため、9月にバルバドスまで同行することになったからである。兄弟は11月にバルバドスに到着した。
 バルバドスでワシントンは特にヴァージニアとは異なった農法に関心を抱いた。島に到着してから2週間後、ワシントンは天然痘に罹った。天然痘による痕跡は一生残ったものの、免疫を得たことにより後々の長い軍隊生活の中で天然痘に罹患せずに済んだ。当時、天然痘は軍隊の中で非常に恐れられ、また主な死因の1つであった。このバルバドスへの旅はワシントンの最初で最後の海外訪問である。12月末、天然痘が癒えたワシントンは兄より先にバルバドスを去った。

実らぬ恋路

「愛してもそれを隠すことは、ああ、何と私を苦しめることか。長らく愛することを願ってきたが、決してそれを明かそうとは思わない。たとえ愛が私にとって苦痛だと激しく感じられようとも」という詩を10代に作っているように若き日のワシントンは女性に対して堅苦しく不器用であった。「私が試みてきたことは何であれ、不安に悲しみを足すような拒絶を得るだけであったとよく分かっていたので」、ワシントンは「若い女性から離れている」ように努めていたという。例えば、20才の頃、ヴァージニア植民地議会議員の娘ベツィ・フォンルロイに思いを寄せ、少なくとも2度アプローチしたがすべて断られて諦めている。それはワシントンにとって「無情な宣告」であった。

民兵隊を指揮

未開の地を行く

 1752年7月26日、ローレンスは転地療養の甲斐無く、マウント・ヴァーノンで亡くなった。ワシントンは、2500エーカーの土地と18人の奴隷の分与を受けた。11月6日、ワシントンはヴァージニア南部民兵管区の少佐および軍務将校に任命された。
 当時、イギリスとフランスは北米植民地の覇権をめぐって争っていた。そして、ヴァージニア植民地は本国イギリスと協力してフランス勢力と戦っていた。ヴァージニアの北西部領域が侵される危険があったからである。フランスは特にオハイオ渓谷を毛皮交易のために支配下におきたいと考えていた。一方でイギリスも1749年にオハイオ会社にその一部の土地開発を許可していた。ワシントンもこのオハイオ会社の出資者の1人である。まさに英仏両国は一触即発の状態にあった。
 ヴァージニア総督代理ロバート・ディンウィディの命令の下、1753年10月31日にウィリアムズバーグWilliamsburgを出発したワシントンはペンシルヴェニア植民地北東部に向かった。オハイオ川分岐で砦建設に適当な場所を見極めた後、ログスタウンに至ってイロクォイ諸族Iroquoisと接触した。そして、12月12日、エリー湖付近のル・ボーフ砦に至り、命令通り、フランス軍に「イギリス王の領土」からの即時撤収を求めるディンウィディの最後通牒を手渡した。しかし、フランスはその最後通牒に応じなかった。返書をフランス軍司令官から受け取ったワシントンは12月16日、帰路についた。ワシントンが辿った道程は「少なくとも500マイル」に及ぶ。
 帰還後、この任務に関するワシントンの報告は『ワシントン少佐の日誌』として出版された。ウィリアムズバーグには翌1754年1月16日に帰着した。ワシントンから詳細な報告を受けたディンウィディはオハイオ川分岐に砦を建設することを決定し、早速、部隊を派遣した。

初陣と敗北

 22才にしてワシントンは中佐に昇進し、新しい砦に配属する兵士を徴募する任にあたった。そして、多くの植民地人が、正規兵よりも低い給与しか支払われないことを憤っていることを知った。ワシントン自身も正規軍の中佐の給与よりも民兵の中佐の給与のほうが低いことを知って退役しようかと思ったほどである。
 1754年4月18日、ワシントンは、オハイオ渓谷に築かれたイギリスの砦を守るために160名の民兵を率いて出発した。しかし、砦は既にフランス軍の手中に落ち、さらに後続の軍は指揮官の不慮の死によりほとんど到着しなかった。フランス軍は砦をデュケイン砦と名付けた。砦の陥落を知った時、ワシントン率いる部隊はまだ200マイルほど離れた場所を行軍していたが、ワシントンは行軍をそのまま続行した。そして、デュケイン砦から南方約60マイルの地点にネセシティ砦を築いてフランス軍に備えた。
 1754年5月28日、数十人の分遣隊を率いたワシントンはフランス軍の小部隊に勝利し初陣を飾った。この戦闘はフレンチ・アンド・インディアン戦争の最初の小競り合いとなった。フランス軍は10名の死者と1名の負傷者を出し、21名が捕虜となった。戦闘が起きた場所は現在のペンシルヴェニア州ユニオンタウン付近である。
 ワシントンは、この時の模様を弟のジョンに宛てた手紙の中で「君に本当のところを伝えると、弾丸の掠める音を聞いて何か楽しげな響きがあると私が思ったことを信じてくれるだろうか」と語っている。後にロンドンで印刷されたこの手紙を読んだイギリス国王ジョージ2世は、「もしそんなにたくさんの音を聞くのに彼が慣れていたら、そんなことは言わないだろう」と感想を述べている。
 6月初め、約180名からなるヴァージニア民兵の増援軍がネセシティ砦に到着した。さらに6月14日、食料が尽きる寸前に約100名の正規兵が軍需物資とともに来援した。他にも少数の友好的なネイティヴ・アメリカンが守備兵に加わった。7月3日、フランス軍とネイティヴ・アメリカンの連合軍が砦に襲来した。ネセシティ砦に立て篭もった兵士は増援軍もあわせて約400名である。その3分の1は病気であり、残りの兵士達も飢えがちであった。対する連合軍は、フランス兵が800名にネイティヴ・アメリカンが400名であった。フランス軍が森と岩場の背後から銃撃を加えたために、約30名の死者と70名の負傷者が出た。さらに雨天により戦場は泥の海と化した。ネセシティ砦には、もはや満足に戦える兵士もほとんどなく、食糧も乾いた弾薬も不足していた。真夜中、ワシントンはフランス軍にネセシティ砦を明け渡すことに同意した。
 この時にワシントンが署名した降伏文書は、先に打ち破ったフランス軍の小部隊が偵察部隊ではなく使節であることを認めている。つまり、これはワシントンの勝利が騙し討ちによるものであり、フランス軍の指揮官を「暗殺した」ことを認める文書であった。後にワシントンは、騙し討ちを認めたわけではなく降伏文書に書かれていたフランス語が良く分からなかったためだと弁解している。
ハワード・パイル『撤退するワシントン』
  敗残兵を引き連れてワシントンは7月17日にウィリアムズバーグに戻った。植民地人は、砦を失ったことでワシントンを責めることなく、むしろ勇敢に戦ったことを称賛した。その後、ワシントンは上官の死去に伴ってヴァージニア連隊の大佐に昇進したが、1754年11月5日に退役している。本国からすべての植民地人士官を降格させる命令が届き、したがって大佐から大尉に降格させられることを潔しとしなかったためである。また民兵隊の将校の位階しか持たないために、イギリス軍の将校任命辞令を持つ士官と指揮系統をめぐって衝突したことも、ワシントンが退役した1つの理由である。ヴァージニア連隊も解散し、ワシントンは軍隊での経歴を一時断念せざるを得なかった。
 退役後、ワシントンは12月17日に、義姉(異母兄ローレンスの未亡人)から年額1万5000ポンドのタバコでマウント・ヴァーノンを賃借する契約を結んだ。しかし、ワシントンが軍を離れていたのは束の間であった。1755年3月、北米イギリス軍最高司令官エドワード・ブラドッグ将軍が、デュケイン砦攻略に協力するように求めてきたのである。その求めに応じて、5月10日、ワシントンはブラドッグの副官として無給ながら随行することにした。経験豊富な将軍から軍事知識を実地で学ぶ良い機会だと考えたからである。

モノンガヒーラの戦い

 デュケイン砦から南東約90マイル離れたカンバーランド砦に部隊を集合させ、1755年6月7日、作戦を開始した。ワシントンは行軍速度の遅さに苛立ちを感じていた。手紙の中で「彼らはあらゆる高さのモグラ塚で立ち止まり、すべての小川に橋を架けています。そういうわけで我々は12マイル進むのに4日間もかかります」と記している。
 進軍が始まってから2週目、ワシントンは高熱を発し、ほぼ3週間も後衛に下がっていなければならなかった。1755年7月9日、1450名のイギリス軍前進部隊が、モノンガヒーラ川近くで900名からなるフランス軍とネイティヴ・アメリカンの連合軍に大敗を喫した。かねてからワシントンは「山々や茂みがある地域を通る時にカナダのフランス軍とインディアンから経験したような形式の攻撃がおそらくある」と警告していたが、受け入れられなったという。後にワシントンは「狡猾な敵の裏をかくためには良い諜報以上に必要なものはなかった」と回想している。
 連合軍はまさにワシントンが警告したようにイギリス軍を急襲した。まだ体調が完全に戻っていないのにも拘らず軍列に戻っていたワシントンは致命傷を負った将軍を救護した。さらに後方部隊に馬を走らせ、前線に軍需物資を送るようにという指示をワシントンは伝えた。ディンウィディ総督に宛てた手紙の中でワシントンは「弾丸が4発も私のコートを貫き、馬も2頭やられましたが、幸いにも私は一つの怪我も無く乗り切ることができました」と戦いの激しさを語っている。ブラドッグが戦死したことで軍に留まる理由がなくなり、ワシントンはマウント・ヴァーノンに帰った。
 この戦いの翌月、敗退したイギリス軍の穴埋めをするために、ヴァージニア植民地は解散していたヴァージニア連隊を再結成した。それに伴い、8月14日、ワシントンは大佐および「ヴァージニア全軍総司令官」に任命された。その任務は約300人の兵士で350マイルにもわたる境界を守備するという難行であった。2,000人以下の兵士でこうした任務を十分に果たすことは難しいとワシントンは述べている。フランス軍とネイティヴ・アメリカンの諸部族の攻撃から入植民を守ることが主な任務であったが、守備範囲が広く人手が足りなかったのでいつも後手に回っていた 。そうした状況をワシントンは歯痒く思い、全植民地が一致協力してフランス軍とネイティヴ・アメリカンの諸部族に対抗すべきだと考えていた。
 軍隊を指揮するにあたって、ワシントンは『ガリア戦記』、『軍事教練論』などを読むことで兵法を学んでいた。さらに軍隊内での日々の命令を逐一記録し、「規律こそが軍隊の魂である」と考え、軍紀粛正を図った。当時の民兵の規律と装備は劣悪であり、その改善を図らないことには勝利は覚束なかったからである。士官の中には物資を着服する者さえいた。1755年12月5日の総督宛の報告では、「もし閣下が脱走兵を逮捕し、彼らを匿うことを禁じる議会法を定めることを適切だとお考えになり、人民が法律をよく知るまで各教区で毎週日曜日に布告すれば、良い効果が得られるでしょう」と提言している。

束の間の恋

 1756年2月、ワシントンは、イギリス軍と植民地軍の間で起きていた指揮系統の混乱の解決を図り、さらにイギリス軍の将校任命辞令を得るためにボストンに赴いた。その旅の途中で立ち寄ったニュー・ヨークでメアリ・フィリップスという女性に出会った。メアリは富裕な土地所有者の娘であり、当時、25才であった。ワシントンは1週間、ニュー・ヨークに滞在し、プロポーズしたと言われているが、これも実ることはなかった。
ワシントンとメアリ・フィリップス
 ワシントンは、1757年3月10日のディンウィディ総督宛の報告の中で、「我々を大陸上の他の部隊と同じく正規兵とする国王陛下からの辞令以外に欲するものはない」と訴えているように、最終的にヴァージニア連隊がイギリス軍の正規兵に編入され、自身もイギリス軍の将校となることを切望していた。イギリス軍の位階と植民地の位階が別々に存在していたために、命令系統の中で位階の上下がしばしば問題となったからである。 ワシントンはイギリス軍の将校に必要な嗜みとしてフェンシングの手解きまで受けている。1756年2月にボストンへ、1757年2月にはフィラデルフィアへ、それぞれ北米イギリス軍の最高司令官のもとに直接赴いているが、ワシントンの希望は遂に叶えられることはなかった。イギリス政府は植民地人に大佐以上の位階を与えないという方針を採っていたからである。

民兵隊旅団を指揮

民兵隊の制服を着たジョージ・ワシントン
 戦線に転機が訪れたのは1758年である。イギリス軍は、植民各邦から徴募した民兵隊とともに劣勢を挽回しようと一挙に攻勢に出た。1758年11月14日、イギリス軍指揮官のジョン・フォーブス准将は、デュケイン砦攻略に際してワシントンに民兵隊旅団の指揮を委ねた。植民地人の将校の中でこれほど多数の兵力を率いた将校はワシントンの他にはいない。この作戦ではフランス軍が早々にカナダに向かって撤退したために激しい戦闘はなかったが、イギリス軍はヴァージニアの北西部領域におけるフランス勢力を大きく削ぐことに成功した。ちなみに旅団の指揮を任される2日前にワシントンは、ヴァージニア連隊が誤って同士討ちをした際に危うく命を落としかけている。
 ワシントンは部下の将兵から信頼を得ることができた。それは、部下をイギリスの正規兵にするために努力し、できる限り軍需物資の手配に配慮し、そして誰もを職務において公平に扱ったからである。例えばある士官は、ワシントンが若い兵士を司令部に招き入れ食事をさせるだけではなく、必要なお金を無利子で貸し与えていたと記している。しかしながらワシントンは「民兵達は分からず屋で思い通りにならない」と記しているように、民兵に全幅の信頼をおいていたわけではなかった。

ヴァージニア植民地議会議員

イギリスの植民地政策に反対

 1758年7月24日、ワシントンはフレデリック郡Frederick Countyからヴァージニア植民地議会下院議員に当選した。なお初めて立候補したのは1755年12月だが、その時は落選している。さらに1757年にも落選している。
 当時のヴァージニアでは珍しいことではなかったが、ワシントンは当選を祝って大盤振る舞いをしている。自ら選挙運動を積極的に行なわなかったが、友人達が有権者をもてなす費用は支払っている。当選祝いでは約400人の有権者に160ガロン(約600リットル)ものお酒が振舞われた。請求書の総額は39ポンド6シリング(数百万円相当)にもなった。それでもワシントンは全く不平を言わずに、「私に投票しなかった人にも分け隔てなく、皆同じく満足がいくようにもてなされることを望む。それが私の強く願うことだ。私が恐れていることは、君たちがけちけちし過ぎることだ」と語っている。ワシントンは几帳面ではあったが、全く吝嗇とは言えなかった。
 1758年12月5日に民兵隊を退役したワシントンは、翌年1月10日、士官達に別れの挨拶を行った。1755年8月13日以来、3年以上にわたってヴァージニア連隊を指揮したことになる。
  1759年2月22日、27歳の誕生日にワシントンは初登院した。ワシントンの戦友ジョージ・マーサーはこの頃のワシントンの様子を、「インディアンのように背筋が真っ直ぐで、靴を脱いで身長6フィート2インチ(約193cm)、体重175ポンド(約79キロ)」と述べている。議会でワシントンはほとんど演説することもなく、重要な法案を提出することもなかったという。またジェファソンやパトリック・ヘンリーなどのヴァージニア植民地の指導者と知り合う契機となった。議員として立法過程や政治過程を学んだ経験は、独立戦争期における大陸会議との関係調整、さらに大統領として議会に働きかける際に役立った。
 ワシントンは植民地議員としてイギリス本国の植民地政策に反対を唱えた。植民地人の西部への進出を制限する1763年の国王宣言にワシントンは特に強く反対した。さらに1765年3月22日に制定された印紙条例に対しては、「我が邦の人々の目(既に開き始めている)は、これまで我々の物資を気前良くイギリスに与えることで得てきた贅沢品がなくても困らず、一方、生活必需品(大部分)は我々自身で調達できると見抜くだろう。その結果、質素倹約が広まるだろう。それは産業を刺激するために必要なものだ。イギリスが恣に輸出品に重税を課したとしても、それをどこで消費するのだろうか」と同年9月20日付の手紙の中で述べている。またある時には印紙条例を「合法的な盗み」と酷評している。
 イギリスはさらにタウンゼンド諸法を導入した。タウンゼンド諸法は、イギリス議会が制定した法律に従わなかったニュー・ヨーク植民地議会を解散させる法律、日常必需品に輸入税を課す法律、そして新たに税関委員会を設置する法律からなる。
 こうしたイギリスの植民地政策に対してワシントンは、植民地の権利、特に税を自ら課す権利を主張する決議の採択に主導的な役割を果たした。それに対抗してヴァージニア植民地総督は1769年5月17日に植民地議会を解散した。ワシントンはイギリス製品のボイコットすることを提唱しながらも、もし必要であればアメリカの自由を守る最後の手段として武力に頼ることも辞さないと示唆している。
 1773年12月16日に起きたボストン茶会事件について、ワシントンは植民地人が資産を破壊したことを快く思っていなかった。しかし、それに対するイギリスの懲罰諸法を「かつて自由政府の中で行なわれた中で前例の無い最も横暴な専制的な制度の証である」と非難している。ボストン茶会事件以後、イギリスの抑圧に対抗しようという機運が各植民地でさらに高まった。ヴァージニア植民地議会はボストンに対するイギリスの懲罰措置に抗議する表明を採択した。そのためヴァージニア植民地総督は再び植民地議会を解散した。ワシントンも含む、イギリスの政策に反対する議員達はローレー亭に集い、1774年5月27日、全植民地への抗議運動の拡大を決定した。この頃の心境をワシントンは「救いを求めても無駄であったのに、救いを求めてすすり泣くのか。それとも次々と地方が専制政治の餌食になるのを座視するべきなのか」と記している。
 さらにワシントンは、1774年7月18日にフェアファックス郡で開かれた会議を主催し、イギリスの抑圧的な制度を非難するフェアファックス決議をまとめた。フェアファックス決議は、ジョージ・メイスンによって起草された一連の決議であり、主に植民地の自治の権利と対英貿易のボイコットを謳っている。この頃、友人の宛てた手紙の中でワシントンは「私があなたのポケットにお金を求めて手を突っ込む権利がないように、イギリス議会には私の同意なく私のポケットに手を突っ込む権利はない」と主張している。また「[イギリス]政府は、法と正義を犠牲にして、憲法で保障された我々の権利と自由を覆すお決まりの計画を追求している」と語っているように、ワシントンのイギリス議会に対する不信感は根強いものであった。
 次いで8月1日、ワシントンはウィリアムズバークで開催されたヴァージニア革命協議会に出席した。その席上、ワシントンは「1000名の兵士を募って私費で養い、ボストンを救うために彼らの先頭に立って行進したい」と述べたという。こうしてヴァージニア植民地で抵抗運動の中心的な役割を担ったワシントンは、第1回大陸会議にヴァージニア植民地代表として参加することになった。

大陸会議に代表として参加

第1回大陸会議

大陸会議に向かうワシントン
 1774年9月5日、各植民地の代表を集めて第1回大陸会議がフィラデルフィアで開催された。ワシントンは7人のヴァージニア植民地代表の1人としてこの会議に参加した。他の植民地の指導者達と顔を合わせる初めての機会であった。大陸会議は、植民地会議が課税と内政を決定する排他的権利を持つことを表明し、イギリス製品のボイコットを決定した。また第2回大陸会議の開催も決定された。大陸会議の中でワシントンは演説をすることもなく、委員に任命されることもなかった。ただ大陸会議の多くの代表達は、ワシントンの優れた判断力と確かな軍事知識に目を留めている。
 1775年3月20日から27日にかけてリッチモンドで開催されたヴァージニア革命協議会はワシントンを再び大陸会議の代表に選出した。その場でワシントンはパトリック・ヘンリーの「我に自由を与えよ、然らずんば死をGive me liberty or give me death」という有名な言葉を聞いている。この頃、淡黄色の縁取りがある青い軍服をワシントンは新調している。それはフェアファックス郡の民兵隊の色であり、後に大陸軍の色として認識されるようになる。ワシントンは、フェアファックス郡に加えて他4郡の独立民兵隊を率いる指揮官に任命された。
 5月4日、ワシントンは第2回大陸会議に出席するためにマウント・ヴァーノンを発ち、軍装に帯剣という出で立ちでフィラデルフィアに到着した。会議に集まった代表の中で軍装で現れたのはワシントンただ1人であった。これ以後、1781年までワシントンはマウント・ヴァーノンを1度として見ることはなかった。

第2回大陸会議

 第2回大陸会議は第1回大陸会議に比べてより緊迫した会議となっていた。4月19日にレキシントン=コンコードの戦いが起こっていたからである。引き続いて各地で戦闘が勃発した。ワシントンも含め大陸会議の代表達は戦争を避けたいと考えていたが、同時に戦争が避けられないことも認識していた。そのため大陸会議はイギリスに全植民地が一体となって対抗する必要性を感じ、大陸軍を創設し、ボストン周辺に展開するニュー・イングランド諸邦の軍隊を編入することを決定した。大陸会議の中でワシントンは、調達する必要がある資金の総額を計算する委員や軍規を作成する委員に任命されている。
 6月15日、トマス・ジョンソンがワシントンの名前を挙げたのに次いで、ジョン・アダムズが、「将校としての技能と経験、自活するのに十分な資産、偉大な才能、そして素晴らしく諸事に通じた性質を持つ紳士は、この国のどんな人物よりも、全アメリカの称賛を恣にし、全植民地の尽力を一つにまとめあげる」とワシントンを推薦する大げさな演説を行った。困惑したワシントンは部屋から出て行ったという。アダムズの呼びかけに会議は全会一致で応じた。ワシントンは就任を一旦固辞した。しかし、翌日、大陸議会から総司令官任命の通知を公式に受けたワシントンは、月額500ドルの給与は辞退し経費を受け取る旨を読み上げて総司令官の任を引き受けた。
ワシントンを総司令官に推挙するジョン・アダムズ

総司令官に選ばれた理由

 何故、ワシントンが総司令官に選ばれたのか。主に2つの理由が挙げられる。まず、議員の中で軍事経験が最も豊富だったのは、フレンチ・アンド・インディアン戦争で一個師団を指揮した経験を持つワシントンであった。次に、戦闘がまだニュー・イングランド地方に限定されていたので、全植民地の支援を受けるためにはニュー・イングランド地方以外の植民地の代表者が望ましい。ワシントンが属するヴァージニア邦は南部であったからこの条件を満たしていた。
 またフレンチ・アンド・インディアン戦争で活躍したワシントンの登用は、より多くの植民人の支持を得るために重要であった。大陸会議は人民から直接選ばれた機関ではなく、各植民地の代表達から構成される機関であった。さらに各植民地の代表達もその多くが豊かな資産を持つ者達であり、資産を持たず投票権も持たない一般大衆からの支持を固めることは至難の業であった。ワシントンは彼らの支持を集める象徴として非常に力を持っていた。1777年にラファイエットはワシントンに宛てて「もしあなたがアメリカのために失われれば、6ヶ月たりとも軍と革命を維持できる者はいないでしょう」と書き送っている。

大陸軍総司令官

アメリカ独立戦争に関するさらなる詳細は以下に。
アメリカ人の物語 革命の剣 ジョージ・ワシントン(上)

アメリカ人の物語 革命の剣 ジョージ・ワシントン(下)

戦略の特徴

アメリカ独立戦争の戦力比
 「イギリスの国力はいわば無尽蔵であり、イギリスの艦隊は海を覆い、イギリスの軍隊は地球上のあらゆる場所で勝利の栄冠を摘み取っていたことはよく知られていました。その時、我々は1つの国家として、または1つの国民としてまだ全く組織されておらず、我々は何の準備もすることができませんでした。戦争の肝であるお金は不足していました。剣は必要性という鉄床で鍛えられました」とワシントンは第1次就任演説の草稿で記している。
 独立戦争中、イギリスは水兵と陸兵あわせて最大4万5000人もの兵員を1つの作戦で動員している。イギリス軍は主に正規兵とヘッセン傭兵で構成されていたが、いずれも熟練度は高かった。他にも王党派や同盟関係にあるネイティヴ・アメリカンの支援を期待することができた。また強力な海軍により制海権を確保することができ、海岸部では補給が容易であった。
 対するアメリカは数でこそイギリスに匹敵する兵員を動員することができたが、熟練度の点では劣っていた。当初は兵役期間が1年間と短いうえに、しばしば徴募に応じる者が少なく、イギリス軍に対抗できるだけの人数を揃えることは容易ではなかった。弾薬や食糧は慢性的に不足し、装備の点でもイギリス軍に劣っていた。再三再四、ワシントンは大陸会議に対して、大陸軍の兵役期間が長期化されなければ民兵に依存せざるを得ないと忠告している。それは大陸軍が満足に機能していないことを意味していた。
 ワシントンの努力が実り、1776年後半になってようやく大陸会議は、兵役期間を3年に延長し、兵士達に1人あたり20ドルの報奨金と100エーカーの土地を与えることを決定した。しかし、こうした約束はしばしば守られなかった。大陸会議が積極的な是正策をなかなかとらなかった理由として、財源の不足と職業軍人による政府転覆への警戒が挙げられる。

作戦会議
 ワシントンは戦争を通じて作戦会議をしばしば開いた。作戦会議でワシントンは、できる限り将軍達の意見を引き出すように努め、たいてい大多数の意見に従った。時には最終的に自ら判断を下すこともあったが、年長の将軍達に命令を下すことを躊躇うこともあったという。このように会議を主催する経験は後に大統領職を務めるうえで有用な経験となった。
 またラファイエット侯爵やアレグザンダー・ハミルトンのような若い士官達に父親のように親身に接した。そのためハミルトンはワシントンの実子であるという噂まで囁かれるほどであった。
 ワシントンは賞罰にも注意を払っていた。ある将軍に「すべての者への賞罰は、依怙贔屓や偏見なく、功績によって与えること、不満を聞き、もしそれが妥当ならば改善すること。もし妥当でなければ、勝手気ままを防ぐために不満を抑えるようにすること」と助言している。それでも将軍達が反目しあうことは珍しいことではなく、それもワシントンの悩みの種であった。また将軍達の任命もワシントンの独断では決定できず、大陸会議の政治的意向を受け入れなければならなかった。

政治的問題
 ワシントンの総司令官としての職権は大陸会議の権威に基づいていた。しかし、大陸会議はアメリカ独立戦争を遂行するのに必要な権限がほとんどなかった。まず徴兵する権利がなかった。その代わりに兵士を募集しようにも報奨金を支給する財政的裏付けに乏しかった。なぜなら大陸会議は諸邦に分担金の支払いを請求することはできても、直接課税する権限はなかったからである。当然、それは大陸軍の補給を著しく滞らせる結果を招いた。しかも、大陸会議の代表達の根底には、常備軍に対する警戒心があったので、常にワシントンは議会の意向を違えないように慎重に行動する必要があった。
 また将校の任命も実力ではなく、しばしば諸邦の政治的バランスに基づいて行なわれた。こうした人事は指揮系統の混乱を招き、ワシントンの悩みの1つとなった。さらにアメリカ軍の将校はその大半が元来、一般市民であり、専門的知識を持った職業軍人がいなかった。頼るべき軍事的伝統もなく、ワシントンは新たにアメリカ軍の伝統を築かなければならなかった。

アメリカ独立戦争―1775年の戦況

ボストン包囲
ボストン包囲戦略図
 1775年6月23日、大陸軍総司令官の重責を負ってワシントンはフィラデルフィアから旅立った。この頃の気持ちをワシントンは、「私は今、嵐の海に乗り出そうとしている。そして、おそらくそこには友好的な港は見つからないだろう。[中略]私は3つのことで[その状況に]応じることができる。我々の大義は正しいという信念、その信念を遂行することに専念すること、そして厳格な高潔さで」と述べている。実は戦争初期において、この戦争が長期化し、最終的に独立に繋がるとはワシントン自身も思っていなかった。単にイギリスから有利な条件を引き出すために軍事的勝利を利用しようとワシントンは考えていた。
 しかし、イギリスはアメリカに強硬姿勢を示した。8月23日、ジョージ3世は反逆宣告を発令した。それはワシントンに反逆の咎で「然るべき刑罰」を与えるものであった。次第にワシントンは戦争に勝利するためには独立以外に道が残されていないのではないかと思うようになった。
 7月3日、ニュー・ヨークを経てボストン郊外ケンブリッジに到着したワシントンは、6月17日のバンカー・ヒルの戦いで意気上がるアメリカ軍(大陸会議によって召集された正規兵である大陸軍と各植民地によって召集された民兵隊から成る)の指揮を引き受けた。実動の兵士数は約1万4000人である。
ナサニエル・ワイエス『ケンブリッジで大陸軍の指揮を執るワシントンが国旗に敬意を表する』
 アメリカ軍はボストンを占領するイギリス軍を包囲していた。アメリカ軍と言ってもその内実は、コネティカット、ロード・アイランド、ニュー・ハンプシャー、マサチューセッツ各植民地の軍の寄せ集めであり、統一した指揮系統を持っていなかった。戦争中、アメリカ軍は主に大陸会議が徴募した軍隊と各邦が編成した民兵の2つに別れていた。

軍隊の維持管理
 指揮系統を明らかにするためにワシントンは、指揮権をなかなか手放そうとしない各植民地と交渉する必要があった。それだけではなく、将校の綱紀粛正を図らなければならなかった。
 また徴募で集められた兵士は訓練が行き届いておらず、また軍需品も十分とは言えなかった。そもそも民兵は一般市民であり職業兵士ではなかった。大砲や工兵部隊もほとんど配備されていなかった。テント、毛布、軍服なども不足していた。
 ワシントンは、兵士の待遇改善の必要性について「人々を軍務に喜んで就かせるためには、愛国心に加えて何か他に[彼らを]鼓舞するものがなければならない」と述べている。また「軍事行動において、兵士達がその義務を正しく果たすように促すものが3つあります。もともと備わった勇気、報酬への期待、処罰への恐れです」とも述べている。さらに兵士の脱走は戦争中、継続してワシントンの頭を悩ませた問題であり、絞首刑を含んだ厳罰で対処しなければならなかった。ワシントンがまず行なわなければならなかった仕事は、こうした雑多な集団を1つの軍隊として統合する作業であった。
 ワシントンはボストンの攻囲網を再構築し、イギリス軍の補給を絶つ作戦をとった。例えばボストン周辺の畜牛を退避させるなど「私の力の及ぶ限り、イギリス軍を悩ませることすべて」を行った。

海軍の創設
 ワシントンが総司令官に就任した時、海軍力は皆無に等しかった。そこで海軍の結成もワシントンの仕事であった。1775年9月2日に最初の海軍将校を任命し、さらに10月13日、大陸会議は2隻の船を武装しイギリスの補給船を襲撃する許可を与えた。これが実質上、アメリカ海軍の発祥となった。

アメリカ独立戦争― 1776年の戦況

ボストン解放
 1776年2月16日、ワシントンは作戦会議を開き、ボストン攻撃開始を幕僚に諮った。幕僚達は全員、ワシントンの計画に反対を唱えた。1つの転機となった出来事は、タイコンデローガ砦で鹵獲した大砲が届いたことである。
 まずその大砲を戦略的に効果的な場所に配置しなければならなかった。最適な場所はボストンを南から見下ろす位置にあるドーチェスター・ハイツであった。しかし、イギリス艦隊の目を掻い潜り、砲兵隊からの砲撃を避けながら大砲を運び上げることは至難の業であった。そこでワシントンは陽動作戦を行なう一方で、夜陰に乗じて別働隊が堡籃をドーチェスター・ハイツに運び堡塁を築いた。3月4日のことである。ドーチェスター・ハイツを占領することによりアメリカ軍はボストンを自由に砲撃できる拠点を手にした。
 ボストンのイギリス軍指揮官ハウ将軍は水陸両面からの攻撃を試みようとしたが、悪天候のために断念を余儀なくされた。結局、3月17日、戦況の不利を悟ったハウ将軍は軍を率いてボストンから退避し、ノヴァ・スコシアに向けて出港した。退却に際してボストンに火が放たれる恐れがあったので、ワシントンは出港するイギリス軍に攻撃を加えなかった。また大陸会議からボストンを破壊しないように命じられていた。

ニュー・ヨーク防衛作戦
 ボストンから北方のノヴァ・スコシアに一旦後退したハウ将軍は態勢を立て直し3万2000のイギリス軍とヘッセン傭兵を率いてニュー・ヨーク攻略の準備に取り掛かった。ニュー・ヨークを制圧し、通信や輸送の大動脈であるハドソン川を抑えて、ニュー・イングランド諸植民地を孤立させることがイギリス軍の狙いであった。またニュー・ヨーク周辺は王党派が多く、支援を当てにすることができた。さらに王党派の支援が強固であることを示せば、イギリス本国での戦争懐疑論を抑えることもできると考えられた。
 次にイギリス軍が攻撃するのはニュー・ヨークであると確信していたワシントンは、3月27日、ボストンからニュー・ヨークに向かった。ニュー・ヨークという要害の特性についてワシントンは「航行可能な深い水域に囲まれているので、水域を支配する者が町を支配するに違いない」と述べている。制海権はイギリスに握られていたのでアメリカ軍の勝機はほとんど見込めなかった。
 7月3日、ハウ将軍はスタテン・アイランドに部隊を上陸させ、さらに周辺水域を完全に制圧した。約3万2000人の兵士と約1万3000人の水兵からなるイギリス軍は、これまでのイギリス史上、最大級の海外派兵であった。対するワシントン率いるアメリカ軍は、約1万9000人で、大陸軍はそのうち9000人であった。アメリカ軍は8月までに2万8000人まで増強された。 
 さらにイギリス海軍は多くの軍艦を駆使して制海権を掌握していた一方で、アメリカ海軍は依然として配備が遅れていた。1775年の時点で既にイギリス海軍は60門以上の大砲を備えた軍艦だけでも131隻を擁していた。
 ワシントンはニュー・ヨークを防衛するためにアメリカ軍を大きく5つに分けた。そのうち3つはマンハッタン島の南部に布陣した。そして1つの部隊がマンハッタン島北部のワシントン砦を守備し、さらに残りはロング・アイランドに配置された。
 こうした最中、大陸会議が独立宣言を発表したという報せが届いた。ワシントンは、7月9日、「栄えある大陸会議は、道義、政策、そして必要に迫られて、謹んで我が国とイギリスの間で存続していた繋がりを解消し、北アメリカ植民地連合が自由で独立した国であることを宣言した」ことを通告し、独立宣言を兵士達の前で読み上げるように指示した。
ワシントンの前で読み上げられる独立宣言

ロング・アイランドの戦い
 8月22日、約3000名のイギリス軍部隊がスタテン・アイランドからロング・アイランドに上陸した。翌日、ワシントンは兵士達に「敵軍がロング・アイランドに今、上陸している。そして、我が軍の栄光と成功、そして祖国の安全が決まる時が迅速に近付いている」と告げている。続いて8月26日夜、イギリス軍の大部隊がロング・アイランドに上陸を開始した。そして、8月27日、ロング・アイランドで激しい衝突が起きた。このロング・アイランドの戦いは、アメリカが独立を明らかにして以来、初めての大きな戦いになった。
 ロング・アイランドにはニュー・ヨーク市街が一望できる北部のブルックリン・ハイツにイズレイル・パットナム配下の6500名に加えて、その南部にウィリアム・アレグザンダー将軍率いる1600名とジョン・サリヴァン率いる1500名が布陣していた。その他の部隊はニュー・ヨーク市街を中心にマンハッタン島各所を固めていた。つまり、アメリカ軍はイースト川を挟んで、ロング・アイランドとマンハッタン島に大きく二分されていた。一方、イギリス軍は制海権を抑えていたのでどこでも自由に攻撃することができた。
 合計約2万2000のイギリス軍がブルックリン・ハイツの前に布陣したアレグザンダーとサリヴァンの部隊に襲い掛かった。ジェームズ・グラント少佐率いる7000名のイギリス軍と5000名のヘッセン傭兵部隊が正面攻撃を開始する一方で、ハウ将軍率いる1万名の部隊はアメリカ軍の左後部に迫った。サリヴァンの部隊は頑強に抵抗したが、イギリス軍が後ろに回り込みつつあるのを知ってブルックリン・ハイツに退却した。指揮をとっていたサリヴァンは捕虜となった。それに引き続きアレグザンダーの部隊も退却した。アメリカ軍の損失は死傷者や捕虜をあわせて1500人近くにのぼった。イギリス軍は要塞化されたブルックリン・ハイツを攻略する準備に取り掛かった。その一方でワシントンは事態を収拾するために自らマンハッタン島からロング・アイランドに渡った。
 翌28日、ブルックリン・ハイツを守りきれないと判断したワシントンは全軍をマンハッタン島に退却させることを決定した。8月29日夜から30日にかけて、夜陰と霧に乗じて、アメリカ軍はイースト川を渡ってマンハッタン島に撤退した。この夜間撤退の際、ワシントンは最後の兵士が渡河を渡るまで待っていたという。
 イギリス軍は30日の早朝までアメリカ軍の撤退に気付かなかった。このロング・アイランドの戦いの敗北により、アメリカは独立宣言に基づいた新たな闘争の出鼻を挫かれることになった。その時、ワシントンの 麾下にある兵は1万5000人を下回っていた。

ハーレム・ハイツの戦い
 イギリス軍は9月中旬までさらなる攻撃を行なわなかった。ハウ兄弟がロング・アイランドの戦いで捕らえたサリヴァン将軍を使者に立て、大陸会議に和平を提案したからである。結局、会談は物別れに終わり、戦いが再開した。
 天候に恵まれた9月15日、クリントン将軍率いるイギリス軍はマンハッタン島のアメリカ軍に攻撃を加えた。攻撃はワシントンが予測していた場所とは違った場所に加えられた。ワシントンは、「彼らは我々の背後をとることによって、我々をニュー・ヨークの島[マンハッタン島]に閉じ込めるつもりでしょう」と大陸会議議長に語っているように、マンハッタン島の北方からイギリス軍は攻撃してくるだろうと予測していたのである。そのため北部のハーレム周辺を中心として16マイルにわたる防衛線を引いた。しかし、イギリス軍が上陸地点に選んだのは、ハーレムより6マイル南のキップス・ベイであった。
 クリントン将軍はアメリカ軍を包囲殲滅できるように北部から攻撃するように提案したが、ハウ将軍が市街に甚大な被害が及ぶという理由でその提案を却下したからである。その代わりに防備が脆弱なキップス・ベイが上陸地に選ばれたのである。
 キップス・ベイ周辺を守備していたコネティカット民兵は練度も戦闘経験も乏しい部隊だったので、4000名のイギリス軍を前にしてほとんど銃火を交えず撤退した。イギリス軍襲来を砲声で知ったワシントンはハーレムから南に向かい、何とかして兵を糾合しようとした。それに失敗したワシントンは激昂して将校や兵士達を乗馬鞭で打った。敵軍が迫ってきたのにも拘らずワシントンが後退しようとしないので、側の者がワシントンの乗馬の馬勒を掴んでようやくその場から離れさせるほどであった。
 翌16日朝、コネティカットの150名からなるレンジャー部隊がイギリス軍と遭遇した。司令部で銃声を聞きつけたワシントンは交戦地の近くまで馬を走らせ、将校達と対応を協議した。その時、イギリス軍が軍隊ラッパを吹き鳴らした。その音色は狐が仕留められて狩りは終わったという意味であった。侮辱を受けたワシントンはすぐさまレンジャー部隊に応援部隊を送るように指示した。戦闘は現在、コロンビア大学がある辺りで正午過ぎに行われた。
 戦闘の結果、アメリカ軍は約1500名のイギリス軍を撃退した。アメリカ軍の死傷者はレンジャー部隊と応援部隊の指揮官を含め135名ほどであった。対してイギリス軍の損失は約270名にのぼった。この戦闘によってアメリカ軍は10月半ばまでマンハッタン島の北部を失わずに済んだ。さらにワシントンは、「この小さな勝利が並外れて我が軍を鼓舞した。彼らは、敵軍を打ち破るために必要なものは、決意と優れた将校のみであるということを知った」と述べている。この戦いはハーレム・ハイツの戦いと呼ばれている。

ホワイト・プレーンズの戦い
 10月半ばまでイギリス軍はハーレム・ハイツに攻撃にほとんど攻撃を仕掛けてこなかった。そうした動きに対して、ワシントンは北方のウェストチェスターに軍を上陸させて包囲網を敷くつもりではないかと考えた。
事実、ハウ将軍はヘルズ・ゲイトを通って東から水路で北に回り込もうとしていた。10月12日、スロッグス・ネックに敵軍が上陸しようとしているという報せを受け取ってワシントンはハウ将軍が北に回りこもうとしているという確信を強めた。スロッグス・ネックへの上陸は難しいと判断したイギリス軍は、さらに北上し、18日に上陸した。
 同日、ワシントンはマンハッタン島からニュー・ヨーク北郊のホワイト・プレーンズ に向けて撤退を開始していた。ホワイト・プレーンズに到着したアメリカ軍はの3つの丘陵に分かれて陣取った。
 ホワイト・プレーンズに到着したハウ将軍は、10月28日、西側の最も険しいチャタートンの丘が手薄なのを見て強襲を仕掛けた。アレグザンダー・マクドゥーガル将軍率いるアメリカ軍はニュー・ヨーク失陥による士気の低下や兵士の脱走に悩まされながらも強い抵抗を示した。しかし、結局、チャタートンの丘はイギリス軍の手に落ちた。有利な態勢を確保したハウ将軍であったが、増援軍の到来を待ったためにワシントンの本営を攻撃する機会を逃すことになった。
 ワシントンは10月31日から11月1日にかけて、雨天に乗じて軍をキャッスル・ハイツまで首尾よく退却させた。このホワイト・プレーンズの戦いでアメリカ軍が約150名の死傷者を出した一方で、イギリス軍は300名以上の死傷者を出した。

ワシントン砦の陥落
 11月初め、ハウは軍をマンハッタン島へ戻す動きを見せた。幕僚会議が急遽開かれ、イギリス軍の攻撃目標がどこに向けられているかが議論された。その結果、イギリス軍がニュー・ジャージーへの侵攻を目論んでいるという推定の下、あらゆる動きに備えるためにアメリカ軍は大きく3つに分散した。まずノース・キャッスルにチャールズ・リー指揮下の7000名が残った。残りは北方のピークスキルに向かった。同地に4000名を配置した後、約3000名がワシントンの指揮の下、ハドソン川を渡り対岸のハーヴァーストローからニュー・ジャージーを南下した。
 こうしたアメリカ軍の推測は完全に外れた。ハウの攻撃目標はマンハッタン島の最北部の丘陵に築かれたワシントン砦であった。ワシントン砦には、マンハッタン島を撤退する時に残した部隊に増援部隊をあわせた2900名近くの守備兵が駐留していた。ワシントン砦は対岸のリー砦とともにハドソン川を扼し、イギリス軍の北上を妨げていた。
 11月15日、ワシントン砦にイギリス軍が向かっているという急報を受けてワシントンはまずリー砦に向かった。リー砦には防備を任されていたグリーン将軍の姿はなかった。グリーン将軍が対岸に渡ったことを聞くとワシントン自身も船を用立ててハドソン川を渡ろうとした。その途中でワシントンは対岸から向かってくるグリーン将軍の一行に出会い、ワシントン砦の防備は問題ないという保証を受けて一行とともに戻った。
 11月16日10時、降伏勧告を拒絶されたイギリス軍は三方から砦を攻撃した。対岸からそれを見ていたワシントンは砦を守るロバート・マゴー大佐に、夜陰に乗じて撤退を試みるように促す急使を送った。しかし、時既に遅く、急使は砦が降伏したという報せを持って帰っただけであった。砦が陥落した結果、2,858人のアメリカ軍兵士が捕獲された。さらに4日後、対岸のリー砦もイギリス軍に占拠された。ワシントンがリー砦の放棄を決定したので、守備兵はイギリス軍が到着する前に砦から脱出した。  
 11月20日、ワシントン率いる部隊はハッケンサック付近でリー砦から退却してきたグリーン将軍の部隊と合流した。そして、イギリス軍の追尾をかわしてニューアークに向かった。11月22日にニューアークに到着した後、アメリカ軍はフィラデルフィアに向かって軍を退いた。12月7日、ワシントンはデラウェア川を渡ってペンシルヴェニア邦に入った。渡河後に船をすべて破壊してイギリス軍の進軍を妨げた。
 この間、ワシントンが最も気にかけていたのはリー指揮下の部隊の合流であった。リーがワシントンの指揮能力に疑問を抱き、イギリス軍の後背を脅かす作戦行動に固執していたために両部隊の合流が遅れていたのである。またリーはかねてからワシントンに不信感を抱き、自らが総司令官に就くべきだと考えるような傾向があった。結局、リーの部隊の大半は捕虜となるか、散り散りになるかして失われた。
 ワシントンの見積もりでは、約1万人のイギリス軍がアメリカ軍を追尾していた。一方で、ワシントンの指揮下で戦闘可能な兵士は3000人を切っていた。こうした状況についてワシントンは、弟のジョンに宛てた12月18日付けの手紙の中で「もし新しい軍の召集に全力を尽くさなければ、[中略]ゲームはもうまもなく終わりだと思う」と述べている。

トレントンの戦い
 12月20日、ようやくリーの残兵が合流した。合流命令をなかなか実行に移そうとしなかったリーが誤って敵軍の捕虜となり、大きな障害がなくなったからである。ちなみにリーは後に捕虜交換で軍に復帰している。
大部分の兵士の兵役期間が12月31日で切れるために、兵力に余裕があるうちに何らかの戦果をあげようとワシントンは考えた。そして、幕僚にほどんど諮ることなく作戦を決定した。いわゆるトレントンの戦いである。トレントンはデラウェア川の東岸にあり、春になればペンシルヴェニア邦に対する攻撃の始点に使われる恐れがあった。
 まずワシントンは陽動作戦としてジョン・カドウォーラダ中佐率いる1900名にトレントンの南に位置するボーデンタウンを攻撃するように命じた。さらにジェームズ・イーウィング准将に700名の兵士を与え、トレントン南部を流れるアサンピンク川に架る橋を占領するように命じた。敵軍の退路を絶つためである。
 25日夜、ワシントンは約2400人の兵士を率いてトレントンの北約9マイルの地点で流氷の浮かぶデラウェア川を渡った。夜間行軍と厳しい寒さの中の渡河はアメリカ軍にとって大きな賭けであった。その一方、イーウィングの部隊は渡河を諦めた一方で、カドウォーラダの部隊も渡河には成功したものの、大砲を渡すことができず、すぐには攻撃に移らなかった。
 ワシントン率いる部隊は渡河に成功した後、降りしきる雪の中、二手に分かれてトレントンの町に南下した。8時頃、町の外れに到着したアメリカ軍は不意打ちに驚く前哨隊をやり過ごして一気に町の中央に進んだ。トレントンを守っていた1400名のヘッセン傭兵は、数で優るアメリカ軍と砲火にさらされて圧倒され、身を守る物がない町の外に追い出された。指揮官が戦死し、さらにアメリカ軍に包囲されたのを悟ってヘッセン傭兵は降伏した。
 砲火が止み、1人の将校がワシントンのもとに駆け寄り勝報を告げた時、ワシントンは「ウィルキンソン少佐、今日は我が国で最も栄光ある日である」と言ったという。この戦でヘッセン傭兵は、少なくとも22名の死者と84名の死傷者を出し、900名以上が捕虜なった。一方でアメリカ軍の損失は数名の死傷者にとどまった。
 27日、カドウォーラダの部隊も攻撃を開始し、ボーデンタウンの守備兵をプリンストンに追った。一旦、ワシントンは、イギリス軍の増援部隊による包囲を避けるために西岸に撤退していたが、その報せを聞くとトレントンに兵を戻し、カドウォーラダ率いる部隊の合流を待った。
 新たな敵軍がトレントンに接近中であったが、それに対抗するべき兵士達の兵役期間の終了が間近に迫っていた。新年になる前に、多くの兵士が陣営を離れる予定であった。そのため、ワシントンは10ドルの報奨金を与える代わりに、兵役期間を6週間延長するように兵士達に呼びかけた。将校は兵士達に、それに応じる者は太鼓の音とともに前に進み出るように命じた。しかし、太鼓が打ち鳴らされた時、動いた者は誰もいなかった。それを見たワシントンは兵士達にさらに訴えかけた。再び太鼓が打ち鳴らされた。数人の兵士が前に進み出た。それに続いて多くの兵士たちが前に進み出た。
 こうして数日もすれば去る予定だった兵士達の3分の2が6週間の兵役期間延長に応じ、アメリカ軍が瓦解する危機は回避された。兵士達がワシントンの要求に応じたのは、ワシントン個人に対する忠誠心によるところが大きい。

アメリカ独立戦争―1777年の戦況

プリンストンの戦い
 1777年1月2日、チャールズ・コーンウォリス率いる5500名のイギリス軍がトレントンに入り、アサンピンク川を挟んでアメリカ軍と対峙した。川を挟んで両軍は砲撃の応酬を交わした。ワシントンはイギリス軍の兵力を見て、軍需物資が置かれている背後のプリンストンが手薄なことを察した。そこで400名の部隊を陣営に残し、篝火を絶やさず、物音を立てて擬装するように命じた後、ワシントン自身は大部分の部隊を率いてプリンストンを奇襲すべく北上した。物音を立てないように砲車にはぼろきれが巻かれた。
 1月3日黎明、アメリカ軍の分遣隊がプリンストンからトレントンへ増援に向かう800名のイギリス軍部隊と遭遇した。分遣隊の指揮官が戦死し、イギリス軍の銃剣突撃により部隊は総崩れになった。それを察したワシントンは自ら敵の銃火まで僅か30ヤードの距離に馬を進め、「共に進め、我が勇敢なる同志よ。敵は一握りに過ぎない。我々は彼らを完全に打ち負かせる」と士気を鼓舞した。その様子を幕僚の1人は、「無謀にも彼は自身を[敵陣に]晒したので、私はきっと将軍が崩れ落ちるに違いないと思い、外套を引き上げて顔を覆い、その恐ろしい光景を見まいとした」と語っている。銃火による硝煙が止んだ時、ワシントンは無傷で立っていた。後退するイギリス軍をアメリカ軍が追撃し始めた時、ワシントンは「諸君、昔懐かしいヴァージニアの狐狩りだったね」と叫んだという。
 このプリンストンの戦いの結果、イギリス軍は18名の死者と58名の負傷者を出し、約300名が捕虜となった。一方、アメリカ軍は25名の死者と40名の負傷者を出した。2時間後、アメリカ軍はプリンストンを占領し、莫大な軍需物資を鹵獲した。ワシントンはさらにプリンストンと同様に軍需物資が置かれているニュー・ブルンズウィックの攻撃を検討したが、兵士達が疲労の極みに達しているのを見て攻撃を断念した。コーンウォリスは軍を率いてプリンストンに向かったが既にアメリカ軍は去った後であった。プリンストンを失い兵站線を脅かされたことでイギリス軍は、ニュー・ジャージー中央部と西部から撤退を余儀なくされた。
 プリンストンの戦いの後、ワシントンはニュー・ジャージーのモリスタウン冬営地に軍を宿営させた。モリスタウンは、背後を丘陵地帯で守られた要地である。さらにウォッチャング山系により沿岸部と隔てられていたので、イギリス軍の接近を容易に知ることができた。モリスタウンでワシントンは、1月25日、イギリスの支持者に対して、30日以内にアメリカに忠誠を誓うか、またはイギリスの勢力圏内に立ち去るように布告している。
 この頃、多くの兵士達の兵役期間が満了を迎えたために、兵士の数が3000人を割り込むこともあった。新たな兵士達を迎えて5月までには約1万人程度まで兵数は回復していたが、実働数は7000人程度であった。それはハウ将軍が動員できる兵数の3分の1程度に過ぎなかった。幸いにもハウ将軍は夏を迎えるまで大きな動きを見せなかった。

ブランディワイン・クリークの戦い
 ニュー・ヨークに続いてフィラデルフィアの攻略にハウ将軍は本格的に乗り出した。まずフラデルフィアに向かう前に後顧の憂いを絶とうと、6月、ハウ将軍はワシントンをウォッチャング山系から誘い出そうとしたが試みた。しかし、ワシントンが全く誘いに乗らなかったので、ハウ将軍はニュー・ジャージーを横断してフィラデルフィアを攻撃する計画を断念した。
 7月23日、ハウ将軍は1万8000名の兵士を率いてニュー・ヨークを出港して南下を始めた。そして、8月25日、イギリス軍はフィラデルフィア南西を流れるエルク川河口よりさらに8マイル南のトルーキー岬に上陸した。デラウェア川を遡るほうが断然近道であったが、アメリカ軍の要塞群がイギリス軍の遡上を阻んでいた。そこでイギリス軍はさらに南西に回り込んでフィラデルフィアを攻略する作戦に出たのである。
 敵軍はサウス・カロライナ邦チャールストン付近に上陸すると予測していたワシントンにとってそれは驚きであった。諜報により、ハウ将軍の攻撃目標はフィラデルフィアだと確信したワシントンは、8000名の大陸軍と3000名のペンシルヴェニア民兵からなる軍を進発させた。8月24日、アメリカ軍はフィラデルフィアを行進した後、デラウェア邦ウィルミントンに野営した。ワシントンは自ら偵察隊を率いて長い船旅で疲弊しているイギリス軍の様子を視察している。その道中の8月26日夜、嵐のためにワシントン一行は敵軍のすぐ傍にある農家で一夜を過ごさなければならなかった。
 東進を開始したイギリス軍は9月3日、クッチズ・ブリッジで民兵の前衛部隊を一蹴した。一方、ワシントンはアメリカ軍本隊をデラウェア邦ニューポートの西にあるレッド・クレイ川の東岸に移動させていた。そして、イギリス軍が到着する前にブランディワイン川の各所にチャズ・フォードを中心にして兵員を配した。
 9月11日、ケネット・スクウェアからイギリス軍は二手に分かれて進軍を開始した。コーンウォリス将軍は厚い霧にまぎれ8200名を率いて北方に向かった。残りの5000名はウィルヘルム・クニプハウゼン将軍の指揮の下、南部のチャズ・フォードに向かった。これは陽動作戦であった。
 ハウ将軍が部隊を進発させたという諜報をワシントンは得た。しかし、クニプハウゼン将軍率いる部隊の動きは判明したものの、コーンウォリス将軍率いる部隊の動きをつかむことができなかった。11頃、コーンウォリスの部隊はアメリカ軍が見落としていた北部の浅瀬でブランディワイン川の1つ目の支流を渡り、その3時間後、2つ目の支流を渡った。
 ワシントンはハウ将軍が部隊を二分したのではないかと疑いながらも、チャズ・フォードに部隊を集結させ、孤立しているように見えるクニプハウゼンの部隊に全面攻撃を仕掛ける準備を進めていた。その準備が完了する間際、右翼を指揮していたサリヴァン将軍から、疑わしい兵士の姿は遅れてきた民兵隊であるという誤報が届いた。そのためワシントンはクニプハウゼンの部隊の他にハウ将軍率いる本隊が控えている可能性を恐れて全面攻撃の開始を取り止めた。
 1時頃、コーンウォリス率いる部隊が右背後に回り込みつつあることを地元の農夫の報せでワシントンは知った。ワシントンは早急に無防備な側面を固めるために右翼に増援を送った。しかし、戦場に到着したサリヴァンがその配置を変更するように命じた。イギリス軍はその隙を衝いて攻撃した。バーミンガム・ヒルで3つのアメリカ軍部隊がイギリス軍を撃退しようと善戦したが、最後には退却を余儀なくされた。
 チャズ・フォードを守っていたグリーン将軍に来援を求め、ワシントンは自ら殿軍を配置し退路を確保した。チャドズ・フォードを守る兵力が減少したのを見たクニプハウゼン将軍は早速、渡河を開始した。それを知ったワシントンは全軍を東のチェスターに退却させた。
 このブランディワイン・クリークの戦いでイギリス軍の死傷者が約600名であったのに対し、アメリカ軍は約900名の死傷者を出し、約400名が捕虜となった。

フィラデルフィア陥落
 一旦、アメリカ軍はスクーキル川の東岸に退却した。スクールキル川でイギリス軍の侵攻を食い止めるためである。しかし、ワシントンは作戦を再考し、スクールキル川を再び渡ってイギリス軍に向かって進軍した。9月16日、両軍は現ペンシルヴェニア州モルバーン付近の峡谷部で遭遇したが、突然の集中豪雨により激しい交戦には至らなかった。この戦いは豪雨の戦いと呼ばれる。
 また9月21日、パオリでウェイン将軍率いる,500名の部隊が夜襲を受けた。ウェインの部隊は死傷者や捕虜となった者をすべて含めて272名の損失を出した。その一方でイギリス軍は6名の死者と22名の負傷者を出したに過ぎなかった。この夜襲はパオリの戦いと呼ばれる。
 9月26日、コーンウォリス率いるイギリス軍がフィラデルフィアを占領した。その1週間前、難を避けるために大陸会議は再度、ワシントンに全権を与え、フィラデルフィアから既に離れていた。フィラデルフィアを放棄した大陸会議は西方のランカスターを経てヨークに移った。

ジャーマンタウンの戦い
 コーンウォリス将軍がフィラデルフィアを占領する一方で、ハウ将軍はフィラデルフィアから約5マイル離れたジャーマンタウンに本営を構えていた。各地に連隊を派遣したのでハウ将軍の手元にいる兵力は約9000名に減少していた。防備が脆弱なのを知ったワシントンはハウ将軍の本営を奇襲する作戦を立案した。
 その作戦は、10月3日夜、約1万1000名のアメリカ軍が北方から4列に分かれて進軍し、夜明けに奇襲を開始するという高度な作戦であった。4つの部隊はそれぞれ、サリヴァン少将率いる3000名、グリーン少将率いる5000名、ジョン・アームストロング少将率いる民兵隊1500名、そして、ウィリアム・スモールウッド准将率いる民兵隊1500名であった。ワシントン自身はサリヴァンが指揮する隊列の中に陣取っていた。2つの民兵隊は手違いもあってほとんど攻撃に参加しなかった。
 10月4日、ワシントンはすべての部隊が配置に着く頃を見計らって攻撃開始を命じた。サリヴァンの部隊による奇襲は、立ち込めた霧の助けもあって、完全に成功したかのように思えた。アメリカ軍はイギリス軍を陣営から追い散らした。しかし、濃霧で視界が遮られたので、逃れるイギリス軍を追撃することは容易ではなかった。
 サリヴァンの部隊は、ベンジャミン・チュー邸を拠点に頑強に抵抗する約100名程度の敵兵に行く手を阻まれた。その処置をめぐって幕僚の意見は分かれた。一部の守備兵を拠点の前に残して進軍を続行すべきだという意見と背後に敵軍を残したまま進軍するべきではないという意見があった。ワシントンは後者を採用したが、チュー邸に対するアメリカ軍の攻撃は何度も撃退された。そのためサリヴァンの隊列に遅れが生じた。この遅れに乗じてハウ将軍はイギリス軍の攻撃態勢を整えた。
 一方、グリーンの部隊は道案内の不手際のせいで30分ほど遅れて戦場に到着した。その際に、深い霧の中で味方を敵と見誤ったアダム・スティーヴン将軍が友軍に対して発砲を命じた。発砲された側も応戦したので同士討ちが起きた。イギリス軍がアメリカ軍の混乱に乗じて反撃を行なったのでサリヴァンは自らの部隊を撤退させた。グリーンはそのまま進軍を続けたが、前衛部隊が両面攻撃を受けたので退却を余儀なくされた。
 一連の交戦により、アメリカ軍は152名の死者と521名の負傷者、さらに約400名が捕らわれるか行方不明になった。対してイギリス軍は70名の死者と450名の負傷者、14名の行方不明者を出した。

コンウェイの陰謀
 こうした敗北の連続はワシントンの威信を低下させ、サラトガの戦いで勝利をおさめたホレーショ・ゲイツ将軍を総司令官に据えようという動きが一部であった。いわゆるコンウェイの陰謀である。この陰謀が本当に実在したかどうかは研究者により意見が分かれている。しかし、ワシントン自身はコンウェイの陰謀があったと信じていた。
 また名前が冠せられているトマス・コンウェイ少将は陰謀の中心的人物ではなく、ワシントンの指揮能力に不信を抱く大陸会議の一部の者が画策したと言われている。ワシントン自身は「一般大衆が私の努力に満足しているのであれば、私は自らの使命に怖じることはありません。しかし、一部の党派の声ではなく一般大衆の声が私に辞職を求めるのであれば、疲れ果てた旅人が休息を望むと同じくらい喜んで辞職するでしょう」と述べている。こうした陰謀だけではなく、士官同士の衝突も絶えずワシントンを悩ませる問題であった。

ヴァリー・フォージ冬営地
 1777年も終わりにさしかかり、12月19日、ワシントンはペンシルヴェニア邦ヴァリー・フォージ冬営地に引き籠った。ヴァリー。フォージが冬営地に選ばれたのは、まずフィラデルフィアを占領したイギリス軍の動きに対応できる距離にあり、それに加えて天然の要害であったので奇襲に備えることができたからである。またいざとなれば、ランカスター、そしてヨークに逃れた大陸議会を支援できる位置にあった。さらに冬期遠征の実施を求めていたペンシルヴェニア邦に応じた結果であった。
 しかし、アメリカ軍は冬期遠征を行なうどころではなかった。冬営地では飢餓や病気で約2500人もの兵士が栄養失調、チフス、天然痘などで命を落とし、勝利の希望も完全に色褪せたかのように思えた。死者の数は約4分の1にも達した。また1778年2月末には、4000名が靴、衣服、毛布などが不足しているために軍務に就くことができなかったという。兵士達の常食はファイヤーケーキfirecakeと呼ばれる小麦粉を水で捏ねて焼いただけの代物だった。物資の不足に困り果てたワシントンは、地元の住民から徴発することを認めざるを得なかった。
 1778年1月11日から12日にかけて12インチの積雪があったが、その年の冬は例年に比べて決して厳しい寒さではなかった。それにも拘らず死者が多かったのは、栄養状態と公衆衛生の悪さに問題があったと考えられている。ワシントンは大陸会議に「もし積極的な措置と一致協力して調整が行なわれなければ、我が軍は解体するでしょう」と警告している。ワシントンは将官の待遇改善を大陸議会に求めた。ワシントンに促されて大陸議会はようやく現役の半額の給与を年金として7年間支給し、兵士1人あたり80ドルの報奨金を出すことを認めた。
 このような過酷な環境に悩まされながらも、ヴァリー・フォージとフィラデルフィアの間では何度か散発的な戦闘が起きている。いずれも数十人から数百人規模の小規模な交戦であった。
 冬の間、アメリカ軍にとって唯一の良い兆しとなったのがフィリードリヒ・シュトイベンの到着である。シュトイベンはフランスからアメリカ軍の訓練を支援するために派遣されたプロイセン軍の士官である。ワシントンはシュトイベンに全幅の信頼を置き、軍の命令系統の再編と教練の刷新を任せた。また兵站の効率化も行なわれた。その効果は後々の戦闘で現れるようになった。シュトイベンの業績は士官の教本である『青本』で知られている。ワシントンは、シュトイベンの他にもフランス人技師のルイ・デュポルタイユやポーランド人技師のタウデシュ・コシチューシコなど能力に応じて外国人士官を積極的に活用している。

アメリカ独立戦争―1778年の戦況 

米仏同盟成立
 兵士達がようやく1つの希望を見出したのは、1778年5月、米仏同盟締結を知らされた時である。なお米仏同盟は、1949年に北大西洋条約に加盟するまで唯一の同盟条約であった。アメリカ軍は全軍で「フランス国王万歳」を叫び、同盟の締結を祝った。銃で祝砲を放つ兵士達にワシントンはラム酒を配った。冬の間に多くの兵力を失ったが、新兵の加入により兵力は1万3000人程度まで回復している。
 イギリス軍の動きを知るためにワシントンはラファイエット率いる2,200名の部隊をフィラデルフィアに向けて派遣した。ラファイエットの接近を知ったハウ将軍は6000名のイギリス軍を率いて迎え撃った。5月20日、バレン・ヒルの戦いでラファイエットは危うく殲滅を逃れた。バレン・ヒルの戦いで撤退したものの、アメリカ軍は効果的に殿軍を配置し、潰走することはなかった。そのことはワシントンにフリードリヒ・シュトイベンの訓練の効果を実感させた。

モンマスの戦い
 一方、イギリス軍ではハウ将軍が辞任し、クリントン将軍が代わってイギリス軍の総指揮を担った。1778年6月18日、1万3000名からなるイギリス軍はフィラデルフィアを離れた。
 6月19日、ワシントンはアメリカ軍を率いてヴァレー・フォージを出発し、ニュー・ヨークに向かうイギリス軍を追尾した。それとともに軽騎兵や民兵にイギリス軍の進軍に対して妨害工作をするように命じた。クリントン将軍はフランス遠征軍との戦いに備えてニュー・ヨークに兵力を結集しようと道を急いでいた。一方、ワシントンは、イギリス軍の後尾を叩くことで進軍をできるだけ遅らせようと考えた。
 イギリスは北米植民地か西インド諸島のいずれかを諦めるだろうとワシントンは思っていた。しかし、その一方でイギリス軍は守備兵を割ける限りニュー・ヨークを占領し続けるだろうとも思っていた。
 クリントンの部隊がモンマスを通過することを知ったワシントンは、6月27日、5,000名の前衛部隊でイギリス軍後尾の輜重隊を攻撃することに決定した。そこでチャールズ・リー将軍に「もし不利になるという強い根拠がなければ」攻撃を開始するように命じた。ワシントンは内心、ラファイエットを指揮官に任命したかったが、ワシントンの次に位階が高いリーを無視することはできなかった。リーは一旦、任命を断ったが、ワシントンがラファイエットに指揮を委ねようとしているのを知って指揮を引き受けた。自分より若く経験に乏しいラファイエットを信用していなかったからである。
 6月28日朝、リーは敵軍の動きをほとんど偵察することなく、また攻撃の計画を特に練ることもなく軍を前進させていた。それに対してクリントン将軍は後衛にアメリカ軍に対峙するように命じた。戦闘が始まったが、全体の統一がとれていなかったために各部隊がばらばらに進退を行なったので、前衛部隊は混乱に陥って後退し始めた。それを見たクリントン将軍は、輜重隊を逃がしたうえで、コーンウォリス将軍に退却するリーの部隊を追撃するように命じた。そこでリーは前衛部隊を再編成することなく退却させた。リーの部隊の退却を知ったワシントンは怒り心頭に達した。幕僚の1人は後にワシントンの様子について次のように回想している。「誰もが悪態をついたのはまさにその日、モンマスでのことでした。彼[ワシントン]は、その日、木の葉が震えるまで[リーに]悪態をつきました。素敵でした。愉快でした。それまで私はそんな悪態で楽しんだことはありませんでした。その記憶すべき日に、彼はまるで天から来た天使のように悪態をつきました」。ワシントンは自ら前衛に乗り込んで総崩れを防いだ。ワシントンに叱責されたリーは、引き続く戦闘で勇敢に戦ったが、後の軍法会議で命令違反と敵前での不行跡の咎で有罪になった。
 アメリカ軍の後続部隊による反撃が開始され、中でもアンソニー・ウェイン准将率いる部隊の攻撃はイギリス軍の砲兵隊まで迫る勢いを示した。しかし、敵が増援を送ったのでウェイン将軍の部隊は後退を余儀なくされた。しかし、その間にワシントンは強力な反撃を行なうのに十分な態勢を整えることができた。午後遅く小休止を挟んで2度、両軍は激しく衝突したが、6時頃、折からの酷暑のために疲弊したイギリス軍は1マイルほど後退した。同じく疲弊していたアメリカ軍は再攻撃の準備を整えたが、日没が迫っていたので攻撃を取り止めた。翌日、ワシントンは戦闘を再開しようと意気込んだが、イギリス軍は夜半過ぎに秘かに行軍を開始してサンディ・フックに向けて去った後であった。
 モンマスの戦いで両軍ともに勝利を宣言したが、勝敗は明らかではない。しかし、イギリス軍と互角に渡り合えたことはアメリカ軍にとって大きな自信をもたらした。それはシュトイベンの教練の成果であった。アメリカ軍は72名の死者と161名の負傷者、そして132名の行方不明者を出した。一方、イギリス軍は、250名の死者、174名の負傷者、行軍中に600名以上の脱走者を出した。酷暑のために日射病で亡くなった死者は両軍あわせて約100名にものぼる。このモンマスの戦い以後、翌年の7月までワシントンは大きな軍事行動を取っていない。さらに1781年まで北部と中部では大規模な戦闘は起きなかった。
 アレグザンダー・ハミルトンは戦闘の様子を7月5日に「私はそれほど多くの長所を持った将軍を見たことがありません。彼[ワシントン]の冷静さと断固とした態度は尊敬すべきものです。彼はすぐに迫り来る敵の進軍を阻止する対策を講じ、軍が適切な配置をとれるように時間を稼ぎました。それから彼は馬に乗って後ろに戻り、部隊が有利な地勢を占めるようにしました。[中略]。アメリカは、この日の働きでワシントン将軍から大きな恩恵を被っています。全体的には敗走、混乱、そして不名誉が他ならぬ彼の手のうちにある全軍に見受けられました。彼自身の良識と不屈の精神がその日の運命を覆したのです」と記している。
 結局、ワシントンはイギリス軍がニュー・ヨークに結集するのを阻むことはできなかった。ワシントンはハドソン川を渡ってホワイト・プレーンズまで軍を進めた。フランスの艦隊が近郊に姿を現したためにニュー・ヨーク奪還の好機かと思われたが、共同作戦の計画もないままで攻撃の実行は不可能に思われた。ワシントンは「敵の海軍における現在の優位性は、当面の間、我々のすべての連携攻撃の計画を保留させることになる」と述べている。フランス軍との連携は今後の課題として残された。アメリカ軍は引き続きニュー・ヨーク周辺で好機をうかがったが、12月11日にニュー・ジャージーのミドルブルックの冬期本営に篭った。その後、ワシントンは大陸会議と協議するためにフィラデルフィアに向かった。

アメリカ独立戦争―1779年の戦況

戦略の転換
 ワシントンは各地で散発的な戦闘を続けることによってイギリス軍を奔命に疲れさせる作戦をワシントンは大陸会議に進言した。1779年1月15日、大陸会議はワシントンの進言を受け入れた。圧倒的な戦力を持つイギリス軍に会戦を挑んでも勝てないことをワシントンはこれまでの戦いで十分に認識していたのである。
 またワシントンはジョージ・メイスンに3月27日付の手紙で「各邦は時計の細かい部品のようなもので、彼らの苦労がいかに無用で役に立たないかなどと思い煩うことなく時計がうまく動くように努力しても、大きな歯車や発条が全体の動きをうまくいくようにしない限り、十分な注意が必要ですし、きちんと働くようにしておかなければなりません」と語っているようにアメリカ全体の政治制度自体の欠陥に早くから気付いていた。さらに大陸紙幣の乱発による信用の低下に対しても警鐘を鳴らしている。士官達は給与で「哀れな妻子に1ブッシェルの小麦も与えられない」あり様であった。
 冬期本営に帰還したワシントンは5月31日、イギリスと連携してフロンティアの居住地を襲撃した6部族連合に対してジョン・サリヴァン将軍率いる遠征隊を派遣した。サリヴァンが受けた命令は、6部族連合の居住地を破壊し、多くの人質を確保することであった。さらに、ナイアガラ砦への攻撃を和平の条件とすることであった。
 1779年6月21日、フランスに加えてスペインもイギリスに宣戦布告した。しかし、フランスとは違って、スペインはアメリカの独立を認めたわけではなかった。それにワシントンはスペインの戦争遂行能力にほとんど期待していなかった。また1780年12月にはイギリスの宣戦布告により、オランダも交戦国に加わっている。

ストーニー・ポイントの攻略とパウルズ・フックの襲撃
 ウェスト・ポイントに司令部を置いてイギリス軍の北上に備えていたワシントン自身は大規模な軍事行動を起こさなかったが、分遣隊を派遣して各地で散発的な戦闘を行なっている。ワシントンは、ウェイン将軍にハドソン川西岸に位置するストーニー・ポイントの攻略を命じた。ストーニー・ポイントはハドソン川の渡航を確保するための要所であり、1779年5月31日にイギリス軍の手に落ちていた。
 7月15日から16日にかけて、1,360名を率いたウェインは夜陰に乗じてストーニー・ポイントに銃剣突撃を仕掛けた。30分の交戦の後、要塞はアメリカ軍の手に帰した。この攻撃でアメリカ軍は95名の死傷者を出した。一方、イギリス軍は133名の死傷者を出し、500名近くが捕虜となった。イギリス軍に再び占領されないために要害はアメリカ軍の手で取り壊された。
 ストーニー・ポイントの失陥により、ハドソン川沿いに前哨基地を展開しようとするクリントン将軍の計画は頓挫した。したがって、ハドソン川の航行を扼する要害であるウェスト・ポイントに対する脅威も取り除かれた。
 ウェイン将軍の成功を見たヘンリー・リー将軍は、パウルズ・フックの攻撃をワシントンに願い出た。パウルズ・フックはハドソン川を挟んでニュー・ヨーク市街の対岸にあった要塞である。ワシントンは攻撃を許可した。
 リーはポールラス・フックを急襲し、イギリス軍に50名の損失を与え、150名を捕虜とした。リーの部隊が被った損失は僅かに5名であった。リーはパウルズ・フックの弾薬と大砲を使えないようにし、捕虜をそのまま残して撤退した。
 こうした攻撃は小さな勝利に過ぎなかったが、アメリカ軍の勝利を喧伝する意味で有用であったし、イギリス軍に奇襲を恐れさせるという心理的効果もあった。しかし、1779年を通じて、かねての方針通り、大陸軍本隊による大規模な会戦は行われなかった。
 12月1日、ニュー・ジャージーのモリスタウンに冬期本営が築かれた。モリスタウンは防衛には最適な場所であったが、アメリカ軍の最大の問題は慢性的な物資の不足であった。ワシントンは12月16日、諸邦の知事に宛てて「もし我々が補給を得られるような特別かつ迅速な措置が行なわれなければ、軍は間違いなく2週間以内に解体するでしょう」と支援を求めている。

アメリカ独立戦争―1780年の戦況

スプリングフィールドの戦い
 1780年1月1日、ウェスト・ポイントでマサチューセッツの兵士達が兵役の条件に不満を抱いて反乱を起こしたが、すぐに沈静化された。1月14日、ワシントンはスタテン・アイランドのイギリス軍駐屯地を攻撃するように命じるが失敗に終わった。その一方、5月12日、南下していたクリントン将軍率いるイギリス軍がチャールストンを陥落させ、ジョージア邦と両カロライナ邦の大部分を支配化に置いた。その結果、5000人ものアメリカ人が捕虜になった。革命戦争の中で最大の敗北である。
 また1777年から始まった3年間の兵役期間も切れ、1780年5月までに実働兵士数は約9,500名に減少した。一方、イギリス軍は本国から増援部隊を迎え、合計2万8700人の兵員を擁していた。1780年から1781年にかけては独立戦争の中でも最も過酷な期間であった。
 5月25日、モリスタウンでコネティカットの兵士達が給与と食糧の配給をめぐって暴動を起こしたが、説得を受けて軍務に戻った。モリスタウンの将兵の不満が高まっているという情報を得てクニプハウゼン将軍はアメリカ軍を一気に壊滅させようと考えた。6月6日、クニプハウゼン将軍は約5,000人の部隊をスタテン・アイランドから西岸のエリザベスタウンに派遣した。7日、同部隊は北東のコネティカット・ファームズまで進軍した。
 ウォッチャング山系の峡谷を目指してイギリス軍が進軍中という報せを7日早朝に受けたワシントンは、モリスタウン南東約10マイルのショート・ヒルズまで軍を進めた。ショート・ヒルズは峡谷を扼するのに最適の場所であった。コネティカット・ファームズで小競り合いが起きた他は大規模な衝突は起こらなかった。アメリカ軍の盛んな戦意を知ったイギリス軍はモリスタウン攻撃を諦めてエリザベスタウンに引き返した。
 一時期、南部からニュー・ヨークに帰還した英将クリントンは、モリスタウン攻略の作戦を再度、試みることになった。クリントンはワシントンをショート・ヒルズから誘い出して会戦に持ち込んで一気に決着をつけようと考えた。そこでクリントンは、ハドソン川を北上し、ウェスト・ポイントを衝く構えを見せた。ウェスト・ポイントはハドソン川を扼する要地であり、もしここが陥落すればニュー・ヨーク邦の奥地までイギリス軍の侵入を許すことになる。
 イギリス軍の動きに対応してワシントンは軍を率いて北上した。一方、峡谷の入り口にあたるスプリングフィールドにナサニエル・グリーン将軍率いる一軍を残した。6月23日、誘い出しの成功を確信したクリントンは、軍を転進させてスプリングフィールドに向かった。グリーン指揮下のアメリカ軍が激しく抵抗したので、イギリス軍はスプリングフィールドに火を放って退却した。この戦いはスプリングフィールドの戦いと呼ばれる。

フランス遠征軍の到着とアーノルドの反逆
 こうして両軍が睨み合いを続けていた一方で、7月10日、ジャン=バプティスト・ロシャンボー将軍率いる5500名のフランス遠征軍がロード・アイランド邦ニューポートに到着した。9月20日、ワシントンはコネティカット邦ハートフォードHartfordでロシャンボーと今後の戦略を話し合ったが結論は出なかった。
 9月25日、ウェスト・ポイントを視察中にベネディクト・アーノルド将軍の反逆計画が発覚した。アーノルドは1775年に1000名の兵士を率いてケベック攻略に加わるように命令を受けていた。反逆計画は、ウェスト・ポイントの要塞を手土産にイギリス軍に投降しようという計画である。この計画は未然に防がれたが、ワシントンはアーノルドの背信に甚だしく動揺したという。
 ワシントンは、8月16日のキャムデンの戦いで敗れたゲイツ将軍に代わってグリーン将軍を南部方面の指揮官として大陸会議に推薦した。ゲイツ将軍に比べてグリーン将軍は一回りも若く、戦争が始まるまでほとんど軍事経験はなかった。しかし、ワシントンはグリーンがこれまで示してきた堅実な戦い方を評価し、異例の抜擢を行なったのである。この抜擢は成功であった。翌1781年の軍事作戦でグリーンは両カロライナ邦で有利に作戦を展開し、ワシントンに勝報をもたらした。
 1780年10月、ワシントンは大陸会議に軍隊の徴募制度の見直しとその他の諸制度の改革を協議した。また諸邦に改革に協力するように求めている。10月22日に「もし我々が戦いを続けるつもりであれば、(そして、我々の主張を撤回したくないと望むのであれば)我々は全く新しい計画に基づいてそれを行なわなければなりません」とワシントンは述べている。夏以来、北部では大きな交戦はなく、12月1日、ニュー・ウィンザーに冬期本営が築かれた。

アメリカ独立戦争―1781年の戦況

相次ぐ兵士の暴動
 100年に一度と言われる厳冬がモリスタウン冬営地に籠っていた部隊を襲った。吹雪のために補給が滞り、兵士の反抗や脱走が頻発した。1781年1月1日、モリスタウン付近に駐留していたペンシルヴェニア連隊で暴動が起きた。兵士達は弾薬庫を占拠した。制止しようとした将校のうち1名が死亡し、2名が負傷した。2,400名のペンシルヴェニア連隊のうち、約1,000名がフィラデルフィアに向けて行進を開始した。兵士達の数は徐々に増え、1,700名を数えるまでになった。プリンストンで兵士達はペンシルヴェニア邦の代表と待遇改善について話し合った。その結果、暴動は収束したが、結局、1200名の兵士が離隊した。ワシントンは暴動収束に直接関与していないが、暴動が他の部隊に波及することを危惧していた。
 ワシントンの危惧は的中し、今度は1月20日に、ポンプトンに駐留していたニュー・ジャージー連隊に所属する約200名の兵士達が暴動を起こした。ワシントンはニュー・イングランドの兵士達にその鎮圧を命じた。その結果、首謀者2名が処刑され、秩序は回復された。このように1781年前半は幸先が良いとは言えない状態であったが、後半は、各地からの勝報が相次ぎ、事態が一気に好転した。その中でも最大の勝利はヨークタウンの戦いである。

ヨークタウン包囲
 5月21日から22日にかけてワシントンはロシャンボー将軍と作戦を協議した。ロシャンボーはワシントンにフランソワ・グラース提督率いるフランス艦隊が西インド諸島に向かった後、共同作戦に参加することを伝えた。さらにロシャンボーは南部のイギリス軍を攻撃する案を示したが、ワシントンがニュー・ヨーク攻撃を強く主張したので、夏の中頃に連携してニュー・ヨーク攻略にあたることが決定した。
 7月2日、ワシントンはロシャンボーとともに5月の協議に基づいて、ニュー・ヨークのイギリス軍に奇襲を仕掛ける作戦を遂行しようとした。アメリカ軍はハドソン川に沿って下流に進み、途中でフランス軍と合流する予定であった。しかし、アメリカ軍の行動は事前にイギリス軍に露顕し、奇襲は失敗に終わった。ワシントンはドブズ・フェリーまで司令部を前進させ、ニュー・ヨーク攻撃の好機をうかがった。7月6日、アメリカ軍とフランス軍はドブズ・フェリーの近くのフッリプスバーグで邂逅した。
 8月11日、ニュー・ヨークを守るクリントン率いる部隊は、本国からの増援を得て約1万5000人まで増強された。またアメリカ軍にはニュー・ヨークを包囲するのに十分な装備がなかった。そのためニュー・ヨーク攻略が成功する見込みはほとんどないように思われた。
 その一方で、南部のイギリス軍を指揮していたコーンウォリス将軍は、8月2日、チェサピーク湾に要塞を建設するためにヴァージニア邦ヨークタウンを占領した。要塞が完成すれば、東海岸沿岸部に位置する海港のほぼすべてがイギリスの手に落ちる危険があっただけではなく、コーンウォリスは海路を通じて増援を受けることができた。
 8月14日、グラース提督のフランス艦隊がチェサピーク湾に向かっているとの報せを受けたワシントンは、「敵の最も脆弱な部分に攻撃を加える」だと考えを改めた。つまり、フランス艦隊の協力で海路を遮断し、ヨークタウンにコーンウォリスを封じ込めれば決定的な勝利が得られるとワシントンは判断したのである。ワシントンは南部で部隊を指揮していたラファイエットに、両カロライナに回り込んでコーンウォリスの退路を絶つように命じた。米仏両軍は、スタテン・アイランドに対する陽動作戦を仕掛けた後、急遽、南部に進路を転じた。
 8月30日、ワシントンはロシャンボーとともに軍に先立ってフィラデルフィアに到着し、市民の歓呼に迎えられた。9月5日、ワシントンはデラウェア邦ウィルミントンに向けてフィラデルフィアを出発した。同日、道中のチェスターで、グラース提督の艦隊がチェサピーク湾に到着したという報せが届いた。喜びのあまりワシントンは自ら馬を駆ってロシャンボーのもとに報せを届けに行ったという。それからワシントンはボルティモアに向かい、9月8日午後遅くに同地に到着した。街はワシントンに敬意を表して蝋燭や松明の灯りで満たされていた。翌日、ワシントンはボルティモアを未明に発ち、約60マイルを踏破してマウント・ヴァーノンに帰宅した。独立戦争開始以来、6年4ヶ月ぶりの帰宅であった。11日、ワシントンはフランスの将軍達と幕僚を自宅で饗応した。その際にフランスの将軍がワシントンに、軍事について最も参考にしている書籍は何かと聞いた。ワシントンは『プロイセン国王の将軍への軍事教令』をあげたという。12日に一行はマウント・ヴァーノンを出発し、14日にウィリアムズバーグに到着した。なお近年の研究では、マウント・ヴァーノンからウィリアムズバーグの旅程について見解の相違がある。ウィリアムズバーグでラファイエットに再会した。その時、ラファイエットは、目撃者の回想によると、ワシントンを抱擁し、「離れていた恋人が帰ってきた時に情婦に熱烈に接吻するように」接吻したという。
 その頃、グラース提督の艦隊はチェサピーク湾外に一旦出てイギリス艦隊と砲火を交えた後、9月11日にチェサピーク湾まで戻って来ていた。それを知ったワシントンは15日、グラース提督に面会を要請する手紙を送った。17日、グラース提督はワシントンを旗艦に招いた。両者の協議によって、フランス艦隊が10月末までヨークタウン包囲に協力することが取り決められた。
 こうしてワシントンが別行動をとっている間も英仏両軍は南下を続け、ウィリアムズバーグに集結した。水陸に別れて約450マイルを踏破した連合軍は、アメリカ軍が約9000名、フランス軍が約7800名にのぼった。9月27日、ワシントンは、「我々が従事している大義の正義と両国の栄誉が勝利を予感とともにすべての者の胸を鼓舞している」という言葉とともにヨークタウンへの進軍を軍に命じた。翌日、連合軍はウィリアムズバーグからヨークタウンに向けて出発した。アメリカ軍はヨークタウンの南部の湿地帯を前にして布陣した。その夜はまだテントが届いていなかったので兵士達はそのままで夜を過ごさなければならなかった。司令部用のテントも届いていなかったのでワシントンはマルベリーの木の下で一夜を過ごしたという。
 まずワシントンは2つの堡塁を築き、大砲の据え付けに取り掛かるように命じた。防備の準備が整った後、10月6日、2000ヤード(約1800メートル)に及ぶ第1並行壕の開削が始まった。作戦に参加した1人の工兵の回想によると、ワシントンは自らつるはしで数回、塹壕を掘ったという。作業は夜間に行なわれ、朝までに防衛に十分な深さまで開削が進んだ。第1平行壕は、敵軍から800ヤードから600ヤードの距離にあった。さらに10月9日、アメリカ軍は総砲撃を開始した。この時の様子を軍医の1人は「ワシントン閣下が最初の一撃に火を点けると、大砲と迫撃砲の咆哮がすぐに続き、コーンウォリスは最初の挨拶を受けた」と記録している。
 さらに11日、第2並行壕の開削が開始された。ヨークタウンの胸壁から300ヤードの距離である。翌朝までに、長さ750ヤード、幅7フィート、深さ3フィート半まで並行壕は掘り進められた。ワシントンは、「コーンウォリス卿の行動は今までのところ、思いの外、受身だ。防衛手段を持っていないのか、それとも我々が近付くまで力を温存しているのか」とイギリス軍の反撃がほとんどないことに驚いていた。
 10月14日から15日にかけて米仏両軍は連携して、障害となっていたイギリス軍の2つの堡塁に攻撃を仕掛けて奪取した。この攻撃の間、ワシントンは間近で戦闘を見守っていた。1人の幕僚が「閣下、ここではあまりに無防備です。少し後退されては如何でしょうか」とワシントンに注意を促した。するとワシントンは、「もし君が恐れるのであれば、自由に後退してもよろしい」と答えたという。
 厳重な包囲にさらされたうえに、既にフランス海軍に制海権を奪われていたコーンウォリス将軍は10月16日、最後の大規模な反攻を試み、またヨーク川を渡って対岸のグロースターに兵を渡そうとしたが失敗した。翌朝、連合軍はイギリス軍の要塞に100門以上の大砲で激しい砲撃を加えた。午前遅く、イギリス軍の陣営で和平を求める太鼓が打ち鳴らされ、休戦旗を掲げた士官が姿を現した。降伏文書の取り交わしが決定され、19日、コーンウォリス将軍以下8,081名は降伏することになった。イギリスが提示した降伏条件は、王党派の処罰を禁じた条項を除いて受諾された。実は同日、大規模な増援軍を乗せた艦隊がニュー・ヨークを出港したところであった。包囲作戦で連合軍は340名の死傷者を出し、イギリス軍は596名の死傷者を出した。
10月19日、コーンウォリスはチャールズ・オハラ准将を代理に派遣し降伏の手続きを行った。イギリス軍の先頭に立っていたオハラ将軍は、「ロシャンボー将軍はどこにいる」とまず聞いた。剣を差し出そうとするオハラ将軍に対してロシャンボーは丁重にワシントンの姿を指し示した。今度はワシントンに剣を差し出そうとしたオハラ将軍であったが、ワシントンはそれを拒否し、下僚にオハラ将軍の扱いを任せた。
 連合会議(大陸会議の後継機関)へ勝利を伝える報せの中でワシントンは、「コーンウォリス卿指揮下のイギリス軍に対する征服が首尾よく成し遂げられたことを謹んで議会に報告します。連合軍のすべての将兵を動かした絶え間のない熱意が、私が最も楽観的に予期したよりもずっと早い時期に、この重要な出来事を実現に導いたのです」と誇っている。ヨークタウンの戦いは独立戦争最後の大規模な戦いであり、勝利を決定的なものにした戦いであった。

アメリカ独立戦争―戦後処理

講和条約締結
 ヨークタウン包囲終了後、ワシントンはグラース提督に南部のチャールストンとサヴァナを奪還する作戦に協力するように求めた。しかし、グラース提督はフランス艦隊を引き連れて西インド諸島に向かった。ロシャンボーはヴァージニアに暫く留まった後、ニューポートを経てフランスに帰った。ワシントンは2,000名の増援部隊をグリーンに送った後、11月4日、ヨークタウンを出発した。途中、フレデリックスバーグの母のもとに立ち寄った後、13日、マウント・ヴァーノンに帰った。そして、20日、連合会議と協議するためにフィラデルフィアに発った。フィラデルフィアまでの道中、アナポリスとボルティモアでワシントンはまるで凱旋将軍のような歓待を受けた。11月28日、連合会議はワシントンの勝利を祝った。しかし、ワシントンとはグリーン将軍に「私が最も恐れることは、連合会議がこの一撃[ヨークタウンの勝利]を差し込んだ光としてあまりに重く見過ぎて、我々の事がもうすぐ終わりだと思って、脱力と緩んだ状態になることです」と警告しているように戦争の行く末について必ずしも楽観的なわけではなかった。ニュー・ヨークをはじめ、サウス・カロライナ邦チャールストン、ジョージア邦サヴァナなどはまだ解放されていなかった。翌年の春にイギリス軍が軍事作戦を再開する可能性は依然として捨て切れなかった。
 1781年末の時点でイギリスは北米に約3万の兵員を擁していた。しかし、イギリスは世界各地でフランスとスペインの脅威にさらされていた。さらにコーンウォリスの敗北がロンドンに伝わると、イギリス議会は甚だしく落胆し、戦意を失った。クリントン将軍は更迭され、戦闘を回避するようにという訓令を携えた新司令官が着任した。その方針にしたがってイギリス軍は戦闘を回避する姿勢を示したが、各地で民兵と王党派の間で小競り合いが散発した。
 翌1782年4月、イギリスはアメリカとの講和交渉を開始した。イギリス軍の新司令官は、和平交渉の開始と独立承認についてワシントンに書簡を送った。その頃、軍事作戦再開に備えて部隊の編成を終えていたワシントンは、その書簡の内容を容易に信じようとしなかった。さらにワシントンは、パリで交渉にあたっていたベンジャミン・フランクリンに宛てた1782年10月18日付の手紙の中で、「我々は今、再び[イギリス]国王の頑迷さ、内閣の悪辣さ、そして国民の誇りの高慢さを斟酌しなければなりません。こうした考えは、我々の心に不愉快な見通しと現在の争いが続く可能性を思い起こさせます」と不信感を吐露している。
幸いにもワシントンの不安は杞憂に終わり、11月30日、予備講和条約が締結された。それに伴い、翌1783年1月20日、交戦諸国も予備講和条約に調印した。

ニュー・バーグの陰謀
 その一方で、こうした平和の到来を素直に歓迎できない人々がいた。独立戦争を戦い抜いた兵士達である。ワシントンは、「軍の雰囲気は不機嫌なようで、開戦以来のどんな時期よりも苛立っているようです」と1782年12月14日付の手紙の中で軍の不穏な空気を察している。そして、1783年3月10日、給与の正当な支払いや年金の授与などを求め、それが受け入れられないのであれば直接行動を取ることを呼び掛ける檄文が流布した。いわゆる「ニューバーグの陰謀」である。檄文の起草者は匿名であったが、ゲイツ将軍の副官を務めた人物であり、コンウェイの陰謀と同じくワシントンの威信を低下させようという意図があったとも考えられる。
 ワシントンは3月12日にハミルトンに宛てて「軍は公正を得るまで解散するつもりはないことが例外なく予期されます」と述べている。ワシントンが最も恐れたことは、窮地に陥った士官達が「我が勃興しつつある帝国を血で染める」ことであった。
 3月15日、不穏な動きを阻止しようとワシントンは自ら士官たちの前に姿を現して説得を試みた。連合会議からの手紙を読み上げようとしたワシントンの声がふと止まった。するとポケットから眼鏡を取り出しつつワシントンは、士官達に「諸君、眼鏡をかけてもよいだろうか。我が国に奉仕しようにも、白髪になってしまっただけではなく、目もほとんど見えなくなってしまったのだから」と告げた。この様子を見た士官達は我にかえった。敬愛するワシントンへの思慕が士官達の気勢を削いでしまったからである。またこの時、ほとんどの士官達がワシントンの眼鏡を着用した姿を初めて見たという。

キンキナートゥス
 イギリス軍の撤退や兵士達への年金問題の解決などの戦後処理を終えたワシントンは、11月2日、アメリカ軍への別れの挨拶を発表した。11月25日、イギリス軍の撤退を見届けた後、ワシントンはアメリカ軍を率いてニュー・ヨークに入市した。
 12月4日、司令部が置かれていたフローンシス亭でワシントンは、士官達に「心一杯の愛と感謝の念をもって、君たちに別れを告げる。これまでの日々が栄光と誉れに満ちていたように君たちのこれからの日々が順調で幸せなものとなるように強く願う」と別れの挨拶を行った。士官達と握手を交わした後、ワシントンはフローンシス亭を出て、儀仗兵の間を通り抜けて埠頭に向かった。その後、ニュー・ジャージー邦を旅してフィラデルフィアに向かった。道中の町々はワシントンを歓迎してパレードを催した。12月8日、一行はフィラデルフィアに入った。フィラデルフィアでも全市をあげた歓迎が行なわれた。12月15日、フィラデルフィアを出発したワシントンは、ウィルミントンを経てボルティモアに至った。18日、ボルティモアで行なわれた舞踏会に参加した後、翌日、連合会議が開催されていたアナポリスに入った。23日正午、ワシントンの姿は連合会議の会議場にあった。書記に導かれて議長の前に立ったワシントンは、議長の言葉に続いて告別の辞を読み上げた。総司令官職の退任と今後、一切の公職に就かない旨を伝えた後、ワシントンはポケットから大陸軍総司令官の委任状を取り出し、議長に手渡した。短い儀式が行なわれ、連合議会の代表達と握手を交わした後、ワシントンは会議場から退出した。
 この時、もしワシントンがこの時期に軍事独裁性を目論めば不可能ではなかったと指摘する研究者もいる。だからこそワシントンが戦後処理を終えた後にすぐに軍権を連合会議に返上したことは文民統制の顕著な模範となった。
 ワシントンのこうした行為は、ジョージア邦議会議員ウィリアム・ピアースが「キンキナートゥスのように、彼は農園に帰り、一介の市民であることに完全に満足していた」と述べているように、共和政ローマの伝説的な人物キンキナートゥスに喩えられ称賛された。キンキナートゥスはローマが外敵に攻められ危機に陥った時に、元老院から独裁官に指名された人物である。ローマ軍の陣頭に立ったキンキナートゥスは侵略軍を打ち破った。そして、すぐに独裁官の地位を返上し自分の農園に帰った。キンキナートゥスと同様に一市民に戻ったワシントンは12月24日、マウント・ヴァーノンに戻った。
 この時の気持ちをワシントンは「重荷を背負って苦難に満ちた足取りを多く辿って来た後で、疲れきった旅人が遂には安らぎを得てきっと感じるように今、私は感じている」と友人に書き送っている。独立戦争の間中、ワシントンは連続して3,4時間以上の睡眠をとることがほとんどできなかったという。

帰還後

 主が8年半も不在だったためにマウント・ヴァーノンの運営は支障をきたしていた。ワシントンはマウント・ヴァーノンの建て直しを行う傍ら、ヴァージニアとメリーランドの間で起こった通商紛争の仲裁役を務めたり、ポトマック川の航路開拓を計画したりして忙しく過ごしていた。
 ポトマック川の航路開拓はワシントンのかねてよりの念願であった。1754年には既にポトマック川の調査を行なっている。1772年、ワシントンの働きかけによってヴァージニア植民地議会はカンバーランド砦から河口までの航路開拓を決定したが、独立戦争の勃発により、計画は頓挫していた。
 戦後、ワシントンは計画の再開を目指した。ワシントンがヴァージニア邦とメリーランド邦に航路開拓に関する立法を促した結果、ポトマック川会社の設立が決定した。ワシントンを社長としたポトマック川会社は、各地で着工したが、資金がなかなか集まらず工事はなかなか進まなかった。航路が開通したのはワシントンの死後の1802年2月である。ワシントンはこうしたポトマック川の航路開拓により、商業上の利点だけではなく、西部が政治的に統合される利点があると考えていた。
 マウント・ヴァーノンに在宅時、ワシントンは5つに分けた地所を毎日1つずつ巡回していた。およそ15マイルの行程であった。他にも騾馬の飼育を始めている。また当時としては先進的な農法を採用し、漁場の廃棄物を肥料に利用したり、輪作を導入したりしているマウント・ヴァーノンには訪問客の列が絶えず、接待のために使われた費用は毎年莫大な額にのぼった。1787年にワシントンは「私の地所は、ここ11年ばかり収支を合わせられていない」と記している。

憲法制定会議議長

連合規約改正を望む

 大陸会議は1777年11月15日、最初の憲法となる連合規約を可決し、国家の名称を「アメリカ合衆国」と定めた。次いで1781年3月1日、連合規約はメリーランド邦が批准することで発効した。連合規約の下では、連合会議が中央政府の役割を担っていたが、内外に迫る危機に対して各邦が一体となって対処することができなかった。そうした欠陥を是正するために新たに合衆国憲法が編まれたのである。
 早くからワシントンは大陸会議および連合会議の改革を訴えてきた。それは、1783年3月31日にハミルトンに宛てた手紙の中で「合衆国の中で私よりも現在の連合を改革する必要性を深く感じているか、または感じ得る人物はいないでしょう。連合の悪い影響を私よりもよく分かっている者はおそらくいないでしょう。というのは連合会議の欠陥と権限の欠如が、まさに戦争の長期化の原因であり、その結果、莫大な費用が必要となったのです。私が軍を指揮する間に経験した困難の半分以上、軍の苦難と困難のほぼすべてはそれに起因するのです」と述べていることからも分かる。
 ワシントンは、連盟規約を改正することでより強力な中央政府を樹立することにより、債権者を邦が定める不利な法律から守り、通貨の下落を阻止し、公債の召還に必要となる課税も可能になると考えていた。また外国からの輸入に依存しなくても済むように国内製造業を政府の手で育成することも必要だと考えていた。
 さらに1786年に勃発したシェイズの反乱は連邦の先行きに暗雲をなげかけた。ワシントンはシェイズの反乱のような混乱を抑止するためには「我々の生命、自由、そして財産を守るための政府」が必要であると述べている。しかし、一方で、シェイズの反乱が、連合規約に基づく政府の欠陥の是正を促す契機になるのではないかと考えていた。
 1786年12月4日、ヴァージニア邦はワシントンを憲法制定会議の代表の1人に選出した。1783年に一切の公職に就かないと述べていたように、ワシントン自身は、マウント・ヴァーノンを離れるつもりはなく、新しい国を創る役割は次の世代に任せるべきだと願っていた。そのためワシントンは最初、任命を辞退した。しかし、マディソンとヴァージニア邦知事エドモンド・ランドルフに促されて、結局、ワシントンは参加を承諾した 1787年5月9日にマウント・ヴァーノンを出発したワシントンは、5月13日、フィラデルフィアに到着した。フィラデルフィアではワシントンの到着を歓迎して鐘が鳴らされ、礼砲が撃たれた。さらに軽騎兵隊がワシントンに扈従した。5月25日、憲法制定会議の始まりを迎えて、ワシントンは全会一致で議長に選出された。

隠然たる影響力

 会議が始まる直前にワシントンはペンシルヴェニア代表グヴァヌア・モリスに「我々が提案する案が採択されない可能性もある。おそらく、さらなるひどい衝突が続くかもしれない。もし我々自身は承認できない案を提出すれば人民を喜ばせることができるかもしれないが、以後、どのように我々の業績を擁護できるだろうか。賢明で実直な者が直すことができる基準を打ちたてよう。成り行きは神の御手の中にある」と語ったという。憲法制定に対するワシントンの複雑な心情がよく現れている。この言葉はモリスによって会議の冒頭で紹介された。
 会議でワシントンはほとんど発言することはなかったが、大統領制の創始の他、様々な局面で隠然たる影響力を及ぼした。ワシントンが唯一口を挟んだ機会は、会議も終わりを迎えようとしていた9月17日、連邦下院の議員定数割り当てについて3人の代表が改正案を提議した時だけである。彼らは、「下院議員の数は、人口4万人に対し1人の割合を超えることはできない」という規定を「人口3万人に対し1人の割合」に修正するように求めた。ワシントンは、憲法に反対する者をなくし、署名を速やかに進めるために修正を支持した。会議は修正を全会一致で可決した。
 従来、各邦は、中央政府に対する疑念が強く、当然、憲法制定会議の参加者達もその思いは同じであった。しかし一方で、各邦の独立を諸外国の侵攻から守るために、各邦が団結して一つの強力な国家を形成する必要があることも明らかであった。ワシントン自身も中央政府が圧政を行う危険性よりも、権力の不在がまねく無秩序を恐れていた。そのため強力な連邦政府を創設する必要があると考え、合衆国憲法の制定に賛成していた。そして、一方で、新政府が強固な基盤を築くためには20年程度の安定期が必要だとワシントンは考えていた。
 会議の参加者達は、そうしたワシントンの思いを汲み取り、さらにワシントンが大統領職に就任するという想定に基づいて大統領制を創始した。既に国民的な英雄であり、新国家の象徴的存在でもあるワシントンが大統領職に就任することで、大統領制自体に正統性を持たせることができると考えたのである。サウス・カロライナ邦代表のピアース・バトラーは会議の様子を、「多くの会議の参加者達がワシントン将軍を大統領と目していた。そして、ワシントンの美徳に対する彼らの見解に基づいて大統領に授与されるべき権力を構想していた」と描いている。
 後に大統領職をワシントンから受け継ぐことになるジョン・アダムズは、「もしワシントンを最も偉大な大統領と言えないとしても、我々はワシントンをこのうえなくうまく大統領としてふるまった者だと言えるだろう」と評している。またモンローは「ワシントン将軍の影響力が政府を支える」と述べている。

憲法批准を静観

 各邦で憲法批准をめぐる論議が高まる中、ワシントンはそれをマウント・ヴァーノンから静観していた。実際、1788年6月3日から開催されたヴァージニア憲法批准会議にワシントンは参加していない。しかし、新たな憲法の下、自分が大統領に選出される可能性はよく認識していた。1788年10月3日にハミルトンに宛てた手紙の中で、ワシントンは「もし私が[大統領]指名を受けることになれば、そしてもしそれを受け入れるように説得されることになれば、その受諾は、私の人生で今まで経験したことがないほどの気後れと不本意をともなうものとなるでしょう」と示唆している。

大統領選挙

1789年の大統領選挙

 合衆国憲法の発効に伴い、初めて大統領が選ばれることになった。大陸軍総司令官として独立戦争の勝利に最も貢献し、さらに憲法制定会議で議長を務めたワシントンの他に大統領となるべき人物はいなかった。しかし、ワシントン自身は「私自身の農園で1人の実直な人として生き、そして死ぬこと以上の望み」はないと明言しているように大統領就任に乗り気ではなかった。また「政府の首長に私が着任することは、犯罪者が処刑場に赴く時に抱く感情とまったく同様の感情をともなうだろう」とも語っている。
 1788年9月13日、大陸会議は大統領選挙の日程を決定した。1789年2月4日(2月の第1水曜日と決定されていた)、選挙人の投票が行われ、69名の選挙人(10州)すべてがワシントンを大統領に指名した。すべての選挙人を獲得した候補はワシントン以外には存在しない。選挙人を出した州が10州であった理由は、ニュー・ヨーク州は選挙人の選出に間に合わず、ノース・カロライナ州とロード・アイランド州は憲法をまだ批准していなかったからである。
 一方、34票で次点になったジョン・アダムズが副大統領になった。当時は、現在と違って選挙人は2名を指名し、投票の結果、首位の者が大統領に、次点の者が副大統領になるという方式を取っていた。
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史上初の就任式

宣誓式
 1789年4月30日正午過ぎ、ワシントンを迎えるために議員たちはウォルター・フランクリン家を訪問した。12時30分、茶色の手織る羅紗を着たワシントンは、群衆の喝采の中、豪華な装飾が施された4頭立てのクリーム色の馬車に乗り込み、フェデラル・ホールに向かった。フェデラル・ホールに到着すると、ワシントンは上院会議場に導かれた。ジョン・アダムズが代表してワシントンを歓迎する挨拶を行った。それが終わるとワシントンはバルコニーに出た。そこには小さな机が1つあり、1冊の聖書が置かれていた。宣誓式で聖書を使うことはその日の朝に決定されたばかりであった。しかし、フェデラル・ホール内には聖書が1冊もなく、最も近くにあるフリーメイスンリーのセント・ジョンズ・ロッジから借用して済ませた。
 群衆は轟くような歓呼でワシントンを迎えた。次にニュー・ヨーク裁判所長のロバート・リヴィングストンが進み出て宣誓の言葉を述べた。続けてワシントンが「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓の言葉を述べ、最後に「神にかけて誓います」と付け加え、聖書に口づけした。宣誓の間、ワシントンは聖書の詩篇の第127篇1節を開いていた。「そはなされり」とリヴィングストンは言った後、「合衆国大統領ジョージ・ワシントン万歳」と群衆に向かって叫んだ。国旗がフェデラル・ホールの円屋根に掲揚され、13発の銃声が鳴らされ、教会の鐘の音が響き渡った。
 就任式の様子を5月21日の週刊誌「クロニクル」は「合衆国大統領は、彼の就任式の日に、自国製のスーツを纏って現れた。ヨーロッパ製の素晴らしいスーツのように、それは素晴らしい織物で丁寧に仕上げられていた。情況からすると、それは我が国の工業製品を引き立てるためだけではなく、我が国民に対する関心を示しているようにも思われた。副大統領閣下もアメリカ製のスーツを着て登場し、両院の議員達も我が国の工業的利益に配慮する同様の徴候が見られた」と描いている。ワシントンが身に付けていたスーツはハートフォード織で、国内産業への支持を示すために選ばれた生地である。

就任演説
 宣誓が終わり、群衆に向かって何度もお辞儀をした後、ワシントンは会議場へ戻って行った。登壇したワシントンは就任演説を開始した。その間、列席者は起立して演説に耳を傾けた。聴衆は議員や要人など限られた人数であった。それでもワシントンは聴衆を前にして赤面し、口ごもったという。ある上院議員は、その時の様子を「この偉大なる男は、大砲を向けられるか、マスケット銃を突き付けられた時よりも動揺し困惑しているようだ。彼は身震いし、時にはほとんど読み上げることさえできなかった」と日記に記している。
 最初、ワシントンは73ページにも及ぶ政策提言を含めた就任演説を行うことを考えていたが、簡素な内容にとどめるように変更した。この演説の中でワシントンは、「自由の聖なる炎の保全と共和政体の運命は、まことに、最終的に、アメリカ国民の手中に委ねられた実験に託されているとまさに考えられる」という今なお語り継がれる名言を吐いている。
 またワシントンは、政府が国民の自由と幸福追求の実現という本質的目的のために樹立されたと説いている。それだけではなく、自由とそれを保障する共和政体を保持できるか否かは国民自身にかかっているとも述べている。つまり、国民自身も、自由の精神を放縦の精神から分け隔てる必要があると論じているのである。
 ワシントンが行った就任演説の一般的なスタイルは以後の大統領も踏襲している。すなわち、大統領職に選ばれたことに感謝し、自らの能力を謙遜しながらも職務に全力を尽くすことを誓い、そして神の恩寵を願うというスタイルである。
 1789年5月7日、最初の就任記念舞踏会が行われた。舞踏会には大統領をはじめ、著名な政治家や軍人、外交官が出席した。大統領夫人はその頃、まだニュー・ヨークに着いていなかったので出席していない。

就任式に出席するために借金
 この就任式に赴く前、負債の清算と諸費用の工面のためにワシントンは600ポンド(数千万円相当)借金しなければならなかったという。これは、当時の農園主が、土地貧乏(多くの土地を所有していても現金収入があまりない)であり慢性的な現金不足だったのが一因である。また誰かからお金を貸すように頼まれてもあまり断ることがなかったことも一因であろう。
 ワシントンは、1788年にオハイオの土地を売却するか、賃貸しようとしたがあまりうまくいっていなかった。ワシントンは借金を依頼する手紙の中で、「ここ2年間は、これまでに経験したことがないほどお金が欠乏しています。穀物の作柄が悪く、そして私の手の及ばない他の理由から、今、お金が不足していることを強く感じています」と書いている。

就任式が遅れた理由
 就任式が4月30日に行われた理由は、3月4日に第1回連邦議会が招集されたものの、定足数を満たすことができず、大統領の就任が正式に認められなかったからである。ワシントンが大統領として正式に認められたのは4月6日になってからである。4月14日になってようやく正式に大統領選出の報せが、マウント・ヴァーノンに居るワシントンに伝えられた。そして4月16日、マウント・ヴァーノンを出発するにあたってワシントンは、「10時頃、マウント・ヴァーノンに、私生活に、家庭内の幸福に別れを告げた。言葉では表せないような不安と苦痛に満ちた気持ちで心が押し潰されそうになりながらニュー・ヨークに向けて出発した」と日記に記している。マウント・ヴァーノンから就任式が行われるニュー・ヨークまでの道中、沿道の市民からワシントンは熱狂的な祝賀を受けた。暫定首都のニュー・ヨークに到着したのは4月23日である。

1792年の大統領選挙

 もともとワシントンは大統領を1期で退任するつもりであった。それは1792年5月20日にマディソンに告別演説の仕上げを依頼していることからはっきりしている。しかし、党派対立の激化によって連邦政府が瓦解することを恐れてワシントンは続投を決意した。もともと大統領の任期を1期に限るべきだと主張していたジェファソンでさえ、ワシントンに続投を勧めている。
 焦点になったのは副大統領の人選である。ハミルトンを代表とする連邦派はジョン・アダムズを支持していた。その一方、連邦派と拮抗する民主共和派はまだ発展段階であったが、ニュー・ヨーク州知事のジョージ・クリントンを推した。
 12月5日、132人の選挙人(15州)が投票を行った。翌1793年2月13日に議会が集計を行った結果、ワシントンはすべての選挙人を獲得して再選するという偉業を成し遂げた。一方、ジョン・アダムズは77票を獲得し副大統領に再選された。
 1792年の大統領選挙では、選挙人を選出する日程が変更された。1789年の大統領選挙では、1月の最初の水曜日に選挙人を各州で選出するように定められていた。しかし、1792年3月、議会は12月の第1水曜日に先立つ34日間に選挙人を各州で選出するように日程を改定した。
 就任式は1789年と異なり、フィラデルフィアにあるフェデラル・ホールの上院会議場で行われた。宣誓は最高裁判事のウィリアム・カッシングが執り行っている。
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ワシントン政権の特色と課題

ワシントン政権に関するさらなる詳細は以下に。
アメリカ人の物語 建国の父 ジョージ・ワシントン(上)

アメリカ人の物語 建国の父 ジョージ・ワシントン(下)

数々の慣例を作る

大統領の在任期間を2期に

 ジョージ・ワシントン大統領は「私は人跡未踏の地を歩いている。私の行いの中で、今後、前例とされないような行いなどほとんどないだろう」と述べているように初代大統領として自らの行いが連邦政府の将来に大きな影響を与えることをよく分かっていた。新国家を象徴する人物となっていたワシントンは、ワシントン自身ではなく、大統領職自体をアメリカの象徴にするように務めなければならなかった。また大統領職の威厳を保つように行動しなければならなかった。それと同時に、共和制国家という枠組みの下、国民に不信感を抱かせないように、そうした行動が君主然として見えないように配慮する必要があった。
 まず大統領の在任期間を2期に限るという慣例を作ったのはワシントンである。もともとワシントン大統領は1期で退任するつもりであったが、閣僚やマディソンの強い勧めで続投を決意した。2期在任の伝統は1940年にフランクリン・ルーズベルトに破られるまで守られた。現在では1951年に成立した憲法修正第22条により、2期をこえて大統領に選出されることが禁じられている。 
1796年9月17日、ジョージ・ワシントンは告別の辞で「退任するという既に固めた決意」を明らかにしている。ワシントンが自ら退任したと聞いてジョージ3世は、ワシントンを「当世随一の偉大な人物」と評したという。
 現在では、1951年の憲法修正第22条により、「何人も、2回を超えて大統領の職に選出されてはならない。他の者が大統領として選出された場合、その任期内に2年以上にわたって大統領の職にあった者または大統領の職務を行った者は、何人であれ1回を超えて大統領の職に選任されてはならない」と定められている。

条約の締結と閣僚制度

 またクリーク族との条約の締結に関して、ワシントン大統領は「助言と同意」を得るために1789年8月22日と24日に上院に出席したが、捗々しい成果を得ることができず、以後、再び上院に助言を求めるために出席することはなかった。この慣例は以後の歴代大統領すべてが踏襲した。条約の締結以外の法律については、拒否権の行使を除いてジョージ・ワシントンは大統領自ら議会に影響力を行使するべきではないと考えていた。また大統領の責務を議会が制定した法律を実行し、諸外国との関係を管理することにあると憲法に沿って厳格にとらえていた。
 閣僚制度の原型を作ったのもワシントン大統領である。当初、ワシントンは閣僚の一人ひとりに文書で助言を求めるスタイルを好んだが、徐々に閣議を開いて政策を議論するようになった。ジョージ・ワシントン自身は大統領として議会に影響力を及ぼすべきではないと考えていたが、閣僚による議会への働きかけは自由に任せていた。
 最初に記録された閣議は1791年11月26日に行われている。ただ「閣僚」という言葉が一般に広まったのは1793年以降である。またワシントン大統領は、上院の同意を得ずに官吏を解任する権利を得たが、それにより行政府の官吏がすべて大統領に対して責任を負うことになった。こうした閣僚制度が法により公式に認定されたのは実に1907年のことである。

国民的な儀式

 さらにジョージ・ワシントンは就任演説を行う慣例を作った。就任演説や就任式については特に規定は無いが、現在でも多様な国民をアメリカ国民として統合する重要な儀礼となっている。
 初めて感謝祭を全国的な祝日にしたのもジョージ・ワシントン大統領である。1789年10月3日、ワシントンは感謝祭を全国的に祝う布告を出した。その布告に従って、初めての感謝祭は1789年11月26日に行われた。現在でも感謝祭(1941年以来、11月の第4木曜日)は重要な祝日である。感謝祭は1621年にピルグリム・ファーザーPilgrim Fatherが移住後、初めての収穫を神に祈ったというアメリカ建国神話の1つだからである。
 このような試みが考案された理由は、建国当時の人々が州に対する帰属意識を強く持ち、アメリカ国民としての帰属意識をほとんど持っていなかったからである。感謝祭を祝うだけではなく、ジョージ・ワシントン大統領はアメリカ各地を巡幸することでアメリカ統合の象徴的存在としての役割を果たした。1789年10月15日から11月13日にかけて、ワシントンはコネティカット、マサチューセッツ、ニュー・ハンプシャーのニュー・イングランド各州を巡幸している。さらに1791年4月7日から6月12日にかけて、ヴァージニア、ノース・カロライナ、サウス・カロライナ、ジョージアの南部諸州を巡幸している。
 歴史家ジョアン・フリーマンは「ワシントンは非常に難しい役割を担った。君主制の要素を過度に出すことなく、何とかして新政府の品位と権威を体現しなければならなかった」と指摘している。

大統領の呼称と一般大衆との関係

 それは大統領の呼称をどうするかという論議を一例として挙げることができる。ジョン・アダムズは「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」を呼称として上院に提案した。しかし、下院はそれを拒否し、単に「大統領閣下Mr. President」という呼称になった。この呼称は今でも使われている。ちなみにジョージ・ワシントンは大陸軍総司令官を務めていた時は、「閣下(高官に対する敬称)Your Excellency」と呼ばれていた。
 また大統領が一般大衆とどのように接触を図るべきかという問題もあった。議会は、大統領夫妻が一般市民からの食事の招待に応じることを禁止していた。一方でジョージ・ワシントン大統領はあらゆる市民に対して常に門戸を開くことを考えていたが、現実には絶え間のない訪問を制限する必要があった。そのためワシントンは毎週火曜日に「大統領の接見会levee」を催した。正装をした男性であれば誰でも事前予約なしで大統領に接見することができた。これは非常に堅苦しい儀式であり、ジョージ・ワシントンは訪問者と握手をすることもなく、お辞儀をして軽く話しかける程度であった。正式な場に登場する際のワシントンの格好は、黒いビロードに繻子の装束にダイヤモンドの膝止めを締め、髪粉をつけ帯剣して軍帽を持つというスタイルであった。
 さらにワシントン大統領は毎週木曜日に、官吏や議員を招いて4時から「公式晩餐会」を行った。ワシントンが公式行事の中で楽しんだことはダンスくらいであった。大統領の誕生日には決まって舞踏会が行なわれ、真夜中まで続いたという。

権利章典の採択

 1789年4月30日の第1次就任演説でジョージ・ワシントン大統領は、次のように権利章典の必要性を述べている。

「議員諸君は統一的、効率的な政府の恩恵を危険にさらすような変化、もしくは経験という将来の教訓を待つべき変化を注意深く避けようとしていますが、その一方で、自由民の固有の権利を尊重し、国民の調和を尊重することは、前者をどの程度強化すべきか、または後者をいかに安全にうまく促進するのかという問題に関する議員諸君の思慮に十分に影響を及ぼすだろうと私は確信しています」

 ワシントン大統領は、連邦政府に反対する人々を宥めるために権利章典を早期に付け加えることを議会に提案した。1789年9月25日、議会は審議を経て12箇条の憲法修正案を可決し、10月2日、ワシントン大統領がそれを各州に通達した。権利章典の採択により、いまだに合衆国憲法に強固に反対している人々の支持を得ようとしたのである。1791年12月15日、ヴァージニア州の批准によって権利章典(2箇条が否決されたので10箇条となった)が成立した。ちなみにコネティカット、マサチューセッツ、ジョージアの3州はこの時、権利章典を批准していないが、成立150周年を記念する形で1941年に批准している。

各省の創設

 1789年7月27日、外務省(9月15日に国務省に改称)が創設された。次いで8月7日、陸軍省が創設された。また同日、判事を除くすべての連邦職員の罷免権を大統領に与える法案が成立した。そして、9月2日、財務省が創設された。さらに9月22日、財務長官の下に郵政長官職が設けられた。

1789年裁判所法

 1789年9月24日、1789年裁判所法により連邦裁判所が設置された。まず最高裁判所の構成員は長官が1名、判事が5名の計6名と定められた。さらに、13の連邦地方裁判所と西部、中部、東部の3つの巡回裁判所からなる二重構造が採用されている。巡回裁判所は2名(1793年以後は1名)の最高裁判事と地方裁判所の判事からなる。また行政府の法律顧問として司法長官職も創設された。ジョージ・ワシントン大統領はジョン・ジェイを最初の最高裁長官に任命した。ここに至ってようやく連邦政府は、立法府、行政府、司法府の三権の機能を備えることができた。
 裁判所法により連邦裁判所は、連邦政府の権限と州政府の権限が衝突を招く訴訟事件に関して再審査することができるようになった。つまり、連邦裁判所が州裁判所に対して優位性を持ち、州議会が制定した法律に対して違憲立法審査権を持つことを1789年裁判所法第25条は明確に規定している。これは連邦政府と州政府が均衡を保ちつつ合衆国を発展させていくために不可欠なことであった。

公債償還

 大陸会議は独立戦争中、莫大な債務を抱え込んだ。さらに連合会議は課税権を持っていなかったので資金を調達するためには借入に頼らざるを得なかったからである。連邦政府は、大陸会議の債務を継承しただけではなく、州債も引き受けたために巨額な債務に悩まされた。州債の引き受けは主に次のような政治的な目的による。それにより債権者となった市民から連邦政府への忠誠が期待できる。さらに州政府が州債に悩まされることがなくなれば、連邦政府の輸入関税に対する独占的な徴税権に対して異議を唱えることもなくなる。
 『合衆国歴史統計』によれば、連邦政府は実に7722万8000ドル(1789-1791年)もの債務を抱えていた。当時の連邦政府の年間歳入は441万9000ドル(1789-1791年)であり、利子の支払いに歳入の半分にあたる231万9000ドル(1789-1791年)をあてていた。さらに貿易赤字も抱えていた。輸出額が2100万ドル(1791年)に対して輸入額が3100万ドル(1791年)にのぼっていた。差し引き1000万ドルの貿易赤字である。債務は国内にとどまらず、フランス、スペイン、オランダなど対外債務もあり、しばしば支払いが滞っていた。
 こうした状況の下、連邦政府の信用を築くことがアメリカの発展にとって不可欠だと考えた財務長官ハミルトンは、1790年1月14日、公債償還計画を議会に提出した。それは、政府公債のみならず独立戦争時の州債約2500万ドルを引き受け、課税と新たな借り入れで返済する計画であった。しかし、この計画は様々な利害対立をまねいた。マディソンは連邦政府による州債引き受けは、負債額が多い州にとっては歓迎すべきことだが、それが少ない州にとっては特に利益がないと計画に反対を唱えた。そのうえ公債償還計画によって利益を得るのは北部の投機家だという南部の根強い不信感があった。公債償還計画は頓挫しかけたが、それを救ったのはフィラデルフィア遷都である。

フィラデルフィア遷都

特別区の創設

 大陸会議では、各州の間で公平を期すために州の領域と分離させた特別区を創設して首都とすることが決められていた。しかし、特別区をどこに設けるかはまだ決定していなかった。そのため各地で首都誘致合戦が行われた。ハミルトンが強く推すニュー・ヨークは既に暫定首都となっていたので有利な立場を占めていた。

公債償還計画と首都移転問題

 1790年6月20日、ジェファソンハミルトンとマディソンを自宅の晩餐会に招いた。その席で、ハミルトンはニュー・ヨークを首都にする案を放棄する代わりに、南部のフィラデルフィアを暫定首都にした後に、ポトマック川沿いに恒久的な首都を設ける案を容認した。そうすることでハミルトンは、公債償還計画に対する南部の支持を取り付けることに成功した。
 この晩餐会での妥協の結果、7月16日、議会は暫定首都をフィラデルフィアに移転させた後に恒久的な首都を建設する案を承認した。一方で公債償還計画も7月26日、上院を通過した。こうして独立国家として今後、発展するために必要となる首都と信用というアメリカの2つの礎が築かれることになった。恒久的な首都の名前が「ワシントン」に公式決定されたのは1791年9月である。

ワシントンD.C.の建設開始

 実は、ワシントンは、歴代大統領の中で唯一、ワシントンD.C.に住むことがなかった大統領である。ワシントンが大統領に就任した当時、ニュー・ヨークが暫定首都であった。ニュー・ヨークで大統領官邸の建設が進められていたが、完成前に首都がフィラデルフィアに移転することになった。さらにフィラデルフィアでも大統領官邸の建設が進められたがワシントン大統領の在任中には完成しなかった。
 1791年、フランス人の建築家ピエール・ランファンがワシントンD.C.の設計者に選ばれた。ジョージ・ワシントン自らは首都を「ワシントン・シティ」と呼んでいない。その代わりに「フェデラル・シティ」と呼ばれていた。
 さらにデザイン・コンペによりジェームズ・ホーバンの設計に基づいて3階建ての大統領官邸が建築されることになった。そして、1792年10月12日、コロンブスの新大陸発見300周年を記念して大統領官邸の建築が開始された。ホーバンは建設費用を40万ドルと見積もったが、ワシントン大統領は建築規模を2階建てにするように変更を求めた。
 退任後、ジョージ・ワシントンはワシントンD.C.に立ち寄っているがその時、ホワイト・ハウスは建設中であった。ワシントンD.C.に首都機能が移転し、第2代大統領ジョン・アダムズがホワイト・ハウスに移ったのはワシントンの死後である。

第1合衆国銀行創設

 当時、慢性的な通貨不足にアメリカは悩まされていた。流動資本を供給するだけではなく様々な金融機能を果たす中央銀行がアメリカ経済の発展に不可欠であると考えたハミルトンは、1790年12月13日、合衆国銀行の創設を議会に提言した。
 ハミルトンの提唱は党派対立を助長する結果をもたらした。特にジェファソンやマディソンは、金融に対して根強い不信感を持っていた。農本主義的傾向を持つの彼らからすれば、銀行は自営農を圧迫し、貧困層を搾取する悪しき存在に他ならなかったからである。また連邦政府が特許状を与える権限について定めた規定がないという憲法上の問題もあった。つまり、反対派は、中央銀行の創設を行政府による立法権限の侵害だと見なしたのである。
 こうした反対にも拘わらず、20年を期限とする合衆国銀行特許法案は、1791年1月20日、上院を通過し、2月8日、下院を通過した。マディソンは同法案が違憲であると議会で演説するだけにとどまらず、ジョージ・ワシントン大統領に拒否権を行使するように求めた。そこでワシントンは閣僚に第1合衆国銀行設立の合憲性について諮った。まず司法長官エドマンド・ランドルフは合衆国銀行が違憲であるという見解を述べた。2月15日、ジェファソンも合衆国銀行特許法案に対して拒否権を行使するようにジョージ・ワシントンに提言した。ジェファソンの見解はランドルフの見解とほぼ同じであり、連邦に付与されることが明記されていない権限は州に留保されることを規定した憲法修正第10条に基づいて、合衆国銀行を設立する権限は憲法に明記されていないという見解であった。
 ジョージ・ワシントン大統領はランドルフとジェファソンの意見書をハミルトンに送って意見を求めた。2月23日、ハミルトンは、連邦政府は憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限implied power」の原則に基づいて、合衆国銀行設立は合憲であると結論付けた。最終的に、ワシントン大統領はハミルトンの意見を採用し、2月25日、合衆国銀行特許法案に署名した。ワシントンはある問題に対して特に強く反対するべき点がなければ、その問題を担当する閣僚の意見を優先することが多かった。
 合衆国銀行は完全な官営ではなく銀行株を発行することで資本金を集めた。連邦政府は資本金の2割を出資した。連邦政府が全額出資しなかった理由は、合衆国銀行を民間に委ねることで政治家からの干渉をできるだけ防ごうと考えたからである。しかし、財務省が経営を監視することで、民間の利益だけではなく公共の福祉が保たれるように配慮している。連邦政府は合衆国銀行の設立により大きな財政的利益を受けることができた。それだけではなく、合衆国銀行により生み出される莫大な信用はアメリカ経済の発展に寄与した。

ネイティヴ・アメリカン政策

不安定な北西部領地

 イギリスは講和成立後もオハイオ川北西部領地に7つの交易所を保持していただけではなく、周辺のネイティヴ・アメリカンに武器弾薬を供給し影響力を保持していた。
イギリスとネイティヴ・アメリカンの脅威を解消するためにジョージ・ワシントン大統領は北西部領地長官を務めるアーサー・セント・クレアにネイティヴ・アメリカンとの和平を図るように指令した。その地域で活動的だった部族は、オタワ族 、ポタワトミ族、チペワ族、ショーニー族などである。ワシントンは、セント・クレアに戦争を「フロンティアの住民の安全、軍の安全、そして国の威信を損なわなければ、あらゆる手段で避ける」ように命じていた。しかし、ネイティヴ・アメリカンとの交渉は失敗に終わった。
 セント・クレアはジョージ・ワシントン大統領にネイティヴ・アメリカンに懲罰的な攻撃を行うように提案した。その提案に基づき先遣隊が派遣されたが失敗に終わった。
 さらにジョージ・ワシントン大統領は1791年3月4日、セント・クレアを司令官とする遠征隊を派遣した。しかし、1791年11月4日、セント・クレア将軍率いる遠征軍は、北西部領地でリトル・タートル率いるネイティヴ・アメリカンに奇襲され敗北した。その敗報を受け取った時、ジョージ・ワシントンは食事会に出席していたが努めて平静を保った。散会後、ワシントンはかねてより奇襲に気を付けるようにセント・クレアに警告していたこともあって、怒りを爆発させたという。1792年、ジョージ・ワシントン大統領はネイティヴ・アメリカン政策について、「インディアンに関して合衆国がまず望むことは、彼らすべてとの平和であり、相互の利益についてより理解を深めることである。我々は、血を流さずにそれを達成することできなかったので、次善に望むことは、最も迅速な方法で戦闘行為を終わらせる方針を追求することである」と語っている。

フォールン・ティンバーズの戦い

 1792年5月8日、ネイティヴ・アメリカンに対応するために連邦議会は民兵法案を可決した。同法に基づいて、独立戦争でも活躍したアンソニー・ウェイン将軍が最高司令官に任命され、18才から45才までのすべての白人男性を民兵として入隊させることが認められた。
 1794年8月20日、ウェインの部隊はフォールン・ティンバーズの戦いでリトル・タートルを指導者とするネイティヴ・アメリカン連合軍に雪辱を果たした。その結果、1795年8月3日、ウェインとネイティヴ・アメリカンの族長たちとの間でグリーンヴィル条約が取り交わされた。この条約により、ネイティヴ・アメリカンは北西部領地からの後退を余儀なくされ、白人の入植者が急増した。さらにジェイ条約の取り決めにより、イギリスの7つの交易所も閉鎖された。

平和共存の呼びかけ

 北西部領地のネイティヴ・アメリカンの反抗を鎮圧する一方で、南部のネイティヴ・アメリカンに対してワシントン大統領は外交的手段で平和を獲得した。1792年3月23日、ジョージ・ワシントンはクリーク諸部族の族長を招いた。その中の一人であるレッド・ジャケットは、ワシントン大統領より銀のメダルを贈られた。そのメダルには、左に手斧を地面に置き煙管を吸うレッド・ジャケット、右に手を差し伸べたワシントン大統領の姿が彫られ、下部に「ジョージ・ワシントン大統領1792年」と刻まれていた。レッド・ジャケットは生涯にわたってこのメダルを大切に身に付けていたという。

ウィスキー暴動

 1791年3月3日、連邦議会は内国税法案を可決した。同法により、14の徴税区が創設され、蒸留酒へ1ガロンあたり7セントの税が課された。莫大な負債を返済するために必要不可欠な措置であった。蒸留酒は西部の農民達にとっては重要な産品であり、新たな課税は死活問題であった。西部の農民たちは税金支払いを拒否するだけにとどまらなかった。1794年7月、ペンシルヴェニア州モノンガヒーラ郡で暴徒が徴税吏を襲撃した。
 ジョージ・ワシントンは、このように法律が踏みにじられれば、「共和主義政府は一撃で終わりを迎える」と考えていた。そのため、8月7日、ワシントンは1万2900人の民兵を招集し、9月1日までに降伏するように暴徒に呼び掛けた。しかし、呼び掛けが無視されると9月25日、遂に暴動の鎮圧を命じた。しかし、ほとんどの暴徒が既に検挙されていたか、もしくは逃走するかしたために戦いにはならなかった。20人が反逆罪で訴追され、2人が有罪となった。その2人にも大統領によって恩赦が与えられた。
 ウィスキー暴動は、連邦政府の威信に対する最初の挑戦であったが、ワシントン大統領はこの危機をうまく切り抜けることができた。幸いにも軍事力による実力行使をできる限り最小限にとどめながらも、社会秩序を回復することができた。

フランス革命戦争に対して中立を宣言

中立宣言の意図

 フランス革命勃発後、周辺諸国の君主は危機感を強めた。1792年4月、フランスは機先を制してオーストラリアに宣戦布告した。さらに翌1793年1月21日、ルイ16世の処刑が行われ、ヨーロッパ諸国は第1回対仏大同盟を結成した。
 ヨーロッパで激化する戦争の報せがアメリカにも届き始めた。アメリカは旗幟を明らかにする必要に迫られた。マウント・ヴァーノンに滞在していたワシントンは急遽、首都フィラデルフィアに戻り、対応策を練るために閣議を4月19日に開いた。当時のアメリカの脆弱な軍事力からして、中立を守ることが最善であるという点では閣僚の意見は一致していた。また休会中の議会を招集すれば危機感を煽ることになるので、特別会期を設けるべきではないという点でも意見は一致していた。しかし、中立を実際にどのように行うかについては激しい議論が行われた。
 最終的にジョージ・ワシントン大統領は、1793年4月22日、中立宣言を公表した。ただし、国務長官ジェファソンの勧めに従って、ワシントン大統領は宣言の文面に「中立」という言葉は盛り込まず「交戦諸国に対して友好的かつ公平である」という表現に留めた。さらに国民に対しては「合衆国市民は何人といえども、先述の諸国に対する敵対行為を行うか、支援するか、もしくは扇動する者は、諸国の法の下に、処罰、または[資産の]没収を免れ得ず。また諸国の現行慣習法に基づいて密輸とみなされる品目を交戦諸国に持ち込む者は、処罰や没収を被っても合衆国の保護を受けることはできない」と呼びかけた。これは上院に諮らずに大統領が外交を取りしきる先例となった。またアメリカがヨーロッパの紛争に距離を置いて孤立を守る先例ともなった。
 ジョージ・ワシントン大統領が中立宣言を出した理由は、建国まもないアメリカは、自国の安全保障のためにヨーロッパの戦乱に巻き込まれる危険性を回避しなければならないと判断したからである。またアメリカは他国のためではなく自国のために動くことをヨーロッパ列強に納得させる効果もあった。その一方でワシントンは、ジェファソンを通じて外交官のウィリアム・ショートに「フランスは我が国の最後の頼みの綱であり、その友好関係が第1の目標である」と伝えている。
 こうしたジョージ・ワシントンの配慮にも拘らず、この中立宣言は、独立戦争をともに戦った同盟国フランスを裏切ることになると親仏派から激しい非難を受けた。そうした非難をワシントンは、フランス革命をめぐってアメリカ国内で党派を組んで争うのは馬鹿げたことだと考えていたが、党派対立は深刻になる一方であった。

党派対立の深刻化

対立の要因

 対立の火種になったのは財務長官ハミルトンと国務長官ジェファソンである。前者を中心に連邦派が、後者を中心に民主共和派が形成された。連邦派は、ニュー・イングランド地方の商人を支持基盤として強力な中央政府、中央銀行の設立、製造業の振興、公債償還、親英姿勢などを推進しようとした。一方、民主共和派は南部諸州の農園主を支持基盤として立法府と州権の尊重、農本主義、親仏姿勢などを推進しようとした。両派の対立が深化した主な契機は合衆国銀行設立である。
 さらに1791年10月31日、フィリップ・フレノーがフィラデルフィアで「ナショナル・ガゼット」紙を創刊している。フレノーはジェファソンの支援を受けていた。一方で、ハミルトンは「ガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ」のジョン・フェノを後援していた。両紙は、激しい党派論争の舞台となった。
 両派は「政党」と目されるが、この時代は、政党は君主制の遺物だという考えが強く、政治を腐敗させる存在として否定的に見られていた。そのため、連邦派と民主共和派は、実質上は政党であるが、正式に「政党」を名乗っていたわけではない。
 ジョージ・ワシントン自身は明らかに連邦派寄りであったが、ハミルトンとジェファソンを何とか和解させようと努力した。1792年8月23日にジェファソンに、同月26日にハミルトンに手紙を送って、両者の意見の相違を仲裁しようとしたが失敗している。1793年7月31日(辞任の発効は12月31日)、その努力にも拘わらずジェファソンは国務長官を辞任した。しかし、これで党派対立が終息したわけではない。
 当初、ジョージ・ワシントン大統領は党派対立に関して均衡を保とうとする立場にあったが、次第にワシントン自身も民主共和党の非難の的となった。特にジェイ条約は激しい論議の的になり、連邦派と民主共和派の亀裂をさらに広げた。ジェファソンの『トマス・ジェファソン語録』によると、中傷にさらされたワシントンは激怒して、「神にかけて、今のような状況に置かれるくらいなら、むしろ墓の中に置かれるほうがましである。この世の帝王になるよりも、むしろ自分の農場に居るほうがよい。それにも拘らず、私は王になりたがっていると非難されている」という旨を述べたという。

世論を分断したジェイ条約

 1793年6月8日、イギリス政府はフランスの港に穀物を輸送する中立国の船舶を拿捕するように海軍に命じた。さらに11月6日、フランス領西インド諸島を完全封鎖する命令が出された。その結果、250隻のアメリカ船が拿捕され、積荷が差し押さえられるようになった。翌1794年1月8日、イギリスは11月6日の命令を撤回し、非軍事物資に限ってアメリカ船に仏領西インド諸島との通商を認めた。しかし、それまでアメリカが受けた損害への補償はなされなかった。一連のイギリスの措置に対抗してジョージ・ワシントン大統領は、3月26日、国外の港に向かう船舶に対して出港禁止を命じた。さらに4月16日、ジェイを特命全権大使に指名し、講和成立後の諸問題の解決にあたらせた。
 その結果、11月19日、ロンドンでジェイ条約が取り交わされた。その内容は、1796年までに北西部領地からイギリス軍を撤退させること、アメリカが被った損害を調査する委員会の設置、英領西インド諸島との限定的な通商、アメリカ国内で敵国による私掠船の艤装を禁止することなどを含む。一方、アメリカは、独立戦争以前の負債をイギリスの債権者に返済するように取り計らうこととイギリス人に引き続き毛皮交易を認めることを約した。しかし、ジェイがアメリカ人船員の強制徴用に対する補償と独立戦争中に連れ去られた奴隷の賠償金を得ることができなかったので同条約は不評を招いた。また親仏姿勢をとる民主共和党からすれば、ジェイ条約の締結はイギリスを攻撃しフランスを支援する望みが断たれたのに等しかった。またフランスもジェイ条約が米仏同盟に反するとしてアメリカに対する姿勢を硬化させ、両国の関係は悪化の一途をたどった。
 1795年3月7日、条約の詳細が到着した。ジョージ・ワシントン自身はまだ条約を認めるかどうかを決断していなかったが、6月、特別議会を召集し、上院に条約を上程した。そして6月24日、上院での非公開審議を経てジェイ条約は、西インド諸島との制限貿易を規定した項目を除いて20票対10票で承認された。しかし、早くも7月1日に条約内容が暴露され民主共和派の怒りを誘った。多くの民主共和派は、通商停止を取引材料にすれば、イギリスからもっと譲歩を引き出せたはずだと非難した。南部の農園主達は連れ去れた奴隷の補償がなされなかったことに大きな不満を抱いた。また北部の商人達も条約で取り決められた通商条件に満足していなかった。
 7月3日、ジョージ・ワシントン大統領はハミルトンに内密でジェイ条約の是非について諮問している。その8日後、ハミルトンは53ページにもわたる注釈を書いてジェイ条約を認めるように勧めた。結局、ワシントン大統領がジェイ条約に署名したのは8月18日である。
 ジェイ条約は不評であったために、それに署名したワシントンも様々な根拠の無い中傷にさらされることになった。例えば「もし国が人間によって滅ぼされるのであれば、アメリカはワシントンによって滅ぼされるであろう」という中傷があった。ジョージ・ワシントンはこうした中傷に対して怒り心頭に達していた。告別の辞の中でジョージ・ワシントン大統領はそうした新聞の姿勢を非難する文句を盛り込もうとしたが、演説草稿を作成したハミルトンの反対で取り止めたというエピソードが残っている。このように怒りをあらわにした理由は、ジョージ・ワシントンが公的に良い評判を得ることを「人間として真に価値ある要素」だと考えていたからである。この頃のワシントン大統領について、パンフレット作成者のウィリアム・コベットは、「すべて人の心からの歓迎で出迎えられると確信することなく彼が議会の中に入ったのは、これが初めての機会であった」と記している。
 翌1796年2月29日、ジョージ・ワシントン大統領はジェイ条約の発効を宣言した。それに対して下院は、、3月24日、ジェイ条約に関連する文書の開示を大統領に求める決議を採択した。翌日、ワシントン大統領は閣僚に下院の要求に応じるべきかどうかを諮問した。26日、すべての閣僚が要求に応じるべきではないと返答した。その結果、ワシントン大統領は下院の要求を拒絶した。これは行政府が外交に関して主導権を持つことを示した重要な先例となった。またマディソンを中心とする民主共和派は下院で、条約に関連する予算を差し止めようとしたが、4月30日、条約に関連する予算は僅差で認められた。

政権人事

副大統領
ジョン・アダムズ(在任1789.4.21-1797.3.4)

国務長官
トマス・ジェファソン(在任1790.3.22-1793.12.31)

エドモンド・ランドルフ(在任1794.1.2-1795.8.20)

ティモシー・ピカリング(在任1795.12.10−1800.5.12)

財務長官
アレグザンダー・ハミルトン(在任1789.9.11-1795.1.31)

オリヴァー・ウォルコット(在任1795.2.3-1800.12.31)

陸軍長官
ヘンリー・ノックス(1789.9.12-1794.12.31)

ティモシー・ピカリング(在任1795.1.2-1795.12.10)

ジェームズ・マクヘンリー(在任1796.1.27-1800.5.13)

司法長官
エドモンド・ランドルフ(在任1789.9.26-1794.1.2)

ウィリアム・ブラッドフォード(在任1794.1.27-1795.8.23)

チャールズ・リー(在任1795.12.10-1801.2.18)

郵政長官
サミュエル・オズグッド(在任1789.9.26-1791.8.18)

ティモシー・ピカリング(在任1791.8.19-1795.1.2)

ジョゼフ・ハーバーシャム(在任1795.7.1-1801.11.2)

最高裁長官
ジョン・ジェイ(在任1789.10.19-1795.6.29)

オリヴァー・エルズワース(在任1796.3.8-1800.12.15)

引退後の活動

再び総司令官就任

 後任のジョン・アダムズの就任式に出席した後、ワシントンは1797年3月15日にマウント・ヴァーノンに戻った。ワシントンは、在任時に「もし誰も突然、やって来ないようになれば、ワシントン夫人と私自身は、ここ20年でできなかったことをするでしょう。つまり、我々自身で夕食を決めることです」と友人に書き送っていることから分かるように、誰にも煩わされること無く静かに引退することを望んでいた。
 しかし、1798年7月4日、米仏関係が悪化により万が一に備えて、ジョン・アダムズはワシントンを「中将および合衆国に奉仕するために徴募され、徴募されるであろう全軍の総司令官」に任命した。侵略軍を迎え撃つ時にのみ指揮をとること、そして士官の任命を一任することを条件にワシントンは任命に応じた。前大統領がそのような官職に就いた例はこの他にはない。ワシントンは、11月にフィラデルフィアに赴き、臨時軍の編成に関して助言を行った。幸いにもフランスとの紛争は全面戦争には至らずに「擬似戦争」に終わりワシントンが実際に軍役に就く機会は訪れなかった。このためワシントンの最高位は中将である。1976年に議会はワシントンに最高位である六星の合衆国総軍元帥を追贈している。
 1798年にヴァージニア決議とケンタッキー決議が出された際に、ワシントンは反対の立場をとっている。連邦法が国内の最高法規であるという憲法の規定に両決議が反していると判断したからである。
 晩年、ワシントンは資金繰りに行き詰ったらしく、銀行から初めてお金を借りている。税金や諸経費が嵩んでいたらしい。また絶えることのない訪問客にも悩まされた。訪問客の中には古くからの友人だけではなく、前大統領とその家族の生活を覗きに来る者までいたからである。
 またワシントンは、建設途上の新しい首都、つまり後のワシントンD.C.に度々、出掛けていた。建設の様子を見て、「1世紀後、もし我が国が統一を保っているのであれば、[中略]さしあたって、ロンドンほど大きくはならないだろうが、ヨーロッパのほとんどの都市に劣らず壮麗な都市がポトマック河畔に築かれるだろう」とワシントンは述べている。

奇妙な遺言

 1799年12月12日の朝、ワシントンは騎乗して習慣となっている農園の見回りに出掛けた。「1時頃、雪が降り始め、すぐに雹になり、それから安定した冷雨になった」とワシントンはその日の様子を記している。雨に濡れながらワシントンは5時間にわたって馬を歩ませ続けた。14日早朝、ワシントンはひどい寒気で目を覚ました。ほとんど何も嚥下できない状態になり、医師は処置を施したが脈拍は弱る一方であった。ワシントンの死因は急性喉頭蓋炎と考えられている。医師達に向かってワシントンは、「私をこれ以上、煩わせず、静かに逝かせて下さい。私は長くは持ち堪えられません」と言ったという。
 ワシントンが側仕えの者と最後に交わした会話は次のような会話だったという。「私は今、逝こうとしている。私をきちんと埋葬せよ。死後3日経たないうちに遺体を墓所に納めないように。私の言うことが分かったか」。側仕えの者が「分かりました」と答えると、ワシントンは「それでよい」と言い、それが最後の言葉になった。14日午後10時頃のことである。こう言い残したのは生き埋めにされることを恐れたからだと言われている。脈拍を自ら取りながら臨終を迎えたのもその為だと思われる。また防腐処理のために遺体にウィスキーを塗布するように指示したという。享年は67才と295日である。
 遺体はマホガニー製の棺に納められた。棺には「審判の下に立つ」と「神の栄光」という言葉が刻まれた。さらに「ジョージ・ワシントン将軍この世を去る、1799年12月14日、享年68」と刻まれた銀板が添えられた。18日に葬礼が行われ、棺はマウント・ヴァーノンの墓所に安置された。墓石には「イエスは言われた。私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。また生ける者で私を信じる者は、決して死ぬことはない」と刻まれている。これは「ヨハネによる福音書」第11章の25節と26節である。
 さらにワシントンの功績を記念するためにワシントン記念碑を建造することが決定された。記念碑は1884年に完成した。遺体を記念碑に移すことも提案されたが実現しなかった。

莫大な遺産

 不動産が大半であったがワシントンは莫大な財産を遺した。1799年7月9日に書かれた遺言によると、その財産は、3万3000エーカー(山の手線内の面積の約2倍に相当)以上の土地、羊640頭、牛320頭、騾馬42頭、馬20頭などの動産を含めて総計53万ドルであった。当時の連邦政府の年間予算が754万7000ドルであることを考えると、いかに大きな額であるかが分かる。

遺言で奴隷解放

 1799年7月9日に作成された遺言状には、財産目録と分与の他にマーサ夫人の死後、自らが所有する奴隷をすべて解放するようにという指示が記載されていた。その当時、マウント・ヴァーノンには314人の奴隷が存在し、そのうち122人が解放された。マウント・ヴァーノンに所属する奴隷でも、マーサ夫人が前夫から受け継いだ奴隷はワシントンの意思では解放できなかったからである。さらに年少者には成年に達するまで援助を与え、老齢者には生涯にわたって保障を与えるように指示している。その遺言に従い、1833年に最後の受給者が亡くなるまで援助や保障の支払いが続けられた。建国の父達の中で自らが所有する奴隷をすべて解放したヴァージニア出身者はワシントン唯一人である。1786年9月9日の手紙の中で、ワシントンは奴隷について次のように述べている。

「ゆっくりだが確実に感じられない程度で我が国の奴隷制度を廃止するという計画を立法府が採択するのを見ることが私の何よりの願いだ」

 ワシントンがこのように考えていた理由は、奴隷制度を廃止するという計画によってもたらされる政争によって連邦制度自体が崩壊することを恐れていたからである。さらにワシントン自身も奴隷の手を借りずに農園を経営することはできなかっただろう。ただしワシントン自身は1790年代にマウント・ヴァーノンの奴隷を解放して賃役夫として農園で雇用することを検討していたことも確かである。

神格化された建国の祖

「桜の木」伝説の虚実

 ワシントンはアメリカ独立戦争を勝利に導いた建国の祖Founding Fatherとして存命中から衆人の尊崇を受けていた。アメリカは神に選ばれた国であるという理念の下、ワシントンをアメリカの「救世主」であり「神の子」と称賛する者も珍しくなかった。その死後も衆人の尊崇はとどまることを知らず、ワシントンにまつわる数々の伝説が生み出された。
 最も代表的な伝説は、「桜の木」伝説であろう。ワシントンが6歳の頃、父オーガスティンが大事にしていた桜を切ってしまった。オーガスティンに「庭のあそこにある小さな美しい桜の木を切ったのは誰か」と詰問された時に、ワシントンは少しもたじろぐことなく「お父さん、僕は嘘をつけません。僕が嘘をつけないことはお父さんもよく分かっていますよね。私の手斧で桜の木を切りました」と答えた。オーガスティンはワシントンを「我が息子の英雄的行為は、銀を咲かせ純金を実らせるような何千本の木にも優るものだ」と褒めたという。
 この逸話はメイスン・ウィームズによる創作だとされている。ウィームズはワシントンと同時代の人物で、1787年3月、実際にワシントンを訪問している。後にウィームズは、『ジョージ・ワシントンの生涯と記憶すべき行い』と題する80ページの小冊子を出版した。非常に人気を博したこの伝記は第7版まで改訂を加え、228ページにまで膨らんだ。その後も80版以上を重ねている。後にワシントンの伝記を書くことになるウッドロウ・ウィルソン)も、子供の頃にこれを愛読していたという。
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様々な作品に登場

 イギリスの劇作家オスカー・ワイルドは「桜の木」伝説を皮肉って『嘘の衰退The Decay of Lying』を執筆したという。ワシントンは他にもジェームズ・クーパーの『密偵Spy』やサイラス・ミッチェルの『ヒュー・ウィニー―自由なクェーカーHugh Wynne, Free Quaker』、ポール・フォードの『ジャニス・メレディスJanice Meredith』、パーシー・マッケイの戯曲『ワシントン―我々を作った人物Washington: The Man Who Made Us』、ウィリアム・サッカレーの『ヴァージニア人The Virginians』などの文学作品で描かれている。

その他の有名な伝説

 またポトマック川を横断して1ドル銀貨を投げることができたという話やオーガスティンが秘かに「GEORGE WASHINGTON」という形になるようにキャベツの種を植えたという話もウィームズの創作である。こうした話は、1806年に発行された第5版から登場している。
 また進退窮まったヴァレー・フォージで、ワシントンが謙虚に神の恩寵を願うことで窮地を脱したという伝説も有名である。この祈りをポッツなる人物が見ていたとウィームズは記している。しかし、ポール・ボラーによると、ポッツなる人物はその当時、ヴァレー・フォージにいなかったという。
 こうした神格化についてマーカス・カンリッフは、「ワシントン以後、早くても1775年以後、またはワシントンが大統領であった時に洗礼を受けた赤子であった国民は、ワシントンを偶像と見なす。ワシントンの崇拝者にとってワシントンは『神のようなワシントン』であった。そして、ワシントンを中傷する者は口々にワシントンは、批判することが背信とされる『半神』のように見なされていると不平を言った」と指摘している。
 さらに政治学者トマス・クロウニンは「模範的な大統領像textbook presidency」という概念を提唱している。つまり、大統領を神格化し英雄に仕立てることで、あたかも大統領が全能の存在であるかのように思わせる傾向を指す。その結果、多くの人々が大統領の能力に過度に期待するようになり、大統領個人の資質を見極めようとする視点が欠落してしまうと研究者は指摘している。
 ワシントンの多くの事績がアメリカの建国神話と固く結び付いているので、ワシントン個人の実像を見極めることは極めて困難である。なぜならワシントンに対する否定的評価は、アメリカの建国の理念そのものを揺るがしかねないからである。

評価

後世の評価

各人物による評価

 ワシントンの下で国務長官を務めたジェファソンは、後年、「彼の精神は、第一級ではありませんでしたが、偉大で力強いものでした。彼の洞察力は、ニュートンやベーコン、ロックほど正確ではないにしろ鋭いものでした。彼が確かめる限り、分別のない判断はかつてありませんでした」と振り返っている。またマディソンも「彼の性格の長所は、清廉潔白であったこと、正義を愛したこと、不屈であったこと、健全な判断力を持っていたこと、愛国的義務の高邁な精神と一体となった優れた深慮を持っていたこと、そして告別の辞で言明されたように賢明で公正な世評に信頼をおいたことにある」と評している。
 イギリス首相ジョン・ラッセルは、「アメリカの成功は、その敵対者の失策のお蔭でもあるが、まずはワシントン将軍の指揮と品性のお蔭であった」と評価している。同じくイギリス首相を勤めたウィリアム・グラッドストーンは、「彼は歴史上、最も純粋な人物だ」と評している。またフランソワ・シャトーブリアンも「ワシントンの名前は時代から時代へ自由とともに広がるだろう」と述べている。
 歴史家ヘンリー・アダムズは、「彼は信念を持った偉大な軍事的指導者であり、私が思うに、模範的な姿勢を強く示したので、神は人々が置かれた緊急事態に対応できるような資質を与え、創造主の御業が及ぶ限り、1人の個人にアメリカ独立の大義と偉大で崇高な道義をお集めになった。その人物が他ならぬワシントンである」と記している。また政治学者シーモア・リップセットは、ワシントンを、マックス・ウェーバーの言葉を借りて「超自然的、超人的、もしくは少なくとも人並み優れた能力や才能がある」カリスマ的リーダーの典型である評価している。そして、ワシントンの事績については、レオナード・ホワイトが、ワシントンは政権を運営することで「アメリカ人の心に、連帯、活力、そして有能であるという理由で政府は敬意を得ることができるというモデルを植え込んだ」と述べている。

総評 

 大統領としてワシントンは大統領制の確立に貢献したが、一方で党派対立を抑えることができなかった。ワシントンは超党派的に振る舞うことで、連邦党と民主共和党の均衡の上に身を置こうとした。しかし、実際にはワシントンの考え方は連邦党寄りであったので、政権末期までに均衡の上に身を置くという考え方は放棄せざるを得なかった。
 またアメリカ独立戦争時にワシントンが発揮した軍事能力を疑問視する評価もある。確かにワシントンの部下の中には、分野によってはワシントンを凌駕する才能を示す人材がいた。また何度も敗退を繰り返している。しかし、ワシントンが最も評価されるべき点は、単に軍隊を指揮する能力ではなく、大陸会議や諸邦と折衝を数多く重ね、勝利を手にするまで大陸軍を維持し続けた点にあると言える。そして、自ら大陸軍総司令官の地位を手放すことによって、軍事独裁の可能性を否定し文民統制の原則を打ち立てた点を忘れてはならない。

家族

富裕な未亡人

生い立ち

 妻マーサ(1731.6.21-1802.5.22)は、1731年6月21日、ヴァージニア植民地ニュー・ケント郡で裕福なタバコ農園主ジョン・ダンドリッジの娘として生まれた。8人(さらに異母妹が1人いたという説もある)の子供の中で一番年長であった。少女時代の日課は、朝6時の読み書きの勉強から始まり、音楽、裁縫、編み物、糸紡ぎ、機織り、料理などで埋められていた。15歳で社交界にデビューするまでに、当時、主婦として修める必要があった仕事はすべて身に付けていた。1749年6月、マーサはダニエル・カスティスと結婚したが1757年に死別した。マーサは子供達の分も含めて1万7000エーカー(約6800ha)の土地と約300人の奴隷、そして約36万ドルを所有する富裕な未亡人となった。

出会い

 マーサの孫ジョージ・カスティスの回想によると、ワシントンとマーサがお互いに初めて面識を得たのは1758年のことである。カスティスは彼らの出会いを次のように回顧している。

「話によると、彼らは初めての出会いをお互いに喜んだという。しかし、それは注目に値することではない。彼らのような年頃では、感ずるところが大きいのだから。淑女はじっと見つめたくなるほど美しく、人の心をとらえる物腰で、素晴らしく世故に長けていた」

 1758年3月にワシントンから結婚の申し出を受け、翌1759年1月6日、ホワイト・ハウス(ヴァージニア植民地ウィリアムズバーグ北西にあったマーサの邸宅)で挙式した。新朗は26歳、新婦は27歳であった。

ワシントンとの間に子供が生まれなかった原因

 マーサはワシントンと再婚する前に4人の子供(2人は夭折)をもうけていたが、ワシントンとの間に子供は生まれなかった。そのためワシントンの血を引く子供は1人もいない。
直系の子孫はいないが、甥のブッシュロッドは、1798年から1829年まで連邦最高裁判事を務めたことで知られている。
 子供が生まれなかった理由は、一般的には、ワシントンがバルバドスに行った際に患った天然痘が原因で生殖能力を失ったからだと言われている。しかし、ワシントンは、マーサが前夫との間に4人目の子供をもうけた時に合併症に罹り子供を産めなくなったと指摘している。また結婚後、暫くして患った風疹が原因だとも言われている。

マーサの子供達

ダニエル・カスティス
 長男ダニエル・カスティス(1751.11.19-1754.2.19)は夭折した。

フランシス・カスティス
 長女フランシス・カスティス(1753.4.12-1757.4.1)は夭折した。

ジョン・カスティス
 次男ジョン・カスティス(1754.11.27-1781.11.5)はヴァージニア植民地ホワイト・ハウスで生まれた。父ダニエルが亡くなった時、ジョンは、将来、5つの郡にある地所の主要な相続人になった。ワシントンはジョンを養子にすることはなかったが、後見人を務め、養育に責任を持った。
 ジョンの教育について細心の注意を払っていたことは多くの手紙からうかがえる。例えば1768年3月30日に寄宿を依頼する手紙ではジョンについて、「彼は良い性質の14才の少年で道徳において汚れをしらず、作法に関しても無邪気です。2年かそれ以上、ヴァージルを読んできましたし、([家庭教師の]マゴワン氏が彼を残して旅だった時)ギリシア語版聖書に入ったところでした。3月に郷里から離れるのにも拘わらず、クリスマス以来、家庭教師の教えを受けていないので、両方ともかなり鈍っているかもしれません」と述べている。
1768年、ワシントンはジョンをキャロライン郡のジョナサン・バウチャーの学校に入学させた。さらに1773年、ジョンはキングズ・カレッジ(現コロンビア大学)に入学した。
 1775年にワシントンは大陸軍総司令官に就任するにあたって、ジョンに母マーサの面倒を見るように依頼した。そのためジョンはたいていマウント・ヴァーノンに滞在た。1778年にジョンはヴァージニア邦議会議員に選ばれた。1781年、ジョンはヨークタウン包囲に参加したが、終結後間もなくキャンプ熱に罹って亡くなった。

マーサ・カスティス
 マーサ(1755.12?-1773.6.19)は成人前にマウント・ヴァーノンで亡くなった。

ジョージ・ワシントンの名を受け継ぐ者
 ジョン・カスティスの死後、ワシントンは遺児の4女ネリーと「小ワシントン」と呼ばれる息子ジョージ・カスティスをマウント・ヴァーノンに迎え入れている。しかし、ワシントンは、ジョージ・カスティスを養子にしたわけではなく、父ジョンと同じく被後見人と言及している。
 ジョージ・カスティスは、プリンストン大学に通い、1799年に卒業後、合衆国陸軍騎兵隊旗手を務め、大佐になった。 ワシントンの死後、ジョージ・カスティスはポトマック川沿いに邸宅を建てアーリントンと名付けた。その名はイギリスにあったワシントン家の邸宅に因んでいる。ジョージは、郷紳として生涯を過ごした。アーリントンには様々な人が訪れた。その中にはジャクソン大統領も含まれている。またジョージ・カスティスは劇作も手掛け、『インディアンの予言』(1828)や『ポカホンタス、あるいはヴァージニアの居住者達』(1830)などを発表した。
 ジョージ・カスティスの娘メアリは、父ジョージが1826年から書き始めた回顧録をまとめて『ワシントンの養子によるワシントンに関する回想集および個人的な回顧録』(1860)を出版している。そのため後代の伝記作家はジョージ・カスティスをワシントンの養子であると度々言及している。しかし、上述の通り、ワシントン自身は被後見人としか言及していない。ジョージは娘に、ワシントンの名前を絶やさないように子供に名前を継がせるようにと言い残した。そのため長男はジョージ・ワシントン・カスティス・リーという名前になった。しかし、ジョージが未婚のまま亡くなったのでジョージ・ワシントンの名を受け継ぐ者はいなくなった。

レディ・ワシントン

農園の女主人
 マーサはマウント・ヴァーノンで数多くの使用人を監督する農園の女主人としての役割を果たした。料理の献立を考え、調理を監督し、野菜を植える。それだけではなく機織り小屋で、奴隷が行う機織りを監督している。その他、ワインや薬など農園内で必要とされるいろいろな物資をマーサは作っていた。1768年から1775年の間に、延べ2000人もの訪問客があったが、多くの訪問客がマウント・ヴァーノンの温かいもてなしと食物の豊富さを称賛したという。

冬営地に赴く
 1775年12月11日、マーサは夫の求めに応じて厳しい環境の冬営地に到着した。それ以来、毎年マーサは冬営地で夫とともに過ごしている。マーサは、冬営地で率先して兵士のためにシャツを作ったり、靴下を編んだり、くたびれた服の綻びを縫ったりした。「どんな状況におかれても楽しく幸せでいるように私は固く決心しています。幸せや不幸は環境に因るものではなく、自分自身の気の持ち方に因るのだと経験から分かったからです」と友人に書き送っている。
 ヴァレー・フォージでも兵士達の家からの手紙に耳を傾け、彼らの子供の名前を覚え、擦り切れた軍服や毛布を修繕した。物資も場所も娯楽も満足にない野戦病院では、夜の集会を主催し、負傷兵達とともに歌や家の思い出話などに興じた。本来、外国製の服飾品をマーサは好んでいたが、戦時中はそうした服飾品の変わりにホームスパンの服を自ら進んで身に付けた。こうしたマーサの活躍は多くの将兵に認められ、ある連隊は「レディ・ワシントンの竜騎兵」と名乗るほどであった。
 この当時のマーサの様子を、アメリカ初の女性劇作家マーシー・ウォレンは、「彼女の上品な態度は、即ち彼女の慈愛に満ちた心を物語っている。彼女の愛想のよさ、率直さ、そして優しさは私生活に和らぎを与え、英雄[ワシントン]の気苦労を慰め、厳しい戦争の苦痛を緩和する」と記している。

大統領夫人としての役割
 ワシントンが大統領に就任する前から、マーサは「レディ・ワシントンLady Washigton」と呼ばれるようになっていた。マーサは金曜日の夜に上流階級の紳士淑女を接待する「公式招待会」を開いた。それはファースト・レディの公務と言えるだろう。
 公式招待会はイギリスとフランスの宮廷儀礼をモデルにしている。まず招待客はマーサの前に案内され会釈する。マーサはそれに軽く頷いて応じる。次に招待客は、マーサを中心にして半円形に並べられた椅子に着席する。その場での招待客どうしの私語は禁じられていた。その周りを大統領が順番に巡り、それぞれに2、3言の言葉をかける。その後、招待客は軽い夕食が用意された別室に移動する。大統領夫妻は招待客とともにコーヒーを楽しむ。この公式招待会にはもちろん男性も参加できたが、下品な話やカード遊び、女性に対してふざけることが禁じられていたので随分と窮屈に感じたであろう。
 ある金曜日の夜、宴もたけなわになり、訪問客たちはイギリスの宮廷作法にしたがってマーサが退出するまで待つべきか、それとも民主的に各自が帰りたい時に帰るべきか判断に迷った。機転を利かせたマーサは、「将軍はいつも9時に退出します。私はだいたい彼よりも早く退出します」と言って退出した。
 マーサは、マウント・ヴァーノンで夫とともに静かに暮したいと親戚に語っていたという。それはワシントンが大統領の任期を終え、マウント・ヴァーノンに帰ることになった時、マーサは「将軍と私は、さながら学校、または厳しい親方から解放された子供のように感じています。そして、大切な我が家を離れる気持ちにさせるものは何もないと思います。[中略]黄昏が私達の人生に訪れようとしています。私は、古風なヴァージニアの主婦の楽しい務め、時計のように規則正しく、蜂のように忙しく、そしてクリケットのように愉快な務めにようやくまた没頭することができます」と友人に書き送っていることからもよく分かる。しかし、マーサは「私の個人的な願いが政治的意思と決して反しないようにすることを、ずっと以前から経験により学んでいました」と述べているように、「私は国家の囚人に他なりません」と友人に打ち明けながらも、こうした社会的な儀礼を自らの義務だと考え忠実に果たしていた。そんなマーサをワシントンは「物静かな妻、物静かな人」と評している。 
 1790年1月1日、マーサは「新年歓迎会」を開いた。この歓迎会は誰もが参加することができた。この新年歓迎会は1930年まで、戦時や弔時を除いて140年にわたって開催され、1つの伝統となった。この頃のマーサの様子を、ジョン・アダムズの妻アビゲイルは「ワシントン夫人は、気取らない性格で敬愛の念を抱かせる人物の1人です。彼女の表情によってとても愉快な気分になりますし、わざとらしさがない態度は尊敬と敬意の対象になっています」と記している。
 しかし、反連邦派の新聞はこうしたマーサの振る舞いを、「軽薄でお上品ぶった無用の費え」と批判し、「女王然とした」行いでアメリカの共和主義を損なおうとしていると攻撃した。このような一部の批判にも拘らず、マーサが公式行事を取り止めなかった理由は、儀礼を通して大統領の威厳を高めることで諸外国に認められることが大切だと考えていたからである。

政権終了後

 ワシントン政権終了後、マーサは夫とともに念願の我が家に帰った。1799年12月14日、マーサはワシントンの最期を看取った。葬儀の後、マーサは寝室を閉じてしまい、屋根裏部屋に移った。その部屋には暖房がなく寒かったが、窓からワシントンの墓所を眺めることができた。
 ワシントンの死後、マーサを訪問したマナセ・カトラーは、「彼女は将軍[ワシントン]のことを、非常に愛情を込めて語り、たくさんの厚意や優しさに恵まれているけれども、最も欲しいものは神のお恵みであり、友達の中に居てもまるで余所者のように感じ、故人の後を慕って行く日を待ち望んでいると言っている」と記している。その後、死が近いことを悟ったマーサは、ワシントンから受け取った手紙を、2人の思い出が汚されないようにするために焼却した。焼却を免れた手紙は、書き物机の引き出しに押し込まれていた2通のみである。マーサは、1802年5月22日にマウント・ヴァーノンで亡くなり、愛する夫の傍らに葬られた。

エピソード

服装と趣味

 マーサは質素な服装を好み、豪華な装飾品にほとんど関心を示さなかったという。マーサを主賓に迎えて開かれた舞踏会に、マーサは粗い手織りの布でできたガウンを纏い、白いハンカチを首に巻いた姿で現れた。ワシントンは友人に宛てた手紙の中でマーサの服装について、「ワシントン夫人の考え方は、服装のシンプルさに関して私の考え方と一致している」と述べている。またマーサが着用していたドレスの中には綿にシルクの縞が入っているドレスがあった。そのシルクの縞の正体は、ブラウンのシルクの靴下と深紅の椅子のカバーを解いて再利用したものであった。マーサは編み物が大変好きで一日中、編み物をしていた。親しい女性と話す時も片時も編み物を手離さなかったという。
 なおマーサは1866年9月に発行された紙幣の肖像画に選ばれている。アメリカで女性が紙幣の肖像画に選ばれたのはそれが初めてである。

ワシントンの子孫の所在を聞いて驚いた福沢諭吉

 1898年から1899年にわたって「時事新報」に掲載された『福翁自伝』の中で、福沢諭吉はワシントンの子孫についてアメリカ人に聞いた体験を述べている。以下は、1860年当時、福沢が咸臨丸で渡米した際の話である。

「私が不図胸に浮かんで或人に聞いて見たのは外でない今華盛頓[ワシントン]の子孫は如何なつて居るのかと尋ねた所が其人の云ふに華盛頓の子孫には女がある筈だ今如何して居るか知らないが何でも誰かの内室になつて居る容子だと如何にも冷淡な答で何とも思て居らぬ是れは不思議だ勿論私も亜米利加は共和国大統領は四年交代と云ふことは百も承知のことながら華盛頓の子孫と云へば大変な者に違ひないと思ふたのは此方の脳中には源頼朝徳川家康と云ふような考があってソレから割出して聞いた所が今の通りの答に驚いて是れは不思議と思ふたことは今でも能く覚ゑて居る理学上の事に就ては少しも膽を潰すと云ふことはなかつた一が方の社会上の事に就いては全く方角が付かなかつた」

 本文中、「華盛頓の子孫には女がある筈だ今如何して居るか知らないが何でも誰かの内室になつて居る容子」とアメリカ人が指摘している「誰かの内室」とは、おそらくロバート・リーと結婚したメアリ・カスティスを指すと思われる。メアリ・カスティスはワシントンの被後見人ジョージ・カスティス(マーサの孫)の娘にあたり、ワシントン自身の血は受け継いでいない。

趣味

多様な娯楽

 一般的に流布している謹厳なイメージとは異なり、ワシントンは実に多様な娯楽を楽しんだ。おはじき収集、ビリヤード、富くじ、狐狩り、鴨狩り、釣り、闘鶏、競馬、競艇、音楽鑑賞、バーベキュー・パーティー、トランプ、ダンス、観劇、猟犬の育成などを楽しんだという。時々、嗅ぎタバコやパイプでの一服を楽しんだという。さらに牡蠣やスイカを好んで食べ、マデイラ・ワインを愛飲したという。自然の中で過ごすことが好きで、自宅周辺にあるすべての木の種類が分かったという。またジョゼフ・アディソンの悲劇『カトー』を好んで読んだという。それは、古代ローマの共和主義論者のがカエサルに抵抗して自由のために自刃する話である。その中に登場する「温和な哲理の静かな光」という言葉をワシントンは好んでいた。
 バーベキュー・パーティーを最初に開催した大統領はワシントンである。1893年のことである。トランプでは勝敗を事細かに記録していた。またダンスについては、軍人らしく「優雅な闘争」と呼んでいた。劇の中で好んで見たタイトルは、「醜聞の見分け方教えます」、「ジュリアス・シーザー」、「ハムレット」などである。
 数ある趣味の中でもワシントンが最も熱心に取り組んだ趣味は猟犬の育成である。それはもちろん狩猟を楽しむためである。狩猟は週に1回、時にはそれ以上行っていた。ヴァージニアでは狩猟、特に狐狩りは単なる個人の楽しみではなく、多くの人々を自宅に招いて行なわれる社交的な催しであった。
 独立戦争に参加したラファイエットは友誼の証として、わざわざフランスから7頭の猟犬をジョン・クインシー・アダムズに託してワシントンに送っている。その中の1頭である「バルカンVulcan」は、アメリカン・フォックス・ハウンドという新しい犬種の血統の祖となった。ワシントンは日記に犬の特徴や性質を丹念に記すほど育成に熱心であった。しかし、ワシントンが猟犬に付ける名前は変わった名前が多かった。雄犬には「大酒呑み」、「呑んだくれ」、雌犬には「恋人」、「甘い唇」といった名前をつけていた。 
 しかし、一方で「もし黒人奴隷がどんな口実であろうとも何かを家庭に持ち込んでとっておこうとするのであれば、厳しく罰して、その犬を縛り首にしなければならない[中略]。犬を使って夜盗をはたらかせる以外によからぬ目的で黒人奴隷が犬を育てて飼うことなどないだろう。それにしても、彼らの犬を使う巧みさには驚かされる」と友人に宛てた手紙で述べているように、ワシントンが犬を愛する感情は現在の愛犬家とは少し違うようである。
 猟犬の他にワシントンは驢馬を飼育していた。カルロス3世は、ワシントンに純血の雄の驢馬を送った。その当時、純血の雄の驢馬を輸出することは禁じられていたのでアメリカでは貴重種であった。ワシントンは、その驢馬を「国王の贈り物」と名付けた。さらにワシントンはラファイエットからマルタ島の雄の驢馬を受け取っている。その驢馬は「マルタの騎士」と名付けられた。こうした驢馬は、様々な用途に使えるラバを生み出すために雌馬との交配に使われた。また将来、食肉用にすることを考えてバッファローも飼育していた。

服装に気を配る

 ワシントンは将兵にきっちりした軍装を身に付けるように気を配ったが、自身も身嗜みに非常に気を使っていた。ある手紙の中では、「このシャツは本当にぴったりだが、私は他のシャツを、ちょっと袖口を細くして襞が半インチくらい深く、襟が4分の3インチになるようにしている」と記している。ワシントンの几帳面な性格をうかがわせる。こうした服装への拘りは当時の紳士の嗜みであり、ワシントンは多額のお金を費やしている。

ジェントルマン

 人を容易に寄せ付けない威厳と党派から超然としている姿勢は、ワシントンを特徴付ける最も強いイメージである。当時の人々は、ワシントンを思慮深く高潔な人物であり、常に冷静沈着であると評価し、完全なジェントルマンだと見なしていた。1787年に開かれた憲法制定会議で、ペンシルヴェニア邦代表のグヴァヌア・モリスはハミルトンとある賭けをした。モリスがワシントンの肩を叩いて挨拶できれば、ハミルトンがモリスに夕食を奢ろうという賭けである。
モリスは気後れしながらもワシントンの肩を叩いて「親愛なる将軍、ご機嫌麗しいようで幸いです」と声をかけた。するとワシントンは後退し、非難めいた眼差しでモリスを竦ませた。幸いにもワシントンはモリスの振る舞いに対して根に持たず、モリスの気の利いた言葉を聞いては笑っていたという。

エピソード・逸話

友人の妻への恋文

恋文の内容

 1758年9月12日、前線に赴こうとするワシントンは友人の妻であるサリーに次のような不可解な手紙を送っている。

「私自身の名誉と故国の幸せだけが心を動かすべきものではないはずでは。それが真実なら、私は愛の信奉者だとはっきり言おう。さる女性がその境遇にいることを私は分かっています。そして、彼女は君がよく知っている女性であることを告白します。君と同じく彼女は自分の魅力をよく弁えているので、彼を虜にしてしまう影響力を打ち消そうとします。彼女の心優しい数多の文章を思い出すと、彼女の気立てのよさを感じます。復活させるように命じられるまで、そうした文章を消してしまえればよいのに。しかし、経験は、ああ、悲しくもこれがいかに不可能かを私に教えます。そして、私が長い間、心の中に抱いてきた考え方を実証するのです。人間がいくら努力しても抗えない、我々の行いを支配する運命があるという考え方を。親愛なる貴女、君は私の思いをあらわにさせてしまった。いやむしろ、私が自ら率直な事実をつい話してしまったのだろう。私の本心を見誤らないで欲しい。疑わないで欲しい。暴こうとしないで欲しい。世間は私が愛する人が誰かを知る権利はないが、たとえ私がそれを秘密にしたくても、君にこうした形であれ言っておきたい。この世界のすべてのことの中でも最も私が知りたいことは、君の知人の中で一人だけが私が愛する人が誰かを私に解き明かしてくれること、もしくは私の本心を推し量ってくれることです」

 文中の「君が良く知っている女性」はサリーを示しているとされる。サリーがワシントンと手紙を交わしていたことは事実である。ワシントンがこのように難解な文章を書いた理由は、途中で手紙が盗まれる可能性を恐れたためである。
 1754年から1755年にかけてワシントンはよく隣人であるジョージ・フェアファックスの家を訪ねていた。その際に、サリーと親しくなったと考えられる。ジョージ・フェアファックスの家での思い出は、若い頃の記憶の中でも特別に楽しいものであったようで、独立戦争が終わった後にワシントンは焼失した家の跡をめぐって次のように記している。

「瓦礫の山を見た時、そこで過ぎ去った私の人生の最高に幸福な時期に思いを馳せる時、(今やすべて瓦礫と化した)家の部屋の跡を愉快な情景を思い起こすことなく辿ることができない時、私は瓦礫の山から逃げて、苦痛に満ちた感情とあまりに変わり果てたことへの悲しみを抱いて家に帰るしかありませんでした」

恋文の行方

 サリーへ宛てた手紙は1877年3月30日の「ニュー・ヨーク・ヘラルド」紙にもう1通の手紙とともに掲載されたが、その後、オリジナルはオークションにかけられてしまい行方不明になった。そのため現在、手紙の真贋を確かめることはできない。ワシントンからサリーへ宛てた他の81通の手紙も1886年に公刊された。しかし、ワシントンとサリーの関係を立証する決定的な証拠は含まれていない。
 また1920年代にJ. P. モーガン・ジュニアがワシントンの手紙を購入し、それが「淫猥」だという理由で焼却したと発表したことがある。何が「淫猥」であったのか、またその手紙が本物であったのかは不明である。晩年にサリーに送った手紙の中で、ワシントンは次のように往時を振り返っている。

「多くの重要な出来事をすべてあわせても、私の人生で最も幸福だったあの幸せな瞬間、君と一緒に楽しんだ瞬間の思い出を私の心から消し去ることができる出来事は1つとしてないだろう」

ノーブレス・オブリージュ

大統領の報酬をめぐる議論

 1787年の憲法制定会議では、大統領の報酬についても議論された。その際にフランクリンは次のように述べて大統領に報酬を与えることに反対した。
「仕事に強い影響を及ぼす情熱が2つある。野心と貪欲である。すなわち、権力を愛し、お金を愛することである。それらは別々であっても各々、人を行動に駆り立てる大きな原動力になる。もし、それらが同じ対象[官職]において一挙に得られるのであれば、多くの人々の心に深甚な影響を及ぼす」
 ワシントンも公職に就くことを上流階層の名誉であり義務だと考えていたので、大陸軍総司令官として戦塵に身を置いていた時も大統領として勤めていた時も、単に給与を受け取る形式ではなく、公務に関わる必要経費だけを受け取る形式にするように求めた。しかし、議会は大統領の年俸を2万5000ドルと決定した。年俸を与えることで大統領が王とは全く別の存在だということが明示できるという利点があることが一因である。国民から年俸を受け取って働く王など存在しないからである。

当時の年俸額

 大統領の年俸は、副大統領の年俸が5000ドル、最高裁長官の年俸が4000ドル、そして司法長官に至っては年俸が1500ドルであったことを考えると、かなりの額であることが分かる。ただし、当時の考え方では社交に関わる費用などはすべて大統領のポケット・マネーから出すべきだと考えられていたので、これだけの年俸を受け取っても大統領職は経済的には割に合わない仕事であった。ワシントンが1年間で受け取った酒代の領収書だけでも総額3000ドルにものぼったという。
 さらにニュー・ヨークからフィラデルフィアに首都が移転する際に、ワシントンのために公費で邸宅が提供されることになった。しかし、ワシントンはその邸宅を私費で所有するか、賃借しない限りは住むつもりはないと断った。最終的にワシントンは私費でロバート・モリス家を賃借した。賃借料は年間3000ドルであった。

星条旗の誕生

 ワシントンがベツィ・ロスという未亡人の家具店を訪問し、スケッチを渡して新しい国旗を作るように依頼したという話がある。およそ100年後にペンシルヴェニアの歴史愛好家協会に子孫がそれを証言した。証言によると、新しい国旗を作る小委員会に属していたワシントンが未亡人の店を訪れたのは、夫の死後数カ月後のこと、つまり1776年の5月か6月頃であった。ロスは「ワシントンとは以前から良く知り合った仲で、彼は用事で来るだけではなく、しばしば私の家に遊びに来た。シャツの胸部や袖口に刺繍をしていたので、友情の証として旗を作ることを選んだ」と娘に語っていたという。
 しかし、大陸議会の記録には、ロスが言うような小委員会に関する言及はない。またワシントンは自らの行動の記録を詳細に手紙や日記に書き残しているが、この件については何も言及していない。本当にロスが星条旗の誕生に関与したかどうかは定かではない。しかし、ロスの名前は未だにアメリカ人にとって非常に馴染み深い名前であることは確かである。
 ちなみに星条旗が採用される前の旗はグランド・ユニオン・フラッグである。1776年1月1日に初めて公式に掲揚された。赤縞が7本、白縞が6本の計13本が横に入った意匠である。しかし、左上に母国イギリスのユニオン・ジャックが入っていたために、イギリス軍はワシントンが降伏するつもりなのだと勘違いしたという。大陸議会が星条旗のデザインを公式に定めたのは1777年6月14日である。

財産よりも大事なこと

 独立戦争の最中、イギリスの戦艦がマウント・ヴァーノン付近まで迫った。ワシントンからマウント・ヴァーノンの管理を任されていた親戚のルンド・ワシントンは機転を利かせてイギリスの戦艦に赴いて物資を供給する約束を結び、マウント・ヴァーノンを兵火から救った。ルンドはそれだけではなくイギリスの戦艦に逃れたマウント・ヴァーノンの奴隷を引き渡すように求めている。それを聞いたワシントンは、1781年4月30日、ルンドを叱責する次のような手紙を書いた。

「イギリス軍の要求に応じなかったがために私の家が焼かれ、農園が崩壊させられたと聞かされたほうが、私にとってそれほどつらい状況ではない。あなたは私の身代わりであることを弁え、敵と通じ、戦災を防ごうとして自発的に物資を与えてしまう悪い例となり得ることを熟慮するべきであった」

 またワシントンは別の機会に、ルンドに「貧しい人達に対して我が家が居心地の良い場所になるようにしなさい。空腹のまま誰も我が家を立ち去らせてはならない。もしそうした人々が必要に足りるだけの穀物を持っていなかったら、それを与えるように。そうしても彼らを怠惰にすることはないだろうから。それに私のお金を年に40か50ポンドほど、もし与えるべきだとあなたが思うのであれば、慈善に使うことには反対しない」と指示している。

様々な入れ歯

 独立革命の英雄、銀細工師ポール・リヴィアがワシントンの入れ歯を作ったという伝説がある。またワシントンの入れ歯は木製だったという伝説もあるが、いずれの伝説も事実無根である。22歳から歯を失い始めたワシントンは、大統領就任時には自歯はたった1本しか残っていなかったという。日記の中でワシントンはよく歯のトラブルについて書いていた。おそらく歯周病か、または木の実を歯で割る習慣があったために歯を失ったと言われている。そのためワシントンは入れ歯を着用していた。その材質は、人間の歯、牛の骨、河馬の牙、鉛など多岐にわたっていた。ワシントンの肖像画が厳めしい表情をしているのも歯の不具合により口をしっかりと閉じる癖があったからだと考えられる。
 ワシントンの入れ歯の作成者として最も有名な人物はジョン・グリーンウッドである。グリーンウッドはポート・ワインで河馬の牙を着色し、封蝋を歯茎の代わりにしたという。
 ワシントンの入れ歯は1933年にシカゴで開催された万国博覧会で展示され衆目を集めた。また1981年、スミソニアン協会の保管庫内に収蔵されていたワシントンの入れ歯が紛失していることが発覚した。それは1795年に象牙と金で作られ、「これは偉大なるワシントンの歯であった」と刻まれていた。翌年、入れ歯の下部のみが発見されたが、上部は未だに行方不明である。
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全米各地に名を残す

 全米各地に、「ワシントンが馬を繋いだ場所」や「ワシントンの馬の蹄の跡」など様々な言い伝えが残っている。1932年にワシントン生誕200周年を祝って刊行された『ジョージ・ワシントン地図帳』によれば、ワシントンゆかりの地は1000か所以上にのぼるという。首都のワシントンはもちろんのこと、由来がはっきりしている場合で少なくとも1つの州、31の郡、22の町、2つの湖、1つの山、1つの島がワシントンに因んで命名されている。
 ワシントンの名前が初めて町の名前に付けられたのは1775年11月5日である。ノース・カロライナ邦のフォークス・オブ・タール・リヴァーという名前で呼ばれていた町が、その当時、大陸軍の総司令官だったワシントンの名前に因んで「ワシントン」と名付けられた。また1782年6月15日にはワシントン大学が開校した。アメリカで10番目に古い大学である。

敵将の猟犬を返す

 1777年10月、1頭の猟犬が、ペニベッカーズ製粉所(ジャーマンタウン近郊)に設けられたワシントンの司令部に迷い込んだ。その犬を捕らえた将校たちは、マスコットにするか、それともそのまま放してやるか議論した。その中の1人が、犬の首輪に持主の名前が書かれていることに気が付いた。それは敵将であるウィリアム・ハウ将軍の名前であった。ワシントンは、休戦の旗の下で犬を正当な飼い主に返却すべきだと主張した。ワシントン自身も猟犬をこよなく愛していたので、猟犬と飼い主の間にある強い絆をよく理解していた。
 「ワシントン将軍がハウ将軍へご挨拶申し上げる。偶然、1頭の犬が我が手に落ちた。首輪に刻まれた文字からハウ将軍の犬のようだ。その犬をお返しすることを喜ばしく思う」というカードを付けてワシントンはハウ将軍に犬を送り返した。犬を返した後、ワシントンはハウに手紙を送っている。その手紙の中でワシントンは、イギリス軍兵士が一般市民に害を及ぼさないように求めている。ハウに犬を返すという人道的な行いを示すことでワシントンは、ハウにも占領下のフィラデルフィア市民に対して人道的な行いを示すように求めた。

ヨーロッパ連合の結成を予言

 「我々は自由と連帯の種を播いた。暫くすればその種は世界中で育つだろう。いつの日か、アメリカ合衆国をお手本にしてヨーロッパ連合が構成されるだろう」とワシントンはラファイエットに宛てた手紙の中で語っている。

心憎い返答

 ワシントンはワシントンD. C.に住むことはなかったといえ、その建設に大いに貢献した。ある時、ワシントンは1人の農園主を訪問し、土地を譲渡するように迫った。その農園主の土地は、ちょうどワシントンD. C.の建設予定地にあった。「もしここに連邦の首都ができなければ、一生、貧乏なタバコ農園主のままだぞ」とワシントンが言うと、農園主はこう答えたという。

「ああそれなら、もしカスティス未亡人と彼女が持っていた奴隷がいなければ、あなたは未だに測量技師のままでとても貧乏だったでしょうね」

 そう言いながらも農園主は土地を快く譲渡した。その土地は今ではラファイエット広場になっている。

使われなかった第1次就任演説草稿の行方

 ワシントンがマディソンに示した第1次就任演説の草稿は73ページにもわたる長大なものであった。マディソンが新たに草稿を書き起こしたためにその草稿は使われずに終わった。1827年、それが再発見された際に、大部分がワシントンの手跡によるものだったので、肉筆文書を求める人々にばらばらに刻まれて配布された。
 1996年、2つの断片がイギリスの民家のソファの下から見つかり、ロンドンで行われたオークションで落札価格30万7230ドルを記録した。2つの断片がもとの草稿のどの部分にあたるかは全く判明していない。これまで他に13の断片が発見されている。

友誼に報いる

 1792年、かつて独立戦争でともに戦ったラファイエットは引き続く政治変動の余波でフランスからオーストリアに亡命したが、同地で投獄の憂き目に会った。1796年4月、ワシントンはアメリカに亡命していたラファイエットの息子をフィラデルフィアの大統領公邸に招待している。さらに5月15日、オーストリア皇帝フランツ2世に個人的な書簡を送り、ラファイエットの解放を求めた。1797年夏、ラファイエットは晴れて自由の身となった。

ワシントン記念塔

 ワシントン記念塔はよく知られているようにワシントンにある。高さ555フィート5と8分の1インチである。1848年から1884年にかけて建設されたオベリスク状の構造物である。
冠石は当時、希少金属であった高純度のアルミニウム製であり、四方に刻印がある。北面には、冠石設置合同委員会の名の下に第21代大統領チェスター・アーサーの他関係者の名前が見える。西面には、1848年7月4日に定礎石を置き、冠石が1884年12月6日に置かれたことが記されている。南面には、建造関係者の名前が刻まれている。そして、東面には、「神を讃えよLaus Deo」というラテン語が刻まれている。
 その内部の一隅には、1785年10月7日にラファイエットに宛てた「私の一番の願いは[中略]全世界が平和になり、世界に住まう人々が兄弟のような絆で結ばれ、誰が人類の幸福に最も貢献するかを競うのを見ることです」という言葉が刻まれている。
 またワシントンは1900年に創設された栄誉の殿堂で「偉大なアメリカ人」として最初に選ばれている。

甥への戒め

 1783年1月15日、ワシントンは甥のブッシュロッド・ワシントンに次のような手紙を送っている。

「皆に礼儀正しくあれ、しかし、親密にするのは少数にとどめなさい。そして、彼らを信頼する前によく試してみるように。真の友情はゆっくり成長する植物であり、そう呼ぶのに相応しくなるまでに数多の困難を耐え忍ばなければなりません。[中略]。素晴らしい羽が素晴らしい鳥とならないのと同じように、素晴らしい服装が素晴らしい人物になるとは思わないように。簡素だが品の良い衣装のほうが、レースや刺繍よりも分別とセンスがある目から尊敬され信用を得ることができます。最後に私が言いたいことは第1に重要なことで、つまり、賭博を避けることです。これは、すべてのありうる害悪を生み出す悪徳であり、同じくその信奉者の健康と道徳に有害です。それは貪欲の子であり、不公正の兄弟であり、危難の父です。それは多くの名だたる一族を破滅させてきました。多くの男の名誉を失わせました。そして、自殺の原因にもなっています。勝っている賭博師は、分が悪くなるまでつきを追い求め、負けている賭博師は過去の損失を取り戻そうとしてますます悪い状態にはまり込みます。絶望に至るまで彼はすべてのものを賭けて、そしてすべてのものを失うのです。つまり、この憎むべき慣習には百害あって一利(もし利があってもすぐに消し飛んでしまいます)もないのです」

宗教

理神論的信仰

監督派教会

 ワシントンは存命中からアメリカの「モーセ」と称賛され、死後も多くの伝記作家や聖職者によって「キリスト教徒の英雄にして政治家」、または「キリストの敬虔なる兵士にして僕」であるという惜しみない賛辞が捧げられた。
ワシントンは、1732年4月5日(ユリウス暦)、生後2ヶ月で英国国教会(後に監督派教会)の洗礼を受けている。監督派教会で行われる礼拝に参加することはあったが、重要な儀式である聖餐式に加わることはなかった。ミサの祈祷の最中も、跪くことはなく、いつも立ったままだっとという。しかし、両親と異母兄ローレンス、さらに妻マーサも監督派信者であったから、ワシントンが監督派に関与したことはごく自然な流れである。
 現在では多くの研究者が、ワシントンは宗教にあまり熱意を示さなかったと考えている。例えば、ワシントン夫人に仕えた1人の奴隷は、1846年にワシントンについて以下のように証言している。
 「ワシントン(大統領)の敬神とお禧について語られているさまざまな物語りなどは、わたしがかれの奴隷だったあいだに見聞したかぎりでは、まるで何ひとつ根拠のないものでした。カードいじり(博打)と酒盛りは、かれと仲間たちの集まりには欠かせないビジネスだったし、日曜日には、普通の日にもまして、そんな博打と酒飲みの仲間をもっと沢山呼び集めていました(山本幹雄訳)」
 独立戦争勃発以前、ワシントンは月に1度、教会に足を運ぶ程度であった。教会に行く代わりに、キツネ狩りに行ったり、静かに家で過ごしたりことも多かった。しかし、教区民代表や教区委員などの役割は果たしている。当時、そうした役割は単に信仰に関わる役割ではなく、教区の運営に関わる社会的な役割であった。

理神論

 ワシントンは、頻繁に聖書の文句を引用しながらも、人間を支配する「摂理」や抗い難い「運命」についても度々、言及している。または、独立戦争が終わった後に「すべての栄光はかの至高の存在のおかげである」と言ったように「至高の存在」について言及することもあった。
 ワシントンは、そうした超越的な存在がすべての事象を支配していると考えた。人間は超越的な存在がその意図を実現させる道具なのである。たとえその意図を完全に理解することができなくても信じなければならないとワシントンは考えていた。ワシントンの信仰は、どちらかと言えば理神論であり、自然崇拝とキリスト教、合理主義が混淆しているという。臨終の際もワシントンは牧師を呼ばなかった。葬礼も監督派とフリーメイスンリーが混淆した方式で執り行われた。

フリーメイスンリー

 フリーメイスンとしてのジョージ・ワシントンに関する事実』によると、ワシントンは1752年11月4日、フレデリックスバーグ・ロッジ・No.4でフリーメイスンリーに加入している。翌1753年3月3日にフェロー・クラフト階位に進み、同年8月4日にマスター・メイスン階位に進んでいる。その後、1788年4月28日、アレクサンドリア・ロッジ・No.22のチャーター・マスターになった。さらに1793年9月18日、連邦議会議事堂の定礎式をワシントンがフリーメイスンの正装で執り行ったことが知られている。ただフリーメイスンリーの起源が実務的な石工の同業者組合とされることから、定礎式をフリーメイスンが執り行っても奇異にはあたらない。
 またワシントンが独立戦争を戦い抜く際に、フリーメイスンリーによって士官や兵士の団結を図ったという研究もなされている。しかし、ワシントン自身はキリスト教を軽視したわけではない。例えば大陸軍最高司令官を務めた時も兵士の祈りのために従軍牧師を手配しているし、大統領就任後はほぼ毎週のように日曜日は教会に出席している。しかし、監督派だけではなく、会衆派やルター派、オランダ新教派、ドイツ新教派、カトリックなどの礼拝に参加することもあった。

演説

告別の辞(1796年9月17日)より抜粋 原文

 諸外国に対する我々の行動の一般原則は、通商関係を拡大することにあり、できるだけ諸外国と政治的な繋がりを持たないようにすることにあります。我々が既に結んでしまった取り決めに限っては、完全なる信義で以って履行するべきでしょう。これでとどめておけばよいでしょう。ヨーロッパは優先的な利害関係を持っていますが、我々にとっては全く利害のないことであるか、まったく疎遠な関係です。そのためヨーロッパは度重なる紛争に巻き込まれていますが、その原因というのは全くの他所事です。それだからこそ、うわべだけの繋がりで、ありきたりなヨーロッパの政治変動、友好や敵意による連帯や連合に我々が関わり合いを持つのは賢明ではありません。
 我々が孤立し離れた場所にいることで、我々は異なった方向に向かうことができます。もし我々が有能な政府の下で1つの国民としてあり続けるのであれば、我々が外部の厄介事から被る物質的損害をもろともしなくなる時は遠くありません。いかなる時でも完全に尊敬されるように決意し、中立をもたらすような態度をとる時は遠くないでしょう。好戦的な国々が、我々を捕捉できないのに、軽率にも我々を挑発しようとしなくなる時は遠くありません。我々が正義に導かれ、我々の利害を諮ったうえで平和か戦争を選ぶ時は遠くないでしょう。
 どうしてこの特別な場所にいる利点を捨てようとするのでしょうか。どうして我々自身の立場を捨てて、外国の立場に立とうとするのでしょうか。どうして我々の運命をヨーロッパの運命と織り交ぜることによって、我々の平和と繁栄を、ヨーロッパの野心や競争、利害、移り気、気紛れに絡ませなければならないのでしょうか。
 いかなる外界とも恒久的な同盟関係を避けるのが我々の真の政策です。

参考文献・関連リンク

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