ジョージ・ワシントン大統領
アメリカ歴代大統領研究ポータル
オリヴァー・ウルコット財務長官
アレグザンダー・ハミルトン財務長官
 財務省は、国務省と陸軍省に次いで1789年9月2日に設立された3番目の省である。財務長官の年俸は3500ドルであった。
 アレグザンダー・ハミルトン(1755.1.11-1804.7.12)は英領西インド諸島ネーヴィス島で生まれた。ちなみに生年月日には異説がある。父は没落したイギリスからの移民であった。輸出入会社の事務員として働いた後、ニュー・ヨーク植民地に移り、1773年から1776年までキングズ・カレッジ(現コロンビア大学)で学んだ。
 独立戦争時、ニュー・ヨーク植民地で編成された砲兵中隊の隊長を務めた。ハミルトンを幕僚に迎えたワシントンは、彼の能力に全幅の信頼を寄せていた。独立戦争終盤、1781年のヨークタウン包囲の際には、イギリス軍の防塁を銃剣突撃で奪取する作戦の指揮をとった。この作戦の成功により大陸軍とフランス軍はヨークタウン包囲を早期に完了させることができた。独立戦争後、ハミルトンはニュー・ヨークで弁護士業に勤しんだ。また1782年から1783年、および1787年から1788年にかけて連合会議におけるニュー・ヨーク邦代表を務めた。ニュー・ヨーク銀行の創立に関与し、1786年にはアナポリス会議に赴く代表にも選ばれた。アナポリス会議は各邦間の通商問題を討議するために開催された会議であった。
 翌年に開催された憲法制定会議にもハミルトンは参加し、強力な行政府の必要性を説く演説を5時間にわたって行った。そうしたハミルトンの考えは、ジェイマディソンとともに発表した『ザ・フェデラリストThe Federalist』で詳細にわたって論じられている。ニュー・ヨーク州憲法批准会議に代表として参加し、憲法批准に尽力した。
 財務長官としてハミルトンは、第1合衆国銀行の創立や公債の引き受けと償還計画の立案、税制と税関の整備、さらには沿岸警備隊の配置を行うなど連邦政府の基盤を整えた。
合衆国銀行設立に関してハミルトンは、「合衆国銀行設立法の合憲性に関する意見書」をワシントンに提出し、合衆国銀行設立が違憲であると唱えるジェファソンに論駁した。ハミルトンは、連邦政府は憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限」の原則に言及し、合衆国銀行設立は合憲であると結論付けている。この意見書は、合衆国憲法を広義に解釈した見解の中でも最も優れた見解の1つとして有名である。
 さらに1791年12月5日、ハミルトンは「製造業に関する報告書」を議会に提出した。それは「アメリカ工業の父」の名に相応しい内容である。アメリカは農業だけではなく、製造業も国家の基盤に据えるべきだと提言した。保護関税、助成金、そして原材料を輸入する際の関税免除などの支援を連邦が与えることで製造業を振興させようという計画である。それは、まるで南北戦争以後のアメリカの発展を予知していたかのような先駆的な提言であった。また強力な中央政府の構築を推進した。
 こうした考え方に共鳴した人々がハミルトンを中心に連邦派を形成した。一方で、それに相反する考え方を持つ人々はジェファソンを筆頭に民主共和派を形成した。両派の確執は次第に激しさを増した。その結果、ジェファソンは国務長官を辞した。これはワシントンが明らかに連邦派寄りであったことを示している。ワシントンはハミルトンの行政能力を高く評価していた。
 フランス革命戦争が勃発した時、ハミルトンはアメリカが中立を守るように強く主張し、ガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ紙上に一連の論稿を発表した。1794年にウィスキー暴動が起きた際も、ハミルトンは鎮圧に尽力した。かねてより常備軍の必要性を感じていたハミルトンは、この暴動の発生によってさらにその思いを強くした。
 このようにハミルトンはワシントン政権で重要な役割を果たしたが、一方で下院は1794年2月24日に特別調査委員会を設置し、ハミルトンに対して職権濫用や資金の不正利用に関する審問を行っている。審問の結果を伝える5月末の委員会最終報告で、ハミルトンの潔白は証明された。
 1794年12月、ハミルトンは大統領に財務長官を辞任する旨を伝えた。そして、公債を30年以内に償還する計画を作成し、翌年1月19日に下院に提出した。その計画において、ハミルトンは現行税の継続と新税の創設を議会に求めた。
 1795年1月31日、ハミルトンは職を辞して弁護士業を再開した。しかし、依然として連邦派の間に強い影響力を及ぼした。ジェイ条約が論争の的になった時は、「擁護」と題する論稿を次々に発表し、ジェイ条約締結を擁護した。またジョン・アダムズ政権下で臨時軍の創設が検討された際に、少将に指名され、ワシントンの次位に置かれた。これはジョン・アダムズ大統領の希望による指名ではなく、ワシントンの強い要請による指名であった。アダムズは、1796年の大統領選挙の際に、ハミルトンがトマス・ピンクニーを大統領にしようと画策したことを憤り、ハミルトンと対立していた。
 1804年7月11日、ハミルトンはアーロン・バー副大統領とニュー・ジャージー州ウィーホーケンでアメリカ史上有名な決闘の1つを行った。決闘の根本的な原因は両者の政治的対立であった。ある内輪の席でハミルトンはバーに対して侮辱の言葉を吐いていた。それを臨席した者が手紙に書き留めて友人に送った。手紙は運悪く新聞に公開されてしまい、決闘の火種となった。決闘の結果、ハミルトンはバーの銃撃によって致命傷を受けた。翌日午後2時、ハミルトンは銃創がもとで亡くなった。
 後にセオドア・ルーズベルトはハミルトンを「これまでで最も優れた政治家」と評している。ハミルトンは連邦政府の枠組みの構築に最も貢献した人物であると評価できる。