トマス・ジェファソン大統領
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 アーロン・バー(1756.2.6-1836.9.14)は、ニュー・ジャージー植民地ニューアークに生まれた。父アーロンは神学者でカレッジ・オブ・ニュー・ジャージーの学長であった。バーは幼くして父に死別し、叔父のもとで育てられた。13才の時にバーはカレッジ・オブ・ニュー・ジャージーに入学し、1772年に卒業した。
 独立戦争が勃発すると、バーはボストンを包囲するアメリカ軍に身を投じた。1775年から1776年のケベック作戦に大尉として従軍した。少佐に昇進したバーはジョージ・ワシントンの幕僚に任命されたが、ワシントンとそりがあわず、プットナム少将の副官に転任した。ニュー・ヨークからアメリカ軍が退却する時にバーの機転により、ブルックリン・ハイツで多くの兵士が難を逃れた。大陸会議はバーを中佐に任命し連隊の指揮を委ねた。バーは1777年から1778年のヴァリー・フォージの冬営地やモンマスの戦いに従軍し勇名を馳せた。1779年3月10日、バーは健康上の理由により退役をワシントンに願い出た。ワシントンは「良い士官を失う」ことは残念だとしながらもバーの退任を認めた。
 1783年、ニュー・ヨークに移ったバーは、弁護士としてアレグザンダー・ハミルトンと競い合った。そして、ニュー・ヨーク邦議会議員選出がバーの政界入りとなった。その当時、ニュー・ヨーク政界はハミルトンとジョージ・クリントンの二派が拮抗していた。バーは後者に与し、ニュー・ヨーク邦検事総長、さらには連邦上院議員に選出された。連邦派と民主共和派の対立が顕在化すると、当初、バーは中道の立場にあったが後に民主共和派に傾斜した。1796年の大統領選挙で民主共和派はジェファソンとともにバーを候補に立てた。しかし、南部諸州はバーにほとんど票を投じなかったのでバーの得票数は30票にとどまった。さらに翌年の連邦上院議員選挙でも落選した。しかし、バーはニュー・ヨーク州下院議員に当選し、一度落選したものの、1801年まで務めた。
 1800年のニュー・ヨーク州議会選挙は同年秋に行われる大統領選挙を占う重要な選挙であった。バーは選挙戦に手腕を発揮し、ニュー・ヨークを民主共和党の牙城に変えた。ニュー・ヨーク州は、1796年の大統領選挙でジェファソンが1票も獲得できなかった地域である。ニュー・ヨーク州で起きた連邦派と民主共和派の勢力逆転は1800年の大統領選挙で民主共和派が勝利する1つの要因となった。ジェファソンはバーに対して当初から不信感を持っていたが、民主共和派はニュー・ヨークでの勝利をもたらした功績に報いてバーを副大統領候補に公認した。またバーも1796年の大統領選挙の際に、ジェファソンの支持基盤であるヴァージニア州で1票しか獲得できなかったために、ジェファソンに裏切られたと感じていた。
 1800年12月3日、大統領選挙人が票を投じた。1801年2月11日、バーがジェファソンと同じく73票を獲得していることが上院会議場で行われた開票で確認された。当然ながら民主共和派は、ジェファソンを大統領とし、バーを副大統領とすることを既定方針としていた。バーは、ジェファソンと大統領の座を争うつもりはないと公言しながらも下院に評決に従う姿勢を示した。その結果、下院で評決が行われ2月17日になりようやくジェファソンの大統領当選とバーの副大統領当選が確定した。
 1801年3月4日、バーは副大統領に就任したものの、ジェファソンからは冷遇された。またジェファソンはバーの協力者に対しても重要な役職を与えなかった。バーは1801年裁判所法で連邦派の判事を失職させることに反対したが、民主共和派はバーの意見を受け入れなかった。またバーは、民主共和派によるアダムズ政権批判パンフレットをすべて買い上げて外に出さないようにすべきだと提案した。そうした提案は、バー支持派とバー反対派の間にいわゆるパンフレット戦争を引き起こした。バー反対派は、バーが1801年の大統領選挙でジェファソンから大統領の座を盗もうとしたと非難した。1802年3月頃までにバーは民主共和派から離れる決意を固めた。
 バーは1804年1月26日、ジェファソンと会談し、ジェファソンの支持を取り付けようとしたが失敗した。その後、副大統領に在職したまま、バーはニュー・ヨーク州知事選挙に出馬したが、民主共和派が擁立した候補に大敗を喫した。バーが州知事選挙に出馬した理由は、1804年の大統領選挙で副大統領候補に公認される可能性が低いことを悟っていたからである。
 1804年7月11日、バーはハミルトンとニュー・ジャージー州ウィーホーケンでアメリカ史上有名な決闘の1つを行った。決闘の根本的な原因は両者の政治的対立であった。バーは、ハミルトンの策謀によって大統領就任を阻まれただけではなく、州知事当選も阻まれたと考えていた。実際、ハミルトンは1801年の決選投票ではジェファソンが大統領に選出されるように働きかけ、さらに1804年の州知事選挙ではバーの対立候補の応援を行っていた。決闘の結果、バーはハミルトンに致命傷を与えた。翌日、ハミルトンは亡くなった。
 8月2日、検屍陪審はバーに対してハミルトン殺害の評決を下した。バーは逮捕から逃れるためにフィラデルフィアに向かい、その後ジョージア州の沖合にあるセント・サイモンズ島に寄寓した。また島へ船出する前に駐米イギリス公使と密会し、イギリスがアメリカ西部を分離させようとするなら協力する旨を伝えた。
 11月4日、連邦議会の会期が始まるとバーは何事もなかったかのように上院の議長席に現れた。上院議長は副大統領の職務であり、バーの副大統領としての任期はまだ残っていた。上院議長として11月30日からバーは連邦最高裁判事サミュエル・チェイスの弾劾裁判を執り行った。副大統領退任後、バーは西部に赴いたが、1807年に反逆罪の容疑で逮捕された。しかし、バーは無罪となった。
 無罪を勝ち取った後、バーはヨーロッパに渡った。南西部に新たな国家を建設する案をイギリスやフランスに持ちかけたが成功しなかった。1812年5月、アメリカに戻ったバーはニュー・ヨークで弁護士業を再開した。その時までにバーに対する告訴は取り下げられていた。バーは1836年、心臓発作で亡くなった。ジョン・クインジー・アダムズは、「総じて見るに、バーの人生は、健全なるモラルの国であればどこでも、友人たちが忘却のかなたへ葬ってしまいたいと望むようなものだった(井上廣美訳)」とバーを評している。