ジョージ・クリントン副大統領 |
ジョージ・クリントン(1739.7.26-1812.4.20)は、ニュー・ヨーク植民地リトル・ブリテンで生まれた。父は農夫であり測量技師であった。1757年に実家を出て私掠船に給仕として乗り込んだ。1760年にニュー・ヨークに戻り、民兵隊で副官を務め、モントリオールの占領にも参加した。その後、法律を学び1764年9月12日に法曹界に入った。
1768年にクリントンはニュー・ヨーク植民地議会議員に選出された。さらに1775年4月22日には、第2回大陸会議のニュー・ヨーク植民地代表に選ばれた。クリントンはジョージ・ワシントンの大陸軍総司令官就任を後押しした。ニュー・ヨークに帰ったクリントンは、民兵隊の准将に任命された。1777年6月、クリントンはニュー・ヨーク邦知事と副邦知事候補になり、自作農の圧倒的な支持を背景に両職に当選した。それ以後、クリントンは知事を6期務めた。イギリス軍の襲来に対してクリントンはモントゴメリー砦の防衛を命じた。結局、モントゴメリー砦の防衛に失敗したものの、頑強な抵抗を示すことでイギリス軍に北進を断念させた。それはアメリカにサラトガの勝利をもたらす遠因になった。クリントンは邦行政で強い指導力を発揮した。
新たに編まれた合衆国憲法の批准が各邦で討議された時、クリントンは批准を推進するアレグザンダー・ハミルトンと激しく対立した。クリントンが批准に反対したのは、強力な連邦政府によって、他邦に対するニュー・ヨーク邦の商業的な優位が損なわれるのではないかと危惧したからである。また自ら築きあげた政治組織の存続が脅かされるのではないかとクリントンは恐れた。
カトーという筆名でクリントンは、モンテスキューの理論を借りて、共和制は、小さな領域でのみ有効に機能するとして、ニュー・ヨーク邦民に批准に反対するように訴えた。クリントンが特に反対した点は、1年ごとではなく2年ごとの連邦議会選挙、州議会による連邦上院議員選出、奴隷売買の継続、そして、常備軍の維持である。結局、ニュー・ヨーク邦は、ハミルトンの尽力によってようやく批准した。
1795年、連邦派の勢力に抗し得ないと判断したクリントンは引退を決意した。4年後、アーロン・バーの説得によりクリントンは民主共和派候補として知事選挙に再出馬した。いわゆる「1800年の革命」の余波でクリントンはニュー・ヨーク州知事に当選した。ジェファソンは、クリントンがニュー・ヨーク州に影響力を持ち、信頼が置けないバーに十分代わり得る人物であることを認めた。そのためクリントンはバーに代わって民主共和派副大統領候補に公認された。その結果、クリントンは当選し、1805年3月4日、副大統領に就任した。クリントンは政権交代後も任に留まった。 |
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