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19世紀から20世紀初期にかけて、選挙運動は党の指導者や公職者によって行われ、大統領候補者自身が行うことはあまりなかった。一つの例外は1896年の民主党のウィリアム・ブライアンの選挙運動である。ブライアンは鉄道で国中を回って、各地で演説を行い有権者に支持を直接訴えた。その他の候補は自宅から動かずに行う玄関先の選挙運動を行った。
ベンジャミン・ハリソンによって始められた玄関先の選挙運動は、1896年にウィリアム・マッキンリーが総計75万人にのぼる有権者に対して玄関先で演説を行ったことによって有名になった。玄関先の選挙運動の現代版はローズ・ガーデンの選挙運動である。現職大統領が旅行することなくホワイトハウスから声明を発表し、選挙運動を行いながら同時に政策構想を展開する。玄関先の選挙運動は、自宅の近くに留まり旅行を行わず、大衆と一対一で対面するような選挙運動を示す。
1932年の大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトは鉄道を利用して小さな町を回る近代的な初めての選挙運動を行った。鉄道で36州を回り、1万3,000マイルを踏破した。ちなみに最も多くの町に立ち寄った記録を持つのはハリー・トルーマンである。1948年の大統領選挙でトルーマンは3万2,000マイルを踏破し、1日に平均10回の演説を行った。そうしたトルーマンの手法は「ホイッスル・ストップ」と呼ばれる。 またルーズベルトは全国党大会に参加するために1932年にニュー・ヨークからシカゴに飛行機で移動したことでも知られている。それは飛行機によって移動する選挙運動の幕開けであった。移動手段の発達によって候補者は全国のマス・メディアに接触することができるようになり、マス・メディアにますます姿を現すようになった。ジョージ・W・ブッシュは2000年の大統領選挙の間、飛行機のチャーター代として300万ドルを費やした。
飛行機によって大統領候補は多くの有権者に接する機会を得たが、前時代の方法を使ってより草の根の選挙運動を展開する大統領候補もいる。1992年と1996年の大統領選挙でビル・クリントンはバスで各州を回る選挙運動を展開した。大衆はこの選挙手法を却って新鮮に感じ、バスの停留所や高速道路沿いで声援を送った。1992年、ジョージ・H・W・ブッシュは鉄道を使って町を回り、列車から演説を行った。
イメージが有効に最初に使われたのは1828年の大統領選挙である。1828年の大統領選挙は、選挙運動のバッジ、スローガン、ポスター、酒瓶、マグなどが広く利用された。ジャクソンのイメージを広めるために、支持者はアンドリュー・ジャクソンに「オールド・ヒッコリー」というあだ名をつけ、ヒッコリーの杖、爪楊枝、バーベキュー用のチップなどを配った。
その他の顕著な例は、「丸太小屋と林檎酒」で知られる1840年の大統領選挙である。ホイッグ党の大統領候補のウィリアム・ハリソンはヴァージニア州の名家の出であったが、ホイッグ党はハリソンのフロンティアでの長い生活に焦点を当て、人民の中の単純素朴な人物というイメージを作り上げた。民主党の新聞がハリソンは林檎酒の1樽を抱えて満足して丸太小屋に引退するだろうと皮肉った時に、ホイッグ党は丸太小屋と林檎酒を党のシンボルにした。その一方で現職のヴァン・ビューレン大統領はワインを飲む洗練された都会的な人物だというイメージが作られた。
その年、ホイッグ党は党の綱領を作ることもなく、政治的な問題を議論することも避けた。その代わりに選挙戦は、歌や集会、お祭り、そして「ティぺカヌーとタイラーも」というスローガンで埋め尽くされた。ホイッグ党の戦略は功を奏し、1840年の大統領選挙で勝利した。
ラジオ、テレビ、インターネットの普及と20世紀後半からの政治コンサルタントの登場が近代の選挙運動をイメージに基づく選挙運動に変えた。候補者のイメージの重要性が高まった転換期は1960年の討論会である。
ラジオで討論会を聴いた者はほとんどがリチャード・ニクソンを勝者と判定したが、テレビで討論会を視聴した者はジョン・ケネディのほうが大統領に相応しいと考えた。ケネディは弁舌の才能に加えて風采が良く、落ち着いた自信に満ちた姿勢を保っていた。やつれた感じで汗をかいたニクソンと対照的であった。
1992年にビル・クリントンはトーク・ショーでサクソフォンを演奏し、大統領候補のイメージを一新させた。新しい世代の候補者としてクリントンは若い世代の有権者の支持を集めようとし、共和党政府の行き詰まりを打破する独自路線を行く人物としてのイメージを定着させようとした。
2000年の大統領選挙でジョージ・W・ブッシュとゴアは女性の有権者を引き付けるためにトーク・ショーのインタビューを受けた。2004年の大統領選挙でケリーは自らの軍歴を強調するために空母の前で立候補宣言を行った。
今日、マス・メディアは初期の選挙戦術、予備選挙、全国党大会、討論会、そして、その他の出来事までをすべて扱っている。大統領候補は自らの政策と人格を示すためにラジオ、テレビ、インターネットに姿を現す。そうした慣例はセオドア・ルーズベルトによって打ち立てられた。ルーズベルトはマス・メディアが家族を取り上げるように促した。そうした慣例は1920年の大統領選挙でウォレン・ハーディングによってさらに拡大された。
1930年代から1940年代にかけて、ラジオと映画が選挙運動の主要な道具として利用されるようになった。大統領候補はマス・メディアを利用して前例のない程、多くの有権者に訴えかけることができるようになった。大部数で発行される新聞もあったが、1920年から1950年まで、ラジオは多くのアメリカ人が政治的情報を得る主要な手段であった。
テレビがラジオに取って代わったのは1952年の大統領選挙である。人口の約53パーセントがテレビで大統領選挙に関するテレビ番組を視聴した。全国党大会が完全テレビ放送された1952年以来、マス・メディアは大統領候補に新しい次元をもたらした。ドワイト・アイゼンハワーは約200万ドルをテレビ広告に費やした。それ以来、テレビは候補者のイメージを形成し、様々な問題に関する立場を示すために使われるようになった。広告、ニュース報道、討論会などがテレビで行われた。
1960年に行われたニクソンとケネディのテレビ討論会は新聞に代わってテレビが最も重要なマス・メディアになったことを印象付けた。1992年、テレビは選挙運動に新しい息吹を吹き込んだ。ペローがインフォマーシャルの放映権を購入し、トーク・ショーに出演して有権者に支持を訴えた。1990年代に入って、候補者は、電子メール、ファックス、ビデオなど様々な媒体を使うようになった。2004年には有権者と交流を図るためにブログやウェブサイトがよく利用されるようになった。
さらに2016年、ドナルド・トランプは世論調査で対立候補のヒラリー・クリントンに世論調査で大きく差を空けられていたのにもかかわらず、本選で300人以上の選挙人を獲得して勝利した。トランプがツイッターやフェイスブックなどSNSを有効に使ったことも勝利の一因である。
アメリカ大統領のコミュニケーション手段は、新聞、ラジオ、テレビ、そして、インターネットと変化しているが、その変化の過程で、よりリアルタイムに、よりダイレクトに、そして、よりパーソナルになっている。今後、こうした変化は加速され、アメリカ大統領が国民と紐帯を結ぶ方法に大きな影響を与えるだろう。
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