ジョン・クインジー・アダムズ大統領
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リチャード・ラッシュ財務長官
ヘンリー・クレイ国務長官
 ヘンリー・クレイ(1777.4.12-1852.6.29)は、ヴァージニア邦ハノーヴァー郡で生まれた。父はバプティスト派の牧師でありタバコ農園主であり、クレイが4才の時に亡くなっている。クレイは15才の時に継父の後押しでヴァージニア州の衡平法裁判所に職を得た。クレイの力量が認められてトマス・ジェファソンジョン・マーシャルの師ジョージ・ウィスの秘書となった。ウィスの指導の下、クレイは法律と歴史を学んだ。1797年11月6日、クレイは法曹界に加入を認められた。それからケンタッキー州レキシントンに移って開業して成功を収めた。
 1803年、クレイはケンタッキー州下院議員に当選した。さらに1806年、憲法が規定する被選挙年齢に達していないのにも拘らず、前任者の任期を引き継ぐ形で連邦上院議員に選出された。同年、前副大統領アーロン・バーの告発がケンタッキーの大陪審で審議された時に、クレイはバーの弁護を行い、バーの無罪を勝ち取った。
 1807年、クレイはケンタッキー州議会に戻り、翌年、下院議長に就任した。またトランシルヴェニア大学の法学・政治学教授に選出された。この頃までにヘンリーはケンタッキー政界で最も有望な若手政治家と見なされるようになり、「西部の星Star of the West」とまで呼ばれるようになった。
 1810年、クレイは再び連邦上院議員に選ばれた。上院でクレイは、強力な中央政府に基づく国家建設を訴えた。イギリスによる強制徴用を激しく非難した。上院は威厳と静謐を重んじたので、活発な議論を好むクレイにとって物足りない場であった。そのためクレイは連邦下院選挙に出馬した。そして、圧倒的な票数で当選を果たした。クレイは下院でも圧倒的な票数で議長に選ばれた。クレイの雄弁は、タカ派として知られる若手の下院議員の支持を集めた。クレイの登場によって下院議長の役割は大きく変わった。もともと議長は交通整理の役割を果たしていたが、政治的指導者の役割を担うようになった。その結果、下院議長は大統領に次いで大きな影響力を持つ役職となった。またクレイは下院の議事進行と立法過程を改めた。クレイの議長としての在職期間は10年に及んだ。19世紀では最長である。
 1814年、マディソン大統領はクレイを現ベルギーのガンで開かれる和平会談に参加する使節団の一員に選んだ。長い交渉の結果、使節団は1814年12月24日、講和条約を締結した。さらにクレイはジョン・クインジー・アダムズ、アルバート・ギャラティンとともにロンドンで1815年の米英会議に参加した。その結果、両国がお互いに最恵国待遇を得ることで同意が成立した。
 帰国後、クレイは下院議長の座に戻り、産業時代においては国内外で国勢を強化しなければならないという主張を続けた。国内産業を育成するために保護関税を推進し、安定した通貨と信用供与のために強力な中央銀行の設立を望み、国内の交通手段を確保するために連邦政府による公共事業の進展を求めた。
 第2合衆国銀行特許法案を支持し、1816年、1824年、1828年と保護関税を推進した。国道をメリーランドのカンバーランドから西へ延伸する計画を提唱した。公有地の売却益を教育と国内開発事業にあてる法案を通過させた。いわゆるアメリカン・システムは、輸入への依存を減らし、全国の経済発展を促すのですべての人々に利益をもたらすとクレイは考えていた。そして、それはアメリカの国家としてのまとまりを強くするともクレイは信じていた。
 ラテン・アメリカの独立についてクレイは積極的な支持を表明した。クレイの演説はしばしばスペイン語に翻訳され、スペインに反旗を翻した兵士達の前で読み上げられた。同じくギリシアの独立に対しても積極的な支持を表明している。後にリンカーンはクレイを「人類の自由という大義に深く献身した」と評している。クレイは奴隷制の廃止に賛同し、ケンタッキー州に奴隷廃止を受け入れるように何度も働きかけている。しかし、ミズーリ問題の際には妥協の成立に大いに貢献している。こうした業績を称えて多くの人々はクレイを「偉大なる妥協製造人Great Compromiser」と呼んだ。
 1821年、クレイは1819年恐慌で被った損失を取り戻すために議会を辞して弁護士業に戻った。オハイオ州とケンタッキー州の第2合衆国銀行の法律顧問を務め、オズボーン対合衆国銀行事件をはじめ数々の訴訟を担当した。
 1823年に下院議長に復帰し、1824年の大統領選挙に出馬した。大統領選挙は混戦であり、どの候補も過半数を占めることができなかった。クレイの選挙人獲得数は4位だったので下院による裁定からは漏れた。しかし、下院議長としてクレイはジョン・クインシー・アダムズの当選に大きな影響を及ぼした。アダムズが大統領就任とともにクレイを国務長官に指名したので、ジャクソンの支持者達は「闇取引」が行われたと非難した。
 国務長官としてクレイはラテン・アメリカ独立諸国への支持を続け、いわゆる「善隣外交good neighborhood policy」を採用した。しかし、パナマ会議に参加しようという試みはジャクソン支持者達によって挫かれた。
 1828年の大統領選挙でアダムズがジャクソンに敗れた後、クレイは公職から身を退いて弁護業を再開した。1831年、連邦上院議員に返り咲いた。クレイは国民民主党を主導してアンドリュー・ジャクソン率いる民主党と対峙した。
 第2合衆国銀行特許更新法案に対してジャクソンは拒否権を行使した。クレイは法案を再可決することができず、第2合衆国銀行は葬り去られた。1832年の大統領選挙でクレイは国民共和党の大統領候補としてジャクソンと対決したが、49票対219票で惨敗した。クレイの獲得票はほとんどがニュー・イングランド諸州とケンタッキー州からの票であった。
 ジャクソンは第2合衆国銀行から政府資金を引き上げて、州法銀行に移すように命令した。そうしたジャクソンの行動に対してクレイは大統領と財務長官を査問する決議を上院に提出した。決議は一旦通過したが、上院でも影響力を強めた民主党はそれを無効にした。
 またクレイは1832年関税法の成立を導いた。サウス・カロライナ州はそれに対して連邦法無効を唱えたが、クレイは妥協関税法の成立に尽力し、サウス・カロライナに連邦法無効を撤回させた。
 1834年までに民主党に対抗する一派は自らをホイッグ党と呼ぶようになり、クレイを党首と見なすようになった。クレイはダニエル・ウェブスターとジョン・カルフーンとあわせて上院の「三巨頭Great Triumvirate」と称された。クレイのアメリカン・システムを法制化しようとする動きはことごとくジョン・タイラー大統領の拒否権の行使に抑えられた。1844年の大統領選挙に備えるためにクレイは1842年2月16日、上院議員を辞した。
 1844年の大統領選挙でクレイはホイッグ党の大統領候補として民主党大統領候補のジェームズ・ポークと戦い、接戦の末、敗れた。1849年、クレイは再度、上院議員に返り咲いた。クレイが上院に戻った頃、メキシコ戦争の結果、新たに獲得した領域における奴隷制の扱いをめぐって議論が勃発した。南部は連邦からの離脱を仄めかして南部の権利の尊重を求めた。クレイ自身も奴隷を所有していたが、奴隷制に反対していた。補償を通じて徐々に奴隷解放を行い、解放した黒人奴隷をアフリカに返すべきだと考えていた。クレイはアフリカ植民協会の創設当時からの会員であり、1836年から亡くなるまで会長を務めている。
 連邦解体の危機を回避するためにクレイは上院に8つの一連の決議を提出した。一連の決議は一括して審議され、1850年7月31日に否決されたが、個別の法案として再提出され、スティーヴン・ダグラス上院議員の尽力で成立した。いわゆる1850年妥協である。1852年、ワシントンに滞在している間、結核で亡くなった。クレイの遺体は連邦議会議事堂の大広間で正装安置された。その栄誉を受けたのはクレイが最初である。