2017年1月20日に行われるドナルド・トランプ の就任式だが、今回で何回目の就任式になるのか。公式には「第58回大統領就任式」となる。1789年以来、200年以上も続けられてきた就任式にはどのような歴史があるのか。
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1989年の就任演説でジョージ・H・W・ブッシュ は次のように語っている。就任式の意義を最も端的に表した言葉である。
「民主主義の大いなる日を見られることに感謝しようと子供達に私は言いたい。民主主義は我々すべてのものであり、自由は風に舞う美しい凧のように高く高く上って行く」
このように言われるように、アメリカ大統領の就任式は大きな意義を持っている。私の考えでは、民主主義、統合、再生という三つの大きな意義がある。
Democracy(民主主義)
まず就任式は民主主義を象徴する儀式である。すなわち、選挙という民主的な過程を経て権力が前任者から後任者へ引き継がれる。権力が国民の意思に基づいて移譲されること、それが民主主義の原則である。就任式はそれを象徴的に再確認する儀式である。
Integration(統合)
次に就任式は国民統合の儀式である。言うまでもなくアメリカは多種多様な国民から構成されている。地域差も非常に大きい。
何か共通の基盤を持っていなければアメリカ人がアメリカ人として一つにまとまっていることはできない。それに前年に行われた大統領選挙で国民は二つの党派に分かれて争っている。Fence
Mending(垣根の修復)をしなければ、アメリカはばらばらに分断されてしまうだろう。 エイブラハム・リンカーン は次のように言っている。
「選挙が終われば、自由な人民は次の選挙まで一つの国民だと言うのがふさわしい」
2000年の大統領選挙は、フロリダ州の選挙結果をめぐって最後の最後までもつれた。2001年の就任式でジョージ・W・ブッシュ はそうしたわだかまりを解消しようと次のように述べている。
「共和党員も民主党員も一緒になってアメリカのために正しいことをしよう」
またジョン・ケネディ も1960年の就任演説で次のように語っている。
「我々は今日を党派の勝利ではなく、自由を祝福する日だと見なそうではないか」
就任式が持つ統合の性質を最も的確に表現した者は、文豪ワシントン・アーヴィングである。1853年の就任式は貴賓の一人としてフィルモア大統領夫人の横に立って前大統領が新大統領と親しく話すのを見た。
「ある政党から別の政党に権力と統治が静かに礼儀正しく移譲される様子を見ることは非常に嬉しいことだ。私は、対立する政党に属する人々が社交的に交わっている祝祭に参加した」
すなわち、就任式はアメリカ人を一つにまとめる装置である。就任式でアメリカ大統領は、アメリカという国家の根底をなす価値観や理念を掘り起こし、アメリカ人を再統合する。そして、全米の人々はテレビでその様子を見守って共通の経験を持つ。
Reincarnaiton(再生)
最後に就任式は新しい命の息吹を政府に吹き込む儀式である。新しいアメリカ大統領が就任することで、人々は連邦政府への期待を新たにする。そのようにして連邦政府の永続性が保障される。
もちろん自分が支持する政党の大統領が就任するとは限らない。そうした人々も次の就任式で支持政党の大統領が就任した時に同じような期待を抱くことができる。
現代では1月20日に行われる大統領の就任式だが、実は昔は違う日程で行われていた。連邦議会の前身組織である連合会議は新政府の開始を3月の最初の水曜日に定めた。つまり、1789年3月4日である。
本来であれば、初代アメリカ大統領のジョージ・ワシントン は3月4日に就任することになっていたが、宣誓は4月30日まで行われなかった。それは単に連邦議会が定足数を満たすことができず大統領の選出を正式に確定できなかったからだ。当時の人々の感覚では、期日通りに議会が定足数を満たして開会されるほうが稀なくらいであった。
現代のように1月20日に就任式が行われるようになったのは憲法修正第20条が可決された後のことである。上院が1月15日に就任式を行うべきだと主張した一方で、下院は1月24日に行うべきだと主張した。最終的に妥協案として1月20日が就任式の日程として決定した。
就任日が変更されたのは新大統領が選出から実際に就任する期間を短縮して、現職大統領の死に体の期間をできるだけなくすためである。そうすれば新大統領は政権を早く開始でき、国民の多くが期待する新しい政策をすぐに実行できる。
新しい日程で最初に就任した大統領は、フランクリン・ルーズベルト である。1937年1月20日のことであった。したがって、ルーズベルトの一期目は本来であれば4年のはずであったのが、就任日が変更されたために43日間も短くなった。
新旧アメリカ大統領は就任式当日にどのようなスケジュールをこなすのか。ここでは慣例を踏まえながら就任式の式次第を追ってみたい。就任式議会合同委員会 の日程表を参考にスケジュールの詳細を解説する。
1月20日朝、前大統領には正午の任期終了まで数時間が残されている。前大統領はどのように過ごすのか。まず朝食である。リンドン・ジョンソン は紅茶に燻製の薄切り牛肉をパンに載せて食べた。そして、新大統領への助言を書いて執務室に置く。
他にもやることはある。ホワイト・ハウスのスタッフを一堂に集めて、これまでの奉仕に感謝する。
その一方で新大統領は前大統領よりも忙しい。世界中から寄せられた祝意に応答しなければならない。そして、国家安全保障に関する問題について前政権の担当官から説明を受ける。
1989年、ジョージ・H・W・ブッシュは就任式当日について「午前6時、3つのニュースを見る。コーヒーを飲む。孫達と遊ぶ。礼拝。ホワイト・ハウスに行く。宣誓」と書いている。
午前9時頃、新大統領は妻とともにホワイト・ハウスの傍にあるセント・ジョンズ・エピスコパル・チャーチに礼拝に向かう。「エピスコパル」は聖公会という宗派である。もちろん別の宗派の教会が選ばれる場合もある。
就任式の朝に教会で礼拝する伝統を作ったのはフランクリン・ルーズベルトである。1933年以降、ほとんどの大統領がそうした慣行に従っている。
1789年、ジョージ・ワシントンもニュー・ヨーク(当時の首都)にあるセント・ポールズ教会で礼拝しているが、それは現代とは違って就任式の公式行事として催された。現代では新大統領の礼拝はあくまで私的なものである。
午前10時過ぎ、礼拝を終えた新大統領はホワイト・ハウスに向かう。ホワイト・ハウスで前大統領と会談するためである。1877年のユリシーズ・グラントとラザフォード・ヘイズ以来の伝統である。
午前10時30分頃、前大統領夫妻はホワイト・ハウスの北柱廊に新大統領夫妻を迎えに出る。北柱廊で挨拶を終えた後、新旧両大統領夫妻はそれから暫く歓談する。ホワイト・ハウス内を歩き、適当な場所で座って飲み物やお菓子を楽しむ。
1993年、ブッシュ家の飼い犬ミリーはクリントン新大統領夫妻と娘のチェルシーを迎えに出ている。ミリーを撫でているチェルシーにジョージ・H・W・ブッシュは「ようこそ、あなたのホワイト・ハウスに、チェルシー」と声を掛けた。
2009年、ミシェル・オバマはローラ・ブッシュに「2009年1月20日」と刻印されたペンと革表装の日誌を手渡した。ローラがそれらを回顧録執筆に使ってほしいと願ってのことである。
残念なことに前大統領が新大統領を迎えに出なかった例もある。1801年、ジョン・アダムズは後任のトマス・ジェファソンが来る前にホワイト・ハウスを去っている。同じく1829年、ジョン・クインジー・アダムズはアンドリュー・ジャクソンを出迎えずに済ませている。親子ともに同じことをしているのは面白い。
午前11時、ホワイト・ハウスから連邦議会議事堂に向かう。西にあるホワイト・ハウスから東にある連邦議会議事堂まで道なりに行けば約3キロメートルの距離である。詳細なルートは以下の地図で確認してほしい。
新旧大統領が自動車に同乗
私自身も何度か体験しているが、冬のワシントンD.C.は寒い。1965年1月20日、リンドン・ジョンソンは連邦議会議事堂に向かう前に喉を医師に診てもらい、さらに「保温性下着」を着込んでいる。
1月20日正午の平均気温は2.8℃、天候は少し曇りであることが多く、観測可能な雨が降る確率は3分の1、観測可能な雪が降る確率は10分の1である。
アメリカ国立気象局 によれば、1985年の就任式が最も寒く−13.9℃まで下がった。体感気温は実に−30℃である。そのため急遽、就任式は連邦議会議事堂の円形大広間で行われた。逆に最も暖かかったのは1981年(1月20日)と1913年(3月4日)で12.8℃まで上昇した。
1937年
0.6℃
大雨
1941年
-1.7℃
晴れ
1945年
1.7℃
雪のち曇り
1949年
3.3℃
晴れ強風
1953年
9.4℃
曇り
1957年
6.7℃
曇りまたはにわか雪
1961年
-5.6℃
雪のち晴れ
1965年
3.3℃
曇り積雪
1969年
1.7℃
曇りまた雨
1973年
5.6℃
曇り強風
1977年
-2.2℃
晴れ
1981年
12.8℃
曇り
1985年
-13.9℃
晴れ
1989年
10.6℃
曇り微風
1993年
4.4℃
晴れ
1997年
1.1℃
晴れまたは曇り
2001年
2.2℃
霧と雨
2005年
1.7℃
曇り
2009年
-2.2℃
晴れ微風
2013年
7.2℃
曇り
以上の表は就任式の日程が1月20日に変更されてからである。1937年以前の就任式は3月4日に行われていたが、それでも寒い日はあった。1909年の就任式当日は嵐が吹き荒れ、ワシントン一帯に10インチ(約25センチメートル)の積雪が記録されたという。その日の気温は摂氏0度であった。就任式は1985年と同じく屋内で行われた。
馬車で連邦議会議事堂に向かうタフトとルーズベルト
(1909年3月4日)
もちろん雪だけではなく雨が降った時の記録も残っている。その中でも1845年の就任式は大変だった。ジョン・クインジー・アダムズは、「傘の大集合」に向かって就任演説を行ったと記録している。夜明けの雷雨によって地面がぬかるんでいて群衆は膝まで泥だらけで就任式を見守ったという。
1889年の就任式も雨に祟られた。会場は傘で埋め尽くされている。演壇の上で新大統領ベンジャミン・ハリソンは傘も差さずに儀式を行っている。新大統領に傘を差し掛けているのは、誰あろうハリソンに再選を阻止されたグローバー・クリーブランド大統領であった。
ベンジャミン・ハリソンの就任式(1889年)
前大統領と新大統領は連邦議会議事堂まで同じ自動車に乗って向かう。通例、前大統領が後部座席右側に、新大統領が後部座席左側に座る。乗り物が馬車から自動車に変わったのは1921年からである。大統領夫人達は別の自動車に乗る。もちろん二期目の就任式の場合は新旧大統領がいないので、大統領夫妻が同じ自動車に乗る。
1789年のワシントンの就任式では、連邦議員達がワシントンの宿泊先まで迎えに来た。当時はまだホワイト・ハウスがなかったからである。宿泊先から出たワシントンは、民兵隊と保安官、そして、議員達に先導され、六頭立ての馬車に乗ってフェデラル・ホールに向かった。
1801年、ワシントンD.C.で初めて行われた就任式で、ジェファソンは下宿先から歩いて連邦議会議事堂に向かった。儀仗兵が付き添った他は平服で特に官職を示す印は何もなかった。
1809年、
ジェームズ・マディソン は騎兵隊の先導で連邦議会議事堂を目指した。マディソンはジェファソンに馬車に同乗するように求めたが断られた。2人の仲が悪かったわけではない。むしろ親密である。ジェファソンが誘いを断った理由は、就任式の主人公が自分ではなくマディソンであり、栄誉を奪っては悪いと遠慮したからである。
1869年、アンドリュー・ジョンソンはユリシーズ・グラントとともに連邦議会議事堂に行かなかった。ジョンソンとグラントの間には確執があったからである。南部再建策をめぐる両者の立場はまったく異なるものであったし、さらにグラントは連邦議会がジョンソンを弾劾した時に議会を支持している。結局、ジョンソンはグラントの就任式に参加せず、ホワイト・ハウスに残った。
1933年、フランクリン・ルーズベルトは、ホワイト・ハウスの北柱廊に自動車を停めてハーバート・フーバーを待った。フーバーは同乗は断らなかったものの、ルーズベルトが話し掛けてもほとんど答えようとしなかった。
新旧大統領の仲が悪いといろいろと問題が起きる。1953年の就任式で問題になったのはハリー・トルーマンがドワイト・アイゼンハワーをホテルまで車で迎えに行くか、それともアイゼンハワーがホワイト・ハウスに来るかであった。トルーマンは「アイゼンハワー将軍は私に付いてこなくてはならない。まだ私が大統領だ」と断言した。結局、アイゼンハワーが折れてホワイト・ハウスに向かった。午前11時30分、ホワイト・ハウスに到着したアイゼンハワーであったが、車から出ずに前大統領を待った。数分後、トルーマンがホワイト・ハウスから姿を現して新大統領と握手して車に乗り込んだ。
朝鮮戦争に関する方針をめぐってトルーマンはアイゼンハワーと対立していたが、個人的な好意は持っていたようだ。アイゼンハワーの息子ジョンは士官として朝鮮半島に駐留していた。しかし、前線からワシントンD.C.に戻された。それを知ったアイゼンハワーは困惑して、「そんなことをされては私が悪者のように見えてしまう。私の息子を帰還させた馬鹿者は誰か」とトルーマンに聞いた。息子だけ特別扱いすれば批判を受けると心配したからである。トルーマンはすました顔で次のように答えた。
「合衆国大統領があなたの息子をあなたの就任式に参加するように命じた。息子は父親の大統領就任を見届けるべきだと大統領が判断した。誰かがあなたを困らせるために誰かが命令を出したのだともしあなたが疑うのであれば、全責任は大統領にある」
ホワイト・ハウスから連邦議会議事堂へ延びるペンシルヴェニア通り沿いに多くの群衆が詰め掛ける。 新旧大統領は群衆に手を振って応える。1829年の群衆についてダニエル・ウェブスターは次のように書いている。
「このような群衆を私はこれまで見たことがなかった。ジャクソン将軍を見たいがために500マイル[800キロメートル]も離れた場所から来た者もいる」
2009年には24万人以上の人々が沿道に並び、3万人が警護に就いた。混乱が予想されたが逮捕者は1人も 出なかった。警備の責任者は、「我々は最悪の事態が起こると予想していたが、まさにアメリカの偉大な祝祭であった」と述べている。
連邦議会議事堂
(青)西正面 (赤)演壇 (紫)上院 (緑)下院 (黒)東柱廊
連邦議会議事堂空撮写真(1933年3月4日)
演壇への入場
ホワイト・ハウスから連邦議会議事堂まで自動車で数分である。自動車を降りて連邦議会議事堂に入る。そして、一室で就任式の開始を待つ。リンドン・ジョンソンは熱い紅茶に蜂蜜を入れて飲んだ。就任演説に備えて喉を潤すためだろう。
その頃、群衆は連邦議会議事堂の西正面に集まって就任式が行われる演壇に大統領が登場するのを待っている。西正面が初めて就任式の会場に使われたのは1981年である。西正面が選ばれたのはレーガンが西方にあるカリフォルニア州知事を務めていたことによる。多くの大統領がレーガンの前例に倣っている。
連邦議員達が連邦議会議事堂から演壇に出る。それに連邦最高裁の判事達や閣僚、州知事達が続く。他にも軍高官や各国の外交官が演壇に出る。演壇には他にも大統領経験者が顔を出す。
例えば2001年と2005年にはジョージ・H・Wブッシュが息子ジョージ・W・ブッシュの就任式に出席している。これは元大統領が同じく大統領になった息子の就任式に出席した初めての例である。
親子で大統領になった例は、アダムズ親子もよく知られているが、1825年に行われたジョン・クインジー・アダムズの就任式に父ジョン・アダムズは病気のために出席できなかった。
2017年の就任式では、カーター、ジョージ・H・W・ブッシュ、クリントン、ジョージ・W・ブッシュの4人の大統領経験者の出席が期待されたが、ジョージ・H・W・ブッシュは既に体調を理由に出席を見送ると発表している。そのため新旧大統領を含めて6人の大統領経験者が一堂に会するという史上初の機会が失われた。
西正面に設けられた演壇はかなり広く、1万平方フィート(約930平方メートル=テニス・コート4面)以上ある。就任式の度に新しく作られる。後述 のように、西正面に演壇が築かれるようになったのは1981年以後である。それまで就任式は主に東柱廊で行っていた。
西正面の演壇が初めて使用されたのは、1981年の就任式である。レーガン新大統領は次のように述べている。
「今回、連邦議会議事堂の西正面で初めて就任式が行われている。ここに立って素晴らしい眺めを見渡せば、この街の美しさと歴史が広がっている。このモールの端には我々が肩を借りている偉大な人々ための祭壇[ワシントン記念塔、リンカーン記念堂、ジェファソン記念堂など]がある」
背後から見た演壇(2013年)
(右遠方)ワシントン記念塔 (右手前)報道陣用タワー
最近では群衆の数があまりに多いので大きなスクリーンに就任式の様子が映し出される。さらにスピーカーが各所に設置されている。初めてスピーカーが設置されたのは1921年である。
それ以前は、幸運にも大統領のすぐ傍に席を占めた者しか就任演説や宣誓を聞くことができなかった。大部分の人々は就任演説の内容を新聞やパンフレットで知った。現代では情報伝達手段の発展によって、就任式の様子はライブ映像で全世界に伝えられる。
1845年
電報で初めて就任式が伝えられた。
1857年
初めて就任式が写真に収められた。
1897年
映像による記録が始まった。
1925年
ラジオで就任式の様子が報じられた。
1949年
就任式のテレビ報道が開始。
1997年
就任式がインターネットでライブ配信。
午前11時30分頃、前ファースト・レディと前副大統領夫人が演壇に登場する。その後、新ファースト・レディと新副大統領夫人が続く。それから海兵隊の楽隊 による「大統領万歳Hail to the Chief」(Audio )の演奏が始まる。演奏とともに前大統領と前副大統領が姿を現す。次に新副大統領が出る。
トランペットが高らかに吹き鳴らされ、ようやく新大統領が演壇に登場する。1905年の就任式では500人の混声合唱団が新大統領を迎えた。新大統領は演壇の近くに座る。そのすぐ傍らには新副大統領と前正副大統領が座っている。
通常の就任式の会場一覧(全58回)
フェデラル・ホール
バルコニー
1789年
コングレス・ホール
上院議場
1793年
下院議場
1797年
連邦議会議事堂
上院議場
1801年、1805年、1909年※1
下院議場
1809年、1813年、1821年、1825年、1833年
東柱廊
1829年、1837年〜1905年、1913年〜1941年、1949年〜1977年
西正面
1981年、1989年〜2017年
円形大広間
1985年※2
旧連邦議会議事堂前※3
1817年
ホワイト・ハウス
南柱廊
1945年※4
※1 :天候不良で会場が屋内に移転。
※2 :天候不良で会場が屋内に移転。
※3 :
旧連邦議会議事堂 (Old Brick Congress)は、1812年戦争時のイギリス軍によるワシントン焼き討ちで連邦議会議事堂が焼損したために一時的に議会が移転した建物。現在、連邦最高裁判所がある場所にあった。1817年の就任式で上下両院は、どちらの議場に大統領を迎えるかで争った。そこでジェームズ・モンローは「私は屋外で大統領宣誓を行う」と決定した。旧連邦議会議事堂前に演壇が築かれ、そこで就任式が行われた。それは屋外で最初に行われた就任式となった。
※4 :戦時のため大掛かりな式典は行われなかった。
日曜式典※5 の会場一覧(5回)
ホワイト・ハウス
イースト・ルーム
1957年1月20日
大階段前
1985年1月20日
ブルー・ルーム
2013年1月20日
連邦議会議事堂
大統領室
1917年3月4日
※5 :「日曜式典(Sunday Ceremony)」とは就任日が日曜日にあたるために、ごく小規模に式典を行う慣例。通例、翌日の月曜日に公的な式典が行われる。これまで就任日が日曜日にあたる例は7回あったが、1821年3月4日と1849年3月4日の場合はそれぞれ翌日の月曜日に延期され、日曜日に特別な式典は行われなかった。初めて日曜式典を行ったのはウィルソンである。当時、第一次世界大戦の最中であったので一日でも大統領が空席になる事態を避けるためであった。式典に要した時間は一分間にも満たなかったという。
前任者の死亡や辞任、その他の原因による就任式の会場一覧(12回)
ブランズ・インディアン・クイーン・ホテル
ワシントンD.C.
1841年4月6日
連邦議会議事堂
下院議場
1850年7月10日
副大統領室
1881年9月22日※6
カークウッド邸
ワシントンD.C.
1865年4月15日
アーサー邸
ニュー・ヨーク市
1881年9月20日
ウィルコックス邸
バッファロー(NY)
1901年9月14日
ジョン・クーリッジ邸
プリマス・ノッチ(VT)
1923年8月3日
ニュー・ウィラード・ホテル
ワシントンD.C.
1923年8月21日※7
ホワイト・ハウス
レッド・ルーム
1877年3月3日※8
キャビネット・ルーム
1945年4月12日
イースト・ルーム
1974年8月9日
マップ・ルーム
2001年1月21日※9
エアフォース・ワン
ダラス(TX)
1963年12月22日
※6 :チェスター・アーサーは9月20日に既に大統領宣誓を行っていたが、改めて就任式を行った。
※7 :カルヴィン・クーリッジは8月3日に既に大統領宣誓を行っていたが、改めて就任式を行った。
※8 :1877年の事例はラザフォード・ヘイズ。本来であれば日曜日式典は1877年3月4日(日)に開催されるはずだが、ヘイズは3月3日(土)にホワイト・ハウスで内密に宣誓を行って、前任者のユリシーズ・グラント大統領から権限を移譲されている。これは1876年の大統領選挙の結果をめぐって紛糾したことで暗殺予告が多数寄せられていたからである。ヘイズは早期に権限の移譲を受けることで混乱を避けようとした。正式な任期の開始前に宣誓を行った例は他にない。
※9 :大統領宣誓の文言を間違えたために翌日、宣誓を再び行った。詳しくは後述の「
参考:宣誓の言葉を間違うとどうなるのか? 」を参照のこと。
まず新副大統領が就任宣誓をするために進み出る。宣誓を執り行う者は、連邦最高裁判事、連邦下院議長、前副大統領などである。宣誓を執り行う者に続いて新副大統領が宣誓する。
「私は、国内外のすべての敵から合衆国憲法を擁護して保護し、合衆国憲法に真摯な信頼と忠誠を捧げ、こうした義務をいかなる留保もなく弁解もなく遂行し、私が今から行おうとしている職責を忠実かつ円滑に果たすことを厳粛に誓約する。神のご加護を」
副大統領の宣誓の言葉は特別なものではない。他の連邦官職と同じ文言である。なぜなら合衆国憲法は副大統領の宣誓について特に何も定めていないからである。
実はもともと副大統領は大統領が宣誓を行う前に上院議場で宣誓を行っていた。そして、大統領と同じく副大統領も就任演説を行っていた。
1853年、新副大統領のウィリアム・キングは就任式に出席していない。ワシントンD.C.にすらいなかった。1,800キロメートルも離れたキューバのハバナにいた。なぜそのような場所にいたのか。病気の静養のためである。議会の承認を得て、就任式当日、キングはハバナのアメリカ領事館で就任宣誓を行った。そのような例は他にない。その後、キングはアメリカに戻ったが4月18日に亡くなった。任期は45日間。歴代副大統領の中で三番目に短い。ちなみに一番短いのはジョン・タイラーである。ウィリアム・ハリソン大統領の急死によって大統領に昇格したために31日間で任期が終わることになった。逆に最長任期は8年である。
1865年、アンドリュー・ジョンソンは新副大統領として演説を行ったが、「我々の歴史の中で最も残念な出来事」とチャールズ・サムナー上院議員に言わしめたほどひどい演説であった。その日、発熱していたジョンソンは何とか元気を取り戻そうと酒を飲んでいた。言葉が支離滅裂なうえに何度も倒れそうになった。上院議場で演説が終わった後、リンカーンは「ジョンソンを外でハナさせないように」と守衛に命じたという。
副大統領の役割の重要性が高まったことによって、1937年以来、大統領と同じく群衆の前で宣誓を行うようになった。しかし、就任演説を行わなくなった。
1953年、リチャード・ニクソン副大統領は「擁護して」という言葉を言い忘れた。さらに1961年、リンドン・ジョンソン副大統領は「いかなる留保もなく弁解もなく」と言う代わりに「何であれいかなる留保もなく」と言った。宣誓の言葉が違っていても特に滞りなく儀式は完了した。
副大統領宣誓が終わった後、いよいよ大統領宣誓が行われる。時刻は正午頃である。連邦最高裁長官が立つ。トランペットが吹き鳴らされる。まず連邦最高裁長官が合衆国憲法よって規定されている35語からなる宣誓を述べる。
「私は、合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を保全し、保護し、擁護することを厳粛に誓う(または確約する)」
演壇の上で連邦最高裁長官がどこに立つかは特に決まっていない。右側に立つこともあれば、左側に立つこともある。またどのように宣誓の言葉を繰り返すかも決まった方式はない。
1913年の大統領宣誓では、最高裁長官が大統領宣誓を全文述べて、新大統領に問い掛けた。ウィルソンはそれに対して「私はそうします(I do)」とわずか二語で答えた。そうした方式は1925年と1929年にも踏襲された。
タフトは次のような大統領をフーバー新大統領に送っている。
「正式に書面で大統領宣誓について決めておくのが賢明だと私は考えました。そこであなたの了解を得て、我々が何をすべきかあなたと私で決めておきたい。宣誓が行われる演壇の背後で儀式は始まります。あなたは上院議場に背を向け、私は下院議場に背を向けます。前置きを何も置かずに私は言います。『あなた、ハーバート・フーバーは、合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を保全し、保護し、擁護することを厳粛に誓う』。それからあなたは『私はそうします』と答えて下さい」
このようにタフトは事前に決めていたものの、憲法の規定に従って「preserve, protect, and defend the Constitution
of the United States」と言うべきところを「preserve, maintain, and defend the Constitution
of the United States」と言ってしまった。それをある少女から手紙で指摘されたタフトは、少女の記憶のほうが間違っていると反駁した。タフトから返信を受け取った少女は諦めなかった。そこで録音フィルムの検証が行われた。録音フィルムはニュース映画を作るために使われる。
ハーバート・フーバー大統領の大統領宣誓(1929年)
VIDEO
調査の結果、少女が正しく、タフトが間違っていることがわかった。調査結果を聞かされたタフトは、「私が言ったことを大目に見てほしい。結局、私はあまり重要なことだと思わないがね」と笑って答えたという。
ちなみにウィリアム・タフトは大統領の任期を終えた後、念願の連邦最高裁長官になっている。行政府のトップと司法府のトップを両方務めた人物はタフト以外に誰もいない。
1925年と1929年の就任式でタフトは、それぞれクーリッジとフーバーの就任宣誓を執り行った。したがって、元大統領が他の大統領の就任宣誓を執り行うという稀な事例となった。
タフトが行っていたような方式は、1933年の大統領宣誓で変更された。最高裁長官が大統領宣誓を全文述べるのは変わらないが、新大統領が続けて全文を繰り返して最後に「神に誓って(So
help me God)」と付け加えた。
1949年から1969年にかけては、まず最高裁長官が「あなた、[大統領のフルネーム]は厳粛に誓う・・・・・・」と始めて、新大統領が「あなた」を「私」に変えて宣誓の言葉を述べた。そして、そうした過程が2、3語ずつ進められた。
しかし、2005年の就任式では、まず最高裁長官が「あなたの右手を挙げて私の後に続いて繰り返すように。私、[大統領のフルネーム]は厳粛に誓う・・・・・・・」と始めて、新大統領がそっくり同じ文言を述べた。 無事に宣誓が終わると、「大統領万歳」が演奏され、連邦議会議事堂の北に設置された大砲から21発の礼砲が放たれる。
2009年の大統領宣誓では宣誓の言葉が違っていたことが問題になった。最高裁長官はジョン・ロバーツ、新大統領はバラク・オバマである。
最高裁長官:
I, Barack Hussein Obama do solemnly swear
新大統領:
I, Barack Fussein Obama. I, Barack Hussein Obama do solemnly swear
最高裁長官:
that I will execute the Office of President of the United States faithfully
新大統領:
that I will executete
最高裁長官:
faithfully the Office of President of the United States
新大統領:
that I will execute the office of President of the United States faithfully
最高裁長官:
and will to the best of my ability,
新大統領:
and will to the best of my ability,
最高裁長官:
preserve, protect, and defend the Constitution of the United States.
新大統領:
preserve, protect, and defend the Constitution of the United States.
最高裁長官:
So help me God?
新大統領:
So help me God.
バラク・オバマの大統領宣誓(2009年1月20日)
VIDEO
本来であれば、最高裁長官は憲法に規定されているように「that I will faithfully execute the Office of
President of the United States」と言わなければならない。しかし、語順を間違えて「that I will execute
the Office of President of the United States faithfully」と言ってしまった。そのためオバマはどう言えばよいのか判断に迷って「that
I will executete」で止まってしまった。最高裁長官が「faithfully the Office of President of
the United States」と訂正したが、オバマは最高裁長官が最初に言ったように文言を続けている。
このように宣誓の言葉を間違えた場合はどうなるのか。確かに憲法には正確に宣誓の言葉が規定されているが、間違った場合はどうなるかは書かれていない。したがって、宣誓自体が確認されることが重要であって、細かい言葉の違いはあまり問題ではない。
それでも心配になったのか、翌晩、ロバーツ最高裁長官はホワイト・ハウスを訪れて大統領宣誓をやり直すように求めた。そこでホワイト・ハウスのマップ・ルームで宣誓が再び行われた。出席者は、大統領、大統領夫人、最高裁長官、ホワイト・ハウスのスタッフが3人、4人の記者だけである。
宣誓の準備ができているかロバーツから聞かれたオバマは、「できている。我々はゆっくりと宣誓を行おう」と答えた。ロバーツは手元のメモを正確に読み上げて宣誓を執り行った。
また「バラク・フセイン・オバマ」というフルネームを使うべきかが問題になった。それについてオバマは「三つの名前すべてを使うことが伝統だと考えている」と表明した。ただレーガンのようにミドル・ネームを省略した例もあるので必ずしもフルネームとは限らない。またジミー・カーターのように愛称の「ジミー」を使った例もある。ちなみにカーターの正式な名前は「James Earl Carter, Jr.」である。
最初に憲法制定会議で大統領宣誓の言葉が決定された時、単に「私は、合衆国大統領の職務を忠実に遂行することを厳粛に誓う(または確約する)」であった。議論の中で「憲法の父」ジェームズ・マディソンとジョージ・メイソンは、憲法を擁護することを誓う文言を追加した。
「私は、合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、最善の判断と力で合衆国憲法を保全し、保護し、擁護することを厳粛に誓う(または確約する)」
憲法制定会議は「最善の判断と力で」を「全力を尽くして」に変えた他は2人の提案を最終的に認めた。後にマディソン自身がこのように決定された宣誓の言葉を述べることになる。
合衆国憲法によれば、「誓う」でも「確約する」のどちらでもよい。つまり、新大統領はどちらを選んでもよい。ただ「確約する」と言った大統領はフランクリン・ピアースのみである。ピアースが「確約する」という言葉を選んだ理由は、就任式の数週間前に列車事故で息子が亡くなったのは自らの原罪に対する神の罰だと考えていたからである。宣誓の間は聖書を使うのが通例なので、罰せられたばかりのピアースは神に「誓う」ことができずに「確約する」としか言えなかったと考えられている。クエーカー派の伝統に基づくという
報道 もあるが確証はない。
宣誓をどのように行うか慣例を作ったのはジョージ・ワシントンである。1789年以来、そうした慣例が引き継がれている。
君主制における戴冠式では、神が国王の統治の正統性を認めるという王権神授説に基づいて、聖職者が新国王に冠を授けるのが一般的である。しかし、共和制国家では王権神授説を拠り所にできない。統治の正統性は神ではなく人民にあるからだ。しかし、宣誓式から完全に宗教的な要素が取り除かれたわけではない。
バルコニーには、青地に金の星がちりばめられた幔幕を背景に、緋色のビロードに覆われた一脚の小さな机が置かれている。壮麗な装幀を施された一冊の聖書が机上に置かれている。それは緋色のビロードのクッションの上に鎮座していた。
ニュー・ヨーク裁判所長(当時はまだ連邦最高裁が発足していない)のロバート・リヴィングストンが宣誓式を始めるために前に進み出る。書記官が聖書をクッションから取り上げてワシントンに向かって開く。宣誓の言葉が始まると、遠雷のように次第に群衆の声は小さくなった。神の恩寵を願って聖職者が聖油で戴冠者を清めるように、判事は人民の信託を受けられるように言葉で宣誓者を清める。
宣誓の言葉が述べられている間、ワシントンは開かれた聖書にじっと手を置いている。指差された箇所は、詩篇第127篇1節である。
「主御自身が建てて下されなければ、家を建てる人の労苦は虚しい。主御自身が守って下されなければ、街を守る人が目覚めているのも虚しい」
このページが開かれていたのは偶然ではない。神の恩寵が新国家に与えられることを願ってのことだ。そして、宣誓の言葉である。
「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」
最後に一言が付け加えられる。
「神にかけて誓います」
そして、ワシントンは深く頭を垂れ、おもむろに聖書に口付けした。
ワシントンの就任式の詳細については『
アメリカ人の物語 建国の父 ジョージ・ワシントン 上 』を参照のこと。
1933年以来、アメリカ大統領は宣誓の最後に「神に誓って」という言葉を付け加えるのが伝統になっている。まず憲法が規定する大統領宣誓にはそのような文言は一切含まれない。
それはワシントンが「神にかけて誓います」という言葉を付け加えたという先例に倣ってのことだとされているが、それは伝説の域を出ない。なぜならそうした指摘がなされたのはワシントンの就任後、数十年も経ってからのことであり、同時代の史料には見当たらないからである。
文豪ワシントン・アーヴィングが幼少の頃に聞いたと言われているが、室内で行われたワシントンの就任演説があまりに小さな声でほとんど誰も聞き取れなかったという証言から離れた場所にいたアーヴィングが聞けるはずはなかったと考えられている。
確認できる中で実際に「神に誓って」と付け加えた大統領は1881年に就任したチェスター・アーサーが最初である。また1901年、ウィリアム・マッキンリーの暗殺で大統領職を引き継いだセオドア・ルーズベルトは最後に「したがって、私は誓う」と述べている。
就任式では聖書が使われるのが慣例となっている。憲法では特に聖書の使用について定められていない。慣例を作ったのはジョージ・ワシントンである。
聖書の使用は就任式が行われる当日の朝に決定された。しかし、フェデラル・ホール内には聖書が一冊もなく、最も近くにあるフリーメイソンリーのセント・ジョーンズ第一ロッジから借用して済ませた。その聖書は、ウォレン・ハーディング(1921年)、ドワイト・アイゼンハワー(1953年)、ジミー・カーター(1977年)、ジョージ・H・W・ブッシュ(1989年)の就任式でも使われた。
実は2001年、ジョージ・W・ブッシュも父に倣って同じ聖書を就任式で使おうとした。しかし、困ったことが起きた。天候が悪い。就任式を主催する議会委員会は演壇での傘の使用を禁止している。したがって、もし雨が降れば貴重な聖書が深刻なダメージを受ける。
就任式当日の朝、ニュー・ヨークからフリーメイソンリーの人々が聖書を持って連邦議会議事堂に入っていた。そして、聖書はテキサス州選出上院議員の事務所で一時的に保管されていた。議会委員会は午前10時までに就任式で使用する物品を配置するように求めていた。しかし、フリーメイソンリーの人々は、雨天で聖書が濡れるのを嫌って宣誓の直前まで外に出さないように求めた。
天気は好転せず、聖書はそのまま保管場所に留め置かれた。結局、ジョージ・W・ブッシュは家族の聖書を使用して宣誓を行った。
2009年と2013年の就任式でバラク・オバマは
リンカーンが1861年の就任式で使用した聖書 を使用している。
さらにオバマは2013の就任式でリンカーンの聖書だけではなく、マーティン・ルーサー牧師の聖書も使用している。二冊の聖書が同時に使用されるのは珍しい。
聖書を使わずに宣誓を行った大統領も何人か存在する。最も有名な例はジョン・クインジー・アダムズである。アダムズは敬虔なキリスト教徒であったが、宣誓の際に法律書を使用した。それは法の支配を体現するためであったと考えられる。
他にもチェスター・アーサーとセオドア・ルーズベルトも聖書を使用していない。両者ともに前任者の急死によって大統領職を継承しているので、たまたまその場に聖書がなかった。
もしキリスト教徒以外がアメリカ大統領に就任する場合、聖書は使用されるのか。これまでキリスト教徒以外がアメリカ大統領に就任した例はない。そこで参考になるのがキース・エリソン連邦下院議員の就任宣誓である。
エリソンはスンニ派イスラム教徒初の連邦議員である。2007年に就任宣誓を行う際、トマス・ジェファソンが所有していたコーランに手を置いて就任宣誓を行っている。もし将来、キリスト教徒以外が大統領に就任する場合の先例となるだろう。
歴史的な由緒を持つ聖書を使用しない場合、新大統領は家族に受け継がれてきた聖書を使う。例えばフランクリン・ルーズベルトは4回も就任式を体験している唯一の大統領であるが、1686年製のオランダ語版聖書を使っている。それはオランダ系のルーズベルト家に古くから伝わる聖書でルーズベルト家の歴史が綴られている。
大統領宣誓の際、大統領の傍らで聖書を掲げ持つ者が必要となる。大統領は聖書を手に持つのではなく、聖書に手を置くのが慣例だからである。1965年以前は最高裁の事務官が聖書を捧げ持つ役割を担っていた。1965年、リンドン・ジョンソンは、妻にその役割を担うように求めた。ジョンソン夫人は次のように書いている。
「リンドンが宣誓の際に聖書を捧げ持つように私に求めたので私は感動した。我々は、牧場に移った直後の1952年のクリスマスにリンドンの母が我々にプレゼントしてくれた聖書を使った。私は、宣誓の際、長官とリンドンの間で大事な務めを果たした」
これがファースト・レディが聖書を捧げ持った最初の例になった。それ以後、宣誓の際にファースト・レディが聖書を捧げ持つのが慣例となっている。
リンドン・ジョンソンの大統領宣誓(1965年)
大統領宣誓は
連邦最高裁長官が執り行う慣例 が定着している。しかし、例外はある。1789年、ジョージ・ワシントンの大統領宣誓を執り行ったのは、ニュー・ヨーク裁判所長のロバート・リヴィングストンであった。なぜならその当時、まだ連邦最高裁が発足していなかったからである。また1793年の就任式では連邦最高裁長官ではなく最高裁判事が宣誓を執り行っている。なぜ長官が執り行わなかったか。長官のジョン・ジェイが外交任務のためにイギリスに滞在中であったからだ。
この二つの例外の他に就任式で連邦最高裁長官以外が大統領宣誓を執り行った例はない。ただ就任式以外、つまり、前任者の急死によって急遽、副大統領が大統領宣誓しなければならない場合はこの限りではない。幾つか例がある。
1841年
ジョン・タイラー
コロンビア行政区巡回裁判所長官
1850年
ミラード・フィルモア
コロンビア行政区巡回裁判所長官
1881年
チェスター・アーサー
ニュー・ヨーク州最高裁判事
1901年
セオドア・ルーズベルト
ニュー・ヨーク西部管区連邦裁判所判事
1923年
カルヴィン・クーリッジ
公証人
1963年
リンドン・ジョンソン
テキサス北部管区連邦裁判所判事
2001年に就任式に出席したジョアン・ローニーとマシュー・パワーは、ジョージ・W・ブッシュの大統領就任に反対していた。2000年の大統領選挙は稀に見る接戦で、選挙結果をめぐって紛糾していた。
もちろん支持者ではない二人が招待されるわけはない。友人からチケットを入手したらしい。そして、抗議の意思表明をしようと考えた。しかし、招待席にプラカードの類いを持ち込むことは禁止されている。そこで二人は驚くべき方法を実行した。
大統領宣誓が始まった時、突然、二人は服を脱いだ。二人の身体には「無信任」、「民主主義ではない」、「盗賊万歳」、「一人一票」といったメッセージが書かれていた。周囲の共和党員が野次を飛ばす中、二人は通路を歩いたが、警備担当者に取り押さえられ、式典が終わるまで拘束された。2人は「大統領宣誓の抗議者」として名が残ることになった。
礼砲の発射数について「
アーリントン国立墓地 」が詳細に説明している。簡単にまとめれば次のようになる。
21発の礼砲の起源は、砲弾を撃ち尽くしたので敵対する意思はないと示したことにある。17世紀、海軍は打ち破った敵船に弾薬をすべて使い切るように求めた。
大英帝国では、7発が儀礼とされていた。しかし、さらに多くの大砲が備え付けられるようになって21発が用いられるようになった。
昔、アメリカは州の数に合わせて礼砲の発射数を決めていた。しかし、1841年になって26発も必要になると21発に改めた。そして、1875年8月18日、正式に礼砲には21発を発射すると決定された。
大統領宣誓が終わると就任演説が行われる。就任演説はワシントン以来の伝統である。ただ就任演説は長い間、大統領宣誓の後ではなく前に行われていた。例えばリンカーンも就任演説を大統領宣誓の前に行っている。
就任演説で何を話すかは特に決められていないが、特別な政策などに言及する一般教書 とは異なって、自由や民主主義など普遍的な価値観を示すことが多い。格調高い内容を示した就任演説ほど高く評価される。歴史的に高く評価されている就任演説は、ジェファソン、リンカーン、フランクリン・ルーズベルト、そして、ジョン・ケネディの就任演説である。
ジェファソンの就任演説
1800年の大統領選挙で連邦党に勝利したジェファソンは、初めての政党間における政権交代を実現した。連邦党と民主共和党の対立を緩和するために就任演説 で融和を訴えかけた。そうしたスタイルは以後の大統領によって踏襲されている。
「我々は、同じ原理を持つ同胞を異なる名前で呼んできた。我々は皆、共和派であり、我々は皆、連邦派である。もし我々の中に、我が連邦を解体しようと望み、あるいは共和政体を変えようと望む者がいても放置しておくことが比類なき安全策である。意見の誤りが容認される場においては、理性がそれに自由に対抗できるからである。[中略]。生まれによるのではなく、我々の行動とそれに対する我が親愛なる市民の判断によって栄誉と信頼を受けるべきであり、我々自身で勤勉さを身に付け、我々自身の能力を行使する権利が平等にあるという当然の感覚を[我々は]抱いている。[中略]。こうした恩恵の他に我々がもっと幸せで栄えた国民になるためにさらに何が必要だろうか。親愛なる国民の皆さん、もう一つある。賢明で質素な政府である。それは人々を互いに傷付け合わないように抑止し、それ以外は自律的に勤勉と進歩の追求を自由に調整させ、労慟者のロから稼いだパンを奪い取らない政府である」
ジェファソンの就任演説は事前に新聞で印刷され号外として配布された。そのため直接演説を聞けない人もその内容を知ることができた。
リンカーンの就任演説
1861年、南北分裂の危機にさらされていたリンカーンは「我々は敵になってはいけない。私の手ではなく、不満を抱くあなた達同胞の手に内戦が起きるか否かという重大な問題が委ねられている」と述べた。こうした訴えかけも虚しく南北戦争が間もなく勃発したことを歴史の通りである。
その年、リンカーンは連邦議会議事堂の東柱廊で就任式を行っているが、建物がまだ改修中であった。1855年に木造の骨組みが取り払われ、鉄骨に入れ替える作業が行われていた。それはリンカーンがかつて「分かれたる家、建つこと能わず」と論じたようにアメリカという国家の運命を暗示しているかのようだった。
改修中の連邦議会議事堂(1861年)
1865年4月9日、南北戦争は南軍の総司令官ロバート・リーの降伏で終結した。リンカーンの二度目の就任式はそれよりも一ヶ月前に終わっていたが、その時、連邦議会議事堂の改修は完了していた。それはまるで南北戦争の終結によってアメリカが恒久的に分裂する危機を回避できたことを象徴的に示しているかのようであった。
リンカーンは就任演説 で「誰にも悪意を持たずに全人に愛を」と述べた。そして、さらに次のように言葉を続けた。
「神が示す正義を揺るぎなく信じ、我々が取り掛かった仕事を完了すべく努力しよう。国家が負った傷を治し、妻と子供のために戦闘に耐えた人をいたわり、我々自身と諸国の間で公正と永続する平和を達成して守るためになすべきことを行おう」
この演説の最後の部分を聞いた観衆は感涙を流したという。残念ながらリンカーンは就任後、暫くして暗殺され、自分の言葉が実現されるか否か確かめることはできなかった。
リンカーンの就任式(1865年)
フランクリン・ルーズベルトの就任演説
新大統領はその時、アメリカが直面している課題を乗り越えられるように国民を鼓舞する。フランクリン・ルーズベルトによる1933年の就任演説 が代表的な例である。大恐慌の訪れで意気阻喪していた国民にルーズベルトは次のように訴えかけた。
「この偉大なる国はこれまで持ちこたえてきたように持ちこたえ、再生して繁栄するだろう。だからこそ最初に私の信念を表明したい。我々が恐れなければならないことは、恐怖そのものである。名状し難く根拠がなく謂われのない恐怖は後退を前進に変えるのに必要な努力を麻痺させる。国民生活の暗い時代にはいつでも人民は勝利に必要な理解と支持を率直で活力に富んだ指導者に与えてきた。この重大な時代にあたってあなた達が再び支持を指導者に与えてくれると私は確信している。[中略]。今、国民は行動に次ぐ行動を求めている。我々は迅速に行動に次ぐ行動を取らなければならない。[中略]。我々の最優先課題は人々を仕事に就かせることである」
フランクリン・ルーズベルトの就任演説(1933年)
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ケネディの就任演説
1961年のケネディの就任演説 は世代交代を前面に押し出している。前大統領のアイゼンハワーはこの時、70才、ケネディは43才であった。まさに世代交代と言うのにふさわしい。
「松明はアメリカ人の新しい世代に受け継がれた。新しい世代は、今世紀に生まれ、戦争によって鍛えられ、過酷な平和によって訓練され、古くからの遺産に誇りを持ち、この国がいつも行ってきたような人権の無視を看過できない。[中略]。世界の長い歴史の中で、これほど危機が迫る中で自由を守る役割を与えられた世代はほとんどない。私はこの責務に尻込みせず歓迎する。我々の誰もが他のいかなる人々や世代とも立場を交換できるとは思わない。こうした努力に我々がもたらそうとしている活力、信念、献身は、我が国と我が国に奉仕する人々を照らし出し、炎の輝きが世界を真に明るくするだろう。そして、我が同胞のアメリカ人よ、国があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるか問おう。我が同胞の世界市民よ、アメリカがあなたに何をしてくれるかを問うのではなく、我々が人類の自由のために一緒に何ができるか問うてほしい」
就任前説の平均語数は2,353語である。最短は1789年のジョージ・ワシントンの就任演説でわずか135語、最長は1841年のウィリアム・ハリソンの8,460語数である。ハリソンの演説は国務長官に新たに就任するダニエル・ウェブスター上院議員によって起草された。ちなみにピアースとクリーブランドは就任演説をすべて暗記して行っている。
就任演説の語数一覧
就任演説が終わった後、祝祷と国歌の演奏で式典が終了する。そして、前大統領が去る。新旧大統領は家族とともに演壇から連邦議会議事堂を中を通って東柱廊に出る。そこで新旧大統領は別れの挨拶を交わす。
前大統領を運ぶためのヘリコプターが近くに待機している。ヘリコプターはアンドリューズ空軍基地に向かう。天候不良の場合は飛行機ではなく自動車が使われる。アンドリューズ空軍基地から飛行機に乗って前大統領はワシントンを後にする。2009年、「ニュー・ヨーク・タイムズ紙」はその様子を次のように記している
「私はこれまで多くの大統領の登場と退場を見てきたが、あの火曜日のような情景を見たことはなかった。400万人の目が天に向けられ、[前大統領の]ヘリコプターが街の外へ去って行くのを見ていた。誰もが別れを告げようと手を振っているように見えた。そうした波はモールからリンカーン記念堂へ向かって西に延びていた。そして、彼らの目はしっかりとその緑の鳥[ヘリコプター]を見据えていた」
前大統領を見送った後、新大統領は連邦議会議事堂内に戻って就任午餐会に臨む。
昔はホワイト・ハウスで午餐会を行うのが通例であったが、1953年以来、就任式議会合同委員会が就任午餐会を主催している。1977年、カーターが就任午餐会を断った事例があるが、1781年以来、午餐会は連邦議会議事堂南翼にあるナショナル・スタテュアリー・ホールで行われている。ナショナル・スタテュアリー・ホールは、50州から2つずつ集められた彫像が飾られているホールである。ただ現在では100体はあまりにも多いので35体のみがホールに陳列されている。
就任午餐会のメニューはどのようなものか。2013年を例に見てみよう。食物やワインは基本的にアメリカ産である。
前菜
ニュー・イングランド風チャウダー添え蒸しロブスター
ワイン:Tierce 2009 Finger Lakes Dry Riesling
メイン
ハックルベリー添えヒッコリー・グリルの牛肉
赤ジャガイモ・ケーキ
ワイン:Bedell Cellars 2009 Merlot
デザート
サワー・アイス・クリームとメープル・カラメルソース添えハドソン湾風アップル・パイ
チーズと蜂蜜の巣
ワイン:Korbel Inaugural Cuvee
最も記憶に残る就任午餐会は1981年に行われた就任午餐会である。カーター政権の末期にイラン大使館人質事件が起きた。カーターは何とか人質を解放しようと様々な手段を試したがいずれも失敗した。その結果、政権の支持率は低迷した。
人質が解放されたのは後任のレーガンの就任式の当日であった。レーガンが就任演説を終えた頃、イランでは解放された人質が飛行に乗り込んでイランから出た。その報せを受け取ったレーガンは、就任午餐会の場でイラン大使館人質事件が解決されたことを発表した。そして、解放された人々をヨーロッパまで出迎えに行く役目を前大統領のカーターに委ねた。
就任晩餐会が終わるといよいよ就任パレードである。来た時と逆にペンシルヴェニア通りを連邦議会議事堂からホワイト・ハウスへ向かう。
リムジンには大統領夫妻が一緒に乗っている。そうした慣例が始まったのは1909年であった。その年、タフト夫人は連邦議会議事堂からホワイト・ハウスまで夫と同じ馬車に乗ってホワイト・ハウスに向かうと主張した。それまでは新旧大統領が一緒に乗るのが慣例であった。タフト本人よりも大統領就任を喜んだというタフト夫人らしいと言える。
他にも軍楽隊や大学や高校のバンド、フロートなど様々なパフォーマーがパレードを盛り上げる。
公式な就任パーレドは1809年に始まったとされるが、就任パレードは自然発生的に始まったようだ。例えば1789年の最初の就任式などは独立戦争の退役軍人達が自発的にワシントンを護衛して通りを練り歩いた。1805年の就任式の後、ジェファソンに続いて連邦議会議員、外交官、その他の市民が続いた。そして、軍楽隊が演奏を行った。
19世紀の半ばまでにパレードの規模は拡大の一途を辿った。各地の政治クラブや協会で組織されたチームがワシントンまでやって来た。
1861年の就任パレードでは赤、白、青の掛け布で飾られたフロートがお見えした。フロートには34人の少女が乗っていてそれぞれ頭上に月桂冠を載せていた。人数は当時の州の数を表している。リンカーンはフロートが非常に気に入ったようで、ホワイト・ハウスで少女達を歓迎して一人ひとりキスして回ったという。
続いて1865年の就任パレードでは、インディアンとアフリカ系アメリカ人が初めてパレードに参加している。
1905年、引き継ぎ任期を終えて自ら勝ち取った任期を始めたセオドア・ルーズベルトの就任パレードは前代未聞の賑やかさであった。米西戦争で活躍した荒くれ騎兵や退役兵だけではなく、鉱夫、木こり、工場労働者、カウボーイなどあらゆる職業のアメリカ人が参加した。
1917年、初めて女性がパレードに参加した。それは女性参政権運動の一環であった。前回の1913年のパレードでは女性は当日の参加が許可されず、就任式の前日にパレードした。予め警察の許可を受けたうえでパレードを行った女性達であったが、沿道の者達から様々な妨害を受けた。
これまで行われた就任パレードの中で最大のパレードは1953年に行われたパレードである。73のバンドや59のフロート、各種車両や騎馬隊で構成され総員2万7,000人という大陣容であった。3頭の象も含まれている。実に全部で4時間半かかったという。
現在はパレードの参加人数が1万5,000人まで制限されているので、1953年の就任パレードを上回る規模のパレードが行われることはない。
基本的にパレードは祝賀行事なので和やかに行われるが、逮捕者が出る場合もある。1969年の就任パーレドではベトナム戦争に反対する人々がニクソンのリムジンに石や缶、ボトルや催涙弾まで投げ付けた。被害は特に出なかったが81人が逮捕された。さらに1973年の就任パレードでも卵やゴミを投げ付けた36人が逮捕されている。
最近では1997年の就任パレードで全裸になった5人の男女が逮捕されている。彼らは動物愛護運動家だったという。
そして、紛糾した2000年の大統領選挙の後に行われた2001年の就任パレードでも混乱が起きている。ジョージ・W・ブッシュが乗ったリムジンに卵が一つに林檎が四つ、そして、ペット・ボトルが一本投げ付けられた。最終的に5人の逮捕者が出た。ブッシュ夫人はその日について次のように回想している。
「ペンシルヴェニア通りまで来た時、私は抗議者の集団がプラカードを振ってジョージの当選は違法だと叫んでいるのを見た。その瞬間まで私は、一旦、勝利が公式に宣言されれば、選挙後の騒乱は鎮まって誰もが次に進むと思っていた。しかし、これからも憎悪が残り続けるのだと我々は悟った」
2001年の同時多発テロの後、最初に行われた2005年の就任パレードでは厳重な警備態勢が布かれた。6万人以上の警察関係者に7,000人の軍関係者が配備された。さらにイラク戦争に対する抗議で混乱が生じ、79人の逮捕者が出た。
天候不良の場合は就任パレードが中止になることもある。実際に1833年と1985年の2回中止になっている。沿道の観衆があまりの寒さに凍傷にかかる恐れがあった。1985年の場合は近くのアリーナで急遽、パレードが縮小して行われた。33チームのバンドが出場予定であったが、会場が狭かったために結局、5チームしか出場できなかった。
その他にも何らかの理由で就任パレードが行わないことがある。1853年、ピアースは事故で息子を亡くしたばかりだったので就任パレードを行わなかった。1921年、ハーディングは前大統領のウィルソンの健康状態を心配して就任パレードの開催を見送った。そして、1945年の就任パレードは戦時のために行われていない。
ホワイト・ハウスの近くまで来ると大統領夫妻はリムジンを降りて観望台に入る。観望台には安全上の理由から防弾ガラスが施されている。そこからパレードを見る。パレードは約2時間続く。
ホワイト・ハウス前の観望台
最も記憶に残る就任パレードは1977年のパレードである。1月20日午後1時24分、突然、カーター大統領夫妻がリムジンから降りてペンシルヴェニア通りを歩き始めた。
それを見た群衆から「彼らが歩いている。ジミーとロザリンが歩いている」という叫びが上がった。大統領夫妻はホワイト・ハウス前の観望台まで43分かけて歩いた。
なぜカーターは就任パレードで歩いたのか。カーター自身が次のように回想している。
「重装備の車を出ることで象徴されることは、単に健康を促進することではないと私は認識し始めた。私は、近年、ベトナム戦争やウォーター・ゲート事件の発覚に怒った抗議者達が大統領や副大統領に常々、対立してきたことを覚えていた。安全上の心配はあったが、私はできる限り人民を信じていることを鮮明に示したかった。私は、ただ歩くだけで大統領とその家族の帝王的な要素をはっきりと除外できるのではないかと思った」
国民は、ホワイト・ハウスの内輪だけで何でも決定してしまうようなニクソン政権を「帝王的大統領制」だと見なして批判的に見てきた。そうしたワシントン政界や大統領に対する不信を払拭しようとカーターは努めたのである。
カーター以後の大統領もカーターの先例に倣ってリムジンから降りて歩くことがある。ただ全行程をすべて歩いたのはカーターだけである。
就任パレードで歩くカーター大統領夫妻
就任舞踏会は20世紀後半に入るまで一つ、多くてもせいぜい三つの会場で行われるだけであった。それは大規模な舞踏会を開催できる会場がほとんどなかったからである。近年は会場として使える施設が増えたせいで会場の数が大幅に増えている。1997年には14の会場で就任舞踏会が開催された。7,500人の参加者が一人150ドルの入場料を支払った。これは入場料のみであり、会場で今日せられる飲食物は一部を除いて別料金である。
会場は非常に混雑し、十分な数の椅子もない。帽子やコートを紛失してしまうこともしばしばある。リンカーンも1849年に行われた就任舞踏会に出席しているが帽子を紛失している。クローク係の対応が悪く、コートの管理が行き届かずに乱闘騒ぎになったこともある。レーガン夫人は就任舞踏会について次のように書いている。
「『就任舞踏会』という言葉を聞いた時、大きなダンス・フロアを備えた舞踏室で多くの人々がダンスを楽しんでいると誰もが思うでしょう。私もそう思っていた。しかし、現実は違っていた。多くの人々がぎゅうぎゅうに押し込められ、立っているのがやっというありさまです。踊ることなんてとてもできず、非常に騒がしいのでオーケストラも聞こえません」
大統領夫妻は就任舞踏会に顔を見せて来場者に感謝する。クリントンのようにサクソフォンを披露したり、ニクソンのようにピアノを弾く大統領もいる。ただ大統領夫妻の滞在時間は非常に短い。他にも回らなければならない会場がたくさんあるからである。
例えば2001年の就任舞踏会でブッシュ夫妻は9つの会場を回ったが、踊った時間は平均して48秒である。最長で67秒、最短で29秒である。なぜそんなに時間が短いのかと聞かれたブッシュは「カーペットの上でダンスするのは大変だからね。それが一つ目の理由。二つの目の理由として私はあまりダンスがうまくないからさ」と答えた。
2005年の就任舞踏会では会場が10に増えたものの、平均の踊った時間は53秒に増えた。そして、大統領夫妻は午後10時3分にホワイトハウスに帰着した。予定よりも1時間半も早かった。
公式の就任舞踏会が最初に行われたのは1809年のことである。舞踏会はロングズ・ホテル(現在、連邦議会図書館がある場所)で開催された。それはマディソン夫人の案であり、前例のないことであった。
舞踏会場では窓枠の上部が動かせなかったので、ガラスを割って換気するようにしたという。新聞に舞踏会の広告が出稿され、4ドルをホテルの管理人に支払えば誰でも入場券を購入できた。
会場でマディソンはちょっとした会話を交わすこともあったが、元気がなく疲れ果てた様子であったという。出席者の一人に「早く家に帰って就寝したい」と漏らすほどであった。マディソン夫妻は晩餐の後、すぐに会場から去ったが、舞踏会は真夜中まで続いた。ジョン・クインジー・アダムズはこの時の様子を「群衆が多すぎて、うだるような暑さでパーティーは最悪である」と伝えている。
ジャクソンは就任舞踏会に出席していないが、その代わりにホワイト・ハウスを解放している。その結果、後にも先にもない大混乱が起きた。
就任舞踏会が開催されなかったこともある。まず1853年である。ピアース夫妻は子供を亡くしたばかりで祝賀行事をほとんど行わなかった。ピアース夫人は就任式を欠席している。
前任のミラード・フィルモアが去った後のホワイト・ハウスは寂しい様子だった。カーペットは泥だらけのままで放置されていて、灯りも点されていなかった。それに料理も準備されていなかった。ホワイト・ハウスのスタッフは大統領を放置して就寝してしまっていた。ピアースは、自ら蝋燭を灯して秘書のシドニー・ウェブスターとホワイト・ハウス内でベッドを探し回った。ようやくベッドを一つ見つけるとピアースは「君はここで寝るとよい。私は向こうのどこかにもう一つベッドが見つかるかやってみるよ」と言ったという。
他には1937年、1941年、1945年も舞踏会は開催されていない。これは大恐慌や第二次世界大戦があったからである。いずれもフランクリン・ルーズベルト政権期である。1933年には一つの会場で就任舞踏会が開催されているが、ルーズベルト自身は出席せず、夫人に任せている。これはルーズベルトが歩行が困難であったからだ。当時、ルーズベルトは車椅子を多用していたが、そうした事実が国民に知られることはほとんどなかった。