ウィリアム・クロフォード陸軍長官 |
ウィリアム・クロフォード(1772.2.24-1834.9.15)は、ヴァージニア植民地アマースト郡の農家に生まれた。クロフォード家は経済的困窮のためにジョージア邦に移った。クロフォードはモーゼス・ワッデルズ・カーメル・アカデミーで1794年から2年間学んだ。その後、リッチモンド・アカデミーの教師を務める傍ら、法律を学んだ。1799年、弁護士を開業してまもなく成功を収めた。クロフォードの活躍は州の政界の関心を引いた。
1803年、クロフォードは州議会議員に選出され、ジョージア州の民主共和派の将来の有力者と目されるようになった。徐々に議会で影響力を強め、教育制度、司法制度、選挙制度などの改正に携わった。クロフォード自身奴隷所有者であったが、外国や他州からの奴隷輸入に反対した。1807年11月、ジョージア州議会はクロフォードを連邦上院議員に選出した。当時、最大の懸案であった出港禁止法について、クロフォードはその効果に疑問を持っていたので民主共和派の大多数の意見に従わず、反対を唱えた。しかし、出港禁止法の廃止を求める声が強まると、一転して廃止に反対した。もし出港禁止法を廃止すれば戦争以外に選択肢がなくなることをクロフォードは恐れた。またアメリカがそうした政策を途中で放棄すれば諸外国の信頼を失う可能性があると考えたのである。こうしたクロフォードの周りに流されない確固たる姿勢は尊敬を集めた。さらに第1合衆国銀行の特許更新に関してクロフォードは、合衆国銀行の有用性を強く訴えた。合衆国銀行の違憲性が指摘された時は、憲法を現況にあわせて柔軟に解釈すべきだと反論した。しかし、最終的に特許更新は否決された。
マディソン大統領は、クロフォードを陸軍長官に指名しようとしたが、クロフォードは自ら適任ではないとしてそれを断った。その代わりにマディソンはクロフォードを駐仏アメリカ公使に任命した。クロフォードはそれを受諾しフランスとの交渉にあたった。その結果、フランスによって拿捕されたアメリカ船の補償問題を解決することはできなかったとはいえ、米仏関係を安定させることで一応の成果を見た。
マディソンは再びクロフォードを陸軍長官に指名した。クロフォードはようやく陸軍長官職を引き受けた。陸軍長官としてクロフォードは陸軍省の再編を行い、より効率的な運営を可能にした。さらに沿岸要塞化計画を開始した。しかし、一方でクリーク族と締結した条約を再交渉するように命じたことでアンドリュー・ジャクソンの敵意をかっている。クロフォードはモンロー政権では財務長官を務めた。 |
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