醜聞の暴露
|
1884年7月21日、バッファロー・イヴニング・テレグラフ紙は民主党大統領候補のグローバー・クリーブランドが私生児をもうけていたと暴露した。今では醜聞とは言えないが、当時はスキャンダルの材料となりえた。これまでクリーブランドはずっと独身だったので不倫ではない。結婚せずに生まれた子供ということになる。新聞によれば、詳細な内容は次の通りである。
クリーブランドの相手はマリア・ハルピンという未亡人。1874年、ハルピンは男の子を生んでクリーブランドの姓を付けたがアルコール中毒で施設に収容された。そして、男の子は養子に出された。
各紙はこの話題で持ちきりであった。共和党員は、「ママ。僕のお父さんはどこ?ホワイトハウスに行ってしまったの?ハハハ」と盛んにはやし立てた。
当時の風刺画
|
ハルピンとクリーブランドが親密であったことは隠しようがない。イメージダウンを恐れる周囲の反対を押し切ってクリーブランドはその暴露記事の内容を事実だと認めた。その代わりに新聞の報道とは違って次のように説明した。
実はハルピンは街中の複数の男達とねんごろな関係にあった。ハルピンが身籠もった時、男達の中で独身であったのはクリーブランドだけであった。そこでクリーブランドは、ハルピンの名誉を守るために父親役を買って出た。子供は育児院に預けられることになり、クリーブランドが養育費を出し続けた。
こうしたクリーブランドの説明が新聞に掲載されると、今度はハルピンがそれを反駁した。ハルピンの説明によれば、クリーブランドに乱暴されて妊娠したという。子供は生まれた後、すぐに取り上げられ、ハルピンはすっかり気鬱になってしまい、そのせいで精神病院に収監された。
記事がきっかけとなってハルピンは医師の再診を受けて精神病院から解放された。外に出たハルピンがまず行ったことは、精神病院に収監された後、行方知れずになった子供を探すことだった。ハルピンは弁護士を訪問してクリーブランドを暴行と誘拐で告発してほしいと申し入れた。さらに、500ドルで子供のオスカー・フォルサム・クリーブランドを明け渡し、その父親に今後、何も要求しないという同意書を弁護士に示した。それは、ハルピンによれば、クリーブランドが書いたものだという。
人々の反応は二つに分かれた。ハルピンをお金をせしめようとする毒婦だと見なす者がいる一方で、クリーブランドが嘘をついていると思う者がいた。最終的に、クリーブランドはこうした「事件」があったニュー・ヨーク州を僅差で制して大統領選挙に勝利した。もしニュー・ヨーク州の結果が逆であれば、クリーブランドは敗北していたはずである。勝利した民主党員は、、「ママ。僕のお父さんはどこ?ホワイト・ハウスに行ってしまったの?ハハハ」という共和党員の野次に対して「ホワイト・ハウスに行ってしまったぞ。ハハハ」と返した。 |
|