2007年1月13日15時25分〜16時37分
みなさん、こんにちは。ええ、あの入り口でお渡ししました茶封筒の中に、本最終講義のレジュメと私の本日出版されたばかりの拙い書物『社会の再発見と社会の防衛』を入れてございます。本講義と関連づけてご利用いただけましたら本当に幸いです。それから、忝くも私の古稀を記念いたしまして出版、本日出版していただきました論文集『比較文化の可能性』、こういう本なんでございますが、これは成文堂という出版社から出版されているのですが、これについての内容説明の印刷物も入れてございます。ここではこの本をお分かちすることはできませんが、どうかこの書物への多大なご関心をお寄せ下さいますよう心よりお願い申し上げます。 さて「掛け替えのないものについて」という題で最終講義を行うことになりました。私のこの拙い講義にご出席下さっていらっしゃる、諸先生、それからご多忙の中、全国各地からお越し下さいました懐かしい尊敬する皆様、大学院生、学部の学生、それから私のゼミのOBOGの諸君にまず心よりあつく御礼申し上げます。またこの講義のためにご高配賜りました社会科学総合学術院の学術院長の大西泰博学先生、いろいろ過分なお言葉を頂戴いたしましてありがとうございました。それから司会の労をとって下さいます多賀秀敏先生、社会科学総合学術院副院長でございますが、多賀先生にもあつく御礼申し上げます。それから事務所の金田様、いろいろ本日の最終講義のために手筈を整えて下さいました。どうもありがとうございました。それから私のゼミ、近代化論のゼミの学部現役の諸君にも心よりあつく御礼申し上げます。
さてレジュメのはじめのほうに書いてありますように、大自然に生態系が掛け替えのないものとしてあるように社会にも生態系が掛け替えのないものとして存在する、という考え方から本講義は出発したします。自然破壊を防ぐことと自然の生態系を守ることとが同じことである様に、社会破壊を防ぐことと社会の生態系を守ることとは同じことであるという考え方を私はいたしております。社会の生態系とは何かということについては、これは予め定義を与えるよりも、むしろ講義の中で徐々に明らかにしていったほうがよろしいのではないかと考えております。ただ今グローバル自由市場というのが我々の眼に常にとまっているわけですが、このグローバル自由市場が金科玉条としております規制撤廃によって社会の生態系が次々と破壊されていく、これを私どもは目の当たりにしています。これは学問の領域にもやはり波及することとなりまして、現在、文科省あたりがやはり規制撤廃を行いまして、学問の方向付けを行っているわけですが、この文科省によって引き起こされているその規制撤廃の結果ですね、社会の生態系に相当するものを学問にも認め、これをその学問の基礎事実あるいは基底的事実としえていないということが引き起こされている、そのことに大いなる疑問を私は抱いています。社会の生態系に相当するものを学問にも認めて、これを重んずる、これを重視する学問の存在意義をめぐって本最終講義を行いたいと思います。
さてドイツの有名な社会学者でありますマックス・ウェーバーはですね、この方はついでに申しますとどなたもご存じですけれども、1864年に生まれて1920年になくなった方で、たいへん大きな影響力を今日に至るまで及ぼしている、極めて巨大な著名な学者でありますが、この人の『職業としての学問』の中で学問上の仕事の性質を三つほどあげております。レジュメの一番目にあります通り、まず専門的であること、学者が自己の専門に閉じこもるというふうに表現しています。閉じこもるという形で専門性が目指されるということ。これが第一の特徴として挙げられている。第二の特徴としては進歩性を有する。これは、ウェーバーは、学問は進歩すべく運命付けられているという言い方をしています。第三は、第二の特徴と関連するのですけれども、このレジュメでは学問は時代遅れとなることを運命付けられていること、と記されております。 ウェーバーは、いかなる学問も後の時代の仕事によって打ち破られ時代遅れとなることを運命付けられている。こういうふうに表現しております。具体的にはすべての学問は自然科学と同じく専門科目であって、乗り越えられる科目である。あるいは学者の仕事は芸術家の仕事とは全く違った運命のもとにおかれている。というのは、それは常に進歩することを運命付けられているからである。こういうふうに具体的に表現されております。このウェーバーの学問観はですね、京都大学名誉教授の上山安敏先生の著された『神話と科学』という本の中で、それに関連してこういう表現が用いられています。それをレジュメに借用していたしておりますが、このウェーバー流の学問観が貫徹されるということはですね、学問の専門化、このレジュメの二番目のところですね、大型経営化、知の官僚制化、知の生産の場の工場化、学問体系の主知主義的合理化、こういう流れにですね、通じはしても、あるいは通じざるをえないがゆえに、そこに意識化の度合いの低い、私、意識化の度合いが低いとか、あるいは意識化の度合いの低さという言葉を度々用いますけれど、これはここで定義を与えますよりもこの講義の中で明らかにしていけばいいと思っております。この意識化の度合いの低い非進歩性、非近代性を本質的特徴とする掛け替えのないものという考え方の入り込む余地はないとまず申し上げておくべきではなかろうかと、こういうふうに存じております。 本講義では掛け替えのないものを基礎事実としない、すなわち学問上の生態系としない学問の問題がウェーバーを中心にとりあげられることになります。 マックス・ウェーバーは1920年に発表しました『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、有名な「呪術からの解放」、呪術、「魔法」と訳してもいいのですが、これはレジュメでは三番目ですか、「呪術からの解放」という句を用いました時に、「呪術」あるいは「魔法」ですね、「魔法」という比喩で表される意識化の度合いが低い非近代的なもの、これは掛け替えのないものでもあるのですが、この「呪術」はですね、カトリックやルター派においては、プロテスタンティズムの中でもルター派においては命脈を保っていると述べられておりまして、この「呪術」は必ずしも否定的な意味を帯びていない。これは注目すべきところであります。むしろカルヴァン派を中心とするピューリタニズム、ピューリタンたちによってですね、呪術からの解放が徹底的に行われて、これは終局的には資本主義のあの有名な言葉ですが、鋼鉄のように堅い檻、この檻は正確には檻ではなく箱のようですけれど、ここでは従来の訳に従いまして檻としておきます。その鋼鉄のような堅い檻に通じるというそういう論述にアクセントがおかれていたのであります。ところがこの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より一年前に発表されました『職業としての学問』におきましては、非進歩性、非近代性、そして意識化の度合いが低いという性質を刻み込まれた呪術、掛け替えのないものとほぼ同義のこの呪術ですね、呪術は学問において占めるべき位置を持たないというふうに論じられております。大型経営化を運命付けられた学問とですね、非近代的で意識化の度合いものを基礎事実、すなわち学問の生態系とするそういう学問ですね、そういう学問との非両立性、両立しないということ、非両立性が説かれているのであります。 ウェーバーのこういう立場は、フリードリッヒ・エンゲルスの、これはこのレジュメでは五番目になりますが、『家族・私有財産・国家の起源』の中で示された立場、すなわちエンゲルスがですね、古い社会制度と新しい状態、この新しい状態というとのは私の言葉では意識化の度合いの低い、いや意識化の度合いが高くなった状態となりますが、古い社会制度とこの新しい状態との非両立性、非両立性ですね、これに力点が置かれております。非近代的なもの、意識化の度合いが低い非近代的なものを血縁団体という比喩でエンゲルスは表して、血縁団体に立脚する古い社会は、新しく発展してくる社会的諸階級と衝突して破砕される。そういうふうにエンゲルスが言った時に示された立場とこのウェーバーの学問的な立場は相通ずるものがあります。これは、非近代的なものが近代的なものによって破砕されるのは歴史の必然であり、非近代的なものを近代的なものとの間に両立の関係はありえない。非近代的なものは近代的なものにとってかわられるより他はないという歴史発展論的な立場であります。この歴史発展論的な立場からは、非近代というものはありえず、前近代という表現しかありえないということになりますが、私は非近代、前近代ではなくですね、非近代という語を使うことの意義は大きいと信じております。『職業としての学問』において意識化の度合いが低く、それ故、非近代的で非進歩的である、そういう性質を帯びたもの、要するに掛け替えのないものを重んじ、これを学問上の基底的事実、基礎事実とする学者は、これはレジュメの六番になります、予言者、煽動家という語で片付けられ、予言者や煽動家は教室の演壇に立つべきではないと断定されてですね、もう一度申しますと、予言者や煽動家は教室の演壇に立つべきではないと断定されて、意識化の度合いの低い非近代的なものはですね、学問から一掃されるべきであるという主張が行われております。 神学にしても、神の学ですね、神の学、神学にしましても、これは知的合理化を本質にしなければならない、つまり神学は主知主義的合理主義を基底的事実としていなければ受け入れられないということが説かれるに至っております。
アウグスティヌス、このアウグスティヌスは西暦354年に生まれて西暦343年に、西暦430年に亡くなった方で、ご承知の通り初期キリスト教会最大の思想家でありますが、このアウグスティヌスの「知らんがために吾信ず」という言葉で表される立場に立つ人、つまり信ずるという意識化の度合いが低い営為、行いをですね、学問上の基底的事実とする人はですね、知性の犠牲の達人、知性の犠牲、これは直訳的でありますけれども、つまり、知性を犠牲することにおいて達人であるとそういう意味なのですね、知性を犠牲にするうえで達人であるというふうに揶揄されてですね、アウグスティヌスのこの言葉は単なる宗教的救いを求める言葉に過ぎないと決め付けられ、さらにアウグスティヌスのこの有名な言葉は、学問上の価値領域と宗教的救いのそれとの間の、宗教的救いの価値領域との間の争いは調停しがたい、両立しがたいという命題の根拠にしたてられております。これはレジュメでは今度は六番のほうですが、ついでに申しますとこのアウグスティヌスの「知らんがために吾信ず」というのは、信じるという、信じるという意識化の度合いが低い営為がですね、行いがですね、基底的事実としてあって、その上に知るということが起こるという立場でありまして、この場合、知ることと信じることとの間には両立の関係が成り立っているのであります。ですから知性を犠牲にするという立場ではありません。これをウェーバーは知性を犠牲にするうえでの達人であると決めつけているのであります。アウグスティヌスのこの「知らんがために吾信ず」という言葉、これはついでに申しますと、このことは近代主義的な偏見によってですね、つまり意識化の度合いの高いもののみを重視する、そういう偏見によって、歪められるということが起こっております。どういうふうに歪められているかと申しますと、この「知らんがために吾信ず」がですね、「不合理なるが故に吾信ず」というふうに、こういうふうに歪められ作りかえられているものが流布しておりまして、ウェーバーはその近代主義的偏見によって歪められ、作り変えられたその「不合理なるが故に吾信ず」をアウグスティヌスの言葉としてこの『職業としての学問』の中で引用しているのであります。この言葉を用いますと、「不合理なるが故に吾信ず」というこの歪められた変形されたものを用いますと、信じるという営為とですね、知性との間に両立の関係は成り立たないということが示されることになります。
ところでその意識化の度合いが低い知、知ですね、これはレジュメでは七になりますが、マイケル・ポラニー、マイケル・ポラニーという人はついでに申しますと、1889年に生まれて1976年に亡くなりましたハンガリー生まれの方でイギリスに渡りまして、イギリスのマンチェスター大学で長年、物理と化学の教授を務めた方であります、有名な経済人類学者のカール・ポラニーの弟にあたる方であります。この人の暗黙知tacit knowledgeという語で表された意識化の度合いが低い知はですね、ウェーバーとは反対にですね、マイケル・ポラニーは、この暗黙知を基底的事実とする立場をはっきり表明しております。『暗黙知の次元』、これはこのマイケル・ポラニーの有名な著書の題名でありますが、七にでてきますが、『暗黙知の次元』という著書で、明示的な知しか拠り所にしえない啓蒙思想、ウェーバーが拠り所にしているのも啓蒙思想なのですが、この啓蒙思想についてマイケル・ポラニーは、こう述べています。「啓蒙思想が生み出した偉大な哲学的運動が、人間の絶対的な知的自己決定を宣言する際に拠り所としているものを私は認めない」。これは七のところに書いてあります。私は認めない。これは暗黙知を基礎としない、しえない啓蒙思想を批判している言葉であります。さらにポラニーは、「知る前に、また知ることができるために信じなければならないことを我々に要求する伝統主義」、この伝統主義はですね、学問上の生態系を重んずる立場のことであり、またこれはアウグスティヌスの「知らんがために吾信ず」という言葉で示された立場でもありますが、この伝統主義のほうがですね、「知識とその伝達の本質に関して啓蒙思想よりもはるかに深い洞察に基づいている」と発言する。 これも七のところに出ております。そういうふうに発言するポラニーによれば、基底的事実として据えられるべきは、明示的な、つまり意識化の度合いが高い科学的合理主義の類のものではなくてですね、暗黙知、そしてそれと不可分の関係にある、信じるという、信じるという営為であります。そこでポラニーはこう言い切ります。「私は暗黙の思考とはすべての知識の不可欠の要素であり、それはまたすべての明白な知識に意味を与える究極的能力であることを認めてきた」と。これは七のほうに出ております。学問の生態系を損なわないことが究極的な能力に通じるとこういうふうに言っているわけであります。そういうふうに発言しているポラニーはですね、意識化の度合いの低いのを本質とする暗黙知、ポラニーはこれを、この暗黙知を言葉に置き換えることができないというふうに表現したりもしますが、これはウェーバーの言う呪術に近いものでありまして、このウェーバーの呪術に近い暗黙知が土台として基底的事実として根底的事実として学問上の生態系として位置付けられ、その上にですね、明晰に語ることのできる知識が築かれる。そういうふうに暗黙知と明示的な知識とが両立の関係を保っているところに本当に実り豊かな、つまり新たな発見に通じるような学問が成立する、こういうふうに言おうとしているのであります。信じるという営為はですね、傾倒という形でも起こるのでありまして、ポラニーによれば、コペルニクス主義者たちが、これは七のところに出てまいります、「ニュートンが証明するよりも140年も前に重圧にめげずに情熱的に」太陽中心説を主張しえたのは、傾倒すなわち、暗黙知に基づくところの信じるという営為、信じるという営為、行い、傾倒という形をとる、信じるという営為があったからであると言い切っています。そして学問的発見に内在する三つの要素をあげています。それはある真理を発見するということはですね、語ることができることよりも多くのことを知っているということである。これも七のほうに出てまいります。したがってそのある発見によって問題が解決される時にはですね、その発見は当の発見以外に不確定な範囲の内感を伴っている。さらに我々がその発見を真理として認める時には、前もって明晰には考えられはしないすべての帰結を信じるということに自らを傾倒させるということ。そういうことが起こっている。そういうことが要素として考えられると。こういうふうに述べております。不確定な範囲の内感を抱くとかですね、信じることに自らを傾倒させるなどという形で、その意識化の度合いの低いもの、非近代的なもの、暗黙知的なものが、意識化の度合いが高いもの、明示的なもの、近代主義的なものに先立つということ。明示知の前提は暗黙知であるということ。明示知に暗黙知が先立つということ、この順序、この順序がいかに大切であるのか。これをポラニーは『暗黙知の次元』という書物で力説しております。こういうふうに力説するのは、まさにそこに学問の真の在り方、学問の真髄があるとポラニーは信じているからであります。
ポラニーと対照的にですね、ウェーバーが『職業としての学問』において内感や傾倒、コミットメント、あるいは一般に暗黙知的なものを呪術、魔法として斥けたと断定できますのは、例えばウェーバーが次のように述べているからであります。これは八のところですね。「学問が、こんにち専門的に従事されるべき『職業』として諸々の事実的関連の自覚および認識を役目とするものであり、したがってそれは,救いや啓示をもたらす占術者や預言者の贈りものや世界の意味に関する賢人や哲学者の産物ではないということは、もとよりこんにちの歴史的情況の不可避的事実であって、われわれは自己に忠実である限りこれを否定することができない」、こういうふうに述べているからであります。意識化の度合いの低い非近代的なものを価値、掛け替えのないものとして評価する姿勢、そういう姿勢は大切であるということに気付き得ないが故にですね、事実的関連の自覚及び認識以外のものは、占術者や預言者の贈り物などと決め付けるのが容易になっているのではないかと私は思っております。ここから世界の意味に関する賢人や哲学者の瞑想は学問にとって不要だということにもなりまして、それはこんにちの歴史的情況の不可避的事実だという断定にも繋がるのであります。啓蒙思想の流れにどっぷり身を浸していない場合のウェーバー、ウェーバーは必ずしもそうではないのですが、『職業としての学問』においてはですね、まさに啓蒙思想の中にどっぷり身を浸しているという感じを否定することはできません。そういう場合のウェーバーはいかにも啓蒙思想家にふさわしく、こういうふうに発言するわけですね。 啓蒙思想から一定の距離を保つ術を心得ている人々というのが確かにいるわけで、そういう学者がいるわけですが、そういう意識化の度合いの低い非近代的、非進歩的なものを評価するのをウェーバーはあげつらって、これも八のほうに出てきますが、極めて文学的ともいえる表現を行っております。「ほうぼうの国から集められた」、これは呪術を、ウェーバーは呪術を評価する人々、学者を揶揄するわけですね、「ほうぼうの国から集められた聖者の像で面白半分にかざりたてた一種の邸内礼拝堂を設け、あるいは、彼らが神秘的な救いの神聖さを備えていると考えるあらゆる種類の体験のなかから代用品をつくりだし、これを手にして読書界を行商して歩く」などと巧みな比喩的な表現に淫すると、つまり度を越えて熱中するということにもなりますが、ウェーバーのこの表現の中で特に注意を引かれますのは、非近代的なものとは代用品のことだと、学問上の生態系なるものは代用品のことだと言っているところで、これは再び申しますと非近代的なものを基底的事実ととらえたうえで、非近代的なものと近代的なものとの両立をはかるという学問の方法がありうることを斥ける立場の表明に他なりません。
ウェーバーの言う学問が、マイケル・ポラニーの言う学問と対照をなしているのは既に明白ですが、スイス生まれの、スイス、バーゼル生まれのローマ法学者バハオーフェンの言う、このバハオーフェンという人は1815年に生まれて1887年に亡くなった方ですけれども、バハオーフェンの言う学問とも全く相容れないというのもまた明白であります。京都大学名誉教授の上山安敏先生はバハオーフェンの学問を次のように紹介しています。バハオーフェンは、「歴史的発展を研究したのではなく、宗教的ないし文化的な観念の層を研究する」のであると。これは宗教や文化という意識化の度合いの低いものを本質とするものを基底的事実ととらえて、つまり学問の生態系ととらえて研究すると言い換えることができるのでないかと私は存じております。こういうバハオーフェンの学問というのは、最も核心的な本質、これは九のところに出てまいりますが、つまり呪術世界、呪術世界というのは意識化の度合いの低い世界のことであります。この呪術世界の背後にある象徴世界、これは意識化の度合いの低い世界のことであります。象徴、あるいは象徴が本当に生きた力を帯びるのは意識化の度合いの低い世界においてであります。意識化の度合いの高い世界において象徴というのは、本当の意味では生きた力を持ち得ない、これも注意、ついでに注意していただきたいと思いますが。呪術世界の背後にある象徴世界を研究するという、これがバハオーフェンの立場、学問上の立場であると。批判的な学問方法、これは啓蒙思想を基底的事実にしたてあげた学問方法でありますが、この批判的な学問方法ではですね、問題に接近、近接はできるが、最も核心的な本質を解釈することはできない。こういう考え方に立脚してバハオーフェンは研究を行ったと。実証性、あるいは明証性の高い理性を頂点とするですね、意識化の度合いの高い世界のずっと下のほうに、ずっと下の層のほうにですね、学問の生態系とも称すべきものがあると、これはまさに意識化の度合いの低い世界でありますが、バハオーフェンはそれを母権制という形で発見したのであります。母権制を学問上の生態系として重視する姿勢を示しますが、バハオーフェンの場合はこの学問上の生態系として母権制を評価する姿勢は同時に社会においてその母権制を生態系として重視する姿勢に重なり合います。これをナチス・ドイツはですね、まさにその重なり合うところを利用します。ナチス・ドイツは、最初はバハオーフェンの母権制にたいへんひかれてこれに熱中しますけれども、やがてこの母権制を社会の生態系として認めることを厳しく否定しまして、父権制を強引にその社会の生態系にしたてるにいたります。これはナチス・ドイツが、ナチズムが学問においても掛け替えのないものを基底的事実にすることを拒否したということと一致する姿勢であります。 さてウェーバー流の学問とバハオーフェン流の学問の違いを上山先生は次のように示しています。これは九番目になりますが、九番目の六行目。「神話を未開民族の遅れた産物とみ脱呪術の道をたどるか、人間の文明によって喪失させられない原人間、の生かされた魂として見、神話の無時間性に生きようとするか、近代人はその選択の前に立たされる」。神話はここでは非近代的なもの、意識化の度合いの低いもの、非進歩的なもの、合理主義的に同一基準で測ることのできないものを表す言葉として用いられております。この神話をどう見るか、これは社会においても学問においても重要であるということになりますけれども、ウェーバー流の脱呪術、つまり呪術からの解放の道をとるのか、それともバハオーフェン流に神話の無時間性に生きる道をとるのか、これは確かに学問においても、あるいは社会にとっても根本的に重要な問題であるように思われます。神話の無時間性に生きるという時のそういう表現の暗示するものは、神話で表される非近代的なものはいつの時代にも再発見され、再認識され、我々の生や社会の生態系、つまり土台として、そして同時に学問の生態系、あるいは土台として再発見され、認識されるに値するものであるということでありまして、いつの時代にも再発見され再認識されるに値する非近代的なものとは、もう既に十分明らかなように掛け替えのないもののことであります。再発見された意識化の度合いの低い非近代的なもの、例えばバハオーフェンの母権制は、現実には社会の基底的事実となりえていなくてもいつの時代にも再発見され、再認識されるに値するし、また土台として基底的事実として認められるに値すると、そういうふうに意識するだけでも学問上、社会上、十分意義を有するという見方をバハオーフェンはとっているのであります。バハオーフェンは、前に申しましたように、バハオーフェンによって母権制はまさにその意識化の度合いの低い非近代的な古い層、私の表現で申しますと社会の生態系としてとらえられております。前にも申しましたように、ナチズムがバハオーフェンの言う母権制に父権制を取って代わらせ、父権制を社会の最も古い層に強引にしたてあげたのは、意識化の度合いの高いものだけでやっていけると、社会も学問もですね、やっていけると、ナチズムがそういうふうに思っていた。そういうナチズムの思い上がりをよく示しているのではないかと思います。
失われるべきではなかった掛け替えのないものが失われる。失われたものに対して、あるいは失われようとしていることに対して熱くなるかならないか、これはバハオーフェンにとってばかりではなく、ニーチェ、(ニーチェはバハオーフェンと深い関係があります。同じくバーゼルにおりましてバハオーフェンの家にニーチェは出入りしていろいろ教わっております)このニーチェにとっても、学問上、そして社会上頗る重要な問題と意識されていたようでありまして、『反時代的考察』の中で、これはニーチェの代表的著作の一つですけれども、死すべきでなかったラファエロ、ラファエロというのは1483年に生まれて1520年に亡くなったイタリアの著名な極めてもう有名すぎるほど有名な芸術家でありますけれども、ラファエロのごとき掛け替えのない人物が「三十六歳の若さで死なざるをえなかったことは道徳を侮辱する」と語っておりますが、そういうふうに語る時、ニーチェはですね、ラファエロという掛け替えのない人物がかつては存在したがもはや存在しないことに対してラファエロの死後、三百、三百年以上経ってもニーチェは熱くなっているのであります。熱くなるのは、ニーチェが熱くなるのは、ラファエロのように意識化の度合いが低い、意識化の度合いが低い非近代的なもの、これをニーチェは能産的自然という語で表しますが、これを体現するものはいついかなる時代にも再発見されなければならない、再認識されなければならないという切実な思いを抱いているからであります。これは、レジュメでは十のところにまいりますか。そういう、そういう姿勢がありうるということを知らずにですね、このニーチェのような、あるいはバハオーフェンのような学問上、社会上の姿勢がありうるというのを知らずに、すべてを単なる事実的関連に還元して歴史発展段階論的に、あるいは進歩主義的に次のように述べたとしたら、すなわちニーチェから引用しますと、「ラファエロは彼のうちにあったすべてのものを発表し尽くしたと、もっと長く生きたとしても美しいものをただ美しいものとしてただ繰り返し創作しただけであって、新しい美しいものとしては創作し得なかったであろう」などと、つまり能産的自然、意識化の度合いの低い、その掛け替えのないものをですね、体現する芸術家としてのラファエロは、歴史的役割をもう既に永遠に終えた、終えていたのであり、あとはもうただマンネリだけしかありえなかったなどと決め付けてですね、掛け替えのない存在が失われたことに熱い思いを抱き続けることの無意味をですね、無意味を説くような語り方、この悪しき歴史主義に基づいたこういう語り方をする人をですね、悪魔の弁護士というふうにニーチェは表現しております。ウェーバーとはまさに対照的な学問方法を語っているのわけでありまして、学問の生態系と絶縁した場合に生じる、その知の大型経営化への適応を、あるいは順応を唯々諾々と受け容れる学問従事者を、ニーチェは雌鶏、鶏の字がちょっと打ち間違っておりますが、ニーチェはですね、これは十のところですか、レジュメでは十のところ、雌鶏に譬えてですね、精根尽きたる、産卵することを強制される雌鶏に譬えましてですね、速やかに大量に産卵することを、卵を産むことを強制される雌鶏に譬えまして、精根尽きたる雌鶏たる学者に注目せよ、『反時代的考察』の中で書いておりますが、そのニーチェが今日の知の大型経営化、官僚制化を目の当たりにしましたら、そこに学問の倒錯的歪みを感じ取って吐き気を催したに違いないと思います。 学問が真っ当に、つまり発見に繋がるように形で行われるためには、ウェーバーの言う呪術、つまり非近代的なもの、非進歩的なものですね、あるいは意識化の度合いが低いもの、人文科学はこの範疇に入ると信じますけれども、これが根底として基底的事実として学問の生態系として位置付けられなければならないと信じる者は、現在の傾向、すなわち学問の合理化、大型経営化に沿わないもの、例えば今、申し上げた人文科学のようなものですね、これを排除しようとする強い傾向、文科省の規制撤廃に端を発する強い傾向に、使い捨てを本質とする学問が主流と化しているということを感じざるを得ないのであります。ウェーバーの言う、打ち破られ、時代遅れとなることを欲する学問、これは使い捨てを本質とする学問と言い換えられるものでありますが、その非近代的な掛け替えのないものから解放されることによって初めて遂行されると事実上、唱えられるにいたっている、この大型経営化している学問、これは、こういう学問は、本当に、本当に対象、研究対象を的確にとらえたり、あるいは発見に通じたりする学問でありましょうか。疑いを抱かざるを得ません。既に見ましたように自然科学者マイケル・ポラニーは、こういう学問に否定的な答えを与えたのですが、ポラニーとの関連で申しますと、学問研究においてヒューマニティ、人間性ですね、人間性、人間性を基礎事実、基底的な事実にしうるか否かということが決定的な重要な問題となってくる場合があります。
人間性もまたですね、本来、意識化の度合いが低い非近代的なものとして、換言すれば、習俗や宗教という非近代的なものと分かちがたく結び付いたものとして、習俗や宗教に育まれるものとして存在するものでありまして、二十世紀になって、近代主義者たち、ジャン・ポール・サルトルとかですね、あるいはアメリカのアーヴィング・バビットなどによって唱えられたヒューマニズムと称せられる思想は、あるいはドグマはですね、むしろ人間性からの離脱、離反、したがって意識化の度合いの異常な高さを本質としているのでありまして、それは宗教という根源、基底的事実ですね、に本当のところは取って代わり得ないのに、取って代わりえたと自負し、自ら根源を持って任ずる、自らルート、ルートを持って任ずる。そういうことによってですね、破壊的になり、そして短命に終わったと言えるのであります。こういうヒューマニズムに関しましては、英国の二十世紀の十年代から、1910年代から60年代にかけて活躍しましたT. S.エリオットという詩人の言葉が参考になります。こういうふうに言っております。「ヒューマニズムは宗教に取って代わりうるものであるか、宗教の付属品であるか、そのいずれかである。私の見方ではヒューマニズムは、宗教が力強く存在する時に最も栄えるのであり、宗教が力強い根源として存在する時、宗教に付属するヒューマニズムは最も栄える」と、こういうふうに言っておりますが、これは『愚神礼賛』を書いたエラスムスに見事に適用されえます。エラスムスのヒューマニズムは、この二十世紀に現れたヒューマニズムとは違うわけですね、宗教に取って代わりうるなどとは夢信じていませんでしたから。エリオットは、ヒューマニズム的慣習などというものはないという言い方をしていますが、つまりヒューマニズムは、この二十世紀のヒューマニズムはですね、人間性と不可分に結び付いた習俗を基底的事実としえない。したがってヒューマニズムは結局、寄生虫的に存在するしかないというふうに言っているわけですが、言っていることになりますが、時間が迫ってきましたので少し急がせていただきます。
このエリオットとの関連で英国の優れた思想家でありますアイザア・バーリン、これはレジュメで言いますと、十三、いや十一のところになるかと思いますが、アイザア・バーリン、アイザア・バーリンを取り上げることにいたしますと、バーリンは、その意識化の度合いの低い非近代的なもの、この場合、人間性ですね、人間性を根源に据えて、あるいは基底的事実として、あるいは学問上の生態系としてですね、そういうふうにして学問に従事する術をこのうえなく見事に備えていた思想家と言えるのであります。その具体例としてバーリンが、ナショナリズムをどうとらえていたのかを見てみたいと思います。バーリンは人間性を前提としておりますから、人間性に立脚した健全なナショナリズムがよく見えていたし、そのナショナリズムが病的で攻撃的で反文化的なナショナリズムに変化する過程もよく見えていたのであります。バーリンの場合、その学問においてですね、人間性を基礎事実として重視することと、社会において人間性を基礎事実として重視することとは一致していたと言えます。重なり合っていたと言えます。人間性を根源に据えることをしない知識人が、基底的事実としえない知識人が、知識人が、ナショナリズムが病的なものに変質するのを的確に見ることができないのと対照的に、バーリンは、その変質過程がよく見えたと。したがってナショナリズムに関して優れた論文を発表しております。「ナショナリズム、過去において無視され現在において力を帯びているもの」という論文ですが、この論文の冒頭でですね、高潔integrityとかですね、誠実sincerityとかですね、寛容toleranceとかいうもの、これらはまさに人間性と不可分に結び付いているものですが、こういうものの価値は比較的最近になって発見されたという意味のことを語っております。これは私なりに論述いたしますと非近代的なものを刻印された、刻み付けられた意識化の度合いの低いもの、社会の生態系、そしてそこに育まれる人間性に連なるものが価値として発見されるというのは、時代の新しさとか古さとかとは本来関係がない、時代の新旧とは関係ないということでありまして、非近代的なものは古い時代においてしか目に留まらないし、価値を有しないなどという見方はですね、いかにも近代主義的偏見に基づくものであります。そこでこう言えると思います。新しい時代において非近代的なものを再発見し、これを再認識し、価値として甦らせる理由は十分にあるし、また甦らせるのは可能であると。ところでバーリンにおいては既に申しましたように、社会における生態系の重視と学問における生態系の重視とが渾然一体となっているようになっているように思われます。あるいは幸福な一致を見出しているように思われます。ナショナリズムは、バーリンの見るところでは、本来、意識化の度合いの低い非近代的なものとして存在します。つまり、人間性と固く分かちがたく結ばれたものとして存在します。このナショナリズムは繰り返しますが、人間集団、共同体や民族や国民、ネイションという言葉は、民族と訳すか、国民と訳すか微妙なところですけれども、民族、括弧して国民と訳しておきますが、共同体、民族や国民、人間集団ですね、国民が長期にわたって習俗、法律、思い出、信仰、国語、宗教的表現、社会的制度、生活様式、あるいはその神話とか叙事詩とか伝説とかですね、そういうもの、歌謡とか舞踊とかですね、そういうものを共有するという形で、したがって人間性と分かちがたく結び付いた形でナショナリズムは存在します。この場合、意識化の度合いの低いもの、社会の生態系、そしてそこに育まれる人間性はですね、個人においてよりも共同体や民族や国民においてより確かに保たれるという認識がはたらいている事実の確認は重要であります。バーリンはこう述べております。これは十一のところですね。「人間性が十全に発揮される際に不可欠な単位は個人ではない。随意な解散や変更や脱退のきく任意の結社ではなくて民族である、国民である」。人間性という非近代的なものが歪められることなくしっかり保たれるとしたら、社会の生態系から離反しない、社会の生態系をより確かに保つ、この民族、あるいは国民の存在を除外して考えることができない、そのナショナリズムはですね、本来、社会の生態系としてそして人間性を保障するいわば安全装置として機能するという認識がバーリンによって示されております。考えてみますと国境なきグローバリゼーションの直接的な支配を受けた場合にですね、人間性をいかにして保つのかという問題は本当に重要な問題ではないかと考えられますが、それはさておきまして、とりわけバーリンはですねドイツのナショナリズムの命運に注目します。意識化の度合いの低い非近代的なものが、個人においてよりもさらに堅固に根付くような形で有機体に他ならない民族あるいは国民や共同体において保たれ、その具体的表現として伝説、叙事詩、神話、法、慣習、歌謡、舞踊、宗教的および非宗教的象徴があるのを先ず見届けます。このような形で、人間性に基づいた形でですね、自己表現が行われるところにナショナリズムの本来の姿が見出されるとバーリンは考えております。つまり、ナショナリズムは本来、人間性を基礎事実、基底的事実とするところにその姿が、本来の姿があるのであります。人間性という基礎事実と切り離しては考えられない、掛け替えのないもの、習俗、伝説、国語、その他、掛け替えのないものによってですね、自己表現がなされた場合にそこにナショナリズムが認められる、とこういうふうにバーリンは見ているのであります。これはバーリンの学問自体がですね、人間性を基礎事実としているからナショナリズムがそういうふうにとらえられるのであります。バーリンの目にドイツのナショナリズムの変質がよく見えたと前に申しましたが、人間性に深く根を下ろし、民族、国民や共同体の内面的生活の多様性や社会生活の型に、啓蒙思想にではなくですね、社会生活の型に浸る術を心得ていたドイツの人々、十七世紀末から十八世紀初めにかけてのドイツの人々に対してですね、隣国フランス、すなわち啓蒙思想、本来、自然科学や数学の領域にしか適用されえない原理や法則や基準を、スタンダードを文化や宗教や文学や、その他人文科学の諸領域に強引に適用しまして、意識化の度合いを必然的に高めるはたらきをする啓蒙思想を基底的事実にしたてて、ドイツに対して、ドイツの人々に対して優越意識を、優越感を抱くようになっている十七世紀末から十八世紀の初めにかけてのフランス、そのフランスに対する激烈な反発が意識化の度合いの低い基底的事実からの離脱を図る動きをドイツの人々の間に引き起こします。特にインテリゲンチャの中にそういう意識化の度合いの低いものからの離脱を図る動きを、運動を引き起こすとこういうことが見届けられております。それは自民族に関して一つの被害者意識をばねにして形成されるイメージを後生大事にかき抱いている人々、インテリゲンチャ、このように被害者意識をばねにして抱かれるにいたったその自己イメージをですね、大事にかき抱いた人々、インテリゲンチャは明らかにこの意識化の度合いを国民一般の間にも高めるはたらきをせずにはおきません。バーリンは次のように書いております。このような人々、ドイツのインテリゲンチャですが、このような人々は、「民族(国民)に向かって語りかけたり、ものを書いたりし、民族、国民全体が不当な仕打ちを受けていると意識せしめるようにやっきになった人々である」と。本来、人間性を基底的事実とするナショナリズムは、知識階級によって変質させられ、もはや基礎事実が人間性ではなくて、非人間的、非人格的、抽象的なエネルギーになるということが起こります。そういう時に、自然科学的、客観的な手法がナショナリズムにも適用されることは自然の成り行きでありまして、かくしてナショナリズムは非人間的、非人格的エネルギーに専ら還元されまして、そこから優劣の観念や敵対的意識などが否応なしに導き出されて、他の国や国民はですね、わが国やわが国民に比べて客観的に見ても、客観的な基準を適用しても、劣っていることが判明するという見方が牢固として抜きがたいものになってまいります。掛け替えのないもの、すなわち人間性からの離反によって初めて可能になるこういうナショナリズムが攻撃的性質を帯びないわけがありません。そういうことがバーリンにはよく見えていたのであります。早い話が攻撃的なデモにどれだけ大量に人々を動員できるかとかですね、非人間的、非人格的なエネルギーにどれだけ破壊力を帯びさせるかというのがこういうナショナリズムの最も重要な課題になります。
ドイツの優れた法学者ルドルフ・フォン・イェーリングが『権利の闘争』の中で言っているようにですね、客観的になるということは抽象的になるということで、それは多少とも人間性からの離反を伴わずにいないのでありますが、意識化の度合いの低いのを本質とする掛け替えのないものからの離脱を、呪術、呪術からの解放とみなす客観性、あるいは専門性重視のウェーバー流の学問方法は、人間性を基底的事実とするのではなくて、抽象的で非人間的なエネルギーを基底的事実とするという特色を有する学問、大型経営化を特徴とする学問に弾みをつけることになると申せましょう。それはグローバリゼーション下の今日の学問の情況でありまして、すなわち文科省による規制撤廃の必然的結果として、専門科目重視、人文科学軽視という情況をもたらしています。
人間性を基礎事実として認めない、そういう学問の情況に対しては、私は不安を覚えざるをえません。あらゆる神学は、宗教的な救いの主知主義的合理化に他ならない、これはウェーバーの言葉ですが、などというそのウェーバーの見方の普遍化に基づく、つまり、学問は専門化と大型経営化をたどる道に、今日の人間性に関わる本当に重要な問題を度外視することに繋がっていくのではないかという疑いを抱かざるをえません。
例えば民俗学者柳田國男は、国民を、これは十六のところです、レジュメの十六のところです、「国民をそれぞれ賢明ならしめる道は学問より他にない」という表現を『先祖の話』の中で用い、『青年と学問』という著書の中では、学問のみが世を済うを得べしということを信ぜざるをえぬようになった」とか、「いかなる大災害の真中においても日本の学問は進みつつあった」という表現を用いますが、柳田は、柳田國男の学問は意識化の度合いの低いもの、掛け替えのないもの、社会の生態系を基底的事実とする学問であり、この学問の基底的事実、こういう学問の基底的事実を柳田國男は、『日本の祭り』と題する本の中では、「文字には」、これは十六のところですね、レジュメの十六のところ、「文字には録せられず、ただ多数の人の気持ちや挙動の中に、しかも殆ど無意識に含まれているもの」と表現したりしておりますが、要するに意識化の度合いの低さと非近代性とを刻印された、刻み付けられた習俗、民俗ですね、民俗学の民俗は習俗の意味であります。そしてその習俗あるいは民俗から離れて存在しようのない人間性が柳田における学問の基底的事実であります。習俗を基底的事実にする学問、すなわちこの場合は民俗学ですね、民俗学は啓蒙思想を基底的事実とする学問とはおよそ対照的な学問であります。しかし、まさにそれ故にですね、この学問は、近代の問題の最も核心的な本質に迫ることができると申せましょう。柳田國男は『日本の祭り』の中で、こう言っております。これは十六のところです。「もしも今日の如き時勢において学者にも正しく説明しえない世相が後から後から現れてくるようであったら、それこそ国は救いがたき紛乱に陥るのである。警戒しなければならぬ危機だと思う」と。柳田國男はですね、啓蒙思想を基底的事実にする学者の問題を取り上げているのであります。柳田國男は、学者、すなわち人間性と不可分離の関係にある習俗を基底的事実にしえないが故に、問題、近代の問題をですね、世相、ここでは世相という言葉が使われていますが、正しく説明し得ない学者、こういう学者がいるのだと言っているのです。こういう学者は、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』で描かれている次のような学者に酷似、ひどく似ているといえます。『ツァラトゥストラ』の中でニーチェは、「学者たちは冷ややかに座っている、彼らは何事につけ、ただ観照者であろうとする。そして太陽が灼くように照りつける階段に降り立つことを避ける」。つまり、これは呪術から解放された啓蒙主義的学者の姿でありますが、今日の学者の問題は、人文科学をウェーバーの言う呪術とみなし、これからの離脱を積極的に肯定し、高度の専門性と客観性に徹するという形で、観照者になるということにありますが、一方、このような学者は、現実的にはグローバル自由市場の直接的な、したがって専制的な支配化に入り、利潤追求という第一主義、意識化の度合いの極めて高くなった民間、私はこの民間に括弧をつけて使っておりますが、その民間、括弧つきの民間は、多国籍企業であり、大企業であり、大金融機関であり、社会とは必ずしも重ならない、むしろ社会を侵食するところの民間でありますが、その民間にとっての第一真理、このグローバル自由市場をまさに体現しているこの民間にとっての、括弧つきの民間ですね、第一真理である利潤追求に知らず知らずのうちに奉仕する役割をこういう学者は演じることになりかねません。ニーチェの言う太陽が灼くように照りつける階段に降り立つとは、掛け替えのないものを基底的事実として学問に従事すると解釈することができるのでありまして、そういう学問は大型経営化し、官僚化した今日の学問とは著しい対照を、既に明らかなように、なしております。 習俗を掛け替えのないものとみなし、習俗が傷付けられる時ほど、国や社会が傷付けられることはない。
習俗の侵害は法律の侵害よりももっと悪質であると語ったモンテスキュー。これは十九のところですね、十九のところに出てまいります。習俗の確立は犯罪を予防するとも『法の精神』の中で語っておりますが、このモンテスキューは太陽が灼くように照りつける階段に降り立つ術を心得ていた学者、つまり非近代的な掛け替えのないものを基底的事実とする術を心得ていた学者と申せましょう。柳田國男を初めとするわが国の優れた民俗学者たちもまたそういうモンテスキューに似たような学者だったのでありまして、宮本常一は『家郷の訓』という本の中で、非近代的な掛け替えのないものを旧弊、習俗なのです、これを旧弊という言葉で敢えて表しまして、それは「先祖の意志を継ぎ、かつ家永続を願う」意志であり、「村を美しき共同」、共同体ですね、「共同体におこうとする」意志の表れであり、躾もまたこの旧弊に属するという見方を提示しています。「今の時勢」において困難な問題に直面した時など、「旧弊を滅ぼそうとしている人たちが、ことある時自らは新しい方法で処理することができず、やはり村の物識りと言われる人々に聞いているのをしばしば見たと語っておりますが、この村の物識り、村の物識りに聞くというのは、旧弊を基底的、習俗を基底的事実とする術を心得ているということであります。そういう習俗を基底的事実にする術を心得ている人に相談するということであります。旧弊を基礎とすることは、基底的事実とすることは個性を伸ばすことと矛盾しないという意味のことを語っておりますが、この場合、個性をですね、知性に置き換えても一向にかまわないと思います。こういうふうに言っています。二十のところですね。「かつて良き村人と言われる者は、先ず何よりも村の風をよく理解して、これに従うことであった。つまり、村の色に最もよく染まることであった。これは自らの個性を失くするように見えるけれども、それによってむしろ個性が活かされもしたのである。村人として共通のものを持ちつつ十人集まれば十人十色であった」。この個性を知性に言い換えても一向にかまわないと思います。 真の理想主義や理念が、観念や思想やイデオロギーからではなくて感覚、感覚からしか生まれない。これはイェーリングが『権利のための闘争』で語っていることでもありますが、確かにイェーリングが言っているとおりでありまして、真の理想主義や理念がですね、感覚から生じえないようにですね、本当の本物の個性も、あるいは本物の知性もですね、ここで表現されている村の色とか習俗とか旧弊というものを土台とするところからしか生まれないというふうに言えると思います。そして、躾は旧弊の一部であるということは、近代主義的な学校教育の基底的事実をなすということでもありまして、この躾という基底的事実は学校教育に先立たなければならない。学校教育よりも根底的に重要であるという観点からですね、宮本常一はこう述べています。躾の状況が本当に分からないと教育効果が著しく削がれるというのは明白である。宮本常一はですね、自分は民俗学という学問を「趣味ではなく痛切な必要感から学び始めた動機は、この苦悩の解放」、つまり、彼の言葉でいう旧弊、習俗ですね、習俗を基礎事実とする学問に打ち込めるようになる、これを苦悩の解放と言っております。「苦悩の解放にあった」のだが、そういう学問に打ち込めるように、打ち込めるようになるために自分はその民俗学という学問に歩み入ったと、分け入ったと言っております。ところが、「いつかその学問を教壇の上に活かすことはしなくて」、教壇の上に活かすことはできなくなって、「教壇は捨てて〔教壇の外で〕学問に専心するようになってしまった」と述べております。民俗学を初めとする非近代的で意識化の度合いの低いのを基底的事実とする学問が大学の教壇の上で活かされ続けるということ、そういう学問が大学の教壇から追放されないということ、掛け替えのないものに思いをいたし、これを基底的事実、根底的事実とする学問が大学で周辺に追いやられないということ、そういうことは社会破壊を特徴とするグローバル自由市場の専制的支配下で、ますます意義を有するようになっていると私は思います。
レジュメの最後にうつらせていただきたいと思います。私はレジュメの最後で「意識化の度合いの低さ、非近代性、非進歩性を本質とする掛け替えのないものを基礎事実、あるいは基底的事実とする学問を大学の外に追いやるのではなく、これを大学の内側に保ち続けるということは重要であるように思われる。学問の領域にも規制撤廃が適用され、利潤追求というグローバル自由市場の第一原理に沿わない基礎科目を教壇の上に活かすことができなくなるような事態は避けなければならないという認識の共有も重要であるように思われる。学問の真の豊かさと発展のために、グローバル自由市場、すなわち社会の生態系、そして社会の生態系が破壊されない場合のみ育まれる人間性を、規制撤廃を通じて破壊する傾向のあるグローバル自由市場に学問は安易に順応しないというのは大いなる意義を有しているように思われる。学問にも生態系があるからであり、学問の生態系と社会の生態系とが響きあう関係を保つところに学問の新たな可能性が見出されるように思われる」と、こういうふうに結んでおります。以上、まことに拙い最終講義となりましたが、本当にご清聴まことにありがとうございます。厚く御礼申し上げます。
照屋先生の著作一覧
『イギリス文学に学ぶ―文学と政治』
『文学と哲学のあいだ』
『ジョージ・オーウェル―文学と政治』
『社会の再発見と社会の防衛』
『共同体とグローバリズム』
『文学から文化へ―〈特殊〉の再発見』
『ロレンスの青春時代』
『現代イギリス文学試論―文学と政治』
『コンラッドの小説』
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