戦後の長崎県は、消費県であったために全国の中でも特に深刻な食糧難に見舞われていた。食糧事情が改善されたのは昭和26年以降である。巡幸が行われた昭和24年は、ヤミ米買いが流行し、長崎や佐世保などの市民は衣料品を食料に換えるタケノコ生活を余儀なくされていた。また基幹産業であった造船業は、戦中の原爆被害に加えて、戦後の財閥解体と造船中止命令などにより壊滅的な打撃を受けていた。ようやくこの頃、占領軍の方針転換により、造船業が復活の兆しを見せていた。
昭和天皇が長崎に玉歩をしるされるのは大正9年4月2日以来、実に三十年振りのことである。この年は、ザビエル来訪四百年にあたり、奇しくも天皇陛下と入れ違いにザビエルの聖腕と巡礼団が長崎に到着している。また5月10日には長崎国際文化平和都市建設法案が衆議院本会議で可決されたばかりであった。
長崎巡幸は、26日の御休養日を挟んで、5月24日から28日にかけて行われた。長崎巡幸で特記すべきは、天皇陛下が永井隆博士をお見舞いになられたことである。放射線研究で知られる永井博士は、原爆投下の際に、夫人を亡くし自らも重傷を負いながら、原爆の惨禍にさらされた人々を救おうと奔走した。昭和24年当時、既に刊行されていた『長崎の鐘』、『この子を残して』などの著作は多くの人々に感銘を与えていた。天皇陛下は『この子を残して』をお読みになっていたという。永井博士は浦上の原子野に建てられた如己堂で病臥していたが、5月27日、天皇陛下をお迎えするために長崎医大付病院に担架で運ばれた。当初は屋上で天皇陛下をお迎えする予定であったが、永井博士の病状をお聞きになった天皇陛下より屋内で出迎えてもよいとの優諚があった。
天皇陛下のお見舞いを長崎日日新聞は次のように報じている。
「原爆を体験した最初にして唯一の人類が、かつて神と敬い、今あこがれの的と仰ぐ陛下を眼のあたりする。その光景、その表情、その中で長崎が生んだ原子学者永井隆博士と陛下のお取り合わせはあまりにも意義深い世界的ニュースであろう」
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みほとけの教まもりてすくすくと生ひ育つべき子らにさちあれ |
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●「おさみしい?」(昭和24年5月22日)
佐賀巡幸の際に昭和天皇は、孤児院の洗心寮をご訪問になり、両親の位牌を持った子どもに位牌についてお尋ねになり、お言葉をかけつつ頭を2度ほどなでられた。
●「また来るよ」(昭和24年5月22日)
同じく洗心寮で、孤児の1人が昭和天皇のお服の端を掴んで離さず自動車の所までついてきた。昭和天皇はその孤児に対してこうおっしゃって笑顔で別れを告げられた。
●「みんなをよくそだててね」(昭和24年5月22日) 同じく洗心寮で、天皇陛下は寮長にお声をかけられた。
●「お気の毒ですね。明るい気持ちでしっかりやって下さい」(昭和24年5月22日)
同じく洗心寮で、天皇陛下は未亡人にお声をかけられた。
●「肥料はどういうふうに作るの」(昭和24年5月22日)
木材から肥料ができると説明をお聞きになった天皇陛下はこうご質問された。
●「いろいろ困難なことがあるでしょうが、ますます増産に励んで下さい」(昭和24年5月22日)
日清製粉鳥栖工場をご視察になった昭和天皇は激励のお言葉を述べられた。
●「相当な成績はあげたようだが食糧増産のためますます努力してもらいたい」(昭和24年5月22日)
目達原開拓地をご訪問になった昭和天皇は、農業組合長にお言葉を賜った。
●「すまないことをしたね。大変だろうが、これからもしっかりして下さいよ」(昭和24年5月22日)
協楽園で天皇陛下は戦死者未亡人に親しくお声をかけられた。
●「随分忙しそうだね。病人は出ないの」(昭和24年5月22日)
片倉製糸小城工場で天皇陛下は片倉社長に工員の健康についてご下問になった。
●「大変なものだね」(昭和24年5月23日)
佐賀板紙でかまぼこ型の原料のわら積みをご覧になった天皇陛下は思わずこうおっしゃった。
●「網目はどうして作るの」(昭和24年5月23日)
香蘭社で有田焼の製造工程をご覧になった昭和天皇は製造工程についてご関心を寄せられた。
●「勉強していますか」(昭和24年5月23日)
佐賀巡幸の際に藤津郡五町田村塩田橋で、昭和天皇は突然御料車から降りられ、そこに並んでいた孤児たちにお声をかけられた。
●「アメリカで大変評判がよいと聞かされたが相当濃いのは紅茶と違うのだね」(昭和24年5月23日)
佐賀巡幸の際に嬉野茶業試験場にお立ち寄りになった天皇陛下は茶葉の違いについてご関心を示された。
●「よくできていましたね」(昭和24年5月24日)
佐賀巡幸の際に厳木中学で生徒たちの作品や研究をご覧になった天皇陛下はこうお褒めになった。
●「ここは景色のいいところだね」(昭和24年5月24日)
佐賀巡幸の際に昭和天皇は舞鶴公園に赴かれた。
●「ここは遺家族の方が大分多いようだが社会事業はうまくいっているかね」(昭和24年5月24日)
佐賀巡幸の際に昭和天皇は舞鶴公園でお迎えする遺家族をご覧になってお尋ねになられた。 |
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