第二次世界大戦中、福岡県は、九州の中でも重工業地帯が集中していたため、福岡市を初めとして度重なる空襲にさらされた。福岡県内の主な都市に限っても20万人以上の人々が戦災で家を失った。特に鉄鋼産業の要である八幡と石炭鉱業の要である大牟田は甚大な被害をこうむった。昭和21年の福岡県の鉄鋼産出高は、昭和14年の約20分の1に落ち込んでいる。また昭和21年の石炭産出高も昭和15年の半分以下に落ち込んでいる。福岡県の産業が復興の兆しを見せ始めたのは、昭和25年の朝鮮特需以降である。 昭和24年5月18日午後7時40分、昭和天皇は京都から小倉駅にご到着になった。昭和天皇が九州にお足を踏み入れられるのは、実に昭和10年の陸軍特別大演習以来14年振りである。福岡巡幸は、昭和24年5月17日から22日と5月28日から29日に行われている。6月10日から11日はご帰途である。福岡巡幸での挿話をいくつか紹介したい。 5月19日、国立小倉病院に向かう御料車の前に子どもが飛び出すという事故があった。その時、運転手は「轢いた」と思ったという。後に侍従長が子どもは無傷だった旨を申し上げると、天皇陛下はようやく愁眉をとかれた。また同日、八幡製鉄所ではクレーンで吊るされた灼熱の鉄のブロックが急に返ってくるという手違いがあり、案内の社長自ら逃げ出すという一幕もあった。また5月28日にご視察された久留米医大は当初巡幸予定先に入っていなかったが、1人の学生の懇望によりご視察が実現したという経緯があった。 福岡市の平和台競技場に集った人々の状況を、西日本新聞は次のように伝えている。 「7万人の君が代の大合唱は紺ぺきの空を圧して怒とうのようだ。お召車がグランドを一周するころは歓迎者の興奮はもう最高潮、車上中央から高々と帽子をおふりになる陛下めがけて浴びせるように日の丸の小旗を打ちふる。赤と白の波が右に左にゆれて、とどろくバンザイ、民衆の中の天皇のお顔はひとしお紅潮したようにみられた。国民の父として陛下をお慕いする国民の心がすなおに天皇とむすびついた一瞬であった」
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