昭和天皇はかねてより北海道巡幸の早期実現を望まれていた。しかし、警備に万全を尽くせないという理由で巡幸実施は見送られていた。血のメーデー事件、吹田事件、大須事件といった騒擾が相次ぎ、各地で労働争議が頻発していた。昭和二十九年になってようやく情勢が沈静化し、朝鮮戦争の休戦、駐日米軍の拡充、自衛隊の発足など好条件が重なって十分に安全が確保できるようになり北海道巡幸実施が決定した。
北海道巡幸は、昭和二十九年8月7日、青森港から御召船「洞爺丸」で函館港に入り、十七日間で函館、大沼、長万部、室蘭、登別、苫小牧、夕張、岩見沢、旭川、上川、北見、美幌、網走、弟子屈、阿寒湖、釧路、帯広、富良野、小樽、千歳を巡った。昭和天皇は道内すべてを巡ることを希望したが、日程の都合により稚内地方と根室地方は外された。この北海道巡幸では、御不予の時を除いて、ほぼ全行程にわたり皇后陛下が昭和天皇に同行されている。
函館港では、七十隻の汽船と二百隻のイカ釣舟が満艦飾で歓迎の意を表し、二十一発の花火が打ちあげられた。昭和天皇御到着の様子は、その当時放映が始まったばかりのテレビに映し出された。多くの人々が街頭に据え付けられたテレビで昭和天皇御到着の様子を視聴した。
植樹する昭和天皇
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今回の巡幸の道筋から外れた道北の人々が昭和天皇の御姿を一目見ようと旭川に一斉に押し寄せた。そのため旭川は十五万人の人出となり、旭川行きの列車は超満員、臨時バスまで出る騒ぎとなった。全国巡幸は佳境を過ぎたとはいえ、依然として多くの国民を熱狂させたのである。
北海道各地を巡った後、8月22日に昭和天皇は札幌に戻られ、国体会場で開会の辞を賜った。翌23日が北海道巡幸の最終日で、昭和天皇は最後の視察先である月寒種羊場を御視察後、一路千歳に向かわれた。帰路は千歳から羽田まで飛行機である。これが昭和天皇にとって初めての空の旅であった。 足かけ八年半、全行程三万三千キロ、総日数百六十五日に及ぶ昭和天皇の全国巡幸はここに旅の終わりを結んだのである。
全国巡幸はこうして幕を下ろしたが、まだ一箇所のみ昭和天皇が御訪問になっていない場所があった。沖縄である。当時はまだ沖縄はアメリカの占領統治下にあった。沖縄が本土復帰を果たすのは昭和四十七年年5月15日になってからである。
復帰後三年経った昭和五十年には皇太子殿下(現天皇陛下)と皇太子妃殿下(現皇后陛下)が、沖縄国際海洋博の開会式に出席するために沖縄を訪れになられた。ひめゆりの塔に亮殿下が花束を捧げ、その前で説明に聞き入っていると、突然二人の闖入者が火炎瓶と爆竹を投げつけた。幸い怪我人はなかったが、この事件が起こったために、昭和天皇が毎年毎年沖縄巡幸を希望されていたのにも拘わらず、警備上の理由で巡幸が見送られることになった。しかし、度重なる昭和天皇の御懇望と知事や県民からの数多くの陳情により1987年に沖縄県での沖縄巡幸が実現する運びとなった。残念なことにこの計画は実現することはなかった。昭和天皇が病に伏され昭和六十四年1月9日に崩御されたからである。昭和天皇は、沖縄巡幸への思いを次のようにお詠みになっている。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
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みづうみの面にうつりて小草はむ牛のすがたのうごくともなし
ひさかたの雲居貫く蝦夷富士のみえてうれしき空のはつたび
松島も地図さながらに見えにけりしづかに移る旅の空より
浜の辺にひとりおくれてくれなゐに咲くがうつくしはまなすの花
なりはひにはげむ人人ををしかり暑さ寒さに堪へしのびつつ
えぞ松の高き梢にまつはれるうすももいろのみやままたたび
水底をのぞきて見ればひまもなし敷物なせるみどりの毬藻
うれしくも晴れわたりたる円山の広場にきそふ若人のむれ |
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●「いろいろ苦しいこともありましょうが、どうか力を落さず国家のため尽くすよう希望します。なほ、ここに来られない方にも伝えて下さい」(昭和29年8月11日)
北海道巡幸の際に昭和天皇は旭川の奉迎場で遺族席に足をお運びになり遺族を励まされた。
●「綺麗だな」(昭和29年8月13日)
北海道巡幸の際に昭和天皇は小清水海岸を歩き、エゾカクラナデシコを見つけ思わずこう呟いた。
●「皇后が来られなくて残念でした」(昭和29年8月14日)
北海道巡幸の際にご体調を崩された皇后陛下を残してお一人で札友内小学校をご訪問になった昭和天皇はこうおっしゃって皇后陛下の不在を謝罪された。
●「もうパンは飽きた」(昭和29年8月15日)
北海道巡幸の際、昭和天皇は洋食が続くのに閉口された際のお言葉。8月15日から和食に改められたが、皇后陛下が御不予のためにお粥しか召し上がることがおできになれないとお聞きになると、昭和天皇もお粥で通された。
●「北海道は一番開発の余地があると聞いていますから、合理的・科学的にしっかり開発してください」(昭和29年8月21日)
北海道巡幸の際に昭和天皇は、道庁で知事の奏上をお受けになったが、その中でも泥炭地開発に特にご興味を示され、こうおっしゃった。
●「本日ここに全国各地から選ばれた諸君の元気あふれる姿に接することは私の深く喜びとするところであります。諸君は本大会の使命に鑑み、明るく正しい日ごろ訓練した力を遺憾なく発揮するとともに、今後ますます心身の育成に努め、国運の進展のため貢献されることを望んでやみません」(昭和29年8月22日)
札幌で開催された第九回国民体育大会開会式に臨御された昭和天皇はこうおっしゃった。北海道巡幸の日程は国体の開催にあわせて設定されたのである。
●「こういう人たちの苦労によって、北海道が開拓されたということがよくわかった」(昭和29年8月22日)
北海道大学で昭和天皇は、高倉新一郎教授から「松浦武四郎と北海道」について奏上をお受けになり、ご感想を述べられた。
●「顧みれば、昭和21年以来全国各地を回り、直接地方の人たちに会い生活の実情に触れ、相ともに励ましあって国家再建のため尽くしたいと念願してきたが、今回の北海道旅行によって一応その目的を達成出来て満足に思っている」(昭和29年8月23日)
北海道巡幸を終えられ還御される前に昭和天皇は全国巡幸についてご感想を述べられた。 |
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