全国巡幸は、近畿巡幸と東北巡幸に続いて年内に甲信越北陸と中国巡幸が行われ最高潮を迎えた。冷戦の顕在化という国際情勢の変化により、GHQは日本の保守層に対する態度を軟化させつつあったが、皇室への圧力は依然として変わらないままであった。GHQが宮家の数を減らすように指令したことはその一例である。
GHQ内部では、日本占領を円滑に行うために天皇制を政治的に利用しようという意見と、軍国主義思想の基になるような天皇制復活を警戒するべきだという意見二つに分かれていた。巡幸を実施すること自体については両者とも異存はなく、特に後者は国民に石もて迎えられ天皇陛下が権威を失墜させるのではという憶測に基づき賛意を示していた。しかし、各地で天皇陛下をお迎えする国民のお祭り騒ぎを見るにつけ、GHQ内部では天皇制復活を警戒するべきだという意見が強くなっていた。
甲信越北陸巡幸は、昭和二十二年10月から11月にかけて、長野県、新潟県、山梨県、福井県、石川県、富山県の順で行われている。長野のみは往路復路で二回に分けて行われている。
往路で長野県に立ち寄ることになったのは、水害のため上越線が不通になり、信越線を使用しなければならなかったからである。一日で新潟県に向かうことは無理であったために軽井沢で一泊し、長野県から巡幸を開始することになった。
この巡幸では、各新聞の報道の過熱ぶりが目立った。柏崎での休養日に昭和天皇は御宿泊所であった飯塚邸の裏山で散策をお忍びで楽しまれた。それに気が付いたカメラマンたちが、雨傘を手にゴム長を履いて山道を散策される昭和天皇をカメラにおさめようと後を追い、あまりに夢中になったために泥田に落ちたり、転倒したりする者が相次いだ。
視察する昭和天皇
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北陸では巡幸日程の前半は雨に祟られた。昭和天皇御自身、靴を泥に塗れさせ、全身から雨垂れを滴らせることがしばしばあった。新聞各紙の報道は、ますます過熱し、記者たちが締切時間に追われている様子をご覧になった昭和天皇が、彼らの車を先に行かせるようにと指示される一幕もあった。
甲信越北陸巡幸から一カ月も経たないうちに中国巡幸が開始された。中国巡行は、昭和二十二年11月から12月にかけて鳥取、島根、山口、広島、岡山の順で行われている。特に広島では、五万人もの市民が集まった奉迎場で、昭和天皇は初めてメッセージをお読みになった。昭和天皇は、原爆による惨禍を受けた広島市民への格別の配慮をお示しになったのである。
中国巡幸ではGHQ民生局のポール・J・ケントが巡幸のお目付け役として同行している。ケントは天皇制復活を警戒していた一人である。中国巡幸最終日にケントを激怒させた、いわゆる日の丸事件が起きた。中国地方から還幸途中に御召列車が兵庫県を通過した時に予期せぬ事態が起こった。沿線の大勢の人々が御召列車に向かって日の丸を振ったのである。当時、GHQの指令により日の丸の掲揚は厳禁されていた。その禁則が破られるのを目の当たりにしてケントは巡幸の中止をGHQの民政局に具申した。
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長野県
浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人たふとくもあるか
石川県
月かげはひろくさやけし雲はれし秋の今宵のうなばらの上に
富山県
立山の空に聳ゆるををしさにならへとぞ思ふみよのすがたも
鳥取県
わが国の紙見てぞおもふ寒き日にいそしむ人のからきつとめを
島根県
老人をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし
広島県
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり |
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●「一生懸命勉強してね。立派な日本人になってください」(昭和22年10月7日)
長野県巡幸の際に昭和天皇は二キロ余りをお歩きになり浅間山中腹の開墾地に向かわれた。出迎えた人々の中の三人の小学生にこうお声をかけられた。
●「肥料が少なくて困ろうが頑張ってネ」(昭和22年10月9日)
新潟巡幸の際に、北蒲原郡加治村で収穫作業をご視察され、新米をお手にとられ農夫を激励された。
●「手料理ありがとう」(昭和22年10月12日)
新潟巡幸の際に御宿泊になった飯塚邸の息女に天皇陛下はおもてなしの礼を述べられた。
●「皆んな明るい気持ちで元気にやってネ」(昭和22年10月12日)
長野巡幸で奉迎を受けられた際、天皇陛下は、戦災孤児をご覧になってお声をかけられた。
●「この付近に戦争中むだな穴を掘ったというが、どこか」(昭和22年10月中旬)
長野巡幸の際に、天皇陛下は展望台で松代大本営跡の所在についてご質問された。
●「苦しいでしょうが、どうか明るい生活を送ってね」(昭和22年10月15日)
山梨巡幸の際に昭和天皇は、甲府にある荒蓆敷の部屋をご訪問され、戦災者を励まされた。
●「今度は日程の都合で行くことが出来ないのは残念である。遠い所をよく来てくれた」(昭和22年10月)
福井巡幸の際に昭和天皇は、遠い海岸地方から奉迎場にはるばるやってきた人々に謝意を示された。
●「この付近にも、こんな立派なものができるのか」(昭和22年10月28日)
石川巡幸の際に昭和天皇は奥原農業共同作業所にお立ち寄りになり、試作品の南京豆を指さされお尋ねになった。
●「患者の前で病歴を詳しく説明することは、以後止めにするよう、関係方面へ注意して置いて欲しい」(昭和22年10月下旬)
石川巡幸の際に昭和天皇は、患者の病歴をいちいち詳しく述べる院長に対して後にこうご訓戒された。患者が気の毒だというお考えからである。
●「なにかやりたいらしいから、顔を出したほうがよくはないか」(昭和22年10月30日)
富山県庁に御宿泊された昭和天皇は、県庁前広場に集まってくる群衆をご覧になって挨拶をするために顔を出すべきかどうか側近に諮られた。
●「体が不自由でしょうが、がんばってください」(昭和22年10月30日)
富山巡幸の際に昭和天皇は堀川小学校で出迎えた傷痍者の一人にお声をかけられた。
●「そう、大変だったね。でも、よく帰ってきたね」(昭和22年11月28日)
鳥取巡幸の際に昭和天皇は、東伯郡旭村村立授産場で紙をすいている引揚者の一人に親しくお声をかけられた。
●「大変でしょうね。この小さな子どもを世話するのは」(昭和22年11月28日)
鳥取巡幸の際に昭和天皇は育児院をご訪問され、保母の一人にお声をかけられた。 ●「子どもたちを元気で育ててね。元気でね」(昭和22年11月29日)
島根巡幸の際に安来町にお立ち寄りになった昭和天皇は戦争未亡人を町長から紹介され、こうおっしゃって労られた。
●「そんなにせんでもよい」(昭和22年11月下旬)
島根巡幸の際に昭和天皇は、松江の女学校をご視察されたが、突然一人の女性記者が前方に飛び出し、天皇陛下に声をかけるという珍事があった。それを引き戻した人々に対しおっしゃったお言葉。
●「子どもを亡くして気の毒である。しかし、よく働いているそうで感心である。今後も充分気をつけて」(昭和22年11月下旬)
島根巡幸の際に昭和天皇は、農作に勤しむ老夫婦を特にお召しになり労わりのお言葉を述べられた。
●「この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このような涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあろうが、努力を続けて貰いたい」(昭和22年11月30日)
島根巡幸の際に昭和天皇は、侍従を通じて島根巡幸のご感想を述べられた。
●「心配ない。奉迎の人達を思えば、何としても日程の変更はしたくない」(昭和22年12月1日)
山口巡幸の際にご体調を崩された昭和天皇は、周囲の反対を押し切って巡幸を続行された。
●「熱烈な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う、皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」(昭和22年12月7日)
広島市民奉迎場にお立ち寄りになった昭和天皇は、五万の市民を前にこう述べられて広島市民を激励された。 |
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