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アメリカ歴代大統領研究ポータル

大統領と愛娘

 グラントにはネリーという娘がいた。グラントには他にも息子達がいたが、娘はネリーだけである。グラントがネリーを溺愛していることは誰もが知っていた。
 1869年3月4日、グラントは就任式で就任演説を開始した。すると14歳のネリーがグラントに近付いて来てしっかりと手を握って離さなかった。周りにいた者から勧められた椅子に座って式典の間、ずっと父の傍から動かなかったという。
 就任パレードでは軍隊が行進するが、幾つかの部隊はネリーに敬意を表した。

「我々のネリーに万歳三唱」

 グラントにとって何よりも嬉しい祝福であっただろう。

ネリー・グラント
 
 大統領就任後もグラントの溺愛ぶりは変わらなかった。1873年夏のことである。グラントは列車でオーガスタに向かう途中であった。ネリーはいつものように旅の間中、ずっと父の手を離さなかった。
 荷物運びの者がネリーのことを詮索した。するとグラントは不快な様子を見せてネリーをしっかりと抱き寄せたという。
 ネリーは寄宿学校に預けられることになった。寄宿学校なので当然ながら親元を離れることになる。わずか数日後にネリーは寂しさに耐えられなくなり寄宿学校から戻ってしまってしまった。
 そんなネリーも18歳の時に結婚話が持ち上がった。相手はイギリス人である。娘が遠いイギリスに行ってしまうのではないかと恐れたグラントは相手の父親に手紙を書いた。

「2人の若い男女に愛情が生まれたように見えることは驚きです。なぜなら私の娘はまだ子供にしか見えませんし、彼女が良き家庭から出たいとは思っていないからです。彼女は私の一人娘であり、彼女の幸せを心から願っています。こうした不躾な手紙を愛娘の幸せを思う父親の不安だと思って大目に見て下さい」

 結局、ネリーはホワイト・ハウスで結婚式を挙げてイギリスに渡ってしまった。1884年冬、癌に侵されて死期を悟ったグラントは、ネリーに一目会いたいと思って大西洋の向こうに手紙を送った。

「1885年2月16日
親愛なるネリーへ
 2月2日のあなたの母への手紙は、2、3日前に届きました。アルジー[ネリーの夫]は数日前に着いて夕食後まで我々と一緒にいました。私を除いて家族は全員、健康です。去年の夏、ロング・ブランチにいた時、私がずっと喉の痛みを訴えていたのを覚えていると思いますが、深刻な症状であることがわかりました。4ヶ月間も私は注意を払っていませんでした。しかし、医師はそれが深刻な症状だと診断しました。今でも2日に1回診察してもらっています。嚥下が困難になって30ポンド[約13.6キログラム]も痩せました。医師が喉の癌の治療を始めたいと言ったのはここ2日間のことです。私が回復するまで長い時間がかかるでしょう。もし今、取りかかっている仕事がなければ、長い時間にわたって家に閉じこもらなければならないことは大変なことだったでしょう。私の作戦行動[グラントの『回想録』]についてまとめるのに数ヵ月はかかるでしょう。おそらく2巻構成でそれぞれ450ページずつになるでしょう。私は反乱[南北戦争]の勃発までの経歴も書いています。あなたがそれを読んでくれれば、あなたが知らない私のことを知ることができるでしょう。私の本が他の人々の興味を引くかどうかわかりませんが、多くの出版社が出版を希望していますし、これまでよりも多くの申し出を受けています。[中略]。我々が被った[経済的]損失と私の個人的な苦しみに関して、我々は全員、できる限り幸せでいるようにしてきました。哲学者達は最善を信じるべきだと言っています。我々の家族もそうなるように願います。我々全員であなたと子供達に愛とキスを送ります。あなたの愛するパパより」

 驚くことにネリーはこの手紙を受け取った16日後にニュー・ヨークの港に到着した。当時、大西洋を船で渡るのは大変なことであった。グラントは体調が悪かったのにもかかわらず、娘を港まで出迎えに行った。