歴代大統領の就任演説:アメリカ的価値観の表象とその変遷
西川秀和
第一時限
前半45分―大統領にとって演説とは?
後半45分―自由とは何か?
第二時限
前半45分―建国初期
後半45分―19世紀
第三時限
20世紀前半
第四時限
20世紀後半
第一時限
●私の専門分野について―大統領レトリック研究
私の専門分野は、大統領レトリック研究である。
まずレトリックとは何か?
日本語では修辞→学生にあてて日本語では何と言うか答えさせる。
スペイン生まれのローマの修辞学者クィンティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus)は、レトリックを「その目的に従い言説を適応させる技術もしくは才能である」と定義した。ローマ共和制末期に活躍した文筆家にして政治家のキケロ(Marcus Tullius Cicero)は、「弁論の真価と理法とは、聴衆の心をあるいは鎮静し、あるいは興奮させることにこそ発揮」されると述べている。アリストテレスは、『弁論術』で説得は、「法廷弁論における説得」、「議会弁論における説得」、「演説的弁論における説得」の三つに分けられると論じている。ジュール・サンジェも『弁論術とレトリック』の中で「実際、弁論術、あるいは弁舌さわやかな話術によって大衆の心を動かし説得する技術は、歴史始まって以来今日まで重要な役割を果たしてきた」と述べている。
では大統領レトリック研究とは?
大統領レトリック研究の端緒は、リチャード・ニュースタット(Richard Neustadt)が1956年に発表した論文「世紀中葉における大統領」である。ニュースタットは、1946年から1953年の間、最初、財務省で働き、その後ホワイトハウスのスタッフとして働いた経験を持ち、大統領がどのようにリーダーシップを発揮し、政権を運営していくのかを明らかにした大統領学者である。「世紀中葉における大統領」では、大統領の職務は二つにまとめることができるとしている。一つは、他の者には任せられない決断を下すことであり、もう一つは、無関心または全く動こうとしない者を説得し動くように仕向けることである。次いでニュースタットは、1960年に『大統領の権力―リーダーシップの政治学』を発表した。この著書の中にある「大統領の力は説得する力である」という言葉は非常に有名になった。クレイグ・スミスとキャシー・スミス(Craig Allen Smith & Kathy B. Smith)は、この言葉を、大統領のリーダーシップとは、説得力、つまり、レトリックを駆使して相手に自発的に行為するようにしむける能力にあると解釈しているが、これは非常に的確な評である。つまり、大統領は憲法の規定上、絶大な権限を与えられているが、現状は、その権限を行使するためには説得によらなければならないという。ニュースタットは、その傍証として、トルーマン大統領(Harry S. Truman)がアイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)に語った言葉を紹介している。
「私は一日中ここに(大統領執務室に)座って、本当はいちいち言わなくてもきちんとしておくべき仕事をするように人々に納得させようとしている。それこそが大統領の力量だ」
このようにニュースタットが、大統領研究に大統領の説得力という新たな視点を導入したのと時を同じくして、この当時のアメリカでは、「政治コミュニケーション」という言葉が使われ始めた。政治コミュニケーションは、「政治のことば、政治レトリック、政治宣伝、政治ディベート、選挙運動、政治世論、政治運動、政府とメディアとの関係、政治イメージ、政治のシンボリズム、態度変容、投票行動等」を研究領域とする学問である。日本では、1992年に岡部朗一が著した『政治コミュニケーション―アメリカの説得構造を探る』が研究の基本書としての役割を担っている。制度的な大統領の演説のみならず、テレビディベートや社説漫画にいたるまで幅広い分野で研究が展開されている。
ニュースタットの分析と政治コミュニケーション学の観点からすると、大統領レトリック研究とは概ね、大統領の行なう言語的行為とそれに付随する諸行為がどのようになされているのか、もしくはどのような意図と目的の下、そうした言語的行為の中で、ある特定の言葉やイデオロギーが選択されているのか解明しようとしている研究だと言えよう。
私の研究手法について。
大統領レトリック研究の一つのアプローチとして、レトリックと政治目的の相関性に注目することが大切ではないかと私は考える。つまり、最初に目的が設定され、それに従い演説や声明が組み立てられ、目的が達成されればそれに関して使用されたレトリックは成功したと見なすという方法論である。
チャート。目的→演説・声明→目的達成。具体例。目的:合コンでレディたちに好印象を持ってもらいたい。この場合、聴衆はそのレディたちである。では何を話せばよいか考える時に、まず何から始めるか?学生に質問。答えは、どんな話題がうけそうか、相手の性質を見極める。次は、その性質に応じた話題を決める。そして話題をどう会話に盛り込んでいくか工夫する。レディたちが喜んでくれれば目的達成。
具体例との対比。
目的の設定をするのは大統領およびその助言者である。助言者には国務長官、ホワイトハウスのスタッフ、識者などが含まれる。どのような目的が設定されたのかは、大統領府内での閣僚や大統領の対話や会談、または手紙のやり取りなどから明らかにすることができる。演説や声明が組み立てられる過程は、演説や声明の草稿に関する大統領とスピーチライターとのやり取りや、国務長官その他の助言などから明らかにすることができる。目的が達成されたかどうかは、初めに設定された目的と、演説や声明が展開された後の政治情勢や国際情勢と比較することで判定することができる。もちろん、レトリックだけで演説や声明のみによって政治情勢や国際情勢が変化するわけではないが、大統領にとって最大の努力を要するのは、演説や声明を、いかにレトリックを駆使し展開するかであるから、目的が達成されたか否かは、やはりそうした側面から判定されなければならないだろう。
また忘れてはならないことは、大統領個人の人間性がレトリックに及ぼす影響である。松尾弌之は『大統領の英語)』で、ケネディからブッシュ大統領(George W. Bush)までフォード(Gerald Ford)大統領を除く八人の大統領を取り上げ、各大統領が駆使するレトリックを言語的側面ならびに大統領個人の人間性により分析している。松尾弌之の一連の分析は、大統領レトリック研究を行なう際に大統領個人の人間性を考慮する有効性を示していると評価できる。
●大統領と演説の関係
二十世紀以前では、大統領は立法に関与すべきではなく、民衆に対してレトリックを駆使することなく統治を行うべきで、政策形成に中心的な役割を果たさなくてもよいと考えられていた。大統領は単なる「官僚の長」であればよいと考えられていたのである。しかし、二十世紀に入り、社会が複雑化するにつれ、大統領が職務を円滑に行うためには膨大の立法が不可欠となった。そうした背景の下で、セオドア・ルーズベルト大統領は、立法要請を、議会を飛び越えて、直接民衆にアピールするという形で初めて行った。それは、憲法の規定上、立法権を持たない大統領が世論を武器に議会に立法を迫るという政治的手段であった。大統領はスピーチに頼ることにより、政治関係を構築し、影響力を行使し、政府を機能させていく。現代では、メディアの発達により、そうした大統領の役割がますます大きくなっている。
●自由とは何かをまず考えてみよう
大統領の就任演説から「自由」とは何かという問題について考える。
問い:「言論の自由」、「信教の自由」といった自由ではなく、ただ「自由」そのものはどのような意味か考えみよ。
メモ:学生に五分間から十分間考えさせて、何人かあててみる。
「自由」の本義
「自由」はもともと漢語にあり、明治時代に西洋のリバティ、フリーダムの訳語として当てられた。最初に自由を訳語にあてたのは、西周、福沢諭吉、中村正直など諸説ある。
漢語の意味は、「思いのまま」。
〔後漢書、皇后下、安思閻皇后紀〕是(ここ)に於て(皇后の弟の閻)景は衞尉(官職の名)と爲り、(閻)耀は城門校尉(官職の名)、(閻)晏は執金吾(官職の名)となり、兄弟にして、威福權要自由なり。
「自」は鼻の形をあらわす、すなわり「自分」のこと。『説文解字』「由」=「?」と同音。同字異文(本来同じ字だが形が違う)。「随従する」という意味。自分(の意)に従う、すなわち思いのまま。
Tocqueville
L'ancien Regime
et la Revolution ed Andre Jardin, Oeuvres, Papiers et Correspondances d’Alexis
de Tocqueville, Edition definitive, 2 vols. Paris 1953,
I :217
「自由への愛は分析の余地のないものなのだ。この崇高な感情を分析せよなどとは言わないでくれ。それは感じるべき何かであり分かち難き論理なのだ。神が高貴な心に与えるべく準備したものなのだ。自由への愛は高貴な心を満たし、それを魅了してやまない。我々は自由への愛を感じたことのない者にそれを説明することなどできない」トクヴィルの晩年の言葉。平等は比較的新しいもので自由のほうがより古い。
●リバティとフリーダムの違いについて
日本ではリバティとフリーダムは共に自由と訳される。古英語では、両方とも「選択する能力、自らの意志を働かせる能力、奴隷から程遠い状態」を示した。
現代、我々が当たり前だと思っている「自由」という言葉は、近代啓蒙主義以後のもので、文化によって大きくその意味は異なっていた。例えば、ハンムラビ法典では「自由」を定めた特別な規定がない。奴隷に関する記述はたくさんあるが、奴隷と正反対にある立場は、「自由」ではなく「支配者・主人」である。そのような社会では自由を一般的な原則として想像することは難しかった。
リバティは地中海言語に由来している。Libertyは、ラテン語のlibertasとその形容詞形のliberに由来する。それらは束縛されていない、規制されていない、拘束からの解放を意味する。例えばLibertusは「解放奴隷」を意味する。
一方、フリーダムは古代北欧言語に由来している。ノルウェー語ではfri、ドイツ語ではfrei、オランダ語ではvrij、フランドル語ではvrig、ゲール語ではrheidd、ウェールズ語ではrhydd。こうした言葉は共有の先祖を持っていると考えられる。こうした言葉はインド-ヨーロッパ言語のpriya、friya、riyaに由来している。その意味は「親愛なる」、「最愛の」といった意味である。英語のfreeとfreedomはfriendと同じ起源を持っている。Freeというのは、もともと血縁によって結び付いた部族に帰属している人のことを指す。
リバティとフリーダムの差異を一言で表せば、リバティは、個人や集団の独立、分離、自立を意味し、フリーダムは自由民の共同体への所属を意味している。自由という価値観や言葉に焦点をあてた研究の中でも、リバティとフリーダムを明確に区別せずに論を進めている研究も少なくない。それは、一つの要因としてfreedomとlibertyの両方の語彙を持つのはヨーロッパ言語の中で英語だけであるからと考えられる。ドイツ語、オランダ語、スカンディナヴィア諸語は英語のフリーダムに相当する言葉しかないし、一方でスペイン語、フランス語、イタリア語はリバティに相当する言葉しかない。
●アメリカ人にとって自由とは?
それをあらわす面白いエピソード。
アメリカ独立戦争に参加したCaptain Levi Prestonと歴史家Mellen Chamberlainとの会話。
C「プレストン大尉、コンコードの戦いに赴く決意をもたらしたのは何ですか」
P「何のためにコンコードに行ったかだって?」
C「印紙条例によって抑圧されていたからですか?」
P「私は印紙なんて見たことはなかったよ」
C「では茶税については如何ですか?」
P「茶税?私はそんなものはまったく飲まなかったよ。若い連中が茶を全部水中に投げ捨てたがね」
C「ではおそらく、あなたはハリントンやシドニー、そしてロックの絶対自由主義を読んだことがありますよね」
P「そんな名前は聞いたこともないね。私が読んだ本といえば、聖書に教理問答書、そしてワッツの賛美歌と聖歌、年鑑くらいのものだね」
C「ではいったい何が[コンコードの戦いに赴いた]原因だったのですか?」
P「お若いの。こういうわけで我々は英国兵に立ち向かって行ったのだ。我々はいつも自由だったし、いつでもそうあらねばならない。[しかし]英国兵は我々が自由にさせようとはしなかった」
Alexis de Tocquevilleによれば、アメリカではこの自由という観念が何よりもまして重要で、それは世代を経るに従って変化している。それはHabitudes du Coeur=Habits of Heart自由民の慣習、信念、伝統、習俗⇒『アメリカ民主主義の伝統』である。自由こそアメリカ人にとって核となる考え方なのである。
アメリカ人は自由をどのように掴んでいたのか?例えば、平和を象徴するものが鳩のように、アメリカ人にとって自由を象徴するものは何か。
●リバティ・ツリー
the Liberty Treeの起源。
1765年8月14日、ボストン。一本の楡の木にA.O.とイニシャルが刻まれた人形が吊るされていた。そのイニシャルは、Andrew Oliverという印紙税を集めることを請け負ったボストンの商人のものであった。
「私はさもしくも私欲のためにすばらしい自由を譲り渡した。嗚呼、しかし悪魔は私を裏切った。他者に烙印(stamping)を押す代わりに私は吊るされてしまった」
当時の知事が警官隊に命じて楡の木を引き抜こうとしたが群衆があまりにも多いので断念した。この人形を吊るしたのは、The Loyal Nineというホイッグ党員のクラブのメンバーだった。結局、暴徒と化した群衆はAndrew Oliverの家に押し掛けて家を打ち壊した。翌朝、Oliverは印税徴収請負を辞退した。Loyal Nineのメンバーは一躍ヒーローとなり、その組織はsons of Libertyとなって拡大し多くのボストンの人々がそのメンバーとなった。これを記念して人形が吊るされた楡の木には、「The Tree of Liberty」というプレートが付けられた。
ボストンの人々はこの事件を、繁栄を享受する個々の権利、そして自らの政府を組織する集団的権利の象徴としてとらえた。
ニュー・ヨークでもリバティ・ツリーと同様なものとしてリバティ・ポールliberty・poleというものがあった。イギリス軍が引き倒したリバティ・ポールを市民が建て直した。イギリス軍によって引き倒される、それをまた市民が立て直す、そうした攻防が何度も行われた。
●リバティ・ベルthe Liberty Bell
フィラデルフィア。クエーカー教徒。18世紀中葉に鋳造された。
クエーカー教(Religious Society of Friends)プロテスタントの一派で非常に厳格。質素や平和主義などを旨とし数は少数だがアメリカの文化・思想に大きな影響を与えている。
ペンシルヴァニアが王領植民地化されることを危惧。国教会による支配を恐れた。英国臣民として自ら選んだ政府によって法律を制定する自由。信教の自由。リバティ・ベルはそのシンボル。
ベルに彫られた刻印
Proclaim Liberty Throughout all the land unto all the inhabitants thereof.
Isaac Norris。バイブルのLeviticus25:10より引用。
「自由を宣言す。全土と全ての民に」
クエーカー。自由は神から与えられた恩寵。しかし、そうした恩寵は選ばれたもののみに与えられているのではなく、被創造物すべてが内なる光を宿している。しばしばそれは自由の光と呼ばれた。他者をその者自身が望むように扱う。キリスト者の義務と公平なる互恵的権利に基づく完全平等。鐘の音は誰であろうと聞こえる。普遍的自由の象徴。
リバティ・ベルは、印紙条例やタウンゼント諸法などに反対する自由市民を招集するのに使われた。不買同盟実施の時も鳴らされた。そして、1775年のレキシントン・コンコードの戦いの際には、鐘の音を聞いて集まった市民が「生命、自由そして財産」を守るために武器を取った。
印紙法(いんしほう、英:Stamp Act)とは、1765年にイギリスがアメリカ植民地に対して課した印紙税を定めた法である。これは新聞・パンフレットなどの出版物、法律上有効なあらゆる証書、許可証、トランプのカードなどに印紙を貼ることを義務付けるものであった。
ダウンゼンド諸法とは、1767年にイギリスの蔵相タウンゼンドの提案によって定められた法律。茶・ガラス・紙・ペンキ等の物品に対し、北米植民地への輸入関税がかけられた。これは1764年の砂糖法、1765年の印紙法に続き、北米植民地への課税強化を目的としたものである。ジョン・ディキンソンはこの法律に反発し、イギリス法の原理から批判した。この法律に対して北米植民地では反対運動が起こり、1770年にこの法律は撤廃された。
イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードにあったアメリカ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施した。それに反発すべく動いた植民地民兵隊と武力衝突、レキシントンとコンコードにてイギリス軍と民兵隊の激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破した。規模は小さいながらアメリカ独立戦争の緒戦を飾るものとなった。
アメリカの自由はこのようにさまざまな起源が混じりあっている。
第二時限
第二時限は建国初期と19世紀の自由について
●建国初期
アメリカの自由の概念は、本国イギリスでの自由の概念に由来している。17世紀から独立革命までの間、イギリス及びその植民地では自由は、自然状態での自由と市民的自由とに区別されていた。ジョン・ロック(John Locke)の主張によれば、自然状態での自由は安全と財産にとって危険で望ましくないものであり、それ故、人は自然状態での自由を放棄し社会を営み政府を作り出すという。それが市民的自由である。ホッブズの『リバイアサン』など。
ペンシルヴァニア植民地の創設者であるウィリアム・ペン(William Penn)は1670年に「第一にマグナ・カルタは英国人が自由であることを保証している。それこそ自由である。第二にマグナ・カルタは英国人が自由占有地を持つことを保証している。それこそ財産である」5と述べている。財産を持ち、経済的に独立していることが自由であるための一つの不可欠な前提であった。
また初期入植者のピューリタンは、キリスト教的な自由の概念をアメリカに持ち込んでいる。そのキリスト教的自由は、神の意志への従属のみならず世俗権力への従属を求めるものであった。そして、ロックの主張と同じく、自然状態での自由は無軌道なものであり、それは彼らの望む自由とは程遠いものであった。
こうした自由の概念をもとに植民地時代におけるアメリカでは、自由と権威の均衡が重要な課題であった。両者が均衡を保っている状態が最も望ましい状態であり、自由よりもむしろ権威を尊重することが美徳とされていた。ただアメリカでは、自由の前提となる社会的条件が本国イギリスと異なっていた。アメリカが本国イギリスと最も大きく異なる点は、富が広く分配され、非奴隷の成人男子のうち大多数が自営農民で占められていたという点である。さらに本国イギリスに比べて賃金労働者の割合が低く、世襲制度が弱く、教会組織もそれほど強固ではなかった6。つまり、アメリカでは自由がごく一般的な価値観となる条件が揃っていたのである。財産に基づく自由。
独立革命は、本来は本国イギリスが課す諸法令に対する抵抗から始まったが、それは徐々に自由と専制政治の争いという性質に変化していった。自由と専制政治の争いという対立構図が有効であったのは、自由が一般的な価値観になっていたからである。独立革命以後、自由は拘束からの解放ではなく、天賦人権を自らの努力で得ることを意味するようになった。
独立革命を果たした建国の父祖たちにとって自由とは何を意味していたか。建国の父祖たちは、自由を黒人奴隷や年期奉公人に拡大することには無関心であった。というのは奴隷制は憲法構造の有機的部分として認められていたし、年期奉公苦役制は、制定会議の関知するところではなかったからである。また市民的自由に関する代表たちの関心も必ずしも好意的なものではなかったのである。信教の自由・言論出版の自由・陪審裁判・適法手続・「不当なる捜査及び逮捕」からの保護等の死活の自由をもっとも積極的に要求したのは、憲法の反対者達であった。さらに信教の自由、言論出版の自由、適法手続の保障といった自由が認められるには、第一次修正、すなわち権利章典が憲法に加えられるまで待たなければならなかった。建国の父祖たちが考えていた自由は、国内の不安定からの自由、外国政府の干渉からの自由、財産を保護する自由、そして大衆暴動からの自由であった。建国の父祖たちは、財産を築けるかいなかは、個々人の能力や才能によっていると考えていた。それ故、財産を保護することで、個々人が各々の才能を発揮する自由を保障することができると考えていた。多くの自由の中でも、財産を自らの思いどおりに扱う自由こそが最も重要であった。財産を保護するということは、人間がその天賦の才能を行使するのを保護することに他ならないからだ。建国の父祖たちにとっての自由とは、一定のルールのもとで競争を行って財産を獲得する自由であった7。建国の父祖たちは、大衆による無制限の支配を意味する民主政は、財産をでたらめに再配分すること必至であり、かくして自由の本質そのものを破壊するものと考えていた。
彼等は、種々の財産利益の間の忠実な仲買人として働き、共通の敵から彼等を十全に防御し、彼等の中のどれか一つがあまりにも強力になるのを阻止するような政府を創り出すことを目指していた。すべての種類の財産は政府の中にそれに相応した発言権を持つことが許されるべきであると考えられた。個々の財産所有者の利益が時として犠牲にされることがあるにしろ、それはただ全体としての財産所有者の利益のためにのみ許されることである。財産のための自由は結果的には人間のための自由に帰着するかもしれないが、しかしそれは恐らくすべての人間にとっての自由ではなく、最小限すべての尊敬すべき人々のための自由であったろう。
建国の父祖たちの中でもワシントンは自由が放縦に陥るのを恐れていた。就任演説の中でワシントンは「自由の神聖なる炎と共和政体の保全」は国民の手に委ねられており、政府は国民の自由と幸福追求の実現という本質的目的のために樹立されたと説いている。つまり、自由とそれを保障する共和政体を保持できるかいなかは国民自身にかかっているとワシントンは説いたのである。そして国民自身は、自由の精神を放縦の精神から分け隔てる必要があると論じている8。その背景には18世紀末の党派争いがあり、各党派は、互いに自由を貶めていると批判し合っていた。ワシントンは、共和政体が市民的自由を保障することができないのではないかという危惧を強く抱いていた。
→「法の精神」でよく知られているモンテスキューは、憲法制定者たちに大きな影響を与えたが、モンテスキュー自身の考え方では、共和政体が自由を保持するための最良の政治形態であるとは考えていなかった。共和政体は、派閥によって損なわれる可能性があるとモンテスキューは考え、君主制のほうがその点は優れていると考えていた。
そのためワシントンは、「団結により秩序ある自由を樹立する一体となった政体」という言葉を強調している9。
第二代大統領ジョン・アダムズ(John Adams)は、共和政体が非常に優れた政体であることを就任演説で力説するとともに、共和政体が内包する危険性について述べている。アダムズが言うには、たとえ共和政体が優れた政体であっても、「我々の自由に対する危険を看過」してはならない。特に選挙が多数派の意向だけで左右されたり、党派の策略や腐敗によって左右されたりすることは避けなければならない。なぜならそのような選挙を通じて成立した政府は国益よりも党派の利益を優先するようになるからである。また外国政府からの選挙に対する干渉も排除しなければならない。外国政府からの干渉を許せばもはや「政府はアメリカ人が選んだもの」とは言えないからである。10アダムズにとって自由は、政治的な独立と不可分のものであり、立憲君主制の横暴から守られるべきものであった。さらに「財産は保証されなければ、自由は存在し得ない」11とアダムズが言っているように経済的な独立も自由には不可欠なものであった。
アダムズは合衆国憲法の優位性を就任演説の中で繰り返し賞賛しているが、当時は合衆国憲法における自由の取り扱いについて様ざまな議論がなされていた。自由を擁護するためにどのように厳格な権力分立を実行すべきか、新しい形態の政府の下でいかに自由と財産の共生関係が促進されうるか、幸福追求は国家の庇護の下でどのように果たされるべきか、連邦権限の拡大が州の自由を弱体化させ、ひいては個人の自由をも弱体化させるのではないかといった議論である。
合衆国憲法における自由の取り扱いについて四つの点
厳格な権力分立がなされなければ自由は保護できない。新しい形態の政府の下でいかに自由と財産の共生関係が促進されるか。幸福追求は新しい国家の庇護の下、かなえることができるのか。連邦権限の拡大が州の自由を弱体化させ、ひいては個人の自由をも弱体化させるのではないか。
フェデラリスト85篇
Cooke(ed.)the Federalist、588
連邦政府を樹立することで、一部の権力者や州が独裁的な権力を握り自由を侵害することを防ぐことができる。
一方で自由が放縦になるのではないかという恐れ。大衆暴動。建国の父たちは、民主政体よりも共和政体を重視。
James Madisonの意見
政府の権力が大き過ぎても小さ過ぎても問題がある。自由と政府の権力とのバランスが重要。
共和政体と民主政体の違い。共和政体、代表的なのは、ローマ共和政。一部の優れた人たちが協力し合って政治を行う。民主政体、アテネ民主政。平等な市民が代表を選び、自らも選ばれる。
【共和】 きようわ 協議による政治。その体制。〔史記、周紀〕(れい)王、?(てい)に出す。~召公・周公、二相政を行ふ。號して共和と曰ふ。
こうした議論は現在のアメリカにも共通する課題である。
19世紀―南北戦争終結まで
19世紀直前のアメリカが一時の繁栄と平和を享受している最中、19世紀最初の大統領を決める大統領選は、現職のジョン・アダムズとトーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)によって戦われた。ジェファソンは、民主共和党を率いて与党である連邦党を共和政体下での自由を脅かす存在だと攻撃するキャンペーンを繰り広げ、ジョン・アダムズを破り、第三代大統領に就任した。
ジェファソンは「信仰の自由、出版の自由、人身保護律の下での個人の自由」12を唱えた。しかし、一方で「かけがえのない出版の自由とその堕落した放縦との間に明確な線を引くことはできない」13と述べているようにジェファソンもワシントンと同じく自由が放縦に陥ることを危惧していた。中でも出版の自由は、人々の美徳を養ううえで重要なものであった。なぜならジェファソンは、政府の頽廃や腐敗を防ぐためには、広汎な出版や教育によって啓発された大衆の力が必要であると考えていたからである14。彼は腐敗や頽廃にたいする共和国の抵抗力にはあまり信をおかなかったが、大衆教育がこの退行過程を阻止することを望んでいた。教育は共和国の政治に安定性と叡智を与えるだけでなく、諸々の機会を拡大し、普通人の中に豊かに見出されうる天賦の才幹を発揮せしめるのである。ジェファソンの生涯を貫いて、階級の制限にかかわりない「幸福の追求」、個人の発展にたいするこの心暖かな関心が流れている。しかしながら概していえば、ジェファソンが「人民」の長所と能力について心暖かく語った時、彼は「農民達」を意味していた。彼はほとんど十八歳になるまで都市というものを見たことがなかった。そして彼は田園生活と田舎の人々が公徳と私的活動力の源泉であり、農民こそが民主共和国の最善の社会的基底であると深く信じていた。
さらにジェファソンは、政府の経済への介入を特定の利益集団を利する不正な手段であると見なしていた。ジェファソンは「賢明で質朴な政府」すなわち、「人々がお互いに害し合うのを阻止するだろうし、その他の点では、人々が自由に産業と進歩を追求するに任せ、働く人の口から彼が稼いだパンを奪い取ることはない」15政府を目指していた。ジェファソンは、一部の限られた人だけではなく堅実な農民たちも共和政体に参加させることで共和政体を腐敗から防止しようとしていたのである。
ジェファソンの敵手である連邦主義者達は、権力が多数派に握られることを恐れた。ジェファソンは、その反対に、権力が多数派以外のものに握られることも恐れたのである。多数派というものが、公けの問題にしばしばまずい裁断を与えることを認めながらも、ジェファソンは、「人民のごまかしというものは」王や僧侶や貴族の利己的な政策よりも「害が少ない」と論じている。
最初の就任演説で、彼は「人は自分自身の政府にさえ安心して身を任せえない」と一般的所見を引きながら、「それではどうして他人の政府など信頼しえようか」と問うている。彼は権力というものが「じわじわ侵蝕していく性質」をもつという点では、マディソンに同意したであろうし、そして権力というものがその保持者を腐敗せしめるという確信を抱いていた。
ジェファソンの逸話
異常なまでに内気でちょっとした演説の欠陥にも頭をなやますので、彼はワシントンやアダムズのしたように自分で議会に出かけていって教書を読み上げることができないと思っていた。彼は煽動家の気質、いや近代民主政のもとで指導者たるに必要とされる資質という意味での指導者の資質すらほとんどもっていなかった。彼は人を興奮させるような演説を一度もしたことはなかった。
ジェファソンの後継者として第四代大統領に就任したジェームズ・マディソン(James Madison)は、良心の自由はすべての権利の中でも最も神聖なものであり、いかなる政治的権力もそれを妨げることができないと主張した16。マディソンは、自由は権力の濫用と同じくそれ自身の濫用で以って危機にさらされると考えていた。すなわち、私的自由は公的自由によって、個人的自由は政治的自由によって危機にさらされる。マディソンは『フェデラリスト』の中で連邦政府を樹立することにより一部の権力者や州が独裁的な権力を握り自由を侵害することを防ぐことができると述べている17。しかし、これは単に連邦政府の強化を示唆しているわけではない。自由と政府権力の均衡の下に秩序を保つことが重要であり、そのためには政府権力が大きすぎても小さすぎてもならないとマディソンはジェファソンに書き送っている18。
マディソンが大統領職を二期務めた後、ジェームズ・モンロー(James Monroe)がほぼ無競争で民主共和党の大統領として第五代大統領に就任した。この頃は「好感情の時代」といわれる党派的対立がほとんど無い時代であった。イギリスとの1812年戦争の結果、国民の間でナショナリズムが高揚したが、その最中で戦争に批判的であった連邦党が衰退を余儀なくされたというのが一つの原因である19。
モンローは一次就任演説でアメリカの発展を称揚した後に、「我々を脅かす危険とは何か」と問うた。その危険は衆愚政治である。モンローは「我々の自由を守る最良の手段として、賢明で合法的な方法により人々の知性を促進させようではないか」と衆愚政治の防止を訴えた。19世紀においては自由と秩序の均衡が重要な課題であった。アメリカ人にとって両者の均衡こそ無秩序と圧制の間の黄金の中庸へいたる理想的な方途だったのである。モンローはアメリカの外交指針に大きな影響を与えたモンロー・ドクトリンを発表したことで有名である。モンロー・ドクトリンは1823年の年頭教書20で公にされたものだが早くも第一次就任演説でその萌芽を認めることができる。モンローは第一次就任演説の中で「我々は我々の権利を擁護しなければならない、さもなければ我々の特性を失うか、それとともに我々の自由も失われるだろう」と述べ、国外の脅威に対して自由を守るために不断の警戒をしなければならないことを国民に訴えた21。
モンロー政権の末期、好感情の時代は終わりを告げ、派閥主義の時代に入ろうとしていた。膨張し過ぎた民主共和党の中で地域主義が台頭し、派閥分裂が進行した。1824年の大統領選はそうした党内の情勢を反映して、民主共和党の中から出馬した四人の候補の間で戦われることになった。混戦の中、ジョン・クインジー・アダムズ(John Quincy Adams)は、1812年戦争の英雄であるアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)に辛勝し、第六代大統領に就任した。
アダムズは、「連帯、公正、平穏、共同防衛、全体の福祉、そして自由の恵み―それらすべては我々がその下で暮らしている政府によって増進されている」と就任演説で述べている。アダムズにとって自由とは単に規制が無い状態ではなく、自らの目標を達成するために行動する能力を意味していた。そうした自由を保つためには繁栄したアメリカが必要で、そのために政府は経済を発展させることができる条件を整えなければならない。そうすることですべての階層が繁栄を共有できるようになるとアダムズは考えていた22。当時のアメリカでは、交通網、特に運河網の黎明期にあたり、アダムズ政権は「アメリカン・システム」の名の下に、運河や港湾、鉄道の整備への助成を行った。
アダムズは1828年の大統領選で再選を試みたが、前回の選挙で辛勝したジャクソンに今度は敗北してしまった。こうしてジャクソンが第七代大統領に就任したのである。
ジャクソンは、第一次就任演説で連邦政府が一部の企業家と癒着することによって選挙における自由が侵害され、さらに公職が能力ある人々の手に渡らずに「背信的で無能な」人々の手に渡っていると非難した。
政治的特権の打倒。
ジャクソンが目指したのは、拡大する機会を政府の介入無しに、田舎の資本家や村の企業家といったできるだけ多くの人々に開放するという、極言すれば自由放任主義であった23。
経済的特権の排除。政治的特権の打倒から経済的特権の排除へ展開。
ジャクソン政権はこのような自由放任主義をとる一方、サウスカロライナ州との保護関税をめぐる争いに巻き込まれている。いわゆる連邦法無効論争である。それは、憲法六条二項に定められている国の最高法規性と州権との衝突であり、連邦分裂の危機であった。第二次就任演説の中でジャクソンは、「連邦無くして我々の自由と独立を達成することはできない。連邦無くして我々の自由と独立を維持することはできない。(中略)。連邦の解体は、自由、善良なる政府、平和、豊かさ、そして幸福を失うことにつながる」と述べ、連邦の下でこそ自由は保障されると訴えている24。結局、サウスカロライナ州が妥協案を受け入れることで連邦分裂の危機は回避された。
ジャクソンの後を襲ったのは、ジャクソンの指名を受けたマーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren)である。ヴァン・ビューレンはジャクソンの号令の下、満場一致の指名を受け、本選でも勝利を収め第八代大統領に選出された。
ヴァン・ビューレンは、社会秩序は真の自由のためには不可欠なものであると考えていた。しかし実際は、ヴァン・ビューレン政権期に金融恐慌が起こり、社会は混迷を深めることになった。また奴隷制に関する論議も徐々にアメリカ社会にとって大きな問題となりつつあった。就任演説の中でヴァン・ビューレンは、奴隷制廃止に対して反対する旨を明言している。そして「奴隷制問題を煽動」することにより連邦の安定が脅かされると警告を発している。ヴァン・ビューレンにとって奴隷制問題を煽動することは、社会秩序を乱す行為であり、それは真の自由を侵害することであった25。
ジェームズ・ブライス(James Bryce)が後々評したように、アメリカ人は自らが最も真の政治的自由を享受し、同時にイギリスよりもそしてフランスよりも秩序だっていると信じていた26。それ故、奴隷制論議で国内の秩序が乱されることは最も避けるべきことであった。第13代大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)は、ボストンの奴隷廃止論者が1851年に捕らえられた逃亡奴隷を取り戻そうと実力行使したことに対して、「秩序を愛し、秩序を尊重する社会では、法無くして自由は無いし、法を超える自由など存在しない。そのような怒りは、一時的な暴力によるものにすぎない」27と述べている。また第一四代大統領フランクリン・ピアース(Franklin Pierce)は、「我々は固有の権利である人民による自治という犯すべからざる大義を堅持しなければならない。すなわち市民一人一人の最大限の自由と公的秩序の完全なる安定とを調和させなければならない」28と述べ、自由と秩序の両立を唱えている。さらに第一五代大統領ジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)は、北部で奴隷問題が煽動されることにより、奴隷に悪影響が及び、「漠然とした自由の概念」を吹き込む結果となっていると遺憾の意を表明している29。さらにブキャナンは、就任演説の中で、奴隷制に賛成か反対かは、州や準州が自ら決めるべきだと主張している30。南北戦争以前の諸大統領は原則的に奴隷制に対して反対の意を表明していなかったのである。
奴隷保有の問題は、すなわち自由と財産という二つの概念の衝突であった。北部を中心に新しい自由の概念が次第に形成され、その傾向は1856年の大統領選で一つの頂点を迎えた。新たに結成された共和党のジョン・フリーモント(John Fremont)候補が掲げた綱領は、「自由土地、自由労働、言論の自由、自由民」であった。それらは、すなわち奴隷制拡大阻止、工業資本主義の根本としての拘束無き労働、奴隷制に関する自由討議、公教育への政府の援助を含めた市民権の保障を意味した。1856年の大統領選はブキャナンが勝利を収めた。その勝因は、フリーモントに対して南部諸州が反発したことである。1854年のカンザス=ネブラスカ法以後、南北の溝が次第に深まっていく一方で、ブキャナン政権はそれに対して決定的な解決策を打ち出せず、アメリカは南北戦争への道をたどることになる。南北戦争は、北部と南部がそれぞれ標榜する自由の衝突であったと言っても過言ではない。
北部と南部、それぞれの標榜する自由にはどのような差異があったのか。北部の標榜する自由とは、先程フリーモント候補の綱領を引いて少し紹介したが、簡約すると、「フリーダム、連邦、そして平等」である。この場合のフリーダムとは、自分の組織に所属することで他のものには隷属していないという意味である。これに対して南部の標榜する自由とは、「リバティ、独立、州権、そして人種的階層」であった。この場合のリバティは、拘束からの解放を意味する。南部諸州の有力者たちは、奴隷保有とはすなわち財産権を守る伝統的な自由を意味すると考えていた。そして彼らによると、その自由を侵害することは州権を侵害することであり、南部諸州は連邦の拘束から逃れて独立を保つべきであった31。
南北の分裂が決定的になったのは、エイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)が第一六代大統領として選ばれることが確実になった1860年冬のことであった。リンカンの勝利が確実となったことを知って、まずサウスカロライナ州が12月20日にアメリカ合衆国からの脱退を宣言した。リンカンの任期が始まる前に南部諸州はアメリカ連合国成立を宣言していた32。
リンカンは第一次就任演説で、「南部諸州の人々の間で、共和党が政権に就くことにより彼らの財産と平和、そして個人の安全が脅かされるという不安があるようである。そのような不安には何の正当な理由もない」と述べ、南部諸州の財産を守る自由を尊重する姿勢を示した。もちろん「我が国のある地域は、奴隷制が正しく、拡大されるべきだと信じている。一方で、別の地域は奴隷制が誤りであり、拡大されるべきではないと信じている。これは唯一の重大な論争である」と述べているように南北分裂の原因が奴隷制にあることをリンカンは認めている。ただし分離には絶対に同意しないとリンカンは断言している33。
リンカンの奴隷制に対する態度。奴隷制拡大にたいする反対者としての彼の後年の経歴は、彼がこの問題にたいして初期には公的に無関心であったということに照らして解釈されなければならない。南部の「特殊制度」にいつでもおだやかな反対を示していた彼は、この制度が漸次的に消滅する運命にあるのだ、という居心地のよい考えで、気持ちを鎮めていたのである。
1845年の私信。
私は、他州の奴隷制を放置しておくことが、諸州の同盟にとっても、また多分自由そのものにとっても(逆説的に聞こえるかもしれませんが)、自由諸州におけるわれわれの至高の義務であると考えます。他方私は次のことも同様に明瞭なことであると信じます。つまり、奴隷制が自然死を遂げるのを妨げるために―それが旧地ではもはや存続しえない時に、それを生き延ばすために新しい場所を見出してやって―間接にしろ直接にしろ、知っていながら力を貸すなどということは、決してすべきではないということです。奴隷の自由を認めないことは確かに問題だが、南部の奴隷制撤廃は、南部の財産の自由を認めないことになる。
カンサス―ネブラスカ法が奴隷制問題を政治生命の表面に浮かび上がらせた後になって、やっと彼は、この問題を煽動のための主題として把握したのである。その時になって初めて、彼はそれを公然と攻撃したのである。彼の態度は便宜主義によってやわらげられた正義の立場、あるいは多分より正確にいえば、正義によってやわらげられた便宜主義に基いていたのだ。
カンザス・ネブラスカ法(Kansas-Nebraska Act)は、アメリカ合衆国のルイジアナ購入地域の中のミズーリ川とロッキー山脈に挟まれた地方にカンザス準州とネブラスカ準州の2準州を置き、それらを移住民に開放した法律である。1854年5月30日に成立した。
奴隷制の可否を住民自身に決定させるという人民主権の原則を採用したものであり、北緯36度30分の準州で奴隷制を禁止した1820年の南北妥協案(ミズーリ協定)を正式に撤廃した。
もしリンカンが戦略的に重要な北西部で成功しなければならぬとした場合、いかにして党は黒人恐怖症の連中と奴隷反対論の連中の両方の支持を獲得しうるのであろうか。しかも奴隷制拡大にたいする反対の論陣を、あまりに低調な道徳的調子で語るとなると、人道主義者達の貴重な支持が失われることになるであろう。リンカーンの努力は、奴隷制廃止論者と黒人嫌悪病者の両方に同時にアッピールするという彼の戦略と重なり合って、リンカーンを厄介千万な矛盾に巻き込んだ。北部は奴隷制廃止、南部は奴隷制度護持と明確に分かれていたわけではない。
南北戦争は、この第一次就任演説の約一ヵ月後に勃発したサムター要塞の戦いを以って火蓋が切られた。開戦当初、戦争は早期に決着すると思われていたが、その後の歴史が示すとおり、終結までには62万人もの犠牲(第二次世界大戦の二倍、ベトナム戦争の10倍以上)と約四年もの歳月を必要とした。
この南北戦争に最中に行われたゲティスバーグの演説は、数ある大統領の演説の中でも最も有名な演説の一つである。ゲティスバーグ演説は、北部で形成された「自由の新しい誕生」を称揚し、その大義の下、戦争に勝利するために国民の団結を促す演説であった34。
government of the people, by the people, for the peopleという一節で有名。また日本国憲法の一部にもなっている。
しかし、自由に関する演説という観点で演説を見るならば、リンカンが1864年4月18日にボルティモアで行った演説のほうがより重要である。
リンカンは、「自由という言葉の上手い定義などありはしない。そしてアメリカ国民は、ちょうど今、大いに自由の定義を欠いている。我々みなは自由を宣言した。しかし、そのまさに同じ言葉を使う際に、我々みなはまったく同じことを意味しているわけではない。ある者にとっては、自由という言葉は、一人一人の人間が、好きなようにふるまって、自らの労力の結果得たものを好きなようにするという意味であるが、一方、ある者にとっては、自由という言葉は、ある人々が他の人を喜ばせることをして、他の人々の労働の結果得たものを好きなようにするという意味である。この二つは、自由という名で呼ばれるが、違っているだけではなく、相容れないことである。そして、それぞれ別々の陣営によって、二つの違った相容れない名前、自由と圧制という名で呼ばれている」と演説している35。このリンカンの言葉は、自由の概念をめぐる争いという南北戦争の一側面を浮き彫りにするものであったと言える。
19世紀―南北戦争以後
リンカンの暗殺は、南部再建の前途を予感させるものであった。リンカンが企図していた穏健な再建策はすぐに放棄され、南部再建は大きな痛みを伴うものとなったのである。副大統領から昇格して第一七代大統領に就任したアンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)は、政権末期に共和党内の急進派の画策によって危うく大統領職を失うところであった。南北戦争以後から20世紀までの間、八人の大統領が就任しているが、グローバー・クリーブランド(Grover Cleveland)を除いてどの大統領も二流の評価を受けている36。つまり、リンカンのように国民を道義的に導いていく大統領が不在であったと言っても過言ではない。
●アメリカで人気のある大統領とは誰か?
学生に質問
42人中
ベスト・スリー
1、フランクリン・ルーズベルト(四度の調査でいずれも一位)。史上唯一の四期連続大統領を務めた。
2、リンカン(三位、二位、二位、二位)。南北戦争を戦い抜いて国家を再統合した。
3、ジェファソン(2,3,5,5)またはセオドア・ルーズベルト(5,5,3,3)
政治を広く国民に開放した。
ちなみにワシントンは四位据え置き。
ワースト・スリー
1、アンドリュー・ジョンソン(38,39,40,42) リンカンの次の大統領。あやうく大統領職を奪われかけた。
2、ハーディング(39,40,41,40)。死後に発行された暴露本(事実無根のものが多いとされる)のせい。
3、ブキャナン(37,38,39,41)リンカンの前の大統領。南北の対立が深まるのを放置した。
ちなみに現職ブッシュ大統領は、23位で、パパ・ブッシュの22位の次。
共和党内の急進派は、アンドリュー・ジョンソンを大統領職から追うことには失敗したものの、南北戦争で活躍したグラント将軍を担ぎ出し第一八代大統領として就任させるのに成功した。
ユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)は、第二次就任演説の中で「今次の内乱の要点は、奴隷を自由にし、そして市民にすることである。だが奴隷は、市民として持つべき市民権を未だ獲得していない。これは過ちであり、正すべきである。この是正のために、行政の影響が及びうる限り、私は最大限の努力を払う」と述べ、黒人の市民的自由の実現を唱えた37。しかし、実際に黒人の市民的自由が達成されるには、まだ約一世紀もの年月を必要としたのである。→公民権法の制定。
グラント政権期に南部再建は、すべての南部諸州が連邦に正式に復帰することで一つの区切りを迎えていた。またこの頃は、マーク・トウェイン(Mark Twain)が『金メッキ時代」と名付けた時代の始まりであった。金めっき時代は、自分の為になることならどんなことでもしてよいという信念が幅を利かせた時代であり、一般市民にとって誰もが大金持ちになれるというアメリカの神話が現実のものとなる時代であった。1869年には大陸横断鉄道が開通し、それによって大西部開拓が大いに進捗した。近代工業化をもとにした資本主義が急速に発達を遂げ、社会的ダーウィニズムを体現する鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)や、J・P・モーガン(J. P. Morgan)といったビッグ・ビジネスの立役者がアメリカ社会に大きな影響を及ぼすようになった。
→カーネギーの考え方
社会的ダーウィニズムとは適者生存である。カーネギーは、お金を儲ける手段は何でもよいと考えていた。海軍軍縮を支持しながらも、海軍から多くの軍艦製造を受注していた。それは、どうせ他の企業がお金を儲けることになるならまだ自分が儲けたほうがまし。カーネギーは利潤をどうして労働者に還元しないかと聞かれた時に、次のように答えた。労働者はお金をすぐに浪費してしまうので後には何も残らない。だから労働者に与える分のお金を私が取っておいて、図書館や病院など公共施設を建てるのに使うのだ。彼らは自分たちで図書館や病院を作れないから、私が建てればよい。
資本家たちは、土地の払下げ、関税保護、助成金、有利な通貨政策、様ざまな規制からの自由を求める一方で、選挙資金や賄賂を政治家たちに提供していた38。公的秩序と矛盾せずに最大限の自由を保障することが政府の役割であった。第二〇代大統領ジェームズ・ガーフィールド(James Garfield)が就任演説の中で、「法律もしくは政府が、良識ある市民の進路をいかに小さくとも阻む限り、自由はその恵みを最大限に発揮することはできない」と述べているように最小限の政府こそ最良の政府だと考えられていた39。
ガーフィールドが暗殺者の凶弾に倒れた後、副大統領のチェスター・アーサー(Chester Arthur)が昇格し第21代大統領に就任した。アーサーは就任演説で「繁栄が我が国を祝福している」と述べ、アメリカが繁栄を享受していることを強調した40。
アーサー政権はほとんど誰からも期待されずに終わり、クリーブランドが1884年の大統領選を制した。クリーブランドは第一次就任演説で、「公益」と「公共の福祉」を増進するために「個人の利益」や「地方の利益」を放棄するのも止むを得ないと述べている。そして「自由の代価」として公僕である公職者を監視し、「誠実さと有能さを公平かつ正当に評価」しなければならないと論じている41。クリーブランドは、公職者の義務を非常に厳格に考えていた。そしてクリーブランドは政治家たちが利権を与えたり、贈賄を受け取ったりしないように監視する役割を大統領は果たすべきだと考えていた。
→クリーブランド大統領の結婚について
クリーブランド大統領の妻への最初のプレゼントは?
歴代大統領の中でも、二度勘定されるのはクリーブランドだけである。それは、第二十二代と第二十四代の間に第二十三代のベンジャミン・ハリソンが挟まっているからだ。1888年の大統領選でクリーブランドは、再選をかけてハリソンと戦ったが、一般投票ではハリソンの得票数を上回りながらも、選挙人の獲得数で敗北した。しかし、クリーブランドは1892年の大統領選に再出馬し、ハリソンを破り雪辱を果たした。
クリーブランドは、晩婚で結婚した時の年齢は49歳だった。初婚である。お相手はフランシス・フォルサムという21歳の女性。実はこの女性は長年の友人であったオスカー・フォルサムの娘で、クリーブランドが彼女に最初に贈った最初のプレゼントは、何とフランシス嬢本人用の乳母車だった。その時、クリーブランドは27歳、まさかこの乳母車の中にいる赤ん坊が将来の自分の妻になるとは夢にも思わなかっただろう。大統領とファースト・レディの年齢差が大きい例は、他にタイラー大統領の例がある。タイラーは54歳の時に24歳の女性と結婚している。
クリーブランド大統領とフランシス嬢の婚約は秘密にされ結婚式の五日前まで全く誰も知られることもなく、クリーブランド自身も結婚式当日もいつも通り職務を果たしていたという。
クリーブランドは第二次就任演説で、「温情主義という不健全な種子」は「人民による政府に対する絶えざる脅威」であると述べた。さらにクリーブランドは、「公的資金を無駄にすることは、市民に対する犯罪である」から、「市民の労働と蓄えの重荷となる、何の関係もない無分別で活気がない企業を助けるための助成金と補助金を拒否」しなければならないと主張した。クリーブランドにとって公的支出をできるだけ制限することが善良なる政府の条件であった42。人民は政府の援助を期待するべきではなく、社会は政府の介入なしでも順調に動いてゆくはずであるという一種の自由放任主義哲学がクリーブランドの信念であった。それ故、1893年の恐慌に対してクリーブランドが唱えた対策は、安定した通貨を守ることだけであった。クリーブランドは、公的資金が不正に使用されないか見張る番人であると自らを思っていた。
1896年の大統領選では、1893年の恐慌が民主党にとって大きな負い目となったこととウィリアム・ブライアン(William Bryan)大統領候補の急進性を危惧した産業界の反発により、共和党候補のウィリアム・マッキンリー(William McKinley)が勝利し第二五代大統領に就任した。また1896年の大統領選で目を引いたのは第三党としての人民党の隆盛である。人民党は西部と南部の農民や都市の労働者を支持母体にした政党で、公益のために個人の自由と権利は制限されるべきであると主張していた。1896年の大統領選は、ビック・ビジネスと革新的な大衆勢力との争いだったと見ることができる。
マッキンリー政権期は、世紀転換期にあたり、アメリカが大きな変貌を遂げた時期にあたる。その変貌とは、第一に、米西戦争、ハワイの併合、門戸開放政策の提唱など海外への膨張志向をアメリカが示したこと、第二にアメリカ国内で典型的な資本主義社会が成立したこと、第三に、そうした資本主義社会の歪みを是正しようとする革新主義が台頭したことである43。
マッキンリーは第二次就任演説の中で、アメリカの歴史がまさに「自由と博愛」を高める歴史であったと概括し、「神への畏敬の念の下に、好機を利用し自由の領域をこれから拡大する」と明言している44。米西戦争の勝利は、アメリカを帝国主義勢力として台頭させることになった。アングロ・サクソンの優位性と自由、そしてナショナリズムが結び付き、アメリカは「最大の自由と最も純粋なキリスト教信仰と最高の文明」を人類に流布する使命を帯びた国であるという自意識を持つようになったのである45。
世紀転換期において、アメリカでは本来独自に発展を遂げた自由が普遍的な性質を付加されるようになり、その後の20世紀のアメリカの自由の概念に多大な影響を与えることになった。さらに経済的自由の問題が社会の争点となりつつあった。伝統的な「自由と財産」の概念からすれば、独占企業が恣意的な経済活動をもとに富を築くことは一つの真理である。しかし、独占企業は自らの財産権を濫用して他者の財産権を侵害し、その結果、自由が脅かされることになるというのも一つの真理であった。20世紀のアメリカでは、この二つの真理の間の均衡をいかに取るべきかが一つの大きな問題であった。そして、その均衡をはかるために政府はいかなる政策を取るべきかが大統領にとって重要な問題であった。
第三時限
20世紀―世界大戦期
1901年9月14日、マッキンリー大統領は無政府主義者から受けた銃創がもとで死去した。そのため副大統領職にあったセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)が昇格して第二六代大統領に就任した。このルーズベルトの登場は、アメリカ社会の激変に対して政府の役割を適応させようとする革新運動の嚆矢であった。
→セオドア・ルーズベルトは史上最年少の大統領。42歳と10ヶ月で就任。ケネディは43歳と8ヶ月。フランクリン・ルーズベルトとは遠縁にあたる。
ルーズベルトは就任演説の中で、「複雑で激しい近代生活」に移行したアメリカ社会に「予見することができなかった危機」が迫っていると訴えた。その危機とは過度の資本集中、すなわちトラストの形成により公共の福祉が損なわれることである。こうした弊害を是正し、トラストを「禁止するのではなく、監視する」ように務めなければならない。
ルーズベルトのあだなは、Trust-Busterである。独占禁止法取締官。
もしくはrough rider、荒くれ騎兵。米西戦争での活躍。
さらにルーズベルトは、「我々自身の幸福だけではなく人類の幸福が我々の成功にかかっている。もし我々が失敗すれば、世界の自由自治の原則の基礎を揺るがせることになるだろう」と述べ、世界の手本としてのアメリカの役割を強調した46。ルーズベルトは機会の平等と経済的自由を保つために法によって大企業の専横を防止しようと考えたのである。ただそうした考えは、すべてのトラストを破壊することにより19世紀半ばの状態に経済を戻すことに向けられたのではなく、有害なトラストを禁止することにより機会の平等と経済的自由を保つことができる状態に是正することに向けられていたのである。
セオドア・ルーズベルト
積極的に道徳的規律を定めることにより自由社会が保持されえる。「規律ある自由」。
Theodore Roosevelt New Nationalism
pp.413-415
“Free Government” as the Guardian of “Healthy
アメリカ人の歴史というのは、「健全なる自由のための戦い」である。
その戦いとは大部分が政治的戦いである。特殊権益に反対する自立的な政府を確立する権利を個々人は持つ。政府を公共善に反するような形で利用しようとする者達に対抗する。
機会の平等。経済的自由。大企業は近代生活にとって必要なものであるから、それを壊すのではなく、公共善に見合うように規制する。ニュー・ナショナリズムは連邦政府を通して行う。連邦政府が国民に対してより責任を負うようにする。上院議員を一般選挙で選出するようにする。現行のルールでフェア・プレイを行うように求めるのではなく、機会の平等を保障するためにルールそのものを変える。自由と推進するために国家が大規模な介入を行う。
ルーズベルトの後継者として第二七代大統領に就任したウィリアム・タフト(William Taft)は就任演説の中で、ルーズベルトの方針を継承することを明らかにし、トラストの「権力の濫用と無法さを抑止」することで個人の自由と密接に結びついた財産権を保証することを約束した。それは「半世紀前には存在しなかった」政府の役割であり、反トラスト立法は、まさに自由を愛好する人々が機会の平等を守ろうとする試みであった47。William Howard Taft New Conservatism “Personal Liberty and the Right of Property”
1912年の大統領選は、現職のタフト、タフトと袂を分かったセオドア・ルーズベルト、そして民主党候補のウィルソンの三者によって争われた。ウィルソンは「ニュー・フリーダム」と銘打たれる諸演説を展開し選挙戦に勝利した。
Of course, we want liberty, but what is liberty?
ウッドロウ・ウィルソン1911
1912年の選挙戦。
十九世紀後半に長く続いたデフレが終息し、急激なインフレが起こり、賃金上昇以上に生活費がよりはやく上昇していた。失業も増大しつつあった。独占的企業がますます力を強め、アメリカの自由に対する脅威と考えられるようになってきた。人々はアメリカが危機に瀕していると考えていた。移民もかつてない程の数に達していた。
第二八代大統領ウィルソンは、第一次就任演説で経済的自由を保障するために「公正なる規準とフェア・プレイ」を適用することを主張した。政府は「個人的で利己的な目的にしばしば利用」され、「産業発展の成果」によって生じた人々の「呻きと苦悶」を検討することをおこたってきた。そうした人々の生活を人間的なものにするために「良いものを損なうことなく弊害を浄化し、再検討し、修理し、正す」必要がある48。ウィルソンの自由に関する考え方は、「ニュー・フリーダム」でさらに鮮明に打ち出されている。歴史上類を見ない近代資本主義社会の中で必要とされる新しい自由は、「人間の利害、行動、活動力の完全なる調整によって作られる」ものである。そこで政府の果たすべき役割は、企業と個人の関係の調整をはかり、非人間的な組織のもたらす悪を抑制することであった。そして最終的には政府の介入なしで自由競争を行うことができる状態こそ真の自由であった49。“Freemen Need No Guardians”
こうした自由はアメリカ国内に向けてのものであったが、第二次就任演説では「生存の自由と組織悪からの自由」を全人類に普及させ、「武装中立」の下に「平和を強化し擁護する」役割を果たすべきだと主張している50。しかしアメリカはこの演説の後、まもなくして第一次世界大戦参戦を余儀なくされる。第一次世界大戦開戦においてウィルソンは、「民主主義のために、自分たちの政府が発言力を持つように権威を委託している人々の権利のために、小国の権利と自由のために、すべての人民に平和と安全をもたらし、最終的に世界それ自体を自由にしようという自由な人民の提携によって世界を統合するために」アメリカは戦うと述べ、世界の道義的推進者としてのアメリカの立場を闡明にした51。
「1916年、アメリカは容赦なく世界の趨勢に引き込まれつつあったが、独自のやり方で切り抜けようとしていた。建国初期以来、自由という理念はアメリカの外交指針となってきた。合衆国はいつも正義の側にいたわけではない。偉大なる共和国の動機は、純粋とは言えなかったし、その行動は必ずしも賢明で公正なものとは言えなかった。しばしば、アメリカの基本原理は、圧政、貪欲、そして抑圧を正当化するのに使われてきた。しかし、良かれ悪しかれ自由という理念は、アメリカが世界と関わっていくやり方の中で中枢に近い位置にあった。こうした原理が、外交関係に適用されると他国との争いをまねくことになる。1916年には、アメリカの自由の概念はたいていの文化からかけ離れていたし、少なからず敬遠されていた。多くの支配者達は自由の概念を恐れ、中にはそれを打ち倒そうとする者もいた。その結果が世界大戦であり、合衆国は自由と敵と戦うことになった。
軍国主義・独裁主義・野蛮主義vs文明・民主主義・自由
グレート・クルセイド
この偉大なる運動にアメリカ国民は参加すべき。
アメリカが世界の中で、道徳的・精神的な指導的立場につくという新しい局面。
The Committee on public information
George Creelが中心となって国民に戦争参加の意義を広める。スピーチ活動を通して。The Speakers Program
多数の弁士を養成し、スピーチ活動を行う。
しかし、第一次世界大戦後、アメリカは戦後復興に協力は惜しまなかったが、国際連盟に加盟することはなかった。
ウィルソンの十四か条
個人の権利ではなく国家の運命に関する自由
ヨーロッパが戦後復興に奔走する一方で、アメリカは繁栄と狂乱の20年代に入っていた。その時代に大統領職を占めたのは共和党のウォレン・ハーディング(Warren Harding)とカルヴィン・クーリッジ(Calvin Coolidge)、そしてハーバート・フーバー(Herbert Hoover)の三人である。
第二九代大統領ハーディングは、「自由と文明」の関連について就任演説の中で説いている。自由と文明は「切っても切り離せないもの」であり、それらは代議制でこそ守られる。アメリカは今や「全人類に対する自由と文明の啓蒙的模範」となったが、世界の他の国々がアメリカと同じ高みに至るように期待するにとどめ、旧世界の事柄には干渉しない。
→孤立主義。
アメリカが重視すべきなのは、ビジネスの世界を戦争による混乱から常態に戻すことである。そして「政府に多くを求めすぎる」ことを避けなければならない52。
ハーディングの急逝後、大統領職を引き継いだクーリッジは、アメリカの自由の歴史を語っている。その歴史とは不断の自由の拡大の歴史である。また人民の独立と自由は、「財産を政府ではなく彼ら自身の手で管理し所有する」ことで守られるとし、人民の生計の重荷とならないように政府はその歳出を削減すべきだとクーリッジは説いている。政府と企業は互いにできるだけ干渉しあわず、政府は特権による腐敗を防止し、不正を法律によって正すことにより合法的な所有を守るだけでよいのである53。
さらに第三〇代大統領フーバーは、クーリッジの自由放任主義的な考えをさらに推し進めた。フーバーは、「進歩は公衆の調和より生まれるのであって政府の規制から生まれるのではない」と就任演説で明言している。ビジネス自体に「サーヴィス、安定、雇用の規律」を進歩させる機能があり、さらに自浄作用があるので政府はそうした「自助努力」を支援し促進するだけでよいとフーバーは唱えた54。フーバーが信奉していたのは実質的な自由放任主義である。こうしたフーバーの自由の捉え方は、ジェファソンやジャクソンの政治哲学を踏襲するものである。政府の介入が無くても資本主義は有効に機能するという考えをフーバー自身は、「真の自由主義」と呼んでいた55。
→フーバーは、三十代にして百万長者になった人物。貧しい家庭に生まれ、十歳にならないうちに良心を病気で亡くしている。その後、親戚のもとを転々とし、スタンフォード大学に辛うじて進学し、大学で働きながら地質学を学んだ。その当時のエピソード。
ある日、前大統領のベンジャミン・ハリソンが大学野球を観戦するために訪れた。ハリソンは、うっかりして入場券を買わずに野球場に入場してしまった。野球場の管理人をしていたフーバーは、前大統領を追いかけていって、うやうやしく入場料25セントを支払うようにと告げた。前大統領はそれに応じて気前よく25セントを支払い、しかも前売り券三枚まで購入した。フーバーの責任感の強さと抜け目のなさがうかがえるエピソードである。
我々の社会は個人の実績の上に成り立っている。すべての個人に、その知性、性格、能力、そして野心を活かして社会的地位を獲得する平等な機会を保障するべきだ。そうすれば社会問題の解決により階層の固定化を免れることができる。目的達成のために個人が努力するように刺激しなければならない。責任感と理解を深めることによって、個人の目的達成を支援することができる。だがその代わりに個人は激烈な競争の渦中に身を投じなければならない。
フーバーが大統領に就任して一年もたたないうちに「暗黒の木曜日」が訪れ、アメリカは大恐慌の時代に入った。フーバーは大恐慌を終息させようと様ざまな施策を試みたが、ほとんど実際的な効果をあげることができなかった。フーバーの退場とそれに代わるフランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)の登場は、19世紀的な自由放任主義の終わりを告げるものであった。
フーバーは、後にフランクリン・ルーズベルトのニュー・ディールに対して批判的になる。
『自由への挑戦』のなかで、また共和党大会での一連の演説のなかでかれは、ニュー・ディールに兆しはじめた経済管理は必然的にすべての自由の基礎である経済的自由を破壊してしまい、「社会主義的方法」で経済に干渉することは中産階級をファシズムへ追いやるだけであろうと予言した。
ニュー・ディール期
保守派。政府は個人の財産を守り、個人の自由を最大限に擁護する義務がある。政府のコントロールなしで財産を築く自由=伝統的自由
伝統的自由と新たな自由との衝突。
Dealはトランプの札を配ること。新しくトランプの札を配りなおす。
ルーズベルトは、第一次就任演説で「我々が疫病を克服する方法を、非常に長い間苦しんだ後で発見したのとまさに同じように、我々は経済的疾病を克服する」ことができると世界恐慌によって疲弊した国民を鼓舞した56。さらに1934年の炉辺談話でルーズベルトは、「長い間、自由人民が特権的な少数者に奉仕するように訓練されてきたような下でなされてきた自由の定義に戻ること」を拒否し、「アメリカ史上で庶民に与えられた中でも最も大きな自由と安全に向かって前進するという条件の下でのより広範な自由の定義」を獲得することを国民に訴えた。ルーズベルトが意味した「より広範な自由」とは、住居と生計、そして社会保険の保障の下に一般人民が安心して暮らせるというものであった57。
さらに第二次就任演説でルーズベルトは「不公正という癌に侵されていない国を求める」と明言している。ルーズベルトは、自由は公正を伴わなければならないと考えていた58。少数の特権集団がその他の人々から許容される以上の労働の分け前を奪うことは不公正であり、それは「誤った」自由であった。そしてそうした特権集団が「その他の人々の財産、お金、労働―すなわち生活に対するほとんど完全な統制力」を握っている状態では、その他の人々の「自由はもはや本物」ではないのである59。このように1930年代後半、「自由と公正」は、アメリカの価値システムの中で伝統的な「秩序だった自由」という概念から乖離し始めていたのである。それは多くのアメリカ人が「自由と財産」、「秩序だった自由」といった概念は、特定の利益集団のためのものにすぎないと思うようになったのが一因である。
FDRの指名受諾演説。1936年6月27日。Public Papers and Addresses of FDR,5:233。
「大多数の人にとって、かつて勝ち取った政治的平等は、経済的不平等の前では意味を失う。小集団が、その他の人々の財産、お金、労働-すなわち生活に対するほとんど完全な統制力を握っている。大多数の人にとって人生はもはや自由ではない。自由はもはや本物ではない。もはや人は幸福を追求することができなくなった」
1937年の演説
p.164
我々の世代では、もし賢明でエネルギッシュな政府が正しい経済の方向性を示すことができるならば、大衆の生活水準をより高めるために国富はうまく活用されるはずだという新しい考え方が支配的になっている。こうした考え方により、労働者が短時間高賃金を求め、農民がより安定した収入を求め、大部分のビジネスマンが腐敗した取引からの救済を求め、そして、すべての国民がこうした保証を求めることが納得のいくように思えるが、度々、誤って「自由」という言葉が使われている。その誤った「自由」とは、一部の人々のみがその他の人々から許容される以上の分け前を奪うことである。
第二次世界大戦の脅威が迫る中、第三次就任演説は行われた。ルーズベルトは、演説の末尾で「自由の神聖なる炎と共和政体の保全」は国民の手に委ねられているというワシントンの就任演説の一節を引用し、「疑いと恐れにより我々が自由の神聖なる炎を掻き消して」しまえば、ワシントンが打ちたてようとした理想を断念することになると述べ、自由を守るための努力が必要であることを国民に訴えた60。実はこの第三次就任演説の二週間前に有名な「四つの自由」演説61が行われている。「四つの自由」は、アメリカ国民だけでなく世界の人々をも対象にした「より広範な自由」の昇華であったと言える。議会から武器貸与法に対する支持を得ようと苦心していた最中にルーズベルトは四つの自由の核となるフレーズを思い付いている。これは、ヨーロッパ情勢の悪化により、国内の不安定や政府権力のバランスの問題といった国内的な視点から、外部からの脅威という視点で自由が見直されるようになったことの現われであった。そしてさらに第二次世界大戦は、自由とファシズムとの戦いという位置付けがなされるようになったのは周知の通りである。第二次世界大戦期、他の多くの国とは違って、アメリカでは強制労働が行われなかったし、イギリスのような登録制度も採られなかった。それ故、国民を、彼らの自発的な意志により戦争関連産業に従事させるようにしなければならなかった。つまり、多種多様な国民を統合し戦争へ向かわせるためには、ナショナリズムを超えた共通の大義が必要だったのである。
第二次世界大戦において共通の大義のためにいかに様々な国民を納得して戦争に向かわせるか。ルーズベルトは、プロパガンダを専門とする機関を設置しようとはしなかった。1941年までそれを設置することを拒んでいた。ルーズベルト婦人のEleanorとFiorello La Guardiaがルーズベルトを説得して、the Office of Facts and Figuresを設立させた。
Archibald MacLeishが局長となり、strategy of truthを行うように提言。国民説得のキャンペーン。
そのキャンペーンは、憎しみや偏見、恐怖に訴えかけるのではなく、道義に訴えかけるものであった。しかし、ジャーナリスト達には不評であった。記事にならない。
社会科学者のHarold Lasswell「真実の戦略はわかりやすく鮮烈でなければならない」
P.510-520
ルーズベルトは、批判が多くなるのに応えて、1942年にthe Office of War Information
を設立。
出版業者のGardner Cowles Jr.国内担当、劇作家のRobert Sherwood海外担当、ラジオ・ジャーナリストのElmer Davis管理担当の三人を任命。
在米日本人の強制収容⇔アメリカの逸脱。在米日本人のすべてが収容されたわけではない。アメリカ西部カリフォルニア、オレゴン、ワシントンの12万人は強制収容され自由を奪われたが、ハワイの日本人の17万5000人は強制収容されなかった。何故、ハワイの日本人は自由を奪われなかったのか?⇔日系人が経済的に大きな力を持っていたため。
このように二十世紀前半は、十九世紀に培われた伝統的自由に代わる「自由と公正」という新しい自由が提唱された。さらにそうした自由は、アメリカが世界情勢に深く関わるにつれて、世界的なものとして宣言されるようになった。これは十九世紀末以来の、単なる自由の避難場所というアメリカ像から世界に自由を広める道義的国家としてのアメリカ像への移行の帰結である。
人種差別を撤廃するという考えは第二次世界大戦の時に勃興した。黒人自身の努力、枢軸国による人種主義の悲惨さ、自由という共通の大義。ファシズムとの戦いに乗り出すことで自国にも問題があることに気が付いた。
第四時限
二十世紀―冷戦期から現代へ
フランクリン・ルーズベルトは第二次世界大戦終結を見ることなくこの世を去り、戦後処理の実務は副大統領から第三三代大統領に昇格したハリー・トルーマン(Harry Truman)が行うことになった。第二次世界大戦が終結したことでアメリカ人は、自由を全体主義の魔手から守るという使命を全うし、世界情勢に対する責任を果たし終えたと思っていた。しかし、大戦終結後、米ソ両国の相互不信が顕在化していく中、1947年のトルーマン・ドクトリン公表によって、大部分のアメリカ人は明白に冷戦時代の到来を思い知ることになった62。
トルーマンは1949年の就任演説の中で、共産主義が「自由、安全、そしてより大きな機会を人類に与えるという誤った哲理」に固執し、その結果、多くの人民の「自由を犠牲にしている」と非難した。そしてトルーマン・ドクトリンで既に展開された手法である民主主義と共産主義の対置を行い、自由対奴隷という明確な構図を示している。
トルーマン・ドクトリンについて
トルーマン・ドクトリンの発表は、政権の内幕を知らない者にとって唐突なものであったかもしれない。トルーマン・ドクトリンの発表の六日前、トルーマンはテキサス州のベイラー大学で外交に関する講演を行っている。その演説の締め括りは以下のようであった。
「平和と自由はたやすく達成されるものではない。力によって達成されるものではない。政治経済において、相互理解と協調、そしてすべての事柄に関してすべての友邦を公平に扱うことが平和と自由を生む。今、そして未来にかけて、そうすることを決心しよう。もし他国が[我々と]同じようにするなら、我々は永久平和と世界平和という目標を達成することができる(1)」
この論調からは、六日後のトルーマン・ドクトリンで示されたような民主主義と共産主義の対立構図は浮かび上がってこない。
トルーマン・ドクトリンの基本構造とは、以下のような三段論法であるという(9)。
1、ソ連の行動は何であれ世界征服計画の一環である。
2、ギリシアとトルコへの危機はソ連の行動によるものである。
3、それ故、ギリシアとトルコへの危機は、世界征服計画の一環である。
トルーマン・ドクトリンは本来、ギリシアへの援助の必要性を訴えることが目的であった。もちろん、アメリカはギリシアに対してトルーマン・ドクトリン発表以前から援助を行っていなかったわけではない。経済的にも政治的にも混迷を深めていたギリシアに、1946年1月、合衆国輸出入銀行が2500万ドルの借款を与え、さらに1946年7月、国連救済復興機関が総計3億5800万ドルの援助を約束している。1946年8月の段階では、もはやギリシアに対するさらなる援助は不要で、議会に追加予算を求める必要はないとアチソン(Dean Acheson)国務次官は提言している。さらにアチソンは、ギリシアが自力で経済的、政治的混迷を収拾しようと努力するまではさらなる援助を約束するべきではないと述べている(12)。しかし、1947年2月21日、イギリスがギリシアへの軍事的、経済的援助を六週間以内に打ち切る旨をアメリカに通達した(13)。このイギリスによる通達がトルーマン・ドクトリン発表の直接の契機である。
その三日後の2月24日、国務省と軍の主要メンバーが出席した会議で、ギリシアとトルコがソ連の影響下に入れば、欧州や中東までも脅かされるようになるという認識が確認され、何らかの対処策が必要であるとの結論が出された。この時点では、そうした事態が合衆国の安全保障に重大な影響を及ぼすと指摘されたが、ではいったいどのような影響があるのか説明は十分ではなかった。そのうえ、もしギリシアとトルコに援助を与えなければ民主主義と自由を危機にさらすことになるといった論理や全体主義、もしくは共産主義といった言葉はまだ導入されていなかった(14)。
同月27日、議会指導者を招いた会議で、先ず初めにマーシャル国務長官が援助の必要性について説明を行った。しかし、マーシャルの説明は簡潔で無味乾燥なものであったので、議会指導者にたいした感銘を与えることができなかった。議会指導者達からは、「これはイギリスが放棄した火中の栗を拾うことになるのではないか」、「何に賛成せよと言うのだ」、「どれくらいの犠牲を払わなければならないのか」といった質問が相次いだ。そこで会議に同席していたアチソン国務次官は、マーシャルを通じて大統領に発言の機会を求めた。
発言の機会を与えられたアチソンは、ギリシアとトルコの事態の吉左右が、いかにアメリカの安全保障に影響を及ぼすのか説明した(15)。
もしソ連がトルコを掌握することに成功すれば、ギリシアやイランにも勢力を拡大させるであろう。それだけでなく、ギリシア自体でも共産勢力が、もし外部から支援を得ることができれば、全土の支配権を握ることになる。もしギリシアが共産勢力の手中に落ちたら、トルコは遅かれ早かれ屈服させられることになる。ソ連の目的は、東地中海と中東の支配であり、その野望は南アジア、アフリカと際限なく広がっていく。もはやイギリスは世界の大国ではなく、アメリカとソ連だけが世界の大国なのである。両国は全く相容れないイデオロギーを持っている。アメリカは、ソ連の侵略や共産主義者の破壊活動に脅かされている諸国を支援しなければならない。それは単にイギリスの放棄した火中の栗を拾うことではなく、アメリカの安全を守り、自由そのものを守ることなのである。もしソ連が世界の四分の三の人口と三分の二の領土を手に入れてしまえば、アメリカと世界の自由の命運は風前の灯となる。ギリシアとトルコになぜ援助するべきなのか。それは、イギリスが果たしてきた役割を肩代わりすることでもなく、同盟国への人道的な措置でもない。共産主義に対抗するために自由諸国を強化することで、結果的にアメリカの安全と自由を守ることになるからである(16)。
議会指導者達はこのアチソンの訴えに大きく揺り動かされた。そして彼らは、大統領自身が議会と国民に状況を完全に説明するのであれば、どんな手段を採るにしろ、支持を惜しまないと約束した。大統領はそれに応えて議会と国民に関して演説を行なうと確約した。
3月3日、国務省のスピーチライターのジョーンズ(Joseph M. Jones)が演説草稿の作成を開始した(18)。この時点では、ホワイトハウスのスピーチライター陣は草稿作成に関わっておらず、国務省内部だけで草稿作成が行われている。ジョーンズは随時アチソンの指摘を取り入れながら草稿を修正していった。その草稿は、3月7日になって初めてホワイトハウスに送付される(19)。
ジョーンズが作成した3月4日付けの草稿では、「二つの選択可能な生き方」を述べた部分、ギリシアとトルコの現状を分析した部分、そして最後の議会への要請の部分が早くも出揃っている。この草稿で特に注目に値するのは、「自由な人々の世界を維持しようという我々の政策とは、すなわち、ファシストであれ、ナチスであれ、共産主義者であれ、他国に独裁体制を押し付けようとする者のいかなる種類の侵略行為にも我々は抵抗することである(20)」という後に削除されたフレーズがあることである。このフレーズは何故削除されたのか。フレーザーは、草稿作成過程にケナンが関与していたことを示唆している。ケナンは、様々な状況に柔軟に対応できなくなる恐れがあるので、苦境に陥っている自由諸国をアメリカが援助するという普遍的な政策を公表することに反対していた。フレーザーは、このケナンの反対は結局受け入れられなかったと述べている(21)が、上記のフレーズの削除には、このケナンの反対が反映されているように思える。
3月7日の閣僚会議以降、ジョーンズの草稿にクリフォードとエルシー(George Mckee Elsey)の手が加えられた。エルシーは、クリフォードと並んで、トルーマン政権下で活躍したスピーチライターである。アンダーヒルは、「ジョージ・エルシーがトルーマンのスピーチで果たした役割は、『補佐官』という肩書きが示す以上のものであった(22)」とエルシーの業績を高く評価している。トルーマン自身は丁度この頃、メキシコへ外遊していたので草稿作成についてほとんど関与していなかった。草稿作成段階の随所で承認を与えていたとはいえ、トルーマンは3月10日までその詳細を把握していなかった。
演説草稿を見たエルシーは、同日、クリフォードにその内容についてコメントを書き送っている。エルシーは、「極端な」演説を行なうことは時期尚早であると述べている。その理由として、第一に準備に要した時間が不十分であること、第二に最近のソ連の行動の中で適当な口実に使えそうな表立った行動が特に見当たらないこと、第三に国民はまだ演説を受け入れる準備ができていないので事前の誘導が必要であること、第四にモスクワ外相会談を頓挫させる可能性があることの四つをエルシーは挙げている。最後にエルシーは、「以上の理由から、私は来週のメッセージは、範囲を絞るべきだと思う。私は『アメリカが欧州復興の責を担う』という主題を[選択することを]推奨する」と付け加え手紙を締め括っている(23)。
エルシーの意見は結局演説草稿に反映されることはなかったが、トルーマン・ドクトリン公表に関して政権内部の一部で慎重論があったことがうかがえる。また外相会談のためモスクワに向かっていたマーシャルは、パリで草稿を受け取り、「演説の中の反共主義が激烈過ぎる(24)」と評したが、結局、若干の訂正を除いて承認を与えている。
ただ、「極端な」演説に最も積極的なアチソンでさえも、トルーマン・ドクトリンの公表により、マッカーシーに代表されるようなヒステリックな反共主義を誘発することを憂慮していた。極言すれば、議会にギリシアとトルコへの援助を認めさせるのに十分な「共産主義の脅威」さえ表現できればよかったのである。
3月7日付の草稿と最終稿を比較すると、クリフォードとエルシーがどのような手を加えたか浮かび上がってくる。まず大きな違いは、論の展開である。3月7日付の草稿では、導入部分、「二つの選択可能な生き方」、世界に及ぼすその影響、ギリシアとトルコの情勢、議会への要請という順序で論が展開されている。一方、最終稿では、導入部分、ギリシアとトルコの情勢、「二つの選択可能な生き方」、世界に及ぼすその影響、議会への要請という順序で論が展開されている。こうした論の展開に関する変更は、演説の主題をギリシアとトルコに限定するか、それともアメリカの世界政策の中にギリシアとトルコの情勢を位置付けるかという選択に即して行われている。3月7日付の草稿では、まだ主題がギリシアとトルコの情勢に限定されているように感じられ、アチソンはその点を修正するように指示している(25)。アチソンが修正を指示したのは、演説の主題をギリシアとトルコに限定した場合、議会を納得させるのには不十分であると考えたからである。
導入部についてもクリフォードとエルシーは多くの変更を加えている。3月7日付の草稿では導入部分は以下の通りである。
「今日、私は、我が国の外交と安全保障に影響する重大な問題に関する考察と決断を求めるために議会に臨席している。イギリス政府は、合衆国政府に、ギリシアへの経済援助を続けられなくなるということを伝えてきた(26)」
代わって最終稿では導入部分は以下のように変更されている。
「今日の世界が直面している重大な状況により、私は両院合同会議に出席を余儀なくされた。我が国の外交と安全が関わっている。私は今回あなた方に現在の難局の一面に関する考察と決断を求めているのだが、それはギリシアとトルコのことである(27)」
前者と比較して、緊迫度がさらに増していることが読み取れる。こうした変更は、聴衆をいかに演説に引き込み、危機を認識させるかという問題意識を基にして行われている。導入部分の変更に加えて議会への要請の部分についても変更が多く加えられている。3月7日付の草稿では、議会への要請の部分は以下のように始まっている。
「それ故に、トルコに援助を与えるべきであるというのが私の意見である。我々は[トルコに]そうした援助を与えうる唯一の国である。そしてそうすることが我々の大きな利益となる(28)」
最終稿では、以下のように変更されている。
「この宿命的な瞬間に、我々がギリシアとトルコに援助を与えなければ、その影響は東洋だけでなく西洋にも遠く及ぶだろう。我々は迅速かつ決然とした行動を起こさなければならない(29)」
この最終稿の表現を見るとわかるように、「私の意見」という言葉が削除され、全体的に強く断定する調子に改められている。断固たるトルーマンの決意が読み取れる部分であり、それに続く議会への要請の部分を際立たせている。
次は最終稿、すなわち実際に発表されたトルーマン・ドクトリンの文言をさらに詳しく分析していく。
「最近、世界の多くの国々の人民が、彼らの意思に反して全体主義政権に支配されることになった。合衆国政府は、ヤルタ協定違反やポーランド、ルーマニア、ブルガリアにおける圧制と恫喝に度々抗議してきた(30)」
トルーマンは、譲歩としてソ連を名指しで批判することを避けている。しかし、「全体主義政権」とは共産主義政権のことであり、「ヤルタ協定違反」をしているのはソ連であることは聴衆にとって容易に理解できることであったに違いない。この「ヤルタ協定違反」は、草稿作成段階の後のほうで付け加えられたものである。
「世界史上の現時点では、あらゆる国々は、二つの選択可能な生き方から一つを選ばなければならない。選択されるのはしばしば自由な生き方ではない。一つの生き方は、多数者の意志に基づき、自由な国家制度、代議政府、自由選挙、個人の自由の保障、言論と信教の自由そして政治的抑圧からの自由などで特徴付けられる。もう一つの生き方は、少数者による多数者の抑制に基づく。それは、恐怖と抑圧、出版、ラジオの統制、固定選挙そして個人の自由の抑圧に基づいている。自由な人民が外国の圧力や武装した少数者によって仕組まれた服従に抵抗するのを援助するのが、合衆国の政策でなければならないと私は信じる(31)」
もちろんここで言及されている「二つの選択可能な生き方」とは民主主義と共産主義であることは疑いようもない。自由というアメリカ人にとってお馴染みの伝統的理念を持ち出し、それがあるかないかで、善悪の判断を行うという非常に明白で分かり易い構図を打ち出している。さらに七ヵ月後の演説の中では、「今、世界には二つのイデオロギーがある。我々は、合衆国憲法の下にあり権利章典を有している。個人の権利は、我々の政体を構成するにあたって最も大事なものである。一方のイデオロギーは、個人は国家の奴隷であり、国が命じるところに送られ、命じるが儘に行い、命じるが儘に動くと信じている(32)」と述べ、自由対奴隷というさらに深化させた構図を示している。自由とネガティヴな何かを対置させる手法は、パトリック・ヘンリー(Patrick Henry)の「自由か死かの演説(33)」以来、踏襲されてきた手法である。パトリック・ヘンリーの「自由か死かの演説」についてトルーマンは上院議員時代、それがヘンリーのフリーメーソン的な教養に由来するものだと演説で引用したことがあった(34)。
「全体主義政権の種は貧困と欠乏の中で育てられる。この種は貧困と紛争の悪しき土壌の中で成長し拡散していく。この種は、よりよい生活への人民の希望が絶たれた時に最も成長する。我々は我々の希望を生かし続けなければならない。世界の自由な人民は、彼らの自由を維持するために我々の援助を期待している。我々がリーダーシップをとることに躊躇するならば、世界の平和を危険にさらすことになり、我が国の繁栄をも危険にさらすことになる(35)」
この部分は草稿作成の最終段階で付け加えられた部分で、全体主義を「貧困」の側に、民主主義を「繁栄」の側に位置付けることにより、全体主義から民主主主義を守る手段としての援助を正当化している。さらに援助は自由のために行われるものだとして、援助の道義的な側面を強調している。そして、世界の平和が損なわれればアメリカの繁栄も損なわれるという一種のドミノ理論を展開している。
トルーマン・ドクトリンの本来の目的は、財政援助のための予算を議会に認めさせることであり、共産主義の脅威を訴えることは主目的ではなかった。そもそも「トルーマン・ドクトリン」という名前自体、演説後にモンロー・ドクトリンになぞらえて新聞各紙でそう呼ばれるようになったにすぎない。実は「ドクトリン」という言葉さえも演説本文中にはない。チャーチルの「鉄のカーテン」演説のように、演説全体のタイトルとなるような文句が演説中になかったために「トルーマン・ドクトリン」という無骨な名称が冠せられるにいたったのである。
ごく一部の新聞を除いて、トルーマン・ドクトリンに対する新聞各紙の論調は圧倒的に好意的なものであった。新聞各紙は、トルーマン・ドクトリンが、モンロー・ドクトリン以来の歴史的決断であり、共産勢力の拡大により危機に瀕している弱小国を救うために議会は党派的利害を忘れて大統領を支持すするべきだと説いた。新聞の中には、トルーマン・ドクトリンをルーズベルト大統領の「隔離演説(Quarantine Speech)(39)」と比較し、トルーマン・ドクトリンは、ソ連の脅威に対抗するには穏やか過ぎると説くものもあった(40)。
さらにトルーマンの支持率に注目すると、1946年の中間選挙後の支持率は32%であったのが、トルーマン・ドクトリン発表後、60%にはねあがっている(41)。この点からすればトルーマン・ドクトリンはレトリック上の成功をおさめたと言えるかもしれない。
しかし、反共産主義レトリックがもたらす一つの危険性として、大統領の政策に反対する者が共産主義に与する反アメリカ的・反民主主義な分子として封殺されうる可能性があったことは否めないだろう。さらに議会では、予算緊縮を求める傾向が濃厚な共和党議員でさえも、大統領の政策を拒否すれば共産主義によるドミノ倒しがおこりアメリカに深刻な脅威を及ぼす可能性があると考えたので積極的に反対することはできなかった(42)。
トルーマンが考える自由な生き方とは、多数者の意志に基づいた代議政府の下で、自由選挙、個人の自由、言論と信教の自由、そして政治的抑圧からの自由が保障されることであった。さらにトルーマンは、フランクリン・ルーズベルトの唱えた「四つの自由」になぞらえて「四つの平和と自由のための計画」を提唱した。すなわち、第一に国連への支持、第二に世界経済復興支援、第三に自由愛好諸国を侵略から守ること、そして第四は、ポイント・フォーとして知られるようになった発展途上国への技術援助である。トルーマンは、世界の自由を守ることで初めてアメリカの自由も守られると考えていた。トルーマンは就任演説の末尾で「全能の神の下に断固たる信念を持って我々は人類の自由が保障される世界に向かって前進するだろう」とアメリカの使命を明白に説いている63。これはアメリカが共産主義に対抗する世界の自由の擁護者であるという姿勢を示したものに他ならなかった。ただ一方で、多くのアメリカ人は安全保障が自由や公正よりも優先されるべきものだと考えるようになった。そうした思潮の中、1950年の国内治安法制定やマッカーシー委員会の赤狩りなどによって市民的自由が著しく制限されたという暗い側面もあった64。
マッカーシズムという言葉の初出。1949年にHerbert Blockが風刺漫画で描いた。マッカーシズムとラベルが貼られたバケツが積み重なっている真下に共和党の象徴である象をマッカーシーの支持者達が引っ張ってこようとしている漫画。
P.591
マッカーシズムはアメリカの自由に対する危機。
共産主義と関与していることを理由(実際そうでなくても)にして共和党保守派が民主党ニュー・ディーラー達(左派)を攻撃。
Un-America Activities Committee非米活動委員会
中国政策の失敗、朝鮮戦争の泥沼化などにより求心力を失った民主党は、1952年の大統領選で共和党候補のドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)に大差で敗れた。二十年振りの共和党大統領の出現である。アイゼンハワーは、第一次就任演説で「自由は奴隷制に対抗する。光は闇に対抗する」と述べ、トルーマンが示した共産主義と民主主義の対立構図を継承している。自由こそが世界を結び付ける理念であり、アメリカはその中で「自由世界のリーダーシップをとるという責任」を果たさなければならないとアイゼンハワーは国民に訴えた。そして自由を守るために「市民一人一人が不可欠な役割を担わなければならない」と呼びかけた65。
さらに「平和の代価」と銘打った第二次就任演説では、「全人類の三分の一が新しい自由、すなわち過酷な貧困のからの自由のための歴史的戦いに参加している」とアイゼンハワーは述べ、アメリカがこうした人々を援助する必要性を訴えている。またアメリカ自身も共産主義の「脅威に対抗するために、我々は必要とされる軍事力のために対価を支払い、他者の安全をも確保する手助けをしなければならない」と述べアメリカ国民の協力を求めた66。このようにアメリカは、共産主義と民主主義の対立構図の中でソ連による自由の抑圧を非難することを言論上の武器としてきた。しかし、1957年のリトルロック事件により国内の人種問題が浮き彫りにされることで、アメリカの言論上のスタンスに疑問が投げかけられたのである67。またアメリカは、自由陣営に参加する国であれば、たとえその国の体制が明らかに自由を抑圧している軍事独裁制であったとしても自由に貢献する国として認めるようになっていた。
リトルロック事件は、アーカンソー州リトルロックで黒人児童が公立学校に登校するのを保護するために連邦軍の出動をアイゼンハワーが命じた事件。
自由の概念を軸にして共産主義を非難するアメリカのスタンスは、ジョン・ケネディ(John Kennedy)の就任演説では幾分緩和されている。ケネディは就任演説の中で、ソ連にイザヤ書にある「くびきを解き、虐げられたる者を自由にせよ」という言葉を協力して実行しようと呼びかけている。実際、ケネディは首席スピーチライターのセオドア・ソレンセン(Theodore Sorensen)に「いつものような共産主義の脅威に対する冷戦レトリック」を続けたくはないし、「フルシチョフが誤解するような口上」を述べたくはないと語っている68。さらにケネディは、「世界の市民の皆さん、アメリカがあなたがたのために何をしてくれるのか問うのではなく、人類の自由のために我々と一緒に何ができるのかを問いなさい」と訴えることで、世界の自由諸国の協力を、トルーマン、アイゼンハワー両政権よりも強く求めた69。そこでは、自由は協力して守られるべきものとして示されている。このケネディの就任演説は、就任演説の中でも非常に優れていると評価され、国民の注目を多いに集める演説となった。
ケネディの暗殺後、リンドン・B・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)が第三六代大統領として後を襲った。
ケネディ暗殺は、アメリカ人に疑念の念を抱かせた。彼らの指導者や政府、理想、そして自分自身でさえも。絶対的価値だと思っていたものが信じられなくなった。多くのアメリカ人は言い知れぬ不安感を抱いた。
ジョンソンは、就任演説の中でスタインベックの言葉を借りながら「偉大な社会」構想を展開している。健全な社会を取り戻す必要がある。
アメリカは健全な繁栄を保つためには、「公正、自由、そして連帯」が必要であるとジョンソンは説いた。ジョンソンは、飢える者、職が無い者、子供を教育できない者、そして欠乏に打ちひしがれている者は完全に自由とは言えないと断言した。この「偉大な社会」構想は、フランクリン・ルーズベルトの「四つの自由」の意味をさらに拡大させたもので、教育の自由、成長する自由、希望の自由、生きたいように生きる自由を保障するものである。ジョンソンにとって政府の役割は、「貧困との戦い」を通じて、隷属化の原因となる環境から人々を引き上げることであった70。
ヴェトナム戦争の泥沼化により支持率を失いつつあったジョンソンは退陣を表明した。ジョンソンの退陣表明によって混乱した民主党はニクソン率いる共和党に敗北し、その結果、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)が第三七代大統領に就任した。
ニクソンは就任演説で、冷戦が日常的なものとなりつつある中、平和をどのように保つべきなのかを説いた。このテーマは冷戦期大統領が一貫して取り上げたテーマである。
またニクソンは「我々は、世界の平和と自由を守るために責任を果たすだろう。しかし、他の者達にも責任を果たすように期待する」と述べ、アメリカの責任だけではなく、他の国々にも責任の分担を求めた。これはもちろんヴェトナムの失敗からの教訓であり、ニクソン・ドクトリンとして開陳された外交指針を端的に表した言葉である。ヴェトナムの失敗がアメリカに自信喪失をもたらしたことをニクソンは率直に認めている。しかし、ニクソンは、アメリカというシステムが世界史上類を見ないほどの自由を人民に与えたことを誇るべきであると説き国民を鼓舞した71。さらにニクソンは、アメリカの自由のイメージを物質主義的な言葉で再定義するプロセスで重要な役割を果たしている。その再定義とは、資本主義こそがアメリカの物質的豊かさを与え、それこそがアメリカの自由の源であるという考え方である。だが一方で1960年代末から70年代にかけてアメリカ社会では、ストーンウォール暴動に代表されるように、普遍的自由から個別的自由を求める動きが徐々に表面化していた72。そして様ざまな個別的自由が競合する社会の中で、いかにそれらの間で調整をはかるかが問題となったのである。
ニクソンが述べたアメリカの自信喪失についてさらに深く追求したのがカーター(James Carter)大統領であった。ジェームズ・カーターは就任演説の中でニクソンと同じくアメリカの「近年の過ち」を認めている。アメリカの社会はそもそも「精神性と人間の自由」の二つの観点で定義付けられた社会であるから、その中で生きるアメリカ人は道義的義務を負わなければならないとカーターは訴えた。そしてアメリカは「純粋に理想主義的な国家」であり、「どんな場所の自由の運命にも無関心」であってはならないと説いた73。カーターは、アメリカ人が、国家の目標に貢献することを犠牲にして自己中心的な消費主義に傾倒しているとし、それは自由の意味を取り違えた行いであると批評している。カーターが説いた自由とは、物質主義的な言葉で再定義された自由のイメージと対抗するものであった74。
このようにニクソンとカーターがアメリカの自信喪失を説いたのに対してロナルド・レーガンは、アメリカが偉大な国であるというメッセージを明確に打ち出した。アメリカ人は、「偉大な自由の砦を守るために必要なことは何でもするという能力を持っている」ので危機は克服可能であると説き、その一方で「政府は我々の問題に対して何の解決にもならない」と指摘している75。レーガンは、政府ではなく競争的な自由企業システムがアメリカに繁栄をもたらすと信じていた。自由に対する「真の敵は大企業ではなく、大きな政府」なのである76。そしてレーガンにとって自由こそがアメリカ的生活の中核的な価値であり、それは自ら生活費を稼ぎ、稼いだものを保つ権利を意味した。このレーガンが唱えた「新しい自由」はウィルソンが同じく唱えたニュー・フリーダムとは全く異なるもので、むしろジェファソンの稼いだパンを奪い取らない「賢明で質朴な政府」に回帰するものであった77。
レーガンのこういった基本理念をジョージ・ブッシュ(George Bush)は継承している。ブッシュによれば、国家が自由市場、言論の自由、自由選挙、そして自由の行使を妨げないことが繁栄の条件であった78。ブッシュにとってアメリカの活力の源は個人主義であり、それは市場による解決と選択の自由によって特徴付けられていた79。
このようにレーガンとブッシュが「大きな政府」への不信を顕にしたのに対し、クリントン(William Clinton)は、政府は国民に害を及ぼす存在でも解決策をもたらす存在でもなく、生活を豊かにするための手段を提供する存在であると考えた80。さらにクリントンは「犯罪の恐怖が遵法的な市民の自由を奪っている」ので政府による断固たる措置が必要であると述べている81。市民の自由とは、適切な教育を受け、安全な環境でより良い生活をおくることである82。そうした自由は建国の父祖が教えたように、市民がそれを守る責任を果たすかどうかにかかっている83。一方でクリントンは個人の選択の自由を認め、同時に他者の選択の自由をも尊重しなければならないと述べている84。それは個別的な自由の競合する社会における一つの答えであった。このようにクリントンは自由の概念を、1930年代のフランクリン・ルーズベルト以来の革新主義的な自由の概念と放任主義的な自由の概念との中道に位置付けようとしていたのである。
クリントン政権期にアメリカは21世紀に入ったが、アメリカにとって本当の21世紀は9・11に始まると言っても過言ではないだろう。アメリカ人の大部分は、テロの対象が単にアメリカではなく自由そのものであると感じるようになった。開かれた自由社会はテロによる攻撃には非常に脆弱であることにアメリカ人は気付かされたのである。その状況下では安全と市民的自由との均衡が重要な問題となった。第二次就任演説の中でジョージ・W・ブッシュは、9・11勃発により「自由が攻撃にさらされ」、アメリカの「自由が生き残れるかどうかはますます他国の自由の成功にかかっている。世界平和への最善の希望は、世界中に自由を拡大することである」と述べ、自由が絶対的な普遍的価値観であることを示した。そして演説の末尾では「自由の歴史において最も偉大な業績をあげるつもりである」と断言している85。こうしたアメリカの自由に関する積極的な姿勢が就任演説で表明されたのは、冷戦終結以来である。ブッシュにとって自由は、アメリカが必要とする理想主義と勇気の要であり、民主主義、人権、資本主義と並ぶ重要なアメリカ的価値観の一つであった。またブッシュは、自由は神が定めた人間の本質であると考え、その考え方をもとに9・11以降、一連の演説で「自由の擁護者」たるアメリカ対自由を憎むテロリストという構図を展開している。そして、その構図は就任演説にも援用されている86。
ルーマニアの新聞Evenimentul Zilei紙の記者Cornel Nistorescu
アメリカは文化も言語も多様な人々から成っているのに何故このように一致団結できるのか。「自由のみがこうした奇跡を起こすことができる」
ブッシュの国内的自由観
福祉国家によってベビーブーマー世代の責任が損なわれたと論じている。
ブッシュは、個人の自立と責任という自由を信奉し、大きな政府を敵とみなしている。
経済における政府の規制的役割を減らしている。「企業家精神と自由は等しいものである」
二十世紀四つの出来事
第一次世界大戦
ヨーロッパの旧体制とウィルソン政権による抑制とが、自由と民主主義に対する新しい運動を生んだ。
第二次世界大戦
ファシズムに対する戦いが、権利章典における個人の自由とより平等的な自由に対する再認識をさせた。
冷戦
自由企業・市民的自由・公民権がより強化された。
テロに対する戦争
ブッシュ政権による抑制が、反動としての政府の秘密組織の開示や他の様々なものへの開示へと発展。
Woodrow Wilsonの言葉。
「政治の歴史は、自由の歴史であり、まさに独裁的権力の領域を侵食して個人の活動領域を拡大させる歴史であった。」
An Old Master, and Other Political Essays (
おわりに
これまで就任演説を手がかりに見てきたように自由の概念はアメリカの社会の変化に応じて変遷している。建国以来、独自の自由の概念を育んできたアメリカは、20世紀になって自由の概念により普遍的な性格を与えるようになった。第一次世界大戦期には、ヨーロッパの旧体制とウィルソン政権による抑制とが、自由と民主主義に対する新しい運動を生んだ。そして大恐慌期には、フランクリン・ルーズベルトの登場により19世紀的な自由放任主義は終わりを迎えた。続いて第二次世界大戦期には、ファシズムに対する戦いが、権利章典における個人の自由とより平等的な自由をアメリカ人に再認識させた。さらに冷戦期には、自由企業、市民的自由、そして公民権がより強化された。最後にテロに対する戦争が市民的自由への抑制の引き金となったが、その反動として政府の情報開示が促進された。そして昨今のアメリカでは、個人主義をもとにした自由の概念が浸透し様ざまな個別的自由が衝突している。今後、アメリカがいったいどのような自由という価値観を形成していくのか。それを考察するには新たな大統領による就任演説が参考になるだろう。
同性愛者の自由
選択する自由。
1969年のStonewall Rebellion事件。
ニューヨーク市警察がストーンウォール・インというゲイバーを襲撃。
二十世紀後半になって、州によっては同性婚・同性愛者の雇用上の差別を禁止する法律を認めるようになってきた。
普遍的自由から個別的自由へ。A proliferation of particular causes.
環境団体は、汚染と環境破壊からの自由。
動物の権利、生体解剖や生物実験に反対。動物虐待の禁止。クエーカーが魂の再生を信じていたのでこうした動物愛護の精神は、17世紀・18世紀にも見られる。
こうした個別的自由を求める社会の問題点。それぞれの個別的自由が競合し、いかにその間で調整をはかるかが問題である。
終わりにあたって現代のアメリカの自由の概念に関し、アレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)が約170年前に危惧していたことが想起される。トクヴィルは、ラディカルな個人主義は相互無関心の温床となって人民を互いに孤立させ、人民が結束して自由を守る力を失ってしまうと論じている。そして、そのような状態に陥った人民は容易く独裁国家権力に支配され自由そのものを剥奪されてしまうと結論付けている87。このトクヴィルの示唆は、これからのアメリカ的価値観の変遷を分析していくうえで有用である。
→同じ様なことが日本でも言えないか?規制緩和の問題性。
個人主義ではなく、これからの日本には社稷を思う人間が必要。土地の神と五穀の神。国の重要な祭祀で、また、国家の意。
尽忠報国
飛、裳(しょう)を裂き背を以って鋳を示す。背に尽(旧字:儘に人偏がない)忠報国(旧字)の四文字あり、深く膚理に入る
個人主義とは全く違う。
『北史』顔之儀傳
岳飛は南宋の武将
謝安 シャアン
字 安石
時代 南北朝
「安石,出ずるを肯んぜざれば,まさに蒼生(人民)を如何とせんとす」といわれた。
アメリカの例ではFDR。弱者に対するいたわりが基盤。格差社会=個人主義。
合理の非合理。すべての人が合理的に行動すると、その総和は非合理になる。社会学の命題。すべての人が個人主義に基づいて自由にふるまうと、全体の自由は減少する。