ジェームズ・マディソン大統領
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アレグザンダー・ダラス財務長官
ジョージ・キャンベル財務長官
 ジョージ・キャンベル(1769.2.8-1848.2.17)は、スコットランドのサザーランドシャーの医師の家に生まれた。1772年に一家とともにノース・カロライナ植民地に移住した。数年間、自宅近くの小さな学校で教えた後、キャンベルは23才でカレッジ・オヴ・ニュー・ジャージーに入学し、1794年に卒業した。
 卒業後、ニュー・ジャージーで暫く教鞭を執ったが、すぐにノース・カロライナに戻った。そこで法律学を学び、テネシー州ノックスヴィルに移って法曹界で成功を収めた。1803年、キャンベルは念願の連邦下院議員の椅子を手に入れた。下院では歳入委員会の長として活躍した。「西部の代弁者」としてキャンベルの名は知られるようになった。
 さらにジェファソン政権の支持者として出港禁止法を擁護し、イギリスとの開戦を唱えるタカ派の1人となった。そうした姿勢は決闘を招く原因となった。決闘で胸に傷を負ったキャンベルは療養中に、ジョン・アダムズ政権で海軍長官を務めたベンジャミン・ストッダート(1751-1813.12.17)の娘と出会い、1812年に結婚した。
 1809年、連邦下院議員再選を辞退したキャンベルはナッシュヴィルに法曹界に戻ったが、すぐに連邦上院議員に選出されワシントンに帰還した。上院では軍事委員会と外交委員会に席を置いた。 
 1814年、キャンベルは財務長官ギャラティンの後任に選ばれた。軍資金を集めるためにヨーロッパから借款を取り付ける手配を行い、国内でも資金調達を行おうとしたが、北部銀行家と西部の銀行家の協調がうまくいかずほとんど成功を収めることができなかった。健康上の理由によりキャンベルは年内に退任した。
 退任後、キャンベルは再び連邦上院議員に選出され、1815年から1818年まで奉職した。上院では財政委員会の長を務めた。1818年4月、駐露アメリカ公使に任命され、サンクト・ペテルブルグに向けて旅立った。ロシアに向かう途中、国務長官ジョン・クインシー・アダムズの指示の下、アメリカの私掠船によって中断された通商に対するデンマークの要求を調停した。
 アメリカに戻ったキャンベルはテネシー州の連邦地方裁判所の判事に任命された。その一方で土地投機に従事して成功を収めた。その他には、ジャクソン大統領によってリーヴス条約の条項を検討する委員に選ばれている。1848年にナッシュヴィルで亡くなった。