ジョンソンの時代―ベトナムの泥沼化と偉大なる社会 |
ケネディ暗殺の余波 1963年11月22日、ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。これで暗殺された大統領は、リンカーン、マッキンリー、ガーフィールドについで四人目となった。このケネディ大統領の死は、多くのアメリカ国民にとって古き良きアメリカが失われてしまったと感じさせる象徴的出来事であった。歴史家サミュエル・モリソンの言葉「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの死によって、われわれ一人一人の胸の中の何かが死んだかに思えた」。 ケネディの最後の会話は、コノリー知事夫人が「Mr. President, you can’t say Dallas doesn’t love you」と言ったのに答えて、「That is very obvious」と言った。ケネディ大統領の暗殺については、ウォーレン最高裁長官を中心とする委員会により調査が行われたが未だ真相は謎が多い。ウォーレン委員会は暗殺をオズワルドの単独犯行だという結論を出した。しかし、オズワルド自身もすぐに銃殺されたので真相を確かめる証言を得ることはできなかった。1979年の議会の委員会による再調査では、オズワルドが後方から発射した三発の銃弾の他に、音声分析から前方から四発目の銃弾が芝生の小山の上から発射されたことが示唆されている。そのためオズワルドの単独犯行ではなく陰謀説がありうるという結論が出されている。しかし、FBIはその委員会の結論を否定し、オズワルドの単独犯行説に固執している。今後、未開示の資料が公表されるのを待たなければならないだろう。ケネディの暗殺にともなって大統領に昇格したのが「カウボーイ・ハットを被ったマキャベリ」と称されたリンドン・ジョンソンである。 ベトナム情勢概説 第二次世界大戦中、ベトナム(仏領インドシナ)は日本の占領下にあった。戦後、ホー=チ=ミン率いるベトナム共産党は、直ちに独立を宣言したが、旧宗主国のフランスが独立を承認しなかった。それに対してベトナム共産党(北ベトナム)はベトナム全土で一斉に軍事行動を開始した。それに対抗してフランスは阮朝最後の王バオ=ダイによる政権を樹立させた。インドシナの共産化を恐れたアメリカもフランスを支援していた。しかし、1954年にディエンビエンフーでフランス軍が北ベトナム軍に大敗し、フランス軍はベトナムから撤退することになった。 その結果、ジュネーブ休戦協定が締結され、北緯十七度線でベトナムは南北に分断されることになった。フランスが手を引いた後、南ベトナムにはゴ=ディン=ジェムによる政権がアメリカの支援で樹立された。 何故アメリカはフランスの肩代わりをしたのか? アメリカは反植民地主義をその外交政策の根本としている。それはアメリカ自体が植民地から独立を果たした国だからである。ベトナム共産党とフランスとの戦いは、植民地と宗主国との戦いであったので、アメリカが大々的にフランスを支援するのは道義的に問題があった。反植民地主義というのはアメリカにとって重要なソフトパワーであった。なぜなら、反植民地主義を標榜することで、大戦後、宗主国から独立を勝ち取った諸国の支持を集めることができたからである。 しかし、中国は大戦後の内戦の結果、完全に共産化し、アメリカは共産化が他の地域にも飛び火するのを恐れていた。いわゆるドミノ理論である。ドミノ理論とは、ある一つの国や地域が共産化すれば、その隣接地域も次々に共産勢力に飲み込まれていくという理論である。アメリカからすればフランスがそのままインドシナに留まって共産主義に対する防波堤になってくれることが望ましかった。しかし、ディエンビエンフーの敗北によりフランスはその役割を果たしえないことが分かった。アメリカはフランスの肩代わりをしてドミノ理論を実行するか否かの判断を迫られた。 またアメリカがベトナムの共産化を阻もうとしたのは、その理想主義も背景にある。アメリカからすれば共産主義は人々にとって悪以外の何物でもなかったので、世界中のどんな場所であれ、共産主義の魔の手から人々を救い出そうという理想主義があった。 結局、アメリカはこれ以上共産主義勢力が広まらないように阻止するためにフランスの肩代わりをすることに決めたのである。 アメリカの南ベトナム支援―ケネディ政権末期まで アイゼンハワー政権終わりまでに、アメリカは10億ドル以上の援助を与え、要員や軍事顧問を派遣し、ゴ=ディン=ジェム政権を全面的にバックアップした。ゴ=ディン=ジェム政権を強化することにより共産主義勢力拡大の防波堤にしようとアメリカは考えたのである。アメリカの「自由のために戦う」という理想主義は、普遍的なものであり、アメリカの国益だけでどの国を助けるか選択することはできなかった。キッシンジャーの言葉によれば「アメリカの国益に基づいてよりも、原則を守るために一つの国を防衛しようとした」のである。 トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ政権は一貫して、アメリカの世界的な地政学上の政策に関してベトナムにおいて共産主義の勝利を防止することはアメリカの死活的な利益であると信じていた。 ケネディ政権の目標は、南ベトナムを国家として自立させアメリカの代わりに共産主義勢力に対抗させることであった。「これは我々が生み出したものであり、これを放棄することはできない」。ベトナムを共産主義から守ることはアメリカの信頼を保つために必要不可欠であるという考え方をケネディはとっていた。しかし、南ベトナムは北ベトナムのゲリラ攻撃に手を焼き、国内の治安を保つことができない程、求心力を失っていた。アメリカはベトナムを放棄するか、それとも本格的にてこ入れするかの決断を迫られた。1960年代最初には僅か900人だったアメリカ軍関係者が、1961年末には3,000人、1963年には16,000人にまで増加していた。 治安状況の悪化や民主主義的改革の遅れなどに関して、アメリカが政権内の改革を指示したがゴ=ディン=ジェム政権はそれを受け入れず関係が悪化、結局、アメリカはゴ=ディン=ジェム政権を転覆させようとする南ベトナム軍のクーデターにゴーサインを出した。その結果、ゴ=ディン=ジェム政権は崩壊した。アメリカが期待するようには国民の支持が軍部の指導者に集まらず、政変が頻発し南ベトナムはほぼ無政府状態に陥った。それを好機ととらえた北ベトナムはゲリラだけではなく正規兵の本格投入を決定した。ここまでがケネディ政権が終わるまでの状況である。 トンキン湾事件 1964年8月2日、アメリカ国務省は、北ベトナム沿岸を哨戒中のアメリカ海軍駆逐艦マードックスがトンキン湾公海上で魚雷艇三隻から攻撃を受け、4日にも更に攻撃を受け、翌五日、北ベトナムの海軍基地を報復爆撃した。いわゆるトンキン湾事件である。ジョンソンはテレビ演説で、北ベトナムが公海上で公然たる攻撃を仕掛けてきたことを非難し、アメリカの報復を限定的かつ適切なものであると擁護し、戦争を拡大するつもりはないと述べた。しかし、七日、ジョンソン大統領の要請により、議会は「アメリカ軍に対するいかなる武力攻撃をも撃退し、侵略を防止するため、必要な一切の措置をとる」権限を大統領に求める決議を圧倒的多数で可決した。これは正式な宣戦布告ではないが、実質上、大統領にほぼ無制限の軍事介入を認める決議であった。この決議をもとに1965年2月から北爆(Operation Rolling Thunder)が開始された。 1971年にニューヨーク・タイムズ紙がこのトンキン湾事件の真相を暴露した。ニューヨーク・タイムズが暴露した国防省秘密報告書ペンタゴンペーパーズによればトンキン湾事件は、アメリカ軍と南ベトナム軍によって仕組まれたものだった。その内実は、北ベトナム軍を挑発するためにわざと北ベトナム領海内に侵入するという計画であった。ジョンソン政権がトンキン湾事件を捏造したのは、ゴ=ディン=ジェム政権崩壊後政情が全く不安定のままであった南ベトナムを北ベトナムの本格攻勢から防衛するには、地上軍の本格的導入が必要だと判断し、トンキン湾事件をその正当化の口実にしようとしたのである。当時のアメリカ国民は真相を全く知らされず国民の72パーセントがジョンソンの決定を支持していた。そして、ジョンソンは挙国一致的な支持を得るとともに、ベトナム戦争をこれ以上拡大させることはないと公約して1964年11月の大統領選挙に圧勝した。しかし、トンキン湾事件がベトナム戦争の本格的拡大の引き金となったのは間違いの無い歴史的事実である。 ベトナム戦争の拡大 ジョンソン政権は、1965年2月5日に、南ベトナムでゲリラ戦を展開する解放戦線を人的・物的に支援する北ベトナムの政策を侵略とみなし、北ベトナムに対する爆撃を命令した。北爆の開始である。北爆の戦略的目的は、南ベトナムでゲリラ戦を展開する解放戦線に対する外部の支援を遮断し、孤立させることであった。 さらに1965年3月8日にジョンソン大統領は3,500名の海兵隊を派遣した。アメリカ軍によるベトナムでの地上戦の開始である。アメリカ軍の数は、1965年の終わりまでに180,000人、1966年の終わりには400,000人、1967年後半には470,000人に達した。1968年のピーク時には550,000人に達した。南ベトナム軍も64年の51万人から72年の109万まで徐々に増員された。また韓国、タイ、オーストラリアからも軍が派遣された。こうした多国籍軍の指揮権は本来、南ベトナム軍を支援するべき立場のアメリカ軍が掌握していた。 戦費に関しても65年度の1億ドルから69年度の290億ドルに急増し、71年度までの累計では1110億ドルにも達した。その総額は一年間の連邦の全支出に相当する額であった。 またアメリカ軍が使用した爆弾の総量は、68年末までで第二次世界大戦で使用された爆弾の総量を上回るものとなった。 ジョンソン政権は戦争中も北ベトナムに交渉を持ちかけたが、北ベトナムは北爆が無条件で停止されないことには交渉に応じないと主張して交渉を拒絶した。しかし、ジョンソン政権は表向き北ベトナムに支援された解放戦線に宥和政策を取ることはないと強く主張していた。 ジョンソンは、1966年7月12日の演説で公式には次のようにアメリカの目標を説明している。 「我々は北ベトナムを消滅させようとはしていない。我々はその政府を変えようとしているわけではない。我々は南ベトナムに永久の基地を作ろうとしているわけではない。我々は、北ベトナムの共産主義者がその隣人を攻撃するのをやめさせるために、ある国が別の国からそそのかされたゲリラ戦が決して成功しないことを示すために、そこにとどまっている。我々は、北ベトナムの共産主義者が侵略の代価は非常に高くつくことを知り、―そして平和的解決か、攻撃中止に同意するまで、戦い続けなければならない」 アメリカは何故勝てなかったのか? アメリカは圧倒的な軍事力をベトナムに投下したのに何故勝利できなかったのか?これは多くの人が疑問に思うことだと思う。先ず軍事的な観点からすると、アメリカ軍は対ゲリラ戦に全く不慣れで、ゲリラを撃退する有効な戦法をとることができなかった。正規軍は常に勝たなければ負けだが、ゲリラは勝たなくても徹底的に負けなければ勝ちなのである。 さらに政治的にも南ベトナム政権は政情が安定せず、アメリカの強力なパートナーとしての役割が期待できなかった。農村の75パーセントが解放戦線の支配下に入っていた。アメリカ軍は、それに対して農村を絨毯爆撃したり、農民を「戦略村」に強制移住させたりすることで敵をはっきりさせようとしたが徒労に終わった。しかもベトナムは地理的に湿潤のジャングルが多く、戦車を中心とするような大規模な陸戦には不向きであった。また周辺の住民を敵にしてのジャングルでの対ゲリラ戦は、アメリカ軍兵士の精神を磨耗させた。一方、解放戦線ゲリラは長大な地下通路を構築し、北ベトナムだけではなくソ連や中国からも支援を受けていた。対するアメリカ軍は、補給を遠く海外から求めなければならず、補給の点からも大きな不利があった。 ジョンソン大統領の挫折 ジャーナリストのウォルター・リップマンの意見。 「実際、ジョンソン大統領の戦争目的は際限がない。その目的はアジア全体の平和を約束している。そのような際限のない目的のために、有限な手段で戦争に勝つことは不可能である。我々の目的は際限ないものであるため、我々の『敗退』は確実である」 テレビ番組司会者のウォルター・クロンカイト 「ベトナムの流血の経験が八方塞がりに終わろうとしていることは、今やかつてないほど確かになったと思われる。この夏には双方のにらみ合いの状態になるのはほぼ確実であるが、それはまさにギブ・アンド・テイクの交渉か、あるいは恐るべきエスカレーションかのいずれかによって終わるであろう。そして、我々がエスカレートに用いるあらゆる手段に対して、敵は我々に対抗できるのだ」 ウォールストリートジャーナル 「アメリカ国民は、ベトナムにおけるすべての努力はもう限界なのかもしれないとの予測を、もしまだ受け入れていないとすれば、いまや受け入れる準備をすべきだ」 マンスフィールド上院議員 「我々は間違った場所において、間違った種類の戦争を行っている」 ジョンソン大統領は国内からの批判や反戦ムード、アメリカ軍の失態などにより窮地に立たされた。さらに1968年一月末からの旧正月(テト)に南ベトナム全土で解放戦線が一斉蜂起した。サイゴンのアメリカ大使館でさえ一時的に解放戦線によって占拠された。この状況はアメリカ全土に報道され、ジョンソン政権のベトナム政策に対して国民に強い不信感を持たせることになった。特にテト攻勢の際に逮捕された解放戦線将校の公開処刑シーンの放映は全世界に衝撃を与えた。68年3月には、ソンミ事件が起きた。それは、ソンミ村の住人をアメリカ軍が虐殺した事件である。ゲリラと一般人の区別をすることは非常に難しく、アメリカ軍は、どこから襲われるか分からない恐怖に怯えていた。その過剰反応が、婦女子や老人も差別無く虐殺するという事件を引き起こしたのである。さらにアメリカ軍は核兵器以外のありとあらゆる兵器を使用している。特に枯葉剤の投下は有名である。これは生態系の破壊を目的にしたものでゲリラが潜伏できるジャングルを根本的に壊滅させようと考えたのである。枯葉剤は戦後も深刻な後遺症を残すことになった。 またジョンソン政権の楽観的なコメントに対して、戦死者は増大し、67年末には1万人近くもの戦死者を数えた。ベトナム戦争は正式な宣戦布告がない戦争だったので情報統制がほとんど行われず「お茶の間の戦争」と呼ばれたほど、生々しい戦場の様子が報道されていた。このことは国民の反戦ムードを高める大きな原因となった。1967年にはベトナム派兵に反対する人の割合が賛成する人の割合を上回った。 結局、1968年3月31日、テレビを通じてジョンソン大統領は、北ベトナムに対して北爆の部分的停止と和平交渉をよびかけるとともに、大統領選に出馬しないことを表明した。1968年5月には和平公式会談が開始され、同年11月には北爆が停止された。ベトナムの平和解決はニクソン政権に持ち越されることになった。 |
質疑応答・感想 |
Q、ケネディ夫人がケネディの脳みそを拾いにいったそうですがそれって本当ですか?あとそれは愛だと思いますか? A、本当です。夫人は膝にずっとケネディの頭をのせていました。そのためにジョンソン大統領が飛行機の中で大統領就任を誓った際にまだ血染めの服を着ていたそうです。愛ゆえになせるわざでしょう。 Q、最近は、国民投票法案よりも実は年金台帳の消失の話が気になっています。先生はどうお考えですか? A、公務員の公共心の欠如が問題でしょう。公務員は公僕たる意識を持つことが大事です。 Q、ベトナムはジャングルが多いなどアメリカ軍はベトナムの地理を事前調査しなかったのでしょうか? A、当然事前調査はしたと思います。ジャングルを破壊するために枯葉剤を使用したわけです。 Q、ゴはいったい何の人ですか? A、旧ベトナム政権の政府高官です。ゴ政権は、儒教主義に基づく教条主義をとっていたので民主主義とは全く相容れない政治形態でした。 Q、ケネディの暗殺について2039年の資料公開でさらに何かがわかりそうですか? A、これは誰にも分かりません。 Q、現在イラク介入にもドミノ理論が適用されているそうですが、先生はどうお考えですか? A、イラクはアメリカの中東戦略では戦略要地にあたります。ここは絶対に確保しなければ中等戦略が頓挫するでしょう。 Q、アメリカは反植民地主義だということでしたがそれはいつからですか?落合氏の著作をどう思いますか?ベトナム戦争はアメリカがわざと負けたというのは本当ですか? A,建国当初からです。フィリピンなどについてはあくまでアメリカが後ろ盾になって後進国を保護するという形をとっています。落合信彦の本は読んだことがありません。ベトナム戦争にわざと負けてもアメリカに利益がないので信憑性は薄いでしょう。 Q、ゲリラって何ですか? A,正規兵に対して統制された軍事行動をとらず散開して戦う戦術をゲリラ戦術と言います。主に敵の補給戦を急襲したりして敵の弱体化をねらいます。 Q、ディエンビエンフーの戦いで何故フランスが負けたのか? A,フランス軍がベトナム共産党軍の戦力を過小視していたのが原因だと思います。またディエンビエンフーは盆地でフランス軍は完全に包囲され補給を絶たれました。共産軍は人海戦術で大砲を周囲の山の上にあげそこから集中砲撃を加えました。 Q、結局ハードパワーに頼ってしまうアメリカは、ソフトパワーの獲得がうまくいっていないということになりませんか? A、ジョセフ・ナイもそう言っています。それがアメリカの問題だと。 Q、どうしてアメリカはベトナムでそんなに多くの犠牲者が出る前にベトナムから手を引けなかったのですか? A、撤退が容易でないこと、またアメリカの理想主義があったからです。 C、道頓堀でたこ焼きを食べているところをお見かけしました。話しかけようと思ったんだですが大人数のクラスやし分からんやろうと思ってやめときました。 A,できれば挨拶しましょう。たこ焼き一つくらいはあげましたよ。一つだけですけど。道頓堀の脇にあるたこ焼き屋のたこ焼きは昔からの好物なんです。 Q、アメリカは何故他国から非難をあびるとわかっているのにイラクにこだわるのですか? A、アメリカが圧倒的に強いので他国の協調をあまり期待しなくてもよいからだと思います。またイラクはアメリカの中東戦略の要地です。 Q、最近疲れがいまいちとれません。どうすればいいですか? A、縄跳びでもいかが。運動不足だと思います。 |