アイゼンハワーの時代U―U-2事件と冷戦の恒常化


U-2事件の概要
資料T
「突然ゴツンという鈍い音がして、機体は前のめりになり、すさまじいオレンジ色の閃光がコクピットと空を照らした。刻が我々に追い着いたのだ。操縦席でのけぞって、私は『神様、今こそ御許に』と言った。オレンジ色の輝光は、数分間続いたように思えたが、おそらくそれは数秒間で消えてしまった。爆発が機体の外部で起こり、おそらく背後のどこからか来たものだと考える時間は十分にあった」

 U-2の操縦士フランシス・パワーズ(Francis Gary Powers)は、後に事件勃発の瞬間をこのように回顧している。U-2は、パキスタンのペシャワールからノルウェーのボードーまで偵察飛行する予定であったが、1960年5月1日、ソ連領内に1,200マイル入ったウラル地方のスベルドロフスク近郊で、ソ連の地対空ミサイルによって撃墜されたというのが事件の概要である。

U-2計画の背景
 U-2計画は、U-2高高度偵察機を利用してアメリカが行っていた偵察作戦である。計画は1954年12月にアイゼンハワー大統領の認可を受けて着手され1956年7月に初飛行が成功した後、同年7月4日からソ連上空飛行を開始している。最初のソ連上空飛行に対して、ソ連はアメリカに抗議を行ったが、国務省はそれを全面否定した。
 アイゼンハワー政権では、前トルーマン政権が行ったような封じ込め政策から一転して、軍事的、政治的または経済的な面のみならず、人的、文化的交流をも含めたソ連の脅威への対抗を目指していた。軍事的な面では、「大量報復戦略」を採用し、通常兵力の削減をもって国防費を抑制するという政策を推進していた。しかし、1955年頃からアメリカの軍事的優位を危ぶむ世論が高まり、それはアメリカの爆撃機戦力の不足を唱えるボマー・ギャップ、同じくミサイル戦力の不足を唱えるミサイル・ギャップとして知られるようになった。アイゼンハワー政権にとって、そうしたボンバー・ギャップやミサイル・ギャップが本当に存在するか確認するために偵察を行うことは、政策の妥当性をはかり、ソ連との軍備削減交渉を行うにおいて不可欠な試みだったのである。特にU-2による偵察飛行はソ連の軍事能力に関してこれまでにない画期的な情報をもたらしていた。

U-2事件の流れ
 事件勃発当初、ワシントンは事件の詳細を全く把握していなかった。5月1日にグッドペイスター(Andrew J. Goodpaster)准将が、アイゼンハワーに電話で「トルコのアダナにある基地から定期飛行に出ていた我々の偵察機の一機が、到着時刻を過ぎ、おそらく墜落した模様」と伝えた。

資料U
「万が一、飛行機がソ連領内に落ちた場合、ソ連はいつものヤリ口でこれを不正、卑劣、侵略、残酷な行為と非難するだろうし、これに火をつけられて、恐慌状態に近い極度の興奮が世界中を包むだろう」

 アイゼンハワーは、以上のように心配していたが、CIAは以下のように説明したのでアイゼンハワーは特別な措置を何もとらなかった。

資料V
「もし機体が落ちていたとしても、空中分解するか地面と激突する時の衝撃で機体は破壊されているはずだ。そのためスパイ活動の証拠は損なわれるだろう。自爆装置も埋め込まれている」

 U-2に関してアメリカ側からの公式発表は、5月2日に行なわれた。インチェルリク空軍基地(トルコ中南部アダナ)の広報担当将校が、「非武装のU-2型天候調査機がトルコのワン湖地域を定常飛行中、消息を絶った。行方不明機の捜索は進行中である」と発表した。もともとU-2機は1956年4月にその存在が公表された際、全米航空諮問委員会によって、ロッキード社が気象研究用に開発したものだと説明されていて、偵察飛行用という本来の目的は明かされていなかった。
 先程も少し述べた通り、ソ連はかねてよりU-2による偵察を知っていたが、高高度を飛行するU-2を撃墜することができないという防空体制の不備を露呈させることを恐れ、ほとんど抗議することはなかった。またフルシチョフ(Nikita Sergeevic Khrushchev)が訪米した際も、U-2に関して言及することはなかった。本来ならば事件は単なる気象観測機の行方不明事件として処理され、歴史に何の足跡の残さないはずであった。
 
U-2事件の本格化
 本当の意味でのU-2事件の引き金を引いたのは、フルシチョフが1960年5月5日、ソ連最高評議会で行った演説である。フルシチョフは以下のように演説した。

資料W
「評議員諸君。ソ連政府の訓令に基づいて、私は、アメリカ合衆国がここ二、三週間にソ連に対して行った侵略をあなた方に報告しなければならない。侵略行為とは何か。アメリカ合衆国は、わが国境線を越えてソ連の領空に航空機を侵入させてきた。(中略)。もしソ連の航空機がニューヨーク、シカゴ、もしくはデトロイトの空に現れたとしたら、つまり、そうした都市の上級を飛行したら、いったいどういうことになるのか想像してみよ。アメリカ合衆国はどのように反応するだろうか。アメリカ合衆国の官僚たちは、アメリカが、外国の航空機が接近した場合すぐに飛び立ち、それぞれ定めてある爆撃目標に向かう臨戦体制の爆撃機を所有し、原水爆を保有していると繰り返し述べている。そしてこれの意味するところは、戦争の開始である。私はこうしたアメリカの官僚たちに問いたい。もしあなたがたがアメリカに対する攻撃を想定しそのような一方的な措置を取った場合、そしてもし外国の航空機が我が国の上空に現れ、祖国の安全を脅かす場合に、我々が同じような措置でもって応じると考えることはできないのか。つまり、そうした場合にあなた方がしたいと思うように振舞うように、我々もまた振舞う権利を欠いているわけではない。我々が対応する手段を持っていることは誰も疑いようもないことだと思う。我々が臨戦体制の爆撃機を所有していないが、航空機よりも正確に目標を攻撃できる臨戦体制のロケットを保有していることは本当のことである。(中略)。我々は以下の結論に達せざるを得ない。アメリカ合衆国内の侵略的な帝国主義者が、首脳会談を破談にしようとし、何はともあれ、全世界が待望している協定が結ばれるのを阻止しようと積極的な画策を行っている。問題が一つある。領空侵犯をした航空機を差し向けてきたのは誰なのか。その航空機はアメリカ合衆国最高司令官の裁可に基づいて差し向けられたのか。誰もが知る通り、最高司令官とは大統領のことである。それともこうした侵略行為は大統領も知らないままにペンタゴンの軍国主義者によって行われたのか。もしそのような行為がアメリカの軍部自身の責任で行われたのであれば、世界の人々を驚かせるだろう。(中略)。ソ連政府は、あらゆる可能性を考えたうえで、そのような結論に至る根拠はないと考えた。異なった状況、異なった勢力関係が現在存在する。諸国民の平和への意志が国際関係で果たす役割は決して小さなものではない。これこそが、このような侵略行為が戦争に先立って力関係を試すものであり、攻撃のための軍事偵察であるという結論に我々が達しない理由である。我々の神経を逆撫でし、我々が『冷戦』に後戻りせざるをえなくしたのは、まさにこの軍事偵察である。軍事偵察は、『冷戦』の氷を保持しようとし、凍てつかせようとしている。そして帝国主義者が税金という名目で人びとから不法にお金をまきあげ、軍備競争を続け、国民を戦争の恐怖で縛り付け、隷属させるために緊張状態に今一度戻ろうとしている。ソ連は侵略計画などまったく持っていない。我々は『冷戦』を清算したい」

 フルシチョフは、アメリカの航空機が侵入したことを、国際的緊張を無用に高めるものだと非難し、その責任をアイゼンハワーに問おうと巧みに誘導している。しかし、一方で、この侵入を「攻撃のための軍事偵察」ではないと闡明し、過度の衝突を避けている様子が窺える。この演説では、フルシチョフは、故意に操縦士が健康に生存し、航空機のパーツを回収することができたことについて何も言及しなかった。実は、このことがアメリカの信頼を揺るがせる事態を引き起こすのである。

アメリカの弁明 
 5月5日に次のような声明が国防省から出された。

資料X
「合衆国空軍は、1960年4月30日、NASA[National Aeronautics and Space Administration]のU-2機がトルコで行方不明になったことを確認した。そのU-2機は、トルコのアダナから飛び立って気象観測を遂行中であった。目的は晴天下の乱気流の研究であった。トルコ南東部を飛行中、操縦士が酸素欠乏を報告してきた。最後の言葉は、度々エマージェンシーに陥りながら、トルコ時間5月1日午前9時(訳注: 東部標準時5月1日午前3時)に届いた。U-2機は、予定通りアダナに着陸せず、そのため墜落したと考えられる。捜索がワン湖一帯で行われている。行方不明になっているU-2は、NASAの航空機である。操縦士は、NASAとの契約に従事していたロッキード社の従業員である。U-2計画は1955年に高高度気象調査を行うために始められた。この飛行はNASAと空軍省が共同で行った気象観測である」

 この声明は、5月3日にNASAが発表した声明を次ぐもので、U-2が気象観測用だというカバー・ストーリーと共に、乗務員が民間人であることを強調している。国務省は、フルシチョフの声明に対してソ連に覚書を送付した。その覚書は、ソ連がアメリカの航空機を撃墜したことを照会し、「アメリカ市民の操縦士」フランシス・パワーズの安否を問い合わせるものであった。アイゼンハワーは、混乱を防止するため、事件にかんする情報の公表は政府の一つの機関―この場合は国務省―がまとめて行うことが望ましいと考え、ホワイトハウスを事件から離しておくつもりだった。直ちに声明を発表すべきであるとの意見が出された時、アイゼンハワーはその質問に疑問を抱いた。NASAの発表で十分言い尽くされており、フルシチョフの次の手がわかるまで沈黙を守るべきであるというのがアイゼンハワーの考えであり、その一方でアイゼンハワーは、ディロン国務次官(Douglass Dillon)に、カバー・ストーリーに合うような適当な声明を準備するように伝えた。

フルシチョフのさらなる追求
 5月5日の演説に加えて、フルシチョフは5月7日にパワーズが生存していることを認める演説を行った。

資料Y
「私が[5月5日に]報告した時、故意に操縦士が健康に生存し、航空機のパーツを回収することができたことを言わなかった。我々はわざとそうしたのだ。なぜなら我々がすぐにすべて話してしまうと、アメリカ人はまた別のお話をでっちあげたはずだからである。そして今、アメリカ人がいかにばかげたこと―ワン湖や科学的調査など―をたくさん言っているか見たまえ。今やアメリカ人は、操縦士が生きており、また別の何かをでっちあげなくてはならないと悟った。(中略)。その航空機は、アメリカのスポークスマンが言っているような「大気圏上層調査」または「大気のサンプル」を採取する装備を何一つ備えてなかった。U-2機の任務は、ソ連全土をパミール高原[訳注: 中央アジアのタジキスタンにある山系]からコラ半島[訳注: バレンツ海に面しノルウェー東部に隣接する半島]まで横断し、我が国の軍事、工業施設の情報を航空写真により得ることであった。(中略)。パリでの政府首脳会談とアメリカ大統領の訪ソの直前に、不誠実な行為の責任を負うべき者達は、ソ連に対して領空侵犯を企てた者として現行犯として捕まったのである。私は、これが国際的緊張を緩和するための真剣な話し合いを挫くものとなったと思う」

 フルシチョフはこの演説で、さらにソ連がロケットにより20,000m上空のU-2を撃墜し、撮影フィルムを回収したことを発表した。ソ連側からするとまさにこれはNASAの気象観測を装った「高高度軍事偵察」であった。フルシチョフは、パワーズ自身の言葉を引用して、アメリカの「高高度軍事偵察」の実態を説明し、ソ連だけでなく周辺諸国の領空も侵犯していると非難した。またU-2が自爆装置を備え、パワーズが、自殺用の毒針や無音拳銃を携帯しているのはおかしいと指摘した。

アメリカの偵察飛行正当化
 こうしたフルシチョフの演説に対して、駐ソアメリカ大使トンプソン(Llewellyn E. Thompson)は、同日、国務省に宛てた電報で、「私はフルシチョフが本当に気分を害し、怒っており、この種の[偵察]活動を停止させることを重要に考え、サミットで有利な立場を占めることができると考えていると思う。我々がソ連の世論、おそらく国際世論でも大きな損失をこうむることは疑いようもない」と状況を概括し、「[フルシチョフが示した証拠からすると]故意の上空飛行に対する非難を我々が否定し続けることができるかどうか疑問である」という見解を示した。結局、国務省は「高高度偵察」の事実を認めざるをえないと判断し、5月7日に以下のような声明を発表した。

資料Z
「今日の世界情勢からすれば、情報収集活動がすべての国々よって行われていることは秘密でもないし、戦後の歴史からすれば、ソ連はその分野で遅れをとったことなどない。国家防衛を正当化する手段としてのそのような活動の必要性は、自由世界に比べてソ連の秘密主義が過度のものであることにより高められた。今日の世界の緊張を生み出していることの一つは、大量破壊兵器による奇襲への不安である。相互不信を減らし、奇襲に対する防御手段を得るために、合衆国は1955年に『大空開放(Open Skies)』提案をした。その提案は、ソ連により拒否された。非武装の民間U-2機のような航空機が、過去四年間にわたって自由世界の国境沿いに飛行してきたのは、奇襲の危険に関連してであった」

 この声明では、「情報収集」という目的を認めることにより、「気象観測」という目的を明文的に否定してはいないが、事実上、それを否定している。さらにこのような情報収集活動が必要になったのは、「ソ連の秘密主義」が原因であるとソ連を婉曲的に非難している。

アイゼンハワーの考え
 アイゼンハワーは、このように国務省が声明を出して情報収集活動の必要性を指摘する
一方、U-2機が民間機であるというカバー・ストーリーにもこだわるという姿勢が失敗する
のではないかと思っていたが、ハーター国務長官の「フルシチョフが、事件をできるだけ
小さくしておきたいと望んだ場合に、“抜け道”を与えるようなやり方でアメリカ側が事を
運ぶのが大切」という考え方に異論を唱えることはなかった。アイゼンハワー自身の考え
方は、5月9日に行なわれた第444回NSC(国家安全保障会議)会合席上での「我々の偵察
は見つかった。我々は嵐を耐えるしかなく、できるだけ何も言わないようにしよう」という彼自身の言葉によく現れている。

フルシチョフは何故U-2事件をプロパガンダの材料にしたのか―アメリカの分析
 実は、U-2事件以前にも、米ソ間の緊張を高めるような突発的な事件は多々起きていた。
1952年3月2日 日本海域での領空侵犯事件。1958年7月 アメリカの偵察気球がソ連領内のキエフ郊外に落下。1958年9月2日 C-130輸送機消息不明事件。
いずれの機会も、ソ連にとってはアメリカの「好戦的な態度」を糾弾するプロパガンダの絶好の材料となりえるものだった。そのため、なぜU-2事件が、パイロットと機体という重大な物的証拠がソ連の手中に落ちるという劇的な展開があったにせよ、殊更にプロパガンダの材料として利用されたのかというのが、合衆国政府にとって究明されるべき問題であった。合衆国政府は、U-2事件が、5月16日から行なわれるパリ首脳会談を流産させるためのプロパガンダに利用されているという趣旨に基づいて公式発言を行っている。

アイゼンハワーの声明文
 アイゼンハワーが、U-2事件に関する公式発言を初めて行ったのは、5月11日の記者会見であった。記者会見の冒頭で、アイゼンハワーは次のような声明を読み上げた。

資料[
「私の考えとしては、国務長官が言わなければならなかったことを、次の四つのポイントにまとめて補完しておきたい。次いで私がさらに言うことはない。というのは今回、さらに付け加えるべき有用なことは何もないからである。一つ目のポイントは、情報収集活動の必要性である。再度の真珠湾など誰も望んでいない。我々は、世界の軍事力とその配備状況、特に大規模な奇襲攻撃についての知識を得ておかなければならないということを示している。ソ連の秘密主義は、これを不可欠なものにしている。世界の大部分では、秘密裏に大規模な攻撃を準備することはできないが、ソ連では秘密主義と隠匿が妄信されている。これが国際的緊張と今日の不安の主な原因である。(中略)。私の二つ目のポイントは、情報収集活動の性質である。情報収集活動は、特殊で秘密の性質を持っている。そうした活動は、いわゆる『水面下』の活動である。そうした活動は秘密である。なぜなら他の国々が軍備の秘密を守ろうとする手法の裏をかかなければならないからである。(中略)。三つ目のポイントは、我々は情報収集活動全般をどのようなものとしてみなすべきなのか。それは不快だが非常に必要なものである。(中略)。1955年に私が提案した『大空開放』―私はすぐに実行に移そうとしたが―は、合衆国とソ連の航空観察を認めるもので、奇襲が他国に対して準備されていないか確認するものであった。私は『大空開放』を再びパリで提案しようと思う。それが隠蔽と疑心暗鬼を終わらせる方法だからである。私の最後のポイントは、事件のことまたは現在の世界情勢の徴候により、今日の本当の問題から我々は気をそらされてはならないということである。この事件は、プロパガンダに大きく利用されている。強調すべきことは、非武装の非軍用の飛行機による飛行は、秘密主義への妄信を反映しているだけだということである。我々がサミットで取り組むべき本当の問題は、軍備縮小、ドイツとベルリン問題の解決、そして秘密主義や疑心暗鬼を軽減することも含めた全般的な東西関係である。率直に言うと、私は、こうした大きな問題で進展が望めるのではないかと思っている。これは、私が言うところの『平和のために尽くす』ということである。そして私があなた方に思い出して欲しいのは、私はこの問題についてこれ以上何も言うつもりはないということである」

 声明文を記者会見の冒頭で読み上げるというスタイルは、余分な失言を避けるための工夫であろう。しかも、当時の記者会見では、一般的にこうした声明文の謄写版が記者に配布されるのが通例であった。ここで、注目されるのは、大統領が国務省と見解を同じくすることを示し、それ以上の発言はしないと釘を刺すことで、予め記者団によるU-2事件についての質問を封殺しようとしていることである。これは非常に慎重な姿勢だと言えるだろう。この声明文は、アイゼンハワー自身も述べている通り、概ね5月9日のハーター国務長官の声明の筋に沿うもので、世界平和実現を目指して「隠蔽と疑心暗鬼」を終わらせなければならず、そのためには情報収集活動が必要不可欠であるという情報収集活動の一般的な正当性を主張し、アメリカにとっても情報収集が「再度の真珠湾」を防ぐためには不可欠だとしている。「非武装の非軍用の飛行機による飛行」は、ソ連の秘密主義の結果、いたしかたなく行なわれているものだと示し、ソ連が一連の声明で打ち出してきた、ソ連=被害者、アメリカ=加害者という構図を曖昧にしようと試みている。また、この声明文では、U-2事件の責任の所在を明確にせず、ただ単に大統領が情報収集を命じたと述べているだけで、大統領に対して責任追及が直接及ばないように配慮している。結局、国務省の声明に沿う戦略を採ったのは、アイゼンハワーの言葉によれば、「新たなる真珠湾の可能性は過度に強調されるべきではないし、我々はそれを劇的にしようとしてはならない」からで、国際的緊張緩和が期待されるパリ首脳会談を間近にひかえていることがこうした戦略採用の主な要因であったと考えられる。
 
 この記者会見の後、アイゼンハワーはパリ首脳会談が5月16日に始まるまで、U-2事件について触れることはなかった。U-2事件に特に触れなかったのは、U-2事件をプロパガンダに利用しようとするソ連に対抗して、ソ連のスパイ活動を暴露する白書を準備し、演説を頻繁に行えば、敵はかえって、我々が保身に懸命になっているとみなすのではないかとアイゼンハワーは考えていたからである。

U-2事件とパリ首脳会談との関連性
 おそらくU-2が撃墜されることなく、予定通り偵察飛行を終えていたら、アイゼンハワーはパリ首脳会談で、絶対的優位に立つことができたと断言しても問題はないだろう。ソ連の正確な軍事情報を一方的にアメリカが把握するという状況で、フルシチョフが強硬な姿勢を可能性は極めて低かったと予想できる。しかもフルシチョフは、懸案であったベルリン問題に関して何の希望も抱いておらず、1960年夏に予定されていたアイゼンハワー訪ソはソ連人民に深甚な政治的影響を及ぼすのではないかと危惧していた。
 またこの頃フルシチョフの訪米を契機に、中ソ関係が悪化していた。さらに核実験停止交渉についても、アメリカは地下核実験計画を推進していて、実験停止はアメリカにとって有利であるとフルシチョフはソ連の科学者から聞かされていた。こうした背景からするとフルシチョフにとって、パリ首脳会談をすることで得ることができるメリットはほとんどなかったのである。とはいえ、パリ首脳会談を一方的にキャンセルするのもソ連にとっては得策ではなかった。当時、ソ連はさかんに「平和」を呼びかける「平和プロパガンダ」を展開していた。それは、アメリカの軍事援助計画や同盟国への核配備、NATO体制確立、海外での基地展開などを効果的に非難し、第三諸国にアピールするねらいで展開されていたと推測される。
 U-2事件は、ソ連にとってパリ首脳会談を有名無実にする絶好の機会であった。合衆国政府は、カバー・ストーリーに固執するあまり、そのようなソ連の外交的策略を効果的に阻止することができなかったのである。

冷戦の恒常化
 アイゼンハワー政権期から国民は、冷戦が一過性のものではなく、恒常的なものであると認識するようになった。そしてそれが当たり前の日常になったからこそ、大統領は国民に冷戦を戦い抜く努力を不断に求める必要が生じてきた。一方でソ連の脅威を繰り返し説くことで国民に冷戦参加を呼びかけ、また一方で変動する国際情勢に対応し、冷戦が世界戦争にならないようにソ連に対するプロパガンダを緩めるといった国内外に配慮した絶妙なバランスが必要とされていたのである。



質疑応答・感想


Q、二万mもの高度の上空からの写真でどの程度ソ連の軍事状況が偵察できたのでしょうか?
A、敵のレーダー網、通信および火器の配備などかなり正確な状況が把握できたようです。ただソ連領は極めて広大なのでソ連全体がどれだけの軍事力を持っているのか完全に把握することは難しかったのではなかろうかと思います。

Q、フルシチョフが五月七日にさらなる追求をしましたが、それによってアメリカ国内で混乱などは起きなかったのでしょうか。
A、U-2事件に対するアメリカ国民の関心は非常に高く、6月8日の世論調査では96%の人が事件について知っていると答えています。またアメリカ政府が事件にうまく対処しているかという質問に対して58%の人がうまく対処していると答え、うまく処理していないと答えた人は29%に過ぎませんでした。

Q、トルーマンの封じ込めとそれに関する軍事、政治、経済の詳しい解説を聞きたいと思いました。
A、もしこれに関して詳しい解説をすると一回分講義を増やさなければ追いつきません。ですから簡単にまとめておくと、ソ連がこれ以上勢力を拡大しないように、軍事、政治、経済面で世界の自由勢力に援助の手を差し伸べ、それを阻止しようという考え方です。

Q、先生が授業で使うプロパガンダにはどのようなニュアンスが含まれているのですか?
A、Psychological Warfare(米)とPropaganda War(英)二つの表現がありますが、同義語です。

Q、国民に対する心理戦が今の日本でもあると先生は考えていますか。
A、小泉首相の郵政解散に伴う選挙戦はまさに心理戦だと私は思っていましたよ。それに関しては「政策空間」というサイトで記事を書いています。もし興味があったら検索で調べてみてください。

Q、パイロットはいつ戻れたんですか。
A、パワーズは撃墜された時に離脱に成功しましたが後に当局に逮捕され禁固刑を言い渡されました。しかし、1962年にソ連のスパイであったアベルと交換で釈放されアメリカに帰還することができました。その後しばらくして、事故に巻き込まれて亡くなっています。

Q、どれくらい大統領はスピーチに関わっているのですか?
A、各大統領により違います。草稿作成段階から容喙する大統領もいれば、草稿作成が済んでそれを確認するだけという大統領などいろいろです。

Q、マリリン・モンローが暗殺されたのは、大統領と不倫の仲で機密情報を知っていたためというのをどこかで聞いたのですが詳細が知りたいです。
A、この件に関しては私も聞いたことがありますが、歴史的な流れからすると大きな事件でもないので私も詳細は知りません。

Q、アメリカは何故首脳会談をひかえた微妙な時期にも拘らずU-2をソ連領空へ侵入させたのか?
A、首脳会談をひかえて少々のリスクはおかしても有利な情報をつかんでおきたいと考えたからです。

Q、核・ミサイルも同じようにお金がかかる気がするんだが、戦力を削減してミサイルを増やすことがなぜアメリカの経済破綻を抑えるのかが分からなかったです。資料ZでOpen Skiesをロシアが拒否したのはソ連のアメリカに負けそうな軍事力がバレるのを恐れたからか?パリ首脳会談のそもそもの目的は何であったのか?1958年7月の気球落下はなぜ?
A、大量の通常兵力を維持するよりも核・ミサイルを配備するほうが、費用対効果が高いからです。パリ首脳会談のそもそもの目的は当時行き詰っていたベルリン問題を解決するためでした。気球落下は自然落下だと思います。

Q、現在のミサイル、ロケット技術で打ち落とせない航空機はあるのでしょうか?アメリカはステルス戦闘機に絶大な信頼を寄せていますが実際のところはどうなんでしょうか?
A、ミサイル、ロケットで航空機を打ち落とす仕組みは主に電波誘導もしくは熱源探知によります。ステルス航空機は、レーダー吸収材を利用しているのでほとんどレーダーに捕捉されず、また熱源も排熱ノズルを工夫することで探知されにくいようになっています。ステルス航空機の問題はコストです。すべての航空機をステルスにするのは不可能でしょう。

Q、なぜ先生はアイゼンハワーが好きなのか正直なぞです。アイゼンハワーの魅力は何なのですか。
A、アイゼンハワーは基本的に実直な性格なうえに高度な政治判断ができる優れた大統領だったからです。

Q、ソ連としてはいいタイミングでU-2事件が起こったと思います。首脳会談にあわせて計画的に行われたことですか?
A、講義中にも話した通り、アメリカの分析ではそうです。

Q、五月五日、国防省の声明の時点で操縦士の生存は全く疑われていなかったのですか?
A、五月五日に駐ソ連アメリカ大使トンプソンが国務省へ至急電報でパワーズの生存の可能性を示唆していましたが、あくまで可能性に過ぎません。

Q、世論ではミサイルか爆撃機を増やしてソ連と戦争のようになってもよかったということですか?
A、ソ連に対抗できるだけの軍事力を備えるべきだという意見が大半を占めていました。

Q、当初、ソ連のミサイルがアメリカの偵察機に届かなかったと言ってましたがいつ頃から届くようになったのですか?実際にミサイル・ギャップやボンバー・ギャップはあったのですか?
A、同年四月九日にソ連はU-2をレーダー追尾し撃墜しようと試みていました。少なくともそれより少し前くらいから何とか撃墜できる性能を持つようになったようです。またU-2が到達できる高高度まで追撃できる戦闘機をソ連はなかなか開発することができませんでした。U-2からのデータにより世論が危惧するほどのギャップはないというのがアイゼンハワー政権の考え方でしたが、本来U-2の偵察飛行は隠されたものだったのでデータを公開できなかったのです。

Q、U-2事件がきっかけで冷戦の恒常化が進んだのでしょうか?U-2の名前の由来は何ですか?
A、冷戦の恒常化は様々な事件、時代の趨勢によるものです。それは、冷戦が一時的なものではなく長期間続くものだと次第に認識されてきたことを指します。航空機の名前は「utility(用途)が曖昧なこと」に由来しています。

Q、国民は精神的な消耗はあったのだろうか?
核の脅威に対する精神的な消耗は当然ありました。

Q、偵察をすることに関して当時は国際法はなかったのでしょうか。
A、講義で説明した通り、だからこそアメリカが「大空解放」を提案したのです。

Q、U-2はミサイルで撃ち落されたのになぜ操縦士は生き残れたのか?
A、正確に言うとミサイルは直接機体に命中していません。U-2は非常に脆い機体で、ミサイルが近くで爆発したあおりを受けて失速し墜落したと言われています。だからパワーズは助かったのです。もし直撃していたら確実に生存できなかったと思います。

Q、アメリカの行動を知った他国の国民はアメリカに対してどのようなイメージを持ったのだろうか?
A、深刻なクレディビリティ・ギャップ(信頼性の崩壊)を産み出しました。アメリカはそれを反省し、同年7月に起きたRB-47事件ではクレディビリティ・ギャップを産み出さないように配慮しています。

Q、アイゼンハワーのソ連封じ込め政策の中には人的・文化的封じ込めもあったと聞いたが、具体的にはどのようなものなんですか?
A、例えばアイゼンハワーはソ連を訪問し、そこでソ連国民に対して冷戦の雪解けを促す演説をする予定をたてていました。またソ連とアメリカで交換留学を行うことも考えられていました。

Q、この時代から既にアメリカは世界の警察として世界中に目を配っていたのでしょうか?
A、世界中のいかなる共産主義勢力の浸透にもアメリカは対抗するというのが当時の基本姿勢です。

Q、イギリスのロックバンドU-2は偵察機U-2から由来しているんでしょうか?
A、はたしてどうでしょうか?私も知りません。

Q、寄附授業とはどのような仕組みなんですか?
A、企業から大学に寄附をしていただいてそれを基金に講座を開設します。去年度の寄附講座開設数は過去最高だったそうです。例えば銀行が寄附をして講師を指定し、金融の仕組みを教える講座を開設するといったものがあります。

Q、墜落したU-2がアメリカのものでパイロットもアメリカ人であると判明するような証拠があったのか?
A、講義で説明した通り、U-2機はアメリカの航空機であることは、本来の目的は隠されていたものの公表されていました。

Q、アメリカの動向を知ることは日本の今後を考える上で不可欠だという先生のお考えは、具体的にどういう場面で不可欠だと思っていらっしゃるのですか?
A、主に極東における日本の立場、または国際情勢の推移に関してです。

Q、あのような巧みな文章はいったい誰が考えているのですか?
A、専属のスピーチライターたちです。

Q、評議会が行われたのはアメリカの声明後に行われたのですか?
アメリカからの声明としては、空軍基地の声明、NASAの声明、国務省の声明などがあります。三日の声明はNASAの声明です。評議会でのU-2に関わるフルシチョフ演説は五日と七日に行われています。

アメリカ政治外交史歴代アメリカ合衆国大統領研究