トルーマンの時代T―戦後外交と対ソ関係の悪化


冷戦レトリック
 近代における大統領の役割の変化。単なる行政府の長から国民を導く指導者へ。レトリック大統領制について概括しておきたい。レトリック大統領制とは、近代における大統領のリーダーシップ、マス・メディア、大統領選の変化によって、大統領の政治が説得を中心とするものになったという考え方に基づくものである。大統領が政治目的を達成するためにいかにして国民や議会を説得するのかに焦点を当てたものであり、アメリカでは政治言語学の一分野として1960年以後盛んに研究が行われている。
 大統領のレトリックにはどのような種類があるか。レトリックの性質に関して言えば、「危機」の存在を宣言し、それに積極的に対処する大統領という姿を打ち出し大統領の諸政策への支持を集めやすくするという機能を持つ「危機レトリック」、国民に軍事行動の正当性を納得させると同時に国際世論を喚起させる機能を持つ「戦争レトリック」、ウォーター・ゲート事件に関してニクソン大統領が行った「弁明レトリック」といった区分がある。
 冷戦レトリックは、「危機レトリック」の範疇に属する。その性質は、ソ連や共産主義に「悪」や「脅威」といった位置付けを与えることによって、アメリカ本土に対する直接的な攻撃がなくても「危機」の存在を示すというところに見出される。その目的は、国内で大統領の諸政策への支持を集めるだけでなく、国外で実際の戦争を避けながらも自国の勢力圏を拡大していくことにあった。

トルーマン大統領の演説技量
 トルーマン大統領は、専門的なレトリックの訓練を受けず、「プレーン・スピーキング」と評されるような演説をしていた。前任者のフランクリン・ルーズヴェルトと比べると決してトルーマンの演説技量は高いとは言えないものであった。フランクリン・ルーズヴェルトの急死以来、思いがけず大統領の職責を果たす中でレトリックの実戦訓練をしていたというのが実情であり、トルーマン自身も、大統領就任後かなり経ってから、演説原稿なしの即席で行う演説が自分に適していると自覚するほどであった。しかし、トルーマンは、ウィルソンやフランクリン・ルーズヴェルトを通じて発展してきたレトリック大統領制を確立させた大統領であることから、そのレトリックを研究することには大きな意義があるだろう。特に「ホイッスル・ストップ行」として知られる遊説旅行は、「米国の外交政策と国内の諸問題の動きを、実際に国民に説明する」ことを目的とし、レトリック大統領制の確立を裏付けるものである。冷戦レトリックに関しても、トルーマン・ドクトリンに代表される一連の対ソ連・対共産主義レトリックは、ケネディ、レーガンといった後に続く諸大統領の手本となるものであった。

ソ連に対するアメリカの態度「共存共栄」
 すなわち大統領就任(1945年4月12日)からトルーマン・ドクトリン発表前(1947年3月11日)までを対象とする。
 第二次世界大戦中とその直後において対ソ連レトリックの性質は「共存共栄」であった。「我々は、肩と肩を並べ、共に作戦をたてて戦ってきた、それも意思疎通、言語そして距離の障害に直面しながらである。そのような困難を克服したように、我々は世界平和を築く共同作業で、共存し協働していけるだろう」という声明は、ソ連を単に第二次世界大戦中の同盟者として扱うだけでなく、戦後の世界における米ソ関係の期待も盛り込んでいる。実際、トルーマン大統領は、ソ連と協調してなんとかやっていけるだろうと考えていたようである。またトルーマンはスターリン個人については好印象を持っていた。トルーマン・ドクトリン発表後の1948年でさえ、「私はスターリンの奴とはうまくやっていた。私はあのじいさんが大好きさ。彼は素晴らしい奴だ。でも奴はソ連共産党政治局の囚人なのさ。したいこともすることもできない」とオレゴン州を遊説中に語っている。
 ソ連は「文明と自由のための素晴らしい献身」をなした国家として位置付けられ、ポーランド問題に関しても「ほぼすべての国際協定には妥協の要素がある。ポーランドに関する協定も例外ではない。どんな国家も望むものすべてを手に入れることを期待することなどできない。ギヴアンドテイク―喜んで隣人と歩み寄れるか―の問題である」とトルーマンは説き、アメリカ国民をなだめようと務めている。それは「永続する平和と幸福な世界のために共に前進し続ける」ためにある程度の譲歩は仕方がないというスタンスであった。このスタンスは、平和維持に役立つ「善」としての軍事力を手にしているという自信から生まれたものであった。

「善」の勢力としてのアメリカ
 戦後直後のアメリカは、「合衆国は今や歴史上で最強の軍事力を手にしている。それは世界の他のどんな国よりも強大である」とトルーマン大統領自身も認めている通り、世界最強の国家であった。大統領は、アメリカの進むべき方向性を米ソ関係のみならず全体的に示す必要があった。その中心となる考えを示したのが、「公正で永遠の平和のためのこれからの努力の成功は、平和を維持しようと固く決心した者の強さにかかっている。我々はそういった平和のために努力するべく、物理的な強さのすべてと道義的影響力のすべてを使うつもりである。我々が強くいられる限りそのような平和は保つことができる。平和は、力によってのみならず善意と善行によって築かれなければならないという事実に我々は向き合う必要がある」というフレーズである。これは、強大な軍事力を持つことを、否定的なものではなく、肯定的なものとしてとらえるように意識させるレトリックである。「力」自体は、善悪どちらの属性も帯びてはいないが、それを単に平和に結び付けるだけでなく、「善意と善行」を並置することにより、アメリカの強大な軍事力は善であることを印象付けようとする戦略が窺える。軍事力について語る場合、「我々は、世界平和を守るためだけに軍事力を使いたいと思っている。なぜなら我々は、これこそが我々自身の自由を守る唯一の途であることを知っているからである」というように、必ずといってよいほど、平和という言葉が導き出されている。
 しかし、このような世界平和のためのアメリカの軍事力というレトリックは、「永続する平和を創設する」ための国連憲章の理念に忠実であるという姿勢を示すことに対しては有効であったかもしれないが、当時の孤立主義的心情に傾いていたアメリカ国民に対してはあまり説得力を持たなかったのではないか。アメリカは、二十世紀に二度の大戦を経験したのだが、必ずしも積極的に参戦したわけではない。
 第一次世界大戦は一般の人々によって「ラファイエット(Lafayette)に借りを返す(ラファイエットはフランスの貴族で義勇兵として独立戦争に参加し、ワシントンと苦難を共にした)」ものだと表現され、また前回説明した通り兵器産業を儲けさせただけだったという意識から、アメリカが世界情勢に関与するという明確な意志は存在しなかったようである。そのことは、これも前回説明した通り第一次世界大戦後に、国際連盟加盟を国民に広く訴えることで議会に圧力をかけて承認させようとするウィルソンの目論みが失敗に終わったことからもわかる。同様に第二次世界大戦後も、アメリカが世界情勢に関与し、責任を負い続けると思っていたアメリカ人はほとんどいなかった。第二次世界大戦終結によって自由を全体主義の魔手から守るという使命を全うし、世界情勢に対する責任を果たし終えたというのが多くのアメリカ人の気分だった。事実、ヤルタ会談のおりにフランクリン・ルーズヴェルトはスターリンに、アメリカ軍が二年以上ヨーロッパにとどまることはないだろうと語っている。

国民の対ソ連感情の悪化
 しかし、このように楽観的な気分も、1945年末から1946年初頭のイラン問題(ソ連軍がイランに駐留を継続)を契機とした一連のソ連の行動に対する国民の不信感によって急変することになった。1945年8月のギャラップ世論調査によると、54%のアメリカ人が、ソ連と協調して戦後世界を築いていけると感じていたが、同年10月半ばには44%、1946年2月末には35%と下落し、さらに3月半ば(ソ連軍のイラン駐留期限は本来3月2日だったが、ソ連はそれを守らなかった。さらにソ連はアゼルバイジャンでの駐留継続をも表明していた)には、7%のアメリカ人が、ソ連の外交政策を受け入れることができると答えただけであった。アメリカ人の目には、スターリンのソ連は、勇敢なる同盟者というより残忍で全体主義的で帝国主義的な存在として徐々に映ってきたのである。
 こうした世論の趨勢と拮抗するように、この頃のトルーマンは以下のように述べている。

「今日、勝利のために勇敢にそして長い間共に戦ってきた国家間で存在する本質の相違は、希望がないものでも和解できないものでもない。勝利者たる国家の中には、解決できない程深刻な利害衝突はない。(中略)我々にとって喫緊で重大な脅威は、国際協調の有効性に対する信念を喪失させるような幻滅と知らぬ間にはびこる懐疑主義の脅威である」

 「本質の相違」とはもちろん資本主義と共産主義の違いを指すわけだが、この時点ではその善悪については全く触れられていない。ソ連に対する不信感をつのらせつつある国民に対して、脅威の源を、ソ連という客体におくのではなく、アメリカ自体の「懐疑主義」という主体的なものにすりかえることで、解決が可能であると説得するレトリックが駆使されている。
 トルーマン大統領がこのように語る一方で、スターリンは1946年2月9日に、資本主義への敵意を露にした演説を行った。スターリンの演説は、アメリカの指導層に大きな影響を及ぼした。そして後にソ連「封じ込め政策」の主唱者として知られるようになったケナン(George F. Kennan)が2月22日に国務省に打電した米ソ関係についてのレポートは指導層の関心を集めた。その内容の骨子は、ソ連の過剰な勢力拡大に宥和的に対すべきではないというものである。これを機にトルーマンに決定的な変化が起こる。トルーマンは国務長官バーンズ(James F. Byrnes)宛ての手紙の中で、「ロシアがトルコへの侵略を企て、地中海への黒海海峡を掌握しようとしているのは疑いがない。もしロシアが鉄拳と強気の言葉を直視しなければ、戦争に発展するかもしれない。彼らが理解できる唯一の言葉は、君達はいったい何個師団持っているのかねという言葉である。私はもはや妥協すべきではないと考える。ソ連を甘やかすのはもう飽き飽きだ」と真情を吐露するに至る。

チャーチルの「鉄のカーテン演説」
 トルーマンが一定期間、ソ連に対する真情を隠していたのは対照的に、もはやチャーチルは共産主義の脅威を表明するのに吝かではなかった。1946年3月にミズーリ州フルトンでチャーチルは、いわゆる「鉄のカーテン演説」を行い、アメリカにソ連への対決姿勢をとるように求めた。トルーマンは、チャーチルのミズーリ州への旅行の案内人を務め、演説にも臨席していた。しかし、鉄のカーテン演説を支持するという公式表明はなされていない。
むしろ鉄のカーテン演説に関する公式見解を避ける傾向がみられた。以下に挙げるのは、定例記者会見における大統領と記者のやり取りである。

 「記者:大統領、ミズーリ州フルトンでの舞台に貴方が出席することは、チャーチル氏の主張に支持を与えているという憶測を生むのではありませんか。それについて何かおっしゃりたいことは。大統領:私は、チャーチル氏のスピーチが何のつもりであったかは知らない。我が国は言論の自由の国である。チャーチル氏は、望むことを言う完全な権利がある。ミズーリにホスト役として行ったわけだが、私がチャーチル氏に、もし我が国に来て小さな大学で講義などをしたいのであれば喜んで案内しようと言ったからである。記者:今回のチャーチル氏のスピーチを聞いた後、どのようなお考えを持たれましたか、大統領。大統領:コメントはありません」

 明らかにトルーマン大統領は、話題のすりかえをはかることで鉄のカーテン演説に関する公式見解を避けているが、しかしトルーマンの胸の奥の真情からすると、「ミズーリ州フルトンでの舞台に出席すること」は、チャーチルの主張を黙認するのに等しいとみていたと解することができるだろう。
事実、トルーマンが母(Martha Ellen Young Truman)と妹(Mary Jane)に宛てた手紙の中で「私は鉄のカーテン演説をよくできていると思ったが、まだそれを指示する用意ができていない」と書いている。チャーチルの主張を黙認しながらもトルーマンのとったソ連に対するレトリック上の姿勢は、あくまで宥和的なものであった。
 トルーマンは、記者とのやり取りで米ソ関係について、「我々とロシアの関係は、いつもそうだったように誠心誠意のものである。二人の馬の仲買人が取引をしようとすると時々ちょっと荒々しくなる。だが最初のやり合いではたいして興奮していない。いつもの通り商売するだろう。それが我々のロシアに対する関係です。私は、ロシアに比類ないほどの友愛を抱いている。またイギリスにも友愛を抱いている。だが合衆国は、世界情勢において一種の審判としてふるまわなければならない立場にあり、すべての国々と仲良くやっていきたいと思っている。しかしアメリカ合衆国の利害は、我々の関心事の中でも優先項目である」とコメントしている。アメリカが国連憲章というルールをもとにジャッジする審判であれば、その他のすべての国々はプレーヤーということになるだろう。各プレーヤーは国際政治というアリーナの中で競い合うわけだが、審判と競い合うプレーヤーなどいない。だがさらに「利害」を持ち出すことで、公正であるはずの審判のイメージを崩してしまい、審判がプレーヤーどうしの競い合いに巻き込まれる可能性をも暗示している点は、その後の米ソ関係の観点から注目に値する。

トルーマン大統領の真意
 トルーマン・ドクトリン以前のレトリック戦略は、「我々とソ連にどんな違いがあろうとも、すべての国々の人民が、自由な男女として生産と再建という必要不可欠な責務に立ち返り平和を早期に築くことに両国の基本的な利益はあるということをなおざりにすべきではない」と訴えかけているように、「違い」は認めつつも平和共存を目指すというアメリカの態度をソ連にアピールすることが要であった。しかし、トルーマンの心中では、1946年9月21日に元副大統領のガーナー(John Garner)に書き送った手紙の中で「ロシアと撃ち合いなんかするつもりはないが、彼らはやり手でいつも地球全体を望んでいて、一エーカーでも得たいと思っている」と述べているように、ソ連の脅威を早くから感じるようになったのは確かである。平和共存を目指すというアメリカの態度をソ連にアピールするというレトリックは、主に「ロシアとの撃ち合い」を避けるためであり、世界平和を守るというアメリカの理想像に合致するものであった。しかし、こうしたソ連に対する宥和を示すことは、ソ連の拡張主義の脅威をアメリカ人に伝え、支持を訴えるという危機レトリックの機能を活かせない結果となった。それが一因となって、46年の中間選挙で民主党は、共産主義に対する弱腰外交を批判する共和党に苦戦し敗北した。



質疑応答・感想


Q、戦時中のように極端ではないにしろ、「信頼のおける」機関に情報操作されたらどのように対処したらよいのだろうか?
A、先ずは情報操作という作為がありうるのだと意識しておくことが重要だと思います。

Q、ソ連は、アメリカに軍事力で勝てると思っていたのか?アメリカの軍事力に関する情報をソ連は持っていたのか?
A、ソ連は核開発に関してはアメリカに遅れをとりましたが、後に有人宇宙飛行の達成ではアメリカに先んじました。そのためアメリカではミサイル・ギャップ論争(アメリカはソ連にミサイル技術で大幅に遅れをとっているのではないか)が起きました。ソ連の考え方としては、もう資本主義の時代は終焉を迎え、新たな共産主義の時代が来ると考えていました。つまり、資本主義国家の退場は歴史的必然だと固く信じていたわけです。それ故、ソ連はアメリカに勝てると考えていたようです。

Q、当時のソ連に対するアメリカの態度は世界史から見れば露骨だったが、国民は分からなかったのか?
A、歴史というものを川の流れにたとえてみましょう。川の流れの渦中にいる者にとっては、川がこれから先、どこに流れていくのかは少し先しか分かりませんし、川の流れ全体がどうなっているのかも理解できません。しかし、後になって歴史として見れば、つまり、川の流れを流れの外から大きく俯瞰できれば、流れの渦中にいるよりも川がどこに流れていくのか当然のように分かります。歴史とはそういうものだと思います。

Q、Googleが行う行動は、資本主義の需要と供給のバランスを崩すと思われる。
A、需要を作り出すということが行われているかもしれません。例えば私のような人間は、物をほとんど買わない人間なので、資本主義ではいったい何故毎年毎年売り上げを拡大するのが当たり前になっているのだろうと疑問に思っています。

Q、実際に支配されているという意識はないし、支配してどのような利点があるのか分からない。
A、最も巧妙な支配とは、被支配者に支配されていると感じさせないように支配することです。また、消費者の消費行動に影響を与えることは企業にとって多大な利益があります。

Q、戦争を回避するのに全体主義国家だったソ連に対してそこまで妥協したのに、少なくとも対米開戦まで全体主義国家ではなかった日本を追い詰めていったのは何故ですか?
A、ソ連は共産主義国家であって全体主義国家ではありません。後にアメリカがソ連を非難するにあたって、共産主義すなわち全体主義であるというプロパガンダを展開しましたが、全体主義と共産主義はそもそも全く異質のものです。ちなみに全体主義という言葉は、第二次世界大戦前、アメリカでは否定的な意味を持つ言葉ではなく、むしろ肯定的な意味にとらえる人もたくさんいました。

Q、かっこいい演説ってたいがい嘘なのでしょうか?
A、嘘ではなくレトリックと言います。つまり、話者が聴衆に信じさせたい、納得させたいということを選んで伝えるということです。

Q、資本主義と自由主義、共産主義と社会主義の違いは何でしょう?
A、資本主義は、資本の分配を企業が主体となって行う経済制度または社会制度で、自由主義とは、個人の権利が国家の横暴より守られている状態です。共産主義は、資本の分配を国家が行い、それにより得られる利潤を国民が均等に分けるという経済制度、または社会制度で、社会主義は、共産主義と同じく資本の分配を国家が行いますが、それにより得られる利潤の分配は必ずしも均等とは限らないという制度です。ただこうした言葉の定義はたくさんあるので、以上の定義は私が様々なものを見るにあたって考えたことです。ご自分でも考えてみると面白いかもしれません。

Q、Googleにお金を渡して検索で出易いようにしているところもあるのではないかと思う。
A、Googleで高いランキングが与えられるように企業のホームページを加工する事業を請け負っている会社もあるそうです。Googleがどのようにランキングを決定するのかは極秘にされています。

Q、資本主義と共産主義は互いの体制を嫌っているのにトルーマンはどのような点で共存できると考えたのだろう?
A、お互いに干渉しなければよく、とりあえず平和であればよいとトルーマンは国民に訴えかけています。

Q、GoogleはYahooに比べ、情報のチェックまたは公式性が甘いと聞いたことがある。事実かどうか?
A、両者のチェックの仕方がすべて公開されているわけではないので、比較は難しいでしょう。私も寡聞にして知りません。

Q、ソフトパワーのことがよく理解できなかったのでもう一度説明して欲しいです。
A、ソフトパワーとは主に精神面に影響を与えるもののことです。例えば講義でも述べたようにハリウッド映画がその代表例です。映画によってアメリカを好ましい国のように描くことにより、それを見る人に精神的に影響を与えるわけです。

Q、Presidential Libraryはどこにありますか?
A、大統領図書館は、トルーマン大統領が提唱して建設され始めたもので、トルーマン大統領図書館を例にとると、トルーマンの故郷であるミズーリ州インディペンデンスにあります。ちなみにトルーマン夫妻のお墓は図書館の敷地内にあります。他の大統領図書館も概ねその大統領の出身地にあるので合衆国各地に散在しています。大統領関係のありとあらゆる資料が収められています。博物館も併設されていますからもし近くによることがあれば是非見学して下さい。

Q、今日、十九歳になりました。まだまだ知らないこと分からないことだらけの大学生なのでこらからもっと知識と教養のある人になりたいと思います。
A、おめでとう。そういう気持ちを大切にして下さい。孔子は、「三十歳にして自分の学問というのが初めて分かるようになった(而立)」と言っています。私もあと少しでその年齢になってしまいますが、未だに知識も教養も全く足りず講壇に立つのが恥ずかしいくらいです。共に考え共に学びましょう。

Q、この授業は面白いのであっという間に時間が過ぎます。二期がないのが残念です。
A、私も二期がないのが残念ですが、寄付授業という性質上仕方ありません。来年度も新しく研究したことや勉強したことをもとにした講義を開講できればと思います。ただ寄付してくれる方がいればの話です。この講義を聴いたみなさんがまた私の講義を聴きたいと希望してくれるのであれば寄付してくれる方が出てくるかもしれませんね。

C、多国籍企業は私たちの生活に巧みに入り込みアメリカのスタイル、価値観をスタンダード化している。

C、企業が私たちを支配することにつながると思うと怖い。

C、アメリカの最終目標は世界のアメリカ化ではないのか。アメリカの開拓者精神は今なお行き続けている。

C、アメリカンスタンダードがナショナリズムの高揚もうながしている。

C、法人税はアメリカ連邦政府の財源であり、アメリカ企業が儲かればそのぶん政府も儲かる。だから例えばアメリカ政府が日本に対して市場の自由化を求めるなど政府が積極的に通商に関わるのだと思う。

C、前はアメリカに興味がなかったが大学に入ってアメリカの影響力の大きさを知ってやはり知るべき国だと感じた。

C、アメリカが牛耳っている今、この世界が間違った方向に進んでいないのか不安でいっぱいです。

C、一見、普遍的とも見えるランキングなどは、実は企業によって作られた価値基準にすぎない。

C、選択肢が与えられていれば、我々は自ら選んでいるのだと思い込んでいるだけであって、実際は与えられたものの中から選ばされているだけである。

C、重要なことは言葉そのものが表現するものを信じるのではなく、言葉が持つ真の意味を考え、それをもとに行動することだと思った。

C、情報がないことは不安につながる。そういった精神面にも大きく関わっているのが怖いと思った。

C、完全にアメリカ化された国はなく、その国独自の食文化は残っているのでよいと思う。

C、アメリカはいかにも努力すれば誰しもが成功できるチャンスをもっているということを世界に発信している。虚構にすぎないアメリカンドリームを求めてアメリカに渡る人も多くいる。

C、日本は、アメリカに強い憧れを抱いていて反米の発言もあまり聞かれないように感じる。アメリカの企業というだけで無条件に受け入れている日本人も多いのではなかろうか。

C、「便利さを求めすぎる」というのが人々に与えた最も大きな影響だと思う。

アメリカ政治外交史歴代アメリカ合衆国大統領研究