アメリカ政治外交の本質U―二十世紀アメリカと二つの大戦


バージニア工科大学の銃乱射事件
事件を二つの視点から見る。銃社会アメリカの現状。教育現場の問題。

 銃は日本とは違い、前科者でなければ銃砲店で比較的容易く手に入る。全米ライフル協会を代表とするロビイストの圧力によりなかなか銃規制に関する法整備が進まない。

Lobbyist(語源は議会のロビーから)とは何か。
 各種利益団体の代表で、団体の利益となるような法案の成立、または損害となるような法案の不成立を働きかける。またアメリカ合衆国憲法修正第二条には、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」この修正第二条を根拠とし、銃規制の法整備に対して司法の違憲判断が出ることが多い。
 民兵とは、非正規兵のこと。植民地時代初期のアメリカから存在する。ネイティブ・アメリカンとの紛争や自給自足の必要性、または植民地政府は弱体であったから植民者は自衛武装する必要があった。独立戦争では非正規兵である民兵が活躍しイギリス軍正規兵を破るのに大きく貢献している。独立戦争に参加した延べ兵士数のうち約四割を民兵が占めていたという。また民兵の存在意義は、中央政府権力が横暴になった際に、それを改廃する権利を人民に保障することも含まれている。

もう一つ教育現場から考える。キャンパスの学生の心の問題。

 容疑者の周囲の学生に対する感覚。「道楽者」、「金持ちの息子」などとののしるメモ。他に女性に対するストーカー行為や寮への放火騒ぎなど様々な問題行動があった。また、チョ容疑者は人付き合いがほとんどない影の薄い存在で、同じ寮に住んでいながら、「見たことがない」と話す学生もいた。大学当局者も、「彼は孤独を好む人物だった」と述べた。
 この容疑者の問題性は、周囲からの孤立からにある。キャンパスという環境は、自ら積極的に人間関係を構築しないと、孤立しがちになるという傾向がある。本学でも学生相談室があるので、そういう事態に陥りがちになれば諸君も来室して欲しい。過ちを正すのは恥ではない、たとえすれ違いがあってもお互いに理解できるように歩み寄らなければならない。大学時代の友人は、社会に出て企業活動を行うにおいて生じる利害的な人間関係とは全く異質のもので、一生利害抜きに付き合える仲間がたくさんできる最後の時期である。
 だからこそ大学時代は勉学だけではなく友人を増やすように心がけて欲しい。諸君一人一人性格や考え方は違うけれども、その違いを否定するのではなく、調整してうまくやっていく能力が必要である。大学では専門知識を学ぶだけではなく、こうした対人スキルも身に付ける必要がある。
 明確な意識を持つことの重要性。社会では毎日毎日いろいろな出来事が起きる。それぞれの出来事がどのような意味を持つのか自分で考えてみることが必要。ニュースや自らの体験などで得られた断片的知識から社会はどのように動いているのか、またはどうあるべきか認識する不断の作業が必要である。企業に勤める場合、その企業が社会から必要とされていればどのような理由があっても倒産しない。逆に社会から必要とされなければどのような潤沢な資金があっても必ず倒産する。

アメリカ政治外交の本質(承前)
 前回、孤立主義(isolationism)と国際主義(internationalism)のうち孤立主義については説明した。孤立主義について再度説明する。孤立主義が生まれたのは、アメリカ独立戦争がもともとヨーロッパ列強の勢力争いの狭間をぬって達成されたものだから。アメリカは建国当初、今では考えられないことだが、非常に弱体な国家であった。そのアメリカにとって至上命題は、自国を外国の干渉から防衛することであった。アメリカ建国当時の18世紀後半、人口は僅かに400万(当時の日本、フランスは3000万、イギリスは650万)であった。国力というものは現代よりも人口の多寡によるものが大きいので、この400万という数字(現在は3億と言われている)を見ればいかに弱体な国家であったか分かると思います。
 モンロー・ドクトリン(1823年)。世界を西半球と東半球に分け、アメリカは自らが属する西半球からヨーロッパの勢力を排除しようとした。次回で述べる二十世紀に入る前、アメリカは西半球を自国の勢力圏と策定し、それを明白な政策として打ち出していた。代表的な例は、米西戦争(1898年)とパナマ運河開削(1903年)である。米西戦争では、スペインの影響力を西半球から排除した。キューバを保護国化し、フィリピンを植民地化した。パナマ運河開削により、太平洋と大西洋が連結されアメリカの軍事的・経済的影響力が強まった。こうしたアメリカの方策はどちらかというと孤立主義に根差したものである。ヨーロッパの紛争からアメリカを隔離するために西半球に自国の勢力圏を作り上げ、あらゆる影響を排除しようとしたのである。
 それで次に国際主義の説明に入ります。これは民主主義、自由といったアメリカの価値観がすぐれたものであるからそれを全世界に伝播しようという試みです。建国当初、僅か400万の人口を数えるに過ぎなかったアメリカも、二十世紀冒頭にはその人口は8000万に迫る勢いでした。資本主義システムは南北戦争後のギルディッド・エイジ(金ぴか時代)を経て大きく成長し、アメリカは列強として世界に大きな影響力を及ぼすようになりました。
 アメリカ国内の大きな変化の兆しは1896年の大統領選で見ることができます。1896年の大統領選では、1893年の恐慌が民主党にとって大きな負い目となったこととウィリアム・ブライアン(William Bryan)大統領候補の急進性を危惧した産業界の反発により、共和党候補のウィリアム・マッキンリー(William McKinley)が勝利し第二五代大統領に就任した。ちなみに民主党大統領候補のブライアンは三十六歳で、もし当選していたら最年少大統領になっていたはずである。Cross of Gold金の十字架演説で有名。金の十字架演説は1896年7月8日にシカゴで開かれた民主党全国大会で行われた演説。単一金本位制を批判して「諸君は労働者に茨の冠を被せ、人々を金の十字架にかけてはならない」と述べた。You shall not press down upon the brow of labor this crown of thorns, you shall not crucify mankind upon a cross of gold!
 また1896年の大統領選で目を引いたのは第三党としての人民党の隆盛である。人民党は西部と南部の農民や都市の労働者を支持母体にした政党で、公益のために個人の自由と権利は制限されるべきであると主張していた。ブライアンはこの人民党の勢力を背景に民主党の大統領候補になることができたのである。1896年の大統領選は、ビック・ビジネスと革新的な大衆勢力との争いだったと見ることができる。
 マッキンリー政権期は、世紀転換期にあたり、アメリカが大きな変貌を遂げた時期にあたる。その変貌とは、第一に、米西戦争、ハワイの併合、門戸開放政策の提唱など海外への膨張志向をアメリカが示したこと、第二にアメリカ国内で典型的な資本主義社会が成立したこと、第三に、そうした資本主義社会の歪みを是正しようとする革新主義が台頭したことである。
 マッキンリーは第二次就任演説の中で、アメリカの歴史がまさに「自由と博愛」を高める歴史であったと概括し、「神への畏敬の念の下に、好機を利用し自由の領域をこれから拡大する」と明言している。米西戦争の勝利は、アメリカを帝国主義勢力として台頭させることになった。アングロ・サクソンの優位性と自由、そしてナショナリズムが結び付き、アメリカは「最大の自由と最も純粋なキリスト教信仰と最高の文明」を人類に流布する使命を帯びた国であるという自意識を持つようになったのである。
 世紀転換期において、アメリカでは本来独自に発展を遂げた自由が普遍的な性質を付加されるようになり、その後の20世紀のアメリカの自由の概念に多大な影響を与えることになった。さらに経済的自由の問題が社会の争点となりつつあった。伝統的な「自由と財産」の概念からすれば、独占企業が恣意的な経済活動をもとに富を築くことは一つの真理である。しかし、独占企業は自らの財産権を濫用して他者の財産権を侵害し、その結果、自由が脅かされることになるというのも一つの真理であった。20世紀のアメリカでは、この二つの真理の間の均衡をいかに取るべきかが一つの大きな問題であった。

セオドア・ルーズベルトの棍棒外交と反トラスト政策
 1901年9月14日、マッキンリー大統領は無政府主義者から受けた銃創がもとで死去した。そのため副大統領職にあったセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)が昇格して第二六代大統領に就任した。このルーズベルトの登場は、アメリカ社会の激変に対して政府の役割を適応させようとする革新運動の嚆矢であった。
 ルーズベルトは就任演説の中で、「複雑で激しい近代生活」に移行したアメリカ社会に「予見することができなかった危機」が迫っていると訴えた。その危機とは過度の資本集中、すなわちトラストの形成により公共の福祉が損なわれることである。こうした弊害を是正し、トラストを「禁止するのではなく、監視する」ように務めなければならない。さらにルーズベルトは、「我々自身の幸福だけではなく人類の幸福が我々の成功にかかっている。もし我々が失敗すれば、世界の自由自治の原則の基礎を揺るがせることになるだろう」と述べ、世界の手本としてのアメリカの役割を強調した。ルーズベルトは機会の平等と経済的自由を保つために法によって大企業の専横を防止しようと考えたのである。
 ただそうした考えは、すべてのトラストを破壊することにより19世紀半ばの状態に経済を戻すことに向けられたのではなく、有害なトラストを禁止することにより機会の平等と経済的自由を保つことができる状態に是正することに向けられていたのである。
 国内では独占資本主義への戦い。健全な競争を阻害する独占企業を抑止する。アメリカ国内企業のために海外市場の確保。海外に対してはビッグ・スティック(棍棒外交)でアメリカの西半球勢力圏を確定。「棍棒を持って穏やかに話せ」。棍棒=強大な海軍。パナマ地峡をアメリカの影響下におき、カリブ海諸国に干渉。日本とは基本的に協調路線を目指し日露戦争終結に尽力。海軍力を増設し、アメリカの覇権を世界に見せつけた。とはいえまだアメリカは世界の警察ではなく、自己の勢力範囲を定め、その中で覇権を維持しようという外交政策をとった。

タフトのドル外交
 ルーズベルトの後継者として第二七代大統領に就任したウィリアム・タフト(William Taft)は就任演説の中で、ルーズベルトの方針を継承することを明らかにし、トラストの「権力の濫用と無法さを抑止」することで個人の自由と密接に結びついた財産権を保証することを約束した。それは「半世紀前には存在しなかった」政府の役割であり、反トラスト立法は、まさに自由を愛好する人々が機会の平等を守ろうとする試みであった。ドル外交と呼ばれるタフトの外交政策は、ルーズベルトの行おうとした、カリブ海における覇権の確保、フィリピンの保持、中国の門戸開放という方針を、棍棒ではなく「ドルをもって弾丸に代える」という経済的な影響力で達成しようとした。

ウィルソンの宣教師外交と第一次世界大戦
 1912年の大統領選は、現職のタフト、タフトと袂を分かったセオドア・ルーズベルト、そして民主党候補のウィルソンの三者によって争われた。ウィルソンは「ニュー・フリーダム」と銘打たれる諸演説を展開し選挙戦に勝利した。
 第二八代大統領ウィルソンは、第一次就任演説で経済的自由を保障するために「公正なる規準とフェア・プレイ」を適用することを主張した。政府は「個人的で利己的な目的にしばしば利用」され、「産業発展の成果」によって生じた人々の「呻きと苦悶」を検討することをおこたってきた。そうした人々の生活を人間的なものにするために「良いものを損なうことなく弊害を浄化し、再検討し、修理し、正す」必要がある。ウィルソンの自由に関する考え方は、「ニュー・フリーダム」でさらに鮮明に打ち出されている。歴史上類を見ない近代資本主義社会の中で必要とされる新しい自由は、「人間の利害、行動、活動力の完全なる調整によって作られる」ものである。そこで政府の果たすべき役割は、企業と個人の関係の調整をはかり、非人間的な組織のもたらす悪を抑制することであった。そして最終的には政府の介入なしで自由競争を行うことができる状態こそ真の自由であった。
 国外に対するウィルソン大統領の姿勢は、「宣教師外交(ミショナリー)」と呼ばれる。第二次就任演説では「生存の自由と組織悪からの自由」を全人類に普及させ、「武装中立」の下に「平和を強化し擁護する」役割を果たすべきだと主張している。こうしたアメリカの世界の警察としての理想主義を国際主義という。ウィルソンの外交政策はまさに国際主義の典型例である。
 ウィルソンが平和を願ったのにも拘らず、世界情勢の悪化により、第一次世界大戦が勃発したことはご存知だと思う。アメリカは第一次世界大戦参戦を余儀なくされた立場であった。なぜなら依然として国民の大多数は孤立主義を信奉し、ヨーロッパのごたごたからは身を避けるという選択肢をとり中立を宣言した。しかし、1915年イギリス船のルシタニア号がドイツに撃沈され、多数のアメリカ人が死亡するという事件を代表にアメリカ人の犠牲が増え、国民感情は悪化していった。ウィルソンは国内の平和運動の勃興を追い風に中立を堅持しようとしたが、対独関係はますます悪化し、戦争に踏み切らざるをえなくなった。またウィルソンが目指す新しい世界秩序構築「勝利なき平和」は、アメリカが参戦することで発言力を高め、それでもって達成される可能性があったからである。
勝利なき平和とは、国際平和機構(後の国際連盟)の設立、公海の自由、軍縮、勝戦国が敗戦国に報復をしないようにする。
 第一次世界大戦開戦においてウィルソンは、「民主主義のために、自分たちの政府が発言力を持つように権威を委託している人々の権利のために、小国の権利と自由のために、すべての人民に平和と安全をもたらし、最終的に世界それ自体を自由にしようという自由な人民の提携によって世界を統合するために」アメリカは戦うと述べ、世界の道義的推進者としてのアメリカの立場を闡明にした。 
 しかし、第一次世界大戦後、アメリカは戦後復興に協力は惜しまなかったが、国際連盟に加盟することはなかった。ウィルソンは国際連盟にアメリカが加盟することは世界平和維持に不可欠だと考えていたが、国民の根強い孤立感情を説得することはできなかった。国際連盟加盟には、憲法第二条第二節第二項に定められている通り、条約を批准するためには上院の出席議員の三分の二の同意を必要とする。ウィルソンは上院に圧力をかけようと、国際連盟加盟を国民に訴えたが、その遊説旅行の途中で病に倒れ、アメリカの国際連盟加盟をかなえることはできなかった。国際主義に傾いていたアメリカには、実はまだ孤立主義が根強く残っていることを示す瞬間であった。ただこれはウィルソンが上院の譲歩を引き出す交渉を何もしなかったという政治技術上の失敗も原因である。

共和党政権期(1921〜1933)
 ヨーロッパが戦後復興に奔走する一方で、アメリカは繁栄と狂乱の20年代に入っていた。その時代に大統領職を占めたのは共和党のウォレン・ハーディング(Warren Harding)とカルヴィン・クーリッジ(Calvin Coolidge)、そしてハーバート・フーバー(Herbert Hoover)の三人である。共和党の三大統領の考え方は基本的に孤立主義。とりあえず政府は世界の警察などやらなくてもよく、ビジネスに干渉せず最低限のことだけやっていればよい。
 第二九代大統領ハーディングは、アメリカは今や「全人類に対する自由と文明の啓蒙的模範」となったが、世界の他の国々がアメリカと同じ高みに至るように期待するにとどめ、旧世界の事柄には干渉しない。アメリカが重視すべきなのは、ビジネスの世界を戦争による混乱から常態に戻すことである。そして「政府に多くを求めすぎる」ことを避けなければならない。
 フーバーが大統領に就任して一年もたたないうちに「暗黒の木曜日」が訪れ、アメリカは大恐慌の時代に入った。フーバーは大恐慌を終息させようと様ざまな施策を試みたが、ほとんど実際的な効果をあげることができなかった。フーバーの退場とそれに代わるフランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)の登場は、19世紀的な自由放任主義の終わりを告げるものであった。

FDRのニューディールと第二次世界大戦(1933年〜1945年)
 1929年の大恐慌から経済を立て直す必要性がありニューディールという一連の経済再建策を打ち出した。
 ルーズベルトは、第一次就任演説で「我々が疫病を克服する方法を、非常に長い間苦しんだ後で発見したのとまさに同じように、我々は経済的疾病を克服する」ことができると世界恐慌によって疲弊した国民を鼓舞した。さらに1934年の炉辺談話でルーズベルトは、「長い間、自由人民が特権的な少数者に奉仕するように訓練されてきたような下でなされてきた自由の定義に戻ること」を拒否し、「アメリカ史上で庶民に与えられた中でも最も大きな自由と安全に向かって前進するという条件の下でのより広範な自由の定義」を獲得することを国民に訴えた。ルーズベルトが意味した「より広範な自由」とは、住居と生計、そして社会保険の保障の下に一般人民が安心して暮らせるというものであった。

第一次世界大戦後のアメリカの風潮
 アメリカが第一次世界大戦に参戦したことは大きな間違いであったというのが1930年代のアメリカ国民の感情であった。欧州は根本的に腐敗しており、戦争は欧州大陸を覆う疫病なようなもので、その苦境の責任は欧州自らにあるとアメリカ国民は思っていた。そうした疫病から離れている限り、合衆国は絶対に安全だとアメリカ国民は信じていた。具体的には、国際紛争に介入すること、そして国際紛争を防止するために集団安全保障体制に参加することにアメリカ国民の多くは反対していたのである[Langer and Gleason 1952: 11-15; Morgan 1985: 503]。例えば、ラインラント進駐、ユダヤ人迫害、スペイン内乱への干渉といったドイツの一連の行為にも関わらず、1937年当時、アメリカ国民の大半は、ドイツに対して中立を守るべきだと考えていた。こうしたアメリカ国民の態度は、1938年9月29日のミュンヘン会議まで変わることはなかった[Jacob 1940: 51-52]。
 そうした孤立主義への回帰傾向が強くなっていたことに加えて、真珠湾前夜まで外交に関する主導権を握っていたのは大統領ではなく、孤立主義を堅く信奉する議会指導者達に率いられた議会であった[Campbell and Jamieson 1990: 112-113; Holt 2000: 121-307]。中でもナイ(Gerald P. Nye)上院議員を中心とする兵器産業に関する調査委員会は、1934年2月8日、第一次世界大戦で銀行家や兵器メーカーが不当な利益をあげていたことを暴露し、第一次世界大戦にアメリカが参戦したのは、こうした不当利得者のためにすぎなかったと結論付けた[ルクテンバーグ 1968: 172]。
 外交権限をめぐる大統領と議会との様々な攻防の中で、最も注目を集めたのが、中立法をめぐる攻防である。中立政策は、ジェファーソン大統領(Thomas Jefferson)以来のアメリカの伝統である。1807年、ジェファーソンは、アメリカの貿易に課された英仏の禁輸措置に対抗して、アメリカの資源輸出を拒否することで英仏の行動を牽制し、さらにアメリカの船舶が事件に巻き込まれ、その結果戦争が起こるという危険性を排除し、当時まだ弱小国であったアメリカが力をつける時間を稼ごうとした[Harper 1994: 65-66]。そして時代が下って20世紀初頭、ウィルソン大統領(Woodrow Wilson)は、「世界の平和と自由が複雑に絡み合っている今、中立はもはや実行可能でも望ましいものでもない」[Wright 1940: 391]と戦争メッセージの中で唱え、アメリカは中立を一旦放棄し、第一次世界大戦に参戦することになった。第一次世界大戦後、先述のように第一次世界大戦参戦に対する否定的評価が高まり、再び中立政策が見直されるようになった。1930年代には、中立を唱えるにしてもどのように中立を唱えるかが争点となったのである(2)。
 1933年初めにルーズベルト政権は、侵略国家に対して禁輸措置をとる権限を大統領に与える法案を通過させるように議会に働きかけた。この法案は下院を無事に通過した。しかし、上院外交委員会は、侵略国家だけでなくすべての交戦国に対する禁輸措置をとるという内容に改定するようにルーズベルト政権に勧告したため、ルーズベルト政権はこの法案の提出を断念した[Cole 1960: 653]。                              
 さらに1935年、エチオピア危機の際に、多くのアメリカ人が中立法制定の必要性を感じていたにもかかわらず、その内容をどのようなものにするのかについて意見の統一はなされていなかった。ルーズベルト政権は、交戦国に対する選択的禁輸措置の自由裁量権を求めた。ピットマン(Key Pittman)上院議員を筆頭に、上院外交委員会は、そうした自由裁量権を大統領に与えることに猛然と反対した。ピットマン達は、大統領が選択的禁輸措置をとることで特定の国を「侵略国家」と名指しすることになり、その結果、戦争に巻き込まれることを恐れていたのである。結局、大統領は、1935年8月31日、義務的武器禁輸をすべての交戦国に対して適用する法案に承認を与えた[Cole 1960: 654]。これがすなわち1935年の中立法(3)である。
 中立法が禁輸に的を絞っているのは、ナイ委員会の影響があったことは明らかである。つまり、アメリカを戦争から遠ざけておく一つの方途は、銀行家や兵器メーカーの不当な利益をあげようとする目論見を禁輸措置をとることにより事前に挫くことにあった。
 ルーズベルト大統領は、1935年の中立法に承認を与えたものの、内心、このような硬直的な禁輸措置では、アメリカを戦争から遠ざけておくどころか、結局戦争に引きずり込むことになると考えていた[Department of State 1943: 24-25]。ルーズベルトが法案を結局承認したのは、1934年から1935年にかけて既に国際司法裁判所参入の是非をめぐって上院と争っていたことが一因である。国内政策を円滑に実行していくために、ルーズベルト政権はこれ以上、上院との亀裂を深めるわけにはいかなかった。
 この国際司法裁判所問題は、トルーマン、アイゼンハワー両政権期におけるブリッカー修正問題の先駆だと言える。そして、前法に引き続く形で定められた1937年の中立法の骨子は、交戦国に対して現金決済以外で物資を販売することとアメリカ船籍の船舶が武器を輸送することを禁止するものであった[Morgan 1985: 486]。1935年から1937年にかけて、ルーズベルトは中立法自体に反対を唱えることなく、それを運用する際にできるだけ自由裁量を行えるように調整しようとしたのだが、その試みは必ずしもうまくいかなかったのである。
 何故、ルーズベルトは中立法に対して全面的な指導権を握ろうとしなかったのか。それはルーズベルト政権を取り巻いていた状況に原因がある。1935年当時、ニューディールは、第一次ニューディールから第二次ニューディールへの変化、すなわち「統制された経済から補正された経済への変化」[シュレジンガー 1966: 339]にさしかかっていた。1935年は、まさに1933年に開始されたニューディールが、そのまま崩壊してしまうのか、または新たな装いで復活を遂げるのかの瀬戸際であり[シュレジンガー 1966: 188-190, 331-337]、こうした状況では、中立法成立を政権にとって有利な形に改めるように議会に働きかける余裕などなかったのである。さらに1935年から1936年にかけて連邦判事達が、ニューディール諸立法打倒を目指し、連邦法令の施行を停止する禁止命令を濫発していた。最高裁もニューディール諸立法を無効にしようと試みていた[シュレジンガー 1966: 375]。
 しかも、ルーズベルトは悪化しつつあった国際情勢を好転すべく1933年に行われたロンドン国際経済会議やロンドン軍縮会議でほとんど成果をあげることができず、1933年末を境として孤立主義に従わざるを得なくなっていた。アメリカにとっては、ニューディールを国内条件のみで行うことは不可能で、国際的な経済環境の好転が不可欠であったが、その希望は適わなかったのである[谷 1986: 9-16]。
 こうした困難な状況にもかかわらず、1936年11月の大統領選で、ルーズベルトは共和党大統領候補のランドン(Alfred M. Landon)に一般投票で1000万票以上の大差をつけて史上空前の大勝利を収めた。第二次ニューディールは国民の信任を得たのである[シュレジンガー 1966: 527]。
 しかし、1937年になって、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退によって、ルーズベルトは議会に対する影響力を低下させていった。ルーズベルトは、まるで「まったく棄てられた指導者」[ルクテンバーグ1968: 200]のようになっていたのである。その一方で、民主党保守派議員が、ニューデュール阻止のために共和党との超党派ブロックを結成し、ルーズベルトの威信はますます低下の一途を辿っていた。結局、ルーズベルトは、選択可能な方途の中で、孤立主義者への譲歩として直接的な海外への関与を控え、中立法の枠内で自由裁量権を行使することにより国際秩序の安定を図るという道を目指したのである[中澄 1992: 17]。

FDRの隔離演説
 FDRが行った隔離演説。国民へ全体主義に対抗するように呼びかけた演説。まさに国民に対する心理誘導の一端である。
 1937年9月6日、ルーズベルトは、世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って大掃除をする準備ができていることを公にするとモーゲンソー財務長官(Henry Morgenthau, Jr.)とハル国務長官(Cordell Hull)に語った。そうした問題には国民を事前に教化する必要があるとして両者は、大統領の意見に反対した。ハルが憂慮していたのは、アメリカ国内の世論が分裂している姿を諸外国にさらすことであった。そこでハルは、大統領の旧友のデーヴィス無任所大使(Norman H. Davis)と相談し、西部旅行の途上、孤立主義で凝り固まっている大都市の一つで、国際協力に関する演説を行うべきだと大統領に提案することにした。ルーズベルトはそのハルの提案を受け入れ、演説草稿の作成にかかるように指示した。モーゲンソーとハルは、シカゴで行われる予定の演説によって、アメリカ国民が「三つの野蛮国家」の振る舞いに嫌悪感を抱いていることを世界に伝えることができればよいと考えていた[Borg 1964: 379-380; Hull 1948: 544]。
 ルーズベルトは、国内情勢だけでなく国外情勢にも目を向けるように国民に訴えかけている。国際的無法状態が世界に蔓延していることを強調し、世界に忍び寄る全体主義の脅威を説明した。さらにルーズベルトは、西半球をアメリカの勢力圏と定め、その圏外からの干渉を許さないという所謂伝統的なモンロー主義だけでは、アメリカの安全を保証できないことを示唆している。こうした事態を避けるためにルーズベルトは、平和愛好諸国に一致協力を求める。
不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」[Rosenman 1969: 410]

「宣戦布告されていようがいまいが、戦争は伝染病である。戦闘が行われている場所から遠く隔たった諸国や諸国民を戦争は飲み込んでいく。我々は戦争の局外に立とうと決意したが、それでも、戦争の及ぼす破滅的な影響から身を守り、戦争に巻き込まれないようにすることはできない。我々は戦争に巻き込まれるリスクを最小にするために、戦争の局外に立つという方法を採用しているが、信念と安全が崩壊している無秩序な世界の中で完全に身を守ることなどできない」[Rosenman 1969: 411]

 孤立主義だけではアメリカを守ることはできないというテーマが伝染病という比喩が織り込まれ新たな形で繰り返されている。伝染病が逃れ得ないものであるのと同じく、戦争も逃れ得ないものであると聴衆に納得させようとしている。伝染病のイメージが有効に活かされていると評価できる。

FDRの手紙

「たとえ、『権力者ども』に心底嫌われたとしても、シカゴでの演説は明らかに、欧州の政府の考え方に衝撃を与えた。君が[私に]手紙を書いて以来、情勢は好転するどころか悪化している。日独伊連合は、恫喝、支配、成果に関して、それが何であれ驚くべき成功を収めつつある。(中略)。ファシズムが世界中に広まり、そして世界を支配してしまったらどうなってしまうのかという問題をすべての国が取り上げる際には、我々ができることすべてを言うべきであるし、なすべきである。もし国際世論がその究極の危機を認識し得ないとしたら、我々はファシズムの拡大を止めることはできないだろう」[Department of State 1954a: 154]

 この手紙の言葉からすると、ルーズベルトはファシズム勢力の台頭に対して何等かの対抗策をとらなければならないと考えていたようである。

 「隔離」演説に関してウェルズ国務次官は、大統領のスピーチライターのローゼンマン(Samuel I. Rosenman)に以下のような手紙を送っている。

「[隔離]演説は、合衆国の外交政策におけるマイルストーンであった。ルーズベルトは孤立主義と不偏不党の盲目的な中立主義からの脱却である集団安全保障を初めて直接的に訴えかけた。しかし、大統領はめったに犯さない過ちをなした。それは、あまりにも性急に合衆国民を先導しようとし、適切な事実を知らせ、そうした出来事に対する精神的な[受け入れ]準備を整えなかったという過ちである。一方で、もしハルや議会の民主党指導者たちが公的に大統領を支持したならば、大衆の支持をもっと受けることができより多くのことができただろう」[Rosenman 1972: 167-168]                    
ルーズベルトの本意は、集団安全保障体制に基づいて、アメリカが世界平和において積極的な役割を果たし、第一次世界大戦の轍を踏まないようにすることであった。
 第二次世界大戦は、自由とファシズムとの戦いという位置付けがなされるようになったのは周知の通りである。第二次世界大戦期、他の多くの国とは違って、アメリカでは強制労働が行われなかったし、イギリスのような登録制度も採られなかった。それ故、国民を、彼らの自発的な意志により戦争関連産業に従事させるようにしなければならなかった。つまり、多種多様な国民を統合し戦争へ向かわせるためには、ナショナリズムを超えた共通の大義が必要だったのである。
 このように二十世紀前半は、十九世紀に培われた伝統的自由に代わる「自由と公正」という新しい自由が提唱された。さらにそうした自由は、アメリカが世界情勢に深く関わるにつれて、世界的なものとして宣言されるようになった。これは十九世紀末以来の、単なる自由の避難場所というアメリカ像から世界に自由を広める道義的国家としてのアメリカ像への移行の帰結である。



質疑応答・感想


Q、キャンパス制度に問題があるというのなら、ほとんど各国すべての大学制度を変える必要があるのではないでしょうか。皆、自分の弱いところから逃げず、戦う向かい合うべきだと思います。
A、各国の文化・事情に応じていろいろな制度を考える必要があるかもしれません。弱さと強さの両方を兼ね備えているのが人間であるという認識が重要だと私は思います。

Q、国際主義はアメリカの素晴らしさを示そうというみたいだけど、なぜアメリカは自分たちがなぜすごいかと思い始めたのか?
A、アメリカ建国の歴史的過程に原因があります。アメリカは建国当初から腐敗したヨーロッパから逃れて理想の世界を作るという考え方がありました。特にピルグリム・ファーザーが典型例です。

Q、ロビイストのようにあからさまに圧力をかけることができる団体は他にもあるのだろうか?
A、環境団体や消費者団体、宗教団体、退役軍人会など様々な団体があります。

Q、議員を選挙で選んでいるのに全米ライフル協会のせいで銃規制ができないというのは民主主義国家として駄目だと思います。
A、アメリカはそもそも民主政体というより共和政体が根本にあります。アメリカ政治の古典『フェデラリスト』には、各種利益団体の調整をはかることが大事だと論じられています。

Q、銃のことだけではなく、最近日本でも多く見られますが、孤立した学生や心に問題をかかえる人が増えてきたように感じます。こちらの問題も解決が必要となるのではないでしょうか。
A、こういう問題は誰しも起こりうるのだという意識が先ず大切だと私は思います。

Q、ヴァージニア工科大学の事件が国家間の関係に何かしら影響を与えることはないのか?
A、韓国政府は個人の問題に還元しようとしています。政治的判断としては最も正しい判断でしょう。

C、事件を起こした学生の孤独や苦しみを分かっていたのにそれに対して誰一人行動を起こさなかったという点でもショックを受けた。
A、政府ができてから上から改革が進められていった近代日本と市民が先にくるアメリカの違いだと

C、次の大統領選挙ではこの銃規制の問題も投票に大きく影響してくるのではないかと思います。
A、銃社会の問題というよりもアメリカ社会の他国籍保有者に対する差別が原因ではなかったのかと考える。

C、アメリカの銃社会は、人を傷つける為と護身の為という矛盾が生じています。

C、国民が銃をとる必要のない政治をするように心がけるべきだ。

C、私はいつか銃を持たない社会が来ることを願う。

C、容疑者の韓国人についてだがメディアが彼を人種差別的に報道しているように思われる。

C、キャンパスで孤立してしまったこともこういった事件の要因の一つということは怖いと思った。このようなことは自分にも起こる可能性があるんだなと思うと怖い。

C、コミュニティとしての共同体意識みたいなものが求められると思います。

C、結局犯罪をおこすのは人であって武器は手段にすぎない。

C、エリートになるための教育が素晴らしい人間にさせる教育ではないと思った。

C、銃があるせいで起こる事件もあれば、銃があったから助かるケースも多々あるので一概に否定するべきではないと感じました。

C、もし自分の家族がこのような事件の被害者になってもまだ、銃を持つ権利は必要だと言い続けるのだろうか。

C、幼い頃受けた歴史教育等による反米意識も関係していたのではと思った。

C、今回の事件のようにインターネット上で恐ろしい想像をめぐらしまたそれを実践したという事実を目の前にして、この学生の予備軍のような人がたくさんいるのではないかと考えると、非常に危険な世の中だと感じる。

C、日本でもそうですが、他の人と上手くコミュニケーションを図れない人がとても増えているのはとても哀しいことです。親との会話が減ったり、携帯やパソコンといった面と向かって話さなくても情報を伝えられる機械が増えたことも原因だと思います。

C、誰かたった一人でも(両親や友達)彼の心をハグしてくれる人がいたら、このような歪んだ精神状態にならなかったのではと思います。

C、低年齢の時期における道徳教育を重視すべきだ。

C、銃社会に問題があるとか銃規制をすべきであるとは思いません。事件を未然に防ぐような措置をとればよいと思います。

C、アメリカは全体的にオープンな環境で、大学も日本とは違うし、民族も宗教も様々でそれが社会が不安定な要因なのではないかと思った。

アメリカ政治外交史歴代アメリカ合衆国大統領研究