昭和天皇の全国巡幸中に起きた最も有名なエピソードを紹介する。福岡巡幸の二日目午後三時頃、昭和天皇は嘉穂郡庄内村公民館にお立ち寄りになられた。ご訪問を終え、群集の歓呼に送られながら三十メートルほど離れた御料車に向かわれる天皇陛下のお傍にいつの間にか一人の老婆が立っていた。年のころ七十くらいの老婆は、杖と手提げ袋を携えて、「きょうは天子様の御姿も拝めるしおまけに上天気、こんな結構な日があるもんかい」といった風情でのんびり歩いている。老婆は隣にいるのが天皇陛下だとまったく気が付いていない様子で、そのまま天皇陛下と仲良く肩を並べて歩き始めた。天皇陛下は咎めだては全くされず、お気軽に老婆と並んでお歩きになった。御料車に着いた時にはじめて老婆は隣にいるのが天皇陛下だと悟り慌てふためいた。そんな老婆の様子を見て群衆はドッと笑った。
こうした和やかな情景は戦前では考えられないことであった。戦前は行幸で天皇陛下をお迎えする際に「御車がおよそ六十メートルの距離に近づいたときに最敬礼を行い、上体を起こして目迎、目送し奉る」、「ろ簿は堀越、窓越又は高い位置から拝してはならない」などと敬礼法が細かく決められていたので、天皇陛下と肩を並べて歩くようなことをすれば不敬罪に問われかねなかった。それが笑いを招く逸話で済んだのはまさに戦後だからこそであった。 |