『大統領制度の起源』
※研究用に原稿用紙300枚程度にまとめたメモ。
※憲法制定会議に関するさらなる詳細は『アメリカ合衆国憲法制定会議実録』を参照のこと。
目次
第1章 植民地時代から憲法制定会議前夜まで
第1節 植民地時代
第2節 邦憲法
第3節 連合会議
第2章 憲法制定会議
第1節 憲法制定会議の開始
第2節 ヴァージニア案の導入
第3節 全体委員会
第4節 6月20日から7月26日
第5節 細目委員会
第6節 8月7日から8月31日
第7節 8月31日から9月8日
第8節 9月9日から9月17日
第9節 ジョン・アダムズとジェファソンの憲法に関する見解
第3章 憲法制定会議の大統領制度に関する議論
第1節 大統領制度をめぐる2つの流れ
第2節 行政権に関するヨーロッパの思想的影響
第3節 大統領制度の各草案
第4節 行政府の長の数
第5節 参事院
第6節 大統領の選出方法
第7節 大統領の任期
第8節 大統領の弾劾
第9節 大統領の不能力
第10節 三権分立の原理
第11節 拒否権
第12節 行政権
第13節 統帥権
第14節 閣僚
第15節 恩赦権
第16節 外交権限
第17節 任命権
第18節 教書権
第19節 議会の招集
第20節 法の執行への配慮
第21節 大統領の呼称
第22節 大統領の宣誓
第23節 大統領の被選挙資格
第24節 副大統領制度
第4章 憲法案批准
第1節 フェデラリストと反フェデラリスト
第2節 『ザ・フェデラリスト』
第3節 各邦の批准
第5章 憲法の修正条項
第1節 憲法修正第12条
第2節 憲法修正第20条
第3節 憲法修正第22条
第4節 憲法修正第25条
第1章 植民地時代から憲法制定会議前夜まで
第1節 植民地時代
多くの物事が歴史的淵源を持つようにアメリカ大統領制度も歴史的淵源を持っている。憲法制定会議に出席した代表達は、植民地時代においてイギリス国王と総督を戴く政治制度を体験していた。1776年の独立以後は、代表達は独自に制定した邦憲法の下での政治制度と連合規約に基づく政治制度を体験した。そうした体験は憲法制定会議で大統領制度を創始する糧となった。
植民地人としての長い年月の間、アメリカ人は立憲君主制というイギリスの政治制度に慣れ親しんできた。イギリスは世襲による終身制の国王を頭に頂く国家である。君主の権限は議会の権限によって制限されている。国王は宣戦布告を行うことができるが、その命令は議会が予算を認めなければ実施され得ない。一方、議会は法案を可決することができるが、国王はそれに対して拒否権を持つ。イギリス議会は二院制であり、選挙で選ばれる庶民院と終身で世襲制の貴族院から構成される。
イギリスの政治制度は植民地人が最も慣れ親しんだ制度であるにとどまらず、人類が見出した中でも最善の制度だと見なされていた。基本的自由は歴史上の他のどのような政治制度よりもイギリスの立憲君主制によってより良く保障されている。イギリスは古典的な政治哲学において伝統的に解決不可能だと思われてきた問題、つまり、アリストテレス(Aristotle)が定義した君主制、貴族制、民主制がそれぞれ持つ限界を解決したように思われる。社会全体に代って統治権を託された者は自己の目的のために権力を使うようになり、君主制は専制に、貴族政は少数独裁制に、民主政は無政府状態に陥り、圧政を布くようになる。イギリスの救済策は数世紀を経て発達し、3つすべての政治制度の要素を1つに混合させることによって、つまり、君主制は国王に、貴族制は貴族院に、民主制は庶民院に代表され、お互いに抑制と均衡を保つことで進化してきた。
イギリス領アメリカ植民地の大部分の政府はイギリスの国家制度と構造上、似通っていた。国王によって任命される総督、総督によって任命される上院、人民の選挙によって選ばれる下院によって多くの植民地政府が構成されていた。総督は広範な権限を与えられていた。しかし、政治的に敏感な総督はこうした権限を慎重に行使した。なぜなら植民地政府の予算を認める権限は植民地議会のみに認められていたからである。
植民地の統治形態は主に3つに分かれた。会社統治型、領主統治型、国王直接統治型の3つである。会社統治型をとった植民地は、初期のヴァージニア植民地、初期のマサチューセッツ植民地、コネティカット植民地、ロード・アイランド植民地である。マサチューセッツ植民地では、総会議と呼ばれる株主総会において、法が制定され、総督や補佐官など植民地を統治する官吏が選ばれた。領主統治型をとった植民地は、メリーランド植民地、デラウェア植民地、ペンシルヴェニア植民地である。統治権を与えられた領主は総督と参事院を任命した。国王直接統治型をとった植民地は、ニュー・ハンプシャー植民地、ニュー・ヨーク植民地、ニュー・ジャージー植民地、ヴァージニア植民地、ノース・カロライナ植民地、サウス・カロライナ植民地、マサチューセッツ植民地である。国王が総督と参事院を任命した。
このように植民地の統治形態は3つに分かれるが、一般的傾向として総督から植民地議会へ権力が移るようになった。次第に総督は植民地人に対して責任を負うようになった。総督はイギリスの南部省長官によって、任官希望者の中から指名され、枢密院によって任命された。総督の任期は特に明確な規定はなく、本国政府から召還を受けるか辞職するまで在任した。総督が死亡するか、不在の場合、副総督が総督の権限を代行した。ニュー・ハンプシャー植民地、ニュー・ヨーク植民地、そしてヴァージニア植民地では規則的に副総督が任命されたが、他の植民地では稀にしか任命されなかった。副総督は参事、もしくは参事院議長を務めることはあったが、平時には特に権限を持たない閑職であった。副総督が存在しない場合は参事院が知事の権限を代行した。
総督は証書発行の手数料と罰金の一部、そして俸給から収入を得た。俸給はノース・カロライナ植民地とサウス・カロライナ植民地を除き、概ね植民地議会から支払われた。総督は、植民地議会を招集し、解散する権限、議会の法を拒否する権限、広範な任命権、統帥権、重要事件の裁判権、反逆、殺人を除く犯罪に対して恩赦を与える権限、国王や大臣の特別命令を執行する権限、植民地行政一般を監督する権限、航海法を執行する権限、関税を徴収する権限、ネイティヴ・アメリカンに対する条約締結権、公有地分譲権など多くの権限を有する。こうした広範な権限を与えられた総督であったが、いつでも自由に権限を行使できたわけではなかった。総督自身が赴任すらしない場合も多く、その場合は総督代理が立てられた[
藤原守胤、『アメリカ建国史論』(有斐閣、1940年)、下:14-33。]。
植民地議会は二院制であった。下院は財産資格を満たした植民地人の選挙によって選ばれた。上院となる参事院は実質的に行政機関であり、総督の推薦、もしくは国王や領主によって任命された。つまり、上院議員となる総督参事院の構成員は国王や領主から任命された。マサチューセッツ植民地、ロード・アイランド植民地、コネティカット植民地においては植民地人の選挙によって選ばれた。総督参事院は、植民地議会の上院であり、行政組織と司法組織を兼ねた。植民地議会は立法権に加え、次第に財政監督権を掌握した。財政監督権を武器に植民地議会は総督を監督と指導の下に置くようになった[ 宇都宮静男、『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974年)、42-54。]。
イギリスの政治制度には多くの美点があったが、イギリス政府と植民地政府は権力を渇望した者によって悪用された。アメリカ独立革命期にイギリスを統治していた国王ジョージ3世(George III)は、政治上の便宜や役職などを議会の支持を得るために実質的に賄賂として利用した。植民地総督の中にも植民地議会に対して同様の行いをする者が現れた[ Jack P. Greene, Peripheries and Center: Constitutional Development in the Extended Polities of the British Empire and the United States (University of Georgia Press, 1969), 27.]。そうした権力の悪用に対する植民地人の怒りは1776年の独立宣言に示されている。独立宣言は、「生命、自由、そして幸福の追求」という文言でよく知られているが、その大半は国王の植民地に対する権利侵害や絶対的な圧政を弾劾したものである。独立革命期を通じてアメリカ人が引き出した教訓は、自由は行政権によって脅かされ、立法権によって守られるということであった。
第2節 邦憲法
独立戦争の間、13邦によって17の憲法が起草された。イギリス国王と植民地総督に対する反感から、それらの憲法の起草者達は概ね邦知事には弱い権限しか与えず、邦議会に強い権限を与えた。また4つの邦は邦の統治者を指す言葉としてもともと植民地総督を意味していた「ガバナー(governor)」を使うことを止め、代わりに「プレジデント(president)」を使用した。邦知事の任期は10邦で1年間に制限された。また8邦で邦知事は議会によって選ばれた。さらに6邦では邦知事に再選は許されなかった。またニュー・ヨーク邦とニュー・ジャージー邦を除く邦知事は知事参事院と権限を分かち合うように強いられた。知事参事院の構成員は議会によって任命されるか、人民によって直接選挙された。大部分の邦では実質的に邦知事は委員会の議長職に過ぎなかった[ Gordon S. Wood, The Creation of the American Republic, 1776-1787 (University of North Carolina Press, 1969), 138.]。
憲法制定会議でヴァージニア邦知事のエドモンド・ランドルフは、大統領職を単数にする案に反対した時、知事は行政府の単なる一員に過ぎないと発言した。大部分の邦憲法は邦知事に曖昧な権限しか認めず、議会に対する解散権、拒否権、役職の任命権を否定し、邦議会の権限侵害に対して邦知事が自己の権限を守ることさえ不可能にした。議会の解散権を失うことで邦知事は、議会選挙を行うことで人民に直接信を問う機会を持つことができなかった。任命権は議会、もしくは議会が支配する任命委員会に移された。例外としてジョージア邦では重要な公職は人民による直接選挙で選ばれた。さらに司法府は幾つかの邦で一応独立していたものの、司法府の任命と報酬に関して議会に依存していた。また軍事権も議会の支配下に置かれた。4邦で邦知事のみに恩赦権が与えられた。他の3邦では、弾劾の場合は恩赦権が認められなかった。次に各邦の邦知事の特徴について簡単に述べておきたい。
ニュー・ハンプシャー邦の邦知事の被選挙資格はプロテスタントで7年間、邦に居住し、財産資格が課せられた。邦議員に投票する資格を持つ有権者の投票によって1年に1回選出される。邦知事が不能力となった場合、上席上院議員が大統領の権限を有する。邦知事は参事院とともに弾劾の場合を除き恩赦権を有した。
マサチューセッツ邦憲法は最も保守的な性質を持つ。マサチューセッツ邦憲法はジョン・アダムズによって起草された。マサチューセッツ邦は混合政体を基盤としている。つまり、強力な行政長官、資産階級を代表する上院、民衆を代表する下院の3つの要素が混合する政体である。こうした3つの要素はお互いに正当な権限を超えないように抑制し合う。したがって、マサチューセッツ邦には、民衆の投票によって選ばれる下院と納税額に基づいて議席数が割り当てられる上院、そして邦知事が置かれた。マサチューセッツ邦の邦知事の被選挙資格は7年間で再選は無制限であり、キリスト教徒であることを宣言し、邦に居住し、邦内に1,000ポンドの価値のある土地を所有するという財産資格が課せられる。邦議員に投票する資格を持つ有権者の投票によって1年に1回選出される。邦知事は独立した拒否権を有した。しかし、議会の両院の3分の2の賛成によって、拒否権は覆された。これは後の合衆国憲法でも同様の規定が盛り込まれた。他の邦憲法と大きく異なる点は、知事の権限が大きい点である。アダムズは邦知事に与えられる拒否権について、「行政府は、立法府が自由の擁護者であるのと同じく、叡智の擁護者となるべきである。防衛するための武器がなければ、猟犬の前の野ウサギのように知事は倒されてしまうだろう」と述べている。邦知事は参事院とともに弾劾の場合を除き恩赦権を有した。邦知事は大半の官吏を任命する権限を持つ。邦知事は参事院の助言を以って、議会の会期中に両院が希望する場合はいつでも議会を休会し、延期することができ、5月の最後の水曜日の前日に両院を解散し、必要に応じて議会を招集する権限を持つ。邦知事はすべての軍隊の最高司令官となる。副知事は邦知事と同様の被選挙資格を持ち、同様の方法で選挙される。
さらにニュー・ヨーク邦知事はマサチューセッツ邦と同じく邦議会ではなく人民によって選ばれ、任期は3年で再選も可能であった。ニュー・ヨーク邦知事の被選挙資格は明確に定められていない。ニュー・ヨーク邦憲法の下で初めて選出されたジョージ・クリントン(George
Clinton)は、7期計21年間にわたって知事を務めた。ニュー・ヨーク邦の行政権は知事のみに与えられ、知事参事院と分有されなかった。さらに知事には議会に対する拒否権と役職の任命権が与えられた。邦知事は同意なしに議会を1年のうち60日に限って停会することができた。拒否権はマサチューセッツ邦と同じく議会に覆される可能性があった。邦知事は弾劾、反逆、殺人の場合、恩赦権を行使することはできなかった。副知事は知事と同じ方法によって選挙される。邦憲法によって規定されるニュー・ヨーク邦知事の権限は、その多くが後に合衆国憲法で認められる大統領の権限と同様のものであった[
宇都宮静男、『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974年)、91-98。]。
ニュー・ジャージー邦知事の被選挙資格は明確に定められていない。両院の合同投票によって1年に1回選ばれる。副知事は上院によって選ばれる。邦知事は参事院と合同して無制限の恩赦権を有した。
ペンシルヴェニア邦憲法は最も民主的な性質を有していた。投票権は男子納税者とその成年に達した息子に与えられた。官職の交替制が導入され、代議員は引き続く7年の間に4年以上、在任することが許されなかった。議会は一院制であり被選挙資格はキリスト教徒であることのみであった。ペンシルヴェニア邦知事の被選挙資格は明確に定められていない。代議院と参事院の合同投票によって、邦知事は参事院の議長として1年に1回選ばれる。副知事は知事と同様の方法で選出される。邦知事は参事院とともに弾劾、反逆、殺人の場合を除いて恩赦権を行使する。行政権は邦知事と選挙によって選ばれる参事院に分与された。また7年毎に監察院の構成員である監察官が選挙された。監察院の職務は、邦憲法が遵守されているか調査すること、官吏の弾劾を命じること、そして必要に応じて憲法協議会を招集することであった。
デラウェア邦知事は、任期満了の後、3年間は被選挙資格を持たない。両院の合同投票によって3年間選ばれる。邦知事が無能力の場合、上院議長が副知事として知事の権限を有する。
メリーランド邦知事は知識、経験、及び徳望を持つ人であることを被選挙資格とする。両院の合同会議によって1年に1回選ばれる。邦知事が死亡した場合、同様の方法で新しい知事を選出する。
ヴァージニア邦憲法は、強大な権限を持った勅任総督による専横という過去の経験から邦知事の権力濫用を未然に防ぐという措置を重視して形成されている。ヴァージニア邦では邦議会が強い権限を持った。ヴァージニア邦知事は、引き続き3年以上在任することはできず、任期満了の後、4年を経なければ再選されることはない。両院の合同投票によって1年に1回選出される。邦知事が無能力の場合、参事院議長が副大統領として知事の権限を有する。邦知事の権限は著しく制限され、拒否権、議会の解散権などを有していなかった。また邦知事は参事院の忠告や同意がなければほとんど行政上の決定を下すことができなかった。さらに邦知事は参事院の助言を以って刑罰の執行猶予、あるいは恩赦を認める権限を持った。参事院の構成員は両院の合同投票によって選出された。議会の非常召集は枢密院、または下院議員の多数の要請によってのみ可能であった。
ノース・カロライナ邦知事の被選挙資格は5年間、邦に居住し、財産資格が課せられ、6年の間に3年以上在任してはならない。両院の合同会議によって、1年に1回選ばれる。邦知事が無能力の場合、上院議長が知事の権限を有する。
サウス・カロライナ邦知事の被選挙資格は、5年間、枢密院の一員であり、プロテスタントで10年間、邦に居住し、財産資格が課せられる。両院の合同投票によって2年に1回選ばれる。知事は拒否権を持つが、議会は同じ法案を3日間の休会の後に、再び上程することが認められていた。知事は一定の俸給を保障される。副知事は知事と同様の方法で選ばれる。
ジョージア邦知事は3年のうち1年以上は再選されない。代議院によって1年に1回選出される。邦知事が無能力の場合、参事院議長が知事として権限を有する[ 酒井吉栄、『アメリカ憲法成立史研究』(評論社、1965年)、1:62-70。]。
第3節 連合会議
諸邦の代表が集まって大陸会議が開かれた。大陸会議は独立戦争の緊急性に応じて司令官の任命、兵糧の要求、紙幣の発行、軍隊の徴募、捕獲免状の発行など一連の措置を行ったが、正当な法的基盤に沿ったものではなかった。大陸会議の代表は諸邦からの大使に過ぎず、大陸会議は諸邦の統一的な代表的機関というよりも単なる外交的機関であった。諸邦をまとめる何らかの恒久的な統一機関の設立が求められた[ 宇都宮静男、『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974年)、121-126。]。
1776年6月に大陸会議は、独立宣言起草委員会と同時に連合規約起草委員会を発足させた。連合規約の起草は軍事的に必要であった。独立宣言によってすべて植民地は独立した諸邦になったが、何らかの共通の政府なしでイギリスに対して共同戦線を張ることは難しかった。連邦を樹立するにあたって最大の問題は、中央政府の支配権と各邦の主権の間に均衡を保つことであった。諸邦は独立を欲したものの、イギリス政府に代って新たな中央政府を作って権限を譲渡することには消極的であった。
もともとアメリカ独立革命の原因は、イギリス政府の中央政府が植民地の利害に関係なく構成され、その権限を何の憲法的な制約もなしに行使したことにある。植民地人はイギリス本国政府を自由や植民地自治に対する危険な中央集権的な権力と見なした。そうした経験から諸邦は一切の中央集権を自由に対する危険と見なし、地方自治権を以って自らの自由を守ろうと考えた。
大陸会議に派遣した代表に対して諸邦は、独立戦争を遂行するのに必要とされる以上に連合政府を強化しないように求めた。またイギリスによる支配の経験に則して、諸邦は行政府の構成を最小限にするように求めた。国王を想起させるような行政府は容認されなかった。連合規約は不完全であったが、これまで歴史上の他の連邦政府によって採択されたいかなる規約よりも優れた規約であった。もし連合規約の欠陥が修正されていれば、長年にわたって適用され続けただろう。しかし、連合規約の修正には全邦の賛成が必要であった。
1776年6月11日、大陸会議で連合政府案をまとめるために13人委員会が発足した。7月12日に委員会は勧告を大陸会議に提出した。勧告では連合会議の代表の数は各邦の人口に基づくと規定されていたので小邦の反対を受けた。そして、1777年11月15日、大陸会議は、勧告に若干の修正を加えた案を採択し、それを連合規約と呼んだ。主に3つの問題が足枷となって諸邦による批准は遅れ、最後のメリーランド邦が批准して連合規約がようやく成立したのは1781年3月1日である。
連合規約を定めるにあたっては以下のような3つの問題があった。第1の問題は邦の代表権を平等に与えるべきか、人口に比例して与えるべきかという問題である。第2の問題は、各邦が負担する分担金の額をどのように決定するかという問題である。第3の問題は西部領地の問題である。結局、第1の問題は代表権を各邦に平等に与え、第2の問題は私有される土地の価値に応じて分担金が決定され、第3の問題は西部領地を共有財産にすることで解決した。メリーランド邦の連合規約批准が他の邦に比べて2年以上も遅れたのは、特に諸邦が西部領地に対する請求権を連邦に譲渡しない限り批准しないと声明したからである。連合規約は既に諸邦が大陸会議の下で用いていた協定を事後確認したようなものであったので、批准の遅れは大した問題とはならなかった。
連合規約は諸邦の中央政府と行政権力に対する恐れを具現化したものであったが、実際のところ、連合会議は政府と呼べるほどのものではなく、「友好の同盟」と称するものに過ぎなかった。連合会議は大陸会議と実質的に変わらず、単にこれまで大陸会議が行ってきたことを法制化したに過ぎなかった。事実、アメリカ人は連合会議のことをこれまでと同じく大陸会議と呼び習わしていた。正確には連邦ではなく国家連合であった。
それぞれの邦は2人から7人の代表を派遣したが、人口と富に拘わらず諸邦は平等に1票ずつの投票権を持った。各邦の代表は邦議会によって任命された。邦議会はいつでも代表を解任することができた。戦争開始、条約締結、借款協定、武器調達、最高司令官任命など重要な問題は13邦のうち9邦の賛成で決定される。連合会議は行政省を設置し、その長官を任命する権限を持つ。連合会議の閉会中は、各邦の1人の代表から構成される行政委員会が全権を行使するが、13邦のうち9邦の同意を必要とする重要な問題に関しては決議権を持たない。
議長は連合会議によって選ばれ、大陸会議議長と同じく単なる議長職に過ぎなかった。連合規約の中では、連合会議は「連合会議の指示の下、合衆国の一般的な問題を管理するために必要な委員と役人を任命する権限を持ち、その中から司会を行う者を選ぶ権限を持ち、何人も3年のうち1年以上、議長職に在任することを認められない」と議長に関して定められている。
主に委員会を通じて連合会議は行政的機能を果たそうとした。結局、財政的、外交的、そして軍事的決定を行い、法を制定する業務が手に余ると分かった後に連合会議は、外務、財政、陸軍、海軍、そして郵政に関する省庁を創設し、その長を任命した。そうした省庁は日常の行政的事項の執行に有用であったが、その活動は連合会議によって綿密に監視された。省庁は独立した機関とは言えず、連合会議に明らかに従属していた[ Richard J. Ellis, ed. Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999).1-5.]。連合議会は省庁の長を任免し、詳細な指示を与えた。重要な問題に関して13邦のうち9邦の賛同を必要とする規定によって、連合会議は重要な法案をほとんど可決することができなかった。さらに連合規約自体の修正には全邦の賛同が必要であった。そのため改革の一環として連合会議に課税権を与えるために連合規約を修正しようとする動きがあったが、結局、全邦の賛同を得ることができず実現しなかった。
こうした組織的な弱点に加えて、その他の点でも連合規約は連邦政府としての権限を損なっていた。理論的には連合会議は宣戦布告し、条約を締結し、同盟に参加し、陸海軍を徴募し、硬貨を規定し、公債を発行し、ネイティヴ・アメリカン問題を監督し、郵便局を設立し、度量衡を定め、そして邦間の紛争を裁定する権限を委ねられていた。資金と軍隊は不動産価格と人口に応じて諸邦が分担して拠出することになっていた。しかし、連合会議は諸邦に課税する権利もなく、測量を行うだけの資金がなかったので不動産価格に基づいて分担金を十分に割り当てることもできず、さらに最大の欠陥としてその決定を諸邦に強制する力もなかった。ある邦が連合会議の要求に耳を傾ける一方で、その他の邦はまったく無視するということが度々起きた。独立戦争が終わり、共通の脅威が去ると、諸邦は連合会議の要求に応じる理由がますますなくなった。
また連合会議は諸邦の関税徴収権を制限するような通商を規定する権限を持っていなかった。各邦は連合会議に通商を規定する権限を与えることを拒否した。連合会議はネイティヴ・アメリカンとの通商を規定し、諸外国と通商条約を結ぶ権限を持っていたが、各邦間の通商を規定する権限は持っていなかった。それ故、連合会議は各邦が関税を課すのを禁止したり、輸出入を停止するのを禁止したりすることができなかった。1781年、各邦に5パーセント以下の輸入税を賦課徴収する権限を連合会議に与えることで財政基盤を強化する連合規約の修正案が提案されたが、ロード・アイランド邦とヴァージニア邦が批准しなかったために成立しなかった。
さらに1783年、マディソンによって連合規約の改革が試みられた。1782年から翌年にかけて、マディソンの指導の下、ようやく連合会議は自ら歳入を確保する手段を模索し始めた。権力が腐敗から免れ得ないと信じる者達は、連合会議により強い権限を与えることに対して反感を抱いていたので、マディソンは粘り強く説得を続けなければならなかった。連合会議は邦に歳入を頼るのではなく、独自の財源を持たなければならないというのがマディソンの信念であった。さもなければ連合会議は諸邦が敵対的な派閥を形成しようとするのを掣肘できず、その結果、まず弱者の側が外国の支援を呼び込み、それから強者の側もそうすれば、最終的に両者ともにヨーロッパの戦争や政治に従属することになると予想された。1783年3月6日、マディソンによって起草された財政計画が議会に提出された。
こうしたマディソンの努力が功を奏して、1783年4月18日、連合会議は、公的信用を回復させる計画を各邦に提示して承認を求めた。マディソンは「諸邦への挨拶」を起草して諸邦に支持を訴えた。その計画は、戦時公債の元本と利子を返済するために、特別輸入税と25年間にわたる5パーセントの一般関税を徴収する権利を連合会議に与えることを骨子とする。同時に連合会議は、各邦が拠出する分担金の割り当て方式の修正を提案している。つまり、従来の土地価格総額に基づく割り当て方式に代わって、人口に基づく割り当て方式を連合会議は導入しようとしたのである。
しかし、この問題をめぐって連合会議は膠着状態に陥った。そこでマディソンは、奴隷人口を5分の3 に数える折衷案を提案した。これは後に合衆国憲法で5分の3妥協のもとになった。こうした試みは、連合規約によって規定されていた全邦からの承認を得ることができず失敗に終わった。
マディソンは1783年4月の改革によって、連合会議が低落した権威を取り戻し、その責務を果たせるようになることを望んでいた。また連合会議が、イギリスの通商規制に対して報復措置を取れるように提案している。マディソンにとって連合会議の欠陥は、歳入と条約の執行を諸邦に完全に依存している点にあった。独立によって獲得した自由が連邦の解体によって失われることをマディソンは恐れていた。緊密で強力な連邦政府こそ未だに脆弱な共和制を諸外国の介入から守る手段であり、諸邦が分裂して互いに争って人民が重税、専制政治、戦争、過大な軍隊などに悩まされないようにするための手段であった。
1783年4月の改革の試みに続いて1784年、連合会議に内国通商と外国貿易を規定する権限を制限付きで与える修正案が提案されたが連合会議で否決された。それだけではなく各邦間で通商をめぐる争いが起きた。例えば、1787年、ニュー・ヨーク邦議会は、ニュー・ジャージー邦とコネティカット邦からニュー・ヨーク邦に到着する船舶、ニュー・ヨーク邦からニュー・ジャージー邦とコネティカット邦に出発する船舶に対して、高い入港税と出港税を課した。報復措置としてニュー・ジュージー邦は、ニュー・ヨーク邦が所有するサンディ・フックの灯台に月額30ポンドの税金を課した。しかし、連合会議にはそうした紛争を解決することができなかった。マディソンは通商を規定する権限を連合会議に与えるべきだと強く主張している。
「通商を規定する権限を少なくともある程度は[連合会議に]与えるかどうかの問題を概観すると、それを可決すべきだということは疑いの余地もないことだと私には思える。もし通商を規定する権限がまったく必要ないのであれば、通商を効果的に規定できる者に権限を付与する必要が確かにあるし、経験による道理が予見するところ、個々の能力で行動する諸邦が通商を規定することは決してできない。諸邦は別々に戦争を行ったり、同盟や通商条約を締結できなかったりするように、通商を規定する権限を行使できない。したがって、こうした事実の性質から、通商を規定する権限は、その他の権限に劣らず、連邦憲法の条理に含めるべきである。私は、連邦制度の欠陥を修正することが非常に重要であると思っている。なぜなら、そうした修正は、連邦が樹立された目的に対するより良い回答になるだろうし、そのまさに欠陥が存続することによってもたらされる危険を私は理解しているからである」[ Letter from James Madison to James Monroe, August 7, 1785.]
上記のような弱点にも拘わらず、最終的に連合規約はアメリカが独立を勝ち取る妨げとはならなかった。独立戦争は1781年10月19日、ワシントンがヨークタウンでチャールズ・コーンウォリス(Charles Cornwallis)を降すことによって実質的に終焉を迎えた。勝利の後、連邦政府としての弱点がより顕著になった。共通の敵の脅威によってもたらされた結束はもはやなく、諸邦はお互いに争い、連合会議に背を向けた。西部領地に対する重複する主張が争いに拍車をかけた。紛争地域でコネティカット邦の入植者とペンシルヴェニア邦の兵士が暴力的に衝突した。西部領地は国家の最も価値ある財産であったが、紛争を解決するまでは開発することも、そこから利益を得ることも難しかった。東海岸では、ニュー・ヨーク邦やマサチューセッツ邦、そしてサウス・カロライナ邦のような港町を持つ諸邦が隣邦から輸入した物品に対して課税していた。
新国家は大きな負債を負っていた。独立戦争を戦った兵士達に対する支払いや物品を供給した商人に対する支払いを完済しなければならなかった。破産や差し押さえの危機に直面して、多くの兵士達や商人達は怒り、時には暴力的になった。1789年までに外国の債権者は1,000万ドル以上の約束手形を抱え、未支払いの利子は180万ドルにのぼった。もし支払いが完済されなければ、外国との交易が滞る恐れがあった。しかし、連合会議は国庫に分担金を納めるように諸邦に説得することができないでいた。1786年の連邦政府の歳入は、その年、支払期日が来た負債の利子の3分の1以下であった。
アメリカは国内外を問わず様々な問題に直面していた。北部、南部、そして西部の国境はまだ包囲下にあり、守備する兵士達に装備も資金もろくに準備することができなかった。イギリスは1783年に締結されたパリ条約で明け渡す事になっていた五大湖沿岸の2つの砦を占領し続けた。同様にスペインもアメリカの拡大を警戒してミシシッピ川をアメリカの船舶に対して閉ざし、パリ条約でアメリカに属するはずの東岸の土地に対して領土主張をしていた。スペインとイギリスの両国はアメリカの入植者を襲撃するようにネイティヴ・アメリカンをけしかけた。海外ではアメリカの船舶はバーバリ諸国の餌食となり、アメリカの貿易にとって有望な市場である英領カナダと西インド諸島から締め出されていた。
イギリスのアメリカに対する敵意は理由のあるもので納得のいくものであった。それはアメリカがパリ条約の2つの条項に従わなかったためである。1つの条項は独立戦争の間に没収された王党派の財産を補償することである。もう1つの条項はイギリス商人に対する独立戦争以前の負債を支払うことであった。諸邦はこれらの2つの条項に強く抵抗し、連合会議は諸邦に条項を遵守するように強いることができなかった。連合会議は講和条約に基づいて没収された王党派の財産を返還するように諸邦に要求したが、要求に応じたのはペンシルヴェニア邦とメリーランド邦だけであった。
国内外の危機の中でさらなる問題が起きた。通貨危機がアメリカで起きた。それは独立戦争が終わった後、アメリカが盛んに物品を買い込んで、時計やガラス製品、そして家具など贅沢品をイギリスから輸入したからである。こうした贅沢品を購入するために、外国の債権者への支払い手段として唯一認められた財物である金と銀が国外に大量に流出した。一方で多くの債務者達、特に土地を残して独立戦争に参加した農夫達は財政的に困難を抱えた連合会議から支払いを受けることができずに破算と差し押さえの危機に直面していた。
その結果、債務者達は債務の完済を容易にするために邦議会に多額の紙幣を発行するように働きかけた。つまり、農民が所有している不動産の価値に応じて、邦議会は仮証券を発行して農民に貸与し、税金の支払いやその他の納付金の支払いに法定貨幣として使用することを認めた。またあらゆる債務と抵当の取立てを延期する猶予法が適用された。下落した通貨で返済されることを恐れた債権者達は政治的に巻き返しを図るが、限定的な成功しか収めなかった。強力で民主的な邦議会は選挙民の中で少数の債権者よりも多数の債務者により過度に迎合する傾向があった。商人は紙屑同然の証券をつかまされるのを嫌って店を閉じ、商品を隠したり、他の場所に移したりした。
行政権に対する恐れは独立が宣言されてから10年以上経ってもアメリカ人の間で強いままであった。しかし、諸邦の強力な議会と弱い連邦政府の下でアメリカにもたされる諸問題は、特に保守的で財産を持つ人々にある種の教訓を与えた。つまり、行政府に対する信頼の増加と立法府に対する不信感である。経験は、効果的な行政府の適切な形態について教訓を与えた[ Charles C. Thach Jr., The Creation of the Presidency, 1775-1789 (Johns Hopkins University Press, 1969), 49-53.]。多くの有識者は、適切な法の執行を可能にする強力な行政府なしでは連合会議は存続し得ないと思うようになっていた。さらに全体の秩序や福祉を確保するためには、少なくとも対応の統一が、そして必要な事項を処理できる十分な権限を持つ中央政府が必要であると多くの有識者は信じるようになった。そうした中央政府は適切に規定されれば、個人の自由にとって危険ではないだけではなく、自由を恒久的に維持するうえで絶対に必要である。権力と自由は必ずしも相反するものではない。もし、権力が民主的に規定され、人民が権力を適切に抑制する手段を与えられるのであれば、権力は自由にとって脅威とはならない。こうした考えから、強力でありながら、権力の濫用を招かないような仕組みを持つ中央政府を樹立しようとする動きが起きた。
後に憲法制定会議議長を務めたワシントンも早くから連合会議の改革を訴えてきた。ワシントンは連邦に一貫性と安定、そして尊厳をもたらす憲法が必要であると考えていた。そして、もし現状の連邦制度に変革がもたらされなければ、アメリカは国家として凋落すると危惧していた。1783年3月31日にハミルトンに宛てた手紙の中で以下のように述べている。
「合衆国の中で私よりも現在の連合を改革する必要性を深く感じているか、または感じ得る人物はいないだろう。連合の悪い影響を私よりもよく分かっている者はおそらくいないだろう。というのは連合会議の欠陥と権限の欠如が、まさに戦争の長期化の原因であり、その結果、莫大な費用が必要となったのである。私が軍を指揮する間に経験した困難の半分以上、軍の苦難と困難のほぼすべてはそれに起因する」[ Letter from George Washington to Alexander Hamilton, March 31, 1783. ]
さらに1783年6月8日、ワシントンは各邦知事により強い各邦の連帯を求める回状を送付している。その回状は大陸軍総司令官として各邦知事に宛てた最後の公文書であった。回状の中でワシントンは、現在の様々な困難は中央政府が弱体であることに起因していると指摘した。そして、大陸軍の将兵が地域的な偏見を越えて協力し合ったように各邦も協力し合うように求め、さもなければ連邦は崩壊してしまうだろうと警告した。
「もし諸邦が憲法によって明白に授与された権限を連合議会が行使するのを許さなければ、すべては急速に無秩序と混乱に陥るだろう。連邦全体の問題を規定し管理する最高権力をどこかに預けることは各邦の幸福にとって避けられないことである。もしそれがなければ、連邦は長く存続することはできないだろう。連邦を解体しようとする傾向を持つどんな方策も、もしくは国家の主権を侵害したり損なったりする方策は、アメリカの自由と独立の敵と見なされるだろう。そして、その張本人はそれにふさわしいように扱われる。もし我々が諸邦の協力を得て革命の成果を分かち合えず、連盟規約で採用され工夫されているように、自由で腐敗しておらず、抑圧の危険から幸いにも守られている政治形態の下で市民社会の本質的な恩恵を享受できなければ、無目的に多くの血と富が浪費され、対価もなく多くの苦難を体験し、そして多くの犠牲が無駄になされたことが悔やまれるだろう。他にも多くの考慮が、連邦の精神に完全に順応することなく、我々は独立国家として存続できないということを証明するだろう。最も重要だと思うことを1つか2つ述べれば私の意図を述べるのに十分である。帝国としてまとまっているからこそ、我々の独立が承認され、我々の権利が尊重され、諸外国の中で我々の名声を保つことができる。ヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国の諸条約は、連邦が解体してしまえばまったく効力を持たない。我々はほぼ自然状態に残されるか、極度の無政府状態から極度の専制政治に必然的に進むということを不幸な経験によって見出すだろう。専制的な権力は、放縦に陥った自由の堕落の上に最も容易に築かれる」[ The Circular to State Governors, June 8, 1783.]
ワシントンは、連合規約を改正することで、より強力な中央政府を樹立することにより、債権者を邦が定める不利な法律から守り、通貨の下落を阻止し、公債の償還に必要となる課税も可能になると考えていた。また外国からの輸入に依存しなくても済むように国内製造業を政府の手で育成することも必要だと考えていた。
新国家が独立後、直面した問題の中で最も解決が困難だった問題は、諸邦間の通商問題であった。諸邦は関税障壁を設けた。関税障壁で利益を得る者は少なく、多くの者が被害を受けた。ヴァージニア邦議会はマディソンの働きかけにより、アナポリスで通商問題を協議する会議を開くことをその他の邦に呼び掛けた。いわゆるアナポリス会議は1786年9月11日に開催されたが、ニュー・ヨーク邦、ニュー・ジャージー邦、ペンシルヴェニア邦、デラウェア邦、ヴァージニア邦の5邦の代表しか集まらなかった。他の邦はヴァージニア邦議会の意図に疑念を抱き、代表をまったく送らなかった。そして、アナポリス会議は通商問題を解決することはできなかったが、連合会議のような弱体な組織では政策らしい政策を決定することができないという見解で一致し、フィラデルフィアで1787年5月に13邦すべてを集めて連邦の緊急的な課題を解決するために連合規約の改正を検討する会議を開催することを決定した。
連合会議は最初、アナポリス会議の呼び掛けに対して熱意を示すことはなかったが、そうした態度を変化させる事件が起きた。負債を抱えたマサチューセッツ邦の農夫達が救済策を邦議会に認めさせることができなかったために暴徒と化し、土地の差し押さえを免れるために法廷を閉じ、保安官の競売を停止させた。暴徒は他の諸邦で既に制定されていた救貧法を邦議会が制定するまで負債と税金の取立てを停止させようと目論んだ。マサチューセッツ邦知事は暴徒を解散させようとした。暴徒はそれに従わず、指導者達に反逆罪が下されないようにスプリングフィールドの最高裁の開廷を実力で阻止しようと試みた。邦軍は暴徒を撃破し、その多数を捕虜にした。この暴動はその指導者の名前をとってシェイズの反乱と呼ばれる。有産者は社会が無秩序に陥るのではないかと恐れた。そして、連合会議がそうした事態に対応できないのではないかと心配した。事実、マサチューセッツ邦から救援の要請があった時、連合会議はまったく何も対応策をとることができなかった。
1787年2月21日、連合会議はアナポリス会議の呼び掛けに応じてフィラデルフィアで連合規約を改正する会議を開くことを決議し、各邦に参加を呼びかけた。もちろん諸邦は連合会議の呼び掛けに従う義務はなかった。事実、ロード・アイランド邦は最後まで代表を憲法制定会議に送っていない。しかし、諸邦はシェイズの反乱と同様の暴動が起きる可能性、国内外の問題、独立戦争の英雄であるワシントンの参加などを鑑みて、自らの利益を守るために憲法制定会議に代表を送ることにした。
第2章 憲法制定会議
第1節 憲法制定会議の開始
1787年5月25日から9月17日にかけてフィラデルフィアで憲法制定会議が行われた。当時、憲法制定会議はそもそも連合規約を修正するために招集されたので単にフィラデルフィア会議と呼ばれたが、ここでは便宜上、憲法制定会議と呼ぶ。憲法制定会議は、人民の意思を代表する行政首長に率いられる強力な連邦政府について初めて真剣に議論した重要な場である。憲法制定会議は連合規約では見られなかった行政首長、すなわち大統領を明確に定義した点で革新的であった。
75人の代表が憲法制定会議の代表として選ばれたが、実際に出席したのは55人である。55人の代表達は、概ね新国家にはより強力な連邦政府が必要であるという見解では一致していた。なぜなら代表達の多くが同様の経験を有していたからである。55人の代表達のうち7人が邦知事を務めた経験を持ち、42人が大陸会議や連合会議の代表を務めた経験を持ち、21人が独立戦争で生命と財産を危機にさらし、8人が独立宣言に署名していた。その他にも共通点があった。ほぼすべての者が富裕であり、ほぼ半数が弁護士であり、約4分の1の者が自らの大農園を所有していた。白人人口の85パーセントを占める小農園主は55人の代表達のうち僅かに2人だけであった。大部分の代表達の富は、公債や製造業、海運業への投資や土地投機によって構成されていた。その他の代表達の富は不動産や奴隷によって構成されていた。代表達の大半が早くから開発が進んだ海岸部に居住していた。内陸部に居住する者が憲法制定会議に出席するのは当時の交通事情からすれば難しかった。すべての者が公職を持ち、30人が邦議会議員であり、10人が判事であり、3人が知事であった。その中には邦憲法の起草に深く関連した者も含まれる。すべての者が出身邦でよく知られた人物であり、また全国的な名声を得た者も数多くいた。すべての者が白人男性であった。また2人のカトリックを除いてすべての者がプロテスタントであった。大学への進学率が非常に低い時代であるのにも拘わらず、55人のうち30人が大学を卒業していた。代表達の平均年齢は43歳であり20代の若者も含まれていた一方で、60歳を越えていた者は僅かに4人しかいなかった。最高年齢はベンジャミン・フランクリンで81歳であった。フランクリンは次に高齢の者よりも16歳も年長であった。建国の父祖の中でジョン・アダムズとジェファソンは外交官として国外に出ていたために憲法制定会議に参加することができなかった。またジョン・ジェイ(John Jay)も連合会議の対外関係の調整に忙しく憲法制定会議に参加することができなかった。
上記のような共通点もあったが相違点も多くあった。小さな邦を代表する者がいる一方で大きな邦を代表する者がいた。南部から来た者がいる一方で北部から来た者がいた。代表達は憲法制定会議への参加の度合いでも異なっていた。フィラデルフィアに実際に来たのは55人であるが、そのうち最初から最後まで会議に参加したのは29人のみである。しかし、その29人の中にはジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、エルブリッジ・ゲリー、ジェームズ・マディソン、ジョージ・メイソン(George Mason)、チャールズ・ピンクニー(Charles Pinckney)、エドモンド・ランドルフ、ロジャー・シャーマン(Roger Sherman)が含まれていた。その他の26人の代表達は様々な度合いで会議に参加した。その中でも重要な役割を果たしたのは、オリヴァー・エルズワース(Oliver Ellsworth)、グヴァヌア・モリス、アレグザンダー・ハミルトン、そして、ウィリアム・パターソン(William Paterson)である。これらの代表達は会議に遅れて到着したか、病気や会議の進行に対する不満、または公用や私用などで会議から早く離れた。
憲法制定会議に参加した代表達には一定の見解の一致があった。代表達は、法と秩序を重視し、人間の権利に代わり財産権を重視した。衆愚政治に対して警戒心を抱いていた。公債を支払うことができ、アメリカの外交的利益を十分に主張できるに足る、連合会議より強力な中央政府を作るという目的で代表達は一致していた。単純な多数決による支配ではなく、財産を持つ少数者を保護できるような階層の均衡を保つ制度の確立を目指した。立法府、行政府、司法府の権限を分かち、かつ均衡させるという三権分立の原理の確立を目指した。最善の政体は共和政体である。連合会議にはなかった独立した合衆国裁判所を設立する。強力な中央政府によって産業育成のために対外通商を規定し、通貨を安定させる。国民の生命、自由、財産を守るための政府を樹立する以上のような点で代表達の見解は一致していた[ 宇都宮静男、『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974年)、151-154。]。
憲法制定会議が開催される前、マディソンは、ワシントンやランドルフ、ジェファソンなどに手紙で憲法制定会議の議事案を示している。マディソンは、現行の連邦制度にはまったく賛同すべき点も、賛同に値する点もないとした。もし何本かの強力な支柱をあてがわなければ、すぐに倒壊してしまうと予測した。シェイズの反乱が筆舌に尽くし難い傷を共和主義に与えたので、君主制を志向する者が勢いを強めるのではないかとマディソンは危惧していた。その一方で、人民の多くは、三権分立に基づくより強力な連邦に加盟するという「小さな悪弊」を喜んで受け入れるだろうという見解をマディソンは示した。マディソンの憲法理論の根本には、中央政府の権限強化が専制政治に繋がるのではなく、むしろ自由を擁護する保障となるという強い信念があった。3人に示した提案の骨子は次のような9点である。
第1に、大邦が正当な影響力を持つことができるように代表制の原理を変更しなければならない。第2に、いかなる場合も完全な統一性を求める積極的にして完全な権威を連邦政府に与えるべきである。第3に、どのような場合であれ、諸邦の立法に対する反対する権限を両院のうち議員定数が少ない院に与える。第4に、国家の最高性を司法府にも拡大する。第5に、任期の異なる両院を設置する。第6に、国家行政首長(大統領)を創設する。第7に、内的及び外的脅威からの安全を諸邦に明白に保障する条項を盛り込む。第8に、諸邦に対する強制権を宣言する。第9に、批准を邦議会の通常の権限からではなく人民から得ることである。
さらに1787年4月、憲法制定会議を目前にしてマディソンは、「合衆国の政治制度の欠陥」をまとめている。本来、憲法制定会議は連合規約に抜本的な修正を加える名目で招集された会議であったので、現行制度の欠陥をまとめる必要があった。この覚書は憲法制定会議の青写真とも言える文書であり、次のような連盟規約の欠陥が列挙されている。
第1に各邦が連合規約で求められることを遵守しないことである。つまり、こうした悪弊は、各邦の独立した権限と数から生じる。これは現行制度が抱える致命的な欠陥である。
第2に各邦による連邦の権限の侵害である。例えばジョージア邦は連邦の意思とは無関係に独自の判断でネイティヴ・アメリカンと交戦したり条約を締結したりしている。
第3に各邦の国際法と条約に違反する行動である。各邦は別個に行動するので結果的に統一した行動をとれない。その結果、国際法や条約に違反することも起こり得る。そうした行動が外国との紛争の火種とならないように留意すべきである。
第4に各邦が相互に権利侵害を行っていることである。例えばヴァージニア邦は邦内の特定の港湾への立ち入りを他邦に対して規制している。メリーランド邦やニュー・ヨーク邦は自邦民の船舶に対して優遇措置をとっている。さらに各邦で発行されている紙幣も相互の権利侵害をもたらす。各邦の市民はそれぞれ債務者であり債権者である。ある債務者が属する邦がその債務者に有利な法律を制定する一方で、債権者が属する邦はその債権者に有利な法律を制定するだろう。貨幣の鋳造と価値の規定を排他的に行う権限を連邦に適切に委ねることによって国内の混乱を抑えるべきである。
第5に共通の利益に関わる問題について一致協力が得られないことである。通商問題の状況は、こうした欠陥を強く示している。その結果、いかに国家の威信、利益、歳入が損なわれているだろうかとマディソンは述べている。
第6に各邦の憲法や法律の内乱に対する保障を欠いていることである。共和主義の原理に基づいて多数者に権力が与えられているが、事実と経験によると、少数者が武力に訴えるようになれば、多数者に対する強敵となる恐れがある。また奴隷制度が存在するところでは、共和主義の理論が虚偽になるのは当然であるとマディソンは断言している。
第7に法律に制裁を欠き、連邦に強制力を欠いていることである。制裁は法律の構想において不可欠であり、同じく強制力は政治の構想において不可欠である。独立戦争の最中でさえも、外敵による危険がありながら各邦は連邦に対する彼らの義務を満たさなかった。平和時においてはなおさらであろう。連邦法は各邦に等しく適用されるべきである。各邦が自発的に連邦法を遵守するかどうかは疑わしい。そうした疑念により、結局、誰も連邦法を遵守しようとはしなくなる。
第8に連合規約が人民による批准を欠いていることである。もし連邦が単に各邦間の契約に過ぎないのであれば、もしある邦が連合規約を遵守しなければ、残りの他の邦は同規約を遵守する義務から解放されることになる。そして、連邦を解体する権利を持つことになる。
第9に各邦で法が重複していることである。確かに法は、遵法者の義務を明確にする限り必要である。しかし、法がその限度を越えれば最も有害な類の厄介なものとなる。
第10に各邦の法が変わりやすいことである。法が頻繁に改廃されることは、例えば通商問題に関しては不安定の原因となり、それは我々の市民にとっても外国人にとっても躓きのもとになる。
第11に各邦の法が不公正なことである。それは本来、公共の善と個人の権利、両方の最も安全な守護者であるはずの共和政体の根本原理に疑問を投げかけることになる。すべての市民社会は、異なった利害を持つ集団や派閥に分かれている。共和政体においては、多数者が形成され法律を制定する。共通の利益や感情に基づいて多数者は結び付いている。それらを共有しない少数者の権利や利益を多数者が侵害する可能性がある。その可能性を防止できるものは何か。公共の善を重視する良識である。公正であることは最善の策であることを忘れてはならない。少数者に対する抑圧という危険を回避するためには良識が必要である。そのためには公正な制度を保障しなければならない。
第12に各邦の法が無力なことである[ Vices of the Political System of the United States.]。このようにマディソンは12点にわたって連合規約の欠陥を述べている。マディソンは諸邦が互いに自邦の利益を守るために争い合えば、共和制の前提が崩壊すると危惧していたのである。連邦を永続させることがマディソンの最優先課題であり、共和主義という名の栄誉を取り戻すことを目指していた。もし憲法制定会議が失敗に終われば、連邦が君主政に逆戻りするか、もしくは分裂するだろうとマディソンは考えていた。
憲法制定会議が行われた場はフィラデルフィアである。フィラデルフィアは当時、ペンシルヴェニア邦の首都であり、連合会議はニュー・ヨークで参集していたものの、多くの点でアメリカの首都と言えた。またフィラデルフィアは当時、アメリカ最大の都市で人口約4万5,000人であり、経済、文化の中心であった。憲法制定会議の議場に使われたのはインディペンデンス・ホール(当時はステイト・ハウスと呼ばれペンシルヴェニア邦議会の議事堂として使われていた)である。代表達が使用した議場は1775年から1783年の間、大陸会議の議場としても使われ、独立宣言はその場で署名された。
連合会議は憲法制定会議を1787年5月14日に開催するように呼び掛けた。しかし、会議は期日になっても定足数が満たされなかったので5月25日まで開催されなかった。大部分の代表達は2、3日以内にフィラデルフィアに到着したが、もっとずっと後になって到着した者もいた。連邦政府の強化に強く反対していたロード・アイランド邦議会は完全に憲法制定会議をボイコットした。
5月25日の最初の仕事は議長を選ぶことだった。ワシントンが全会一致で議長に選ばれた。会議でワシントンはほとんど発言することはなかったが、大統領制の創始の他、様々な局面で影響力を及ぼしている。重要な局面では議長が用いる小槌を他の代表に託し、自らヴァージニア代表内の票決に加わっている。例えば、行政府の権限を1人の行政首長、つまり大統領に持たせる動議や弾劾を通じてのみ大統領の罷免を議会に認める動議、そして、大統領に再選を認める動議などに賛成票を投じている。また拒否権についても、大統領に強い権限を与えるべきだとワシントンは考えていた。つまり、拒否権を大統領単独に与え、それを覆すのに必要な票を3分の2ではなく4分の3にする案を支持していた。
ワシントンが唯一口を挟んだ機会は、会議も終わりを迎えようとしていた9月17日、連邦下院の議員定数割り当てについて3人の代表が改正案を提議した時だけである。彼らは、「下院議員の数は、人口4万人に対し1人の割合を超えることはできない」という規定を「人口3万人に対し1人の割合」に修正するように求めた。ワシントンは、憲法に反対する者をなくし、署名を速やかに進めるために修正を支持した。そして、会議は修正を全会一致で可決した。
憲法制定会議が最初に扱うべき問題は、そもそも連合会議の修正のために招集された会議で、新しい憲法を考案することが認められるか否かという問題であった。パターソンは、連合会議の訓令に従うべきだと主張し、代表達は正式な権限を得るために一旦、各邦に帰るべきだと論じた。ランドルフは、危機の際に必要な措置をとることは認められると反論した。
ワシントンが議長に選ばれた後、ウィリアム・ジャクソン(William Jackson)が書記に選ばれた。ジャクソンの手による「会議日誌」は1819年に公刊されたが、単なる動議と賛否を記録したものであり、討論の詳細にまで記述が及んでいない。幸いにもマディソンが討論の詳細な記録である「憲法制定会議に関する覚書」を残している。マディソンは、他国の政府の研究の中で創始者の意図が何であるか読み取ることができなかったと嘆いている。それ故、後世の者が創始者の意図を理解できるように、憲法制定会議で行われた議論の詳細を残そうと考えた。マディソンの行動はマディソン自身の発案であったが、他の代表達はマディソンが何をしているか十分に認識していた。公平さを期すためにマディソンは最後の代表が死ぬまで記録を秘密にしておくことにした。最後まで生き残った代表はマディソン自身であった。マディソンは1836年に85歳で亡くなった。
1837年、議会はマディソンの記録をその他の文書とともに購入した。そして、マディソンの記録は『憲法制定会議日誌』として1840年に出版された。しばしばマディソンは、議会が終わった後、代表達の交流の輪を抜け出して、下宿で自らの速記録をもとに代表達の見解を書き出す作業に没頭した。マディソンは、討論の記録をつけることで論点を整理し、話し合いがうまく進むように運んだのである。マディソンの他にも議事録をつけていた代表は何人か存在するが、マディソンの詳細な議事録には及ばない。マディソンの関連文書が公刊されるまで、憲法制定会議で何が話し合われたのかは一般にほとんど知られていなかった。なお憲法制定会議に関する史料集成としてマックス・ファーランド(Max Farrand)による『1787年の憲法制定会議の諸記録』は極めて有用である。憲法制定会議に参加した代表達の記録を会議の日付毎にまとめ一覧できるように工夫されている。
会議の最初の日の残りの仕事は出席していない邦の代表達からの委任状を受諾することであった。そうすることでそれぞれの邦が等しい投票権を持つという慣例上の手続きに暗黙の了承がなされた。ウィルソンは人口が多い邦が大きな投票権を持つべきだと考え、そうした了承に不満を抱いたが、マディソンやその他の者達によって、小さな邦の代表達を初めから背かせることは会議全体を失敗に終わらせる可能性があるので得策ではないと説得を受けた。
5月28日、代表達は追加の規則と手続きを採択した。特に重要なのは秘密規定であった。代表達は他の代表を除いて家族も含めて誰にも会議場での議論について明かさないという規定である。会議の内容をすべて内密にすることによって外部からの影響を排すためである。そうすることで代表達は自らの考えを発表しやすくなり、また自らの意見を躊躇うことなく変えることができた。さらに憲法制定会議に反対する者が、特定の問題を取り上げて憲法制定会議の進行を妨害するのを妨げないようにすることができた。マディソンは後年、「もし議論が公開されていたら憲法は採択されなかっただろう」と述べている[ Journal of Jared Sparks, April 19, 1830.]。
もう1つの重要な規則は、たった1人の代表の求めであっても、会議は決定を再考することを許すことである。なぜなら問題をいつでも取り上げ、再び決定できるようにすることで、投票に負けた側が抗議と不満のために議場を去るよりも留まって他の代表達を説得する機会を持たせるようにするためである。
憲法制定会議は筋書き通りの進行もなく、秩序だった進行もなかった。問題の再考を許すという代表達の決定は、見解の統一を形成し、諸部分がうまく噛み合った政府を作るという願望によって強化された。そのため会議は物事を直線的に進めることができず、前に取り上げた問題を再び取り上げたりして、行きつ戻りつしながら螺旋状に進めることしかできなかった[ Christopher Collier and James Lincoln Collier, Decision in Philadelphia: The Constitutional Convention of 1787 (Ballantine, 1986), 120.]。憲法制定会議は首尾良く招集されたとはいえ、失敗する危険性は大きかった。フランクリンは「もし憲法制定会議が善をなし得なかったら、害悪をなすだけであり、我々が我々自身を支配する叡智を我々のうちに持っていないことを示すことになる」と述べている[ Letter from Benjamin Franklin to Thomas Jefferson, April 19, 1787.]。憲法制定会議は円滑に進行したとは言い難い。ワシントンは「私は憲法制定会議の過程で有利な出来事を見ることをほとんど諦めていて、それ故、この事業を行う組織を持ったことを後悔しています」と述べている[ Letter from George Washington to Alexander Hamilton, July 10, 1787.]。
とはいえ憲法制定会議の進行はまったく無秩序であったわけではない。代表達によって提出された様々な案や会議によって任命された委員会が進行を整理する手助けをした。こうした案や委員会によって会議の進行を7つの大きな段階に分けることができる。
第1の段階は5月29日のヴァージニア案の導入である。第2の段階は5月30日から6月19日で、会議を全体委員会に構成し直し、ヴァージニア案を検討し、さらにハミルトンの案やニュー・ジャージー案を検討した。第3の段階は6月20日から7月26日で全体委員会の決定を逐条的に議論した。第4の段階は7月24日から8月6日で、細目委員会が代表達の意見を反映した新しい憲法の草案を起草した。第5の段階は8月7日から8月31日で、細目委員会の報告に基づいて憲法案が逐条的に検討された。第6の段階は8月31日から9月8日で、延滞事項委員会が代表達を分裂させていた諸問題について受け入れやすい解決案を推奨した。第7の段階は9月9日から9月17日で、文体委員会による憲法案の最終調整と署名である。
第2節 ヴァージニア案の導入
5月29日、ランドルフによってヴァージニア案が提議された。ヴァージニア案は連合規約から完全に逸脱するものであり、主にマディソンによって起草された。15条からなる同案は、合衆国憲法の基盤となった。ヴァージニア案の特徴は、人民の直接選挙による第一院(下院)と邦議会の選出による第二院(上院)に基づく二院制の導入に加えて、各邦による侵害を阻止できる強力な権限を連邦政府に与える点にある。また三権分立の原則が明らかにされている。
ヴァージニア案では、大統領に相当する職は国家行政首長(National Executive)と呼ばれている。大統領(President)という呼称は、細目委員会において採用が決定された。この時、他に最高裁判所(Supreme Court)、連邦議会(Congress)、下院(House of Representatives)なども採用されている。大統領制度の創始にあたって最も危惧されたことは、強力な立法府が行政府の権限を侵害することであった。それを防止するためには、行政府の長を立法府から独立した立場に置くことが重要であった。そこで問題となる点は行政府の長を選出する方式である。
マディソンは立法府による大統領選出に一貫して強く反対している。もし立法府が大統領を選出することになった場合、候補者は議会の多数派と結託する恐れがある。それは行政府が立法府に従属する結果を招く。それ故、大統領の選出方式として、人民によって選ばれた選挙人による指名が最善であるとマディソンは結論付けている。細目委員会が提案した人民による直接選挙を採用しなかった理由は、まず国土が広大なアメリカでは、すべての人民が候補者の各主張の是非を判断するために必要とされる能力を持つことが不可能である点、各邦の人民は自分の邦の利益を優先するので小邦にとって不利になる点、有権者数の不均衡が北部と南部の間で生じる点である。奴隷の人口を5分の3の割合で人口に含める条項があるために、特に多数の奴隷を擁する南部にとって人口が過少に見積もられることになるので不利が明らかであった。最終的に、大統領の選挙方式は邦議会の定める方法により選出された選挙人による指名で行われることに定められた。
また一方で大統領による横領や抑圧を防止するために、大統領を弾劾できる制度を整えるべきだとマディソンは提言している。しかし、メイソンが「失政」も大統領弾劾の基準に含めるべきだと論じた際に、マディソンは大統領の地位が議会によって恣意的に左右されることになるとして反対を唱えた。さらにマディソンは議会ではなく最高裁判所が弾劾裁判を行うべきだと論じていた。しかし、最高裁判所の構成員があまりに少数であり、堕落させられる可能性が高いとしてマディソンの提案は否決されている。
さらにヴァージニア案では特に「統一国家的(National)」という当時では新奇な概念が盛り込まれている点は特筆すべきである。それは、連合規約の下での現行制度を意味する「連邦的(Federal)」という概念とは対照的な概念であった。統一国家的な概念は、連邦政府が、これまでのように各邦を通じて間接的に人民に働きかけるのではなく、直接的に人民に働きかけることを意味している。統一国家的な概念を推進した一派をナショナリストと呼ぶ。
この概念は多くの反対をまねいた。反対派(「連邦的」な概念を支持したので主に「フェデラリスト」と呼ばれるが、後の憲法批准賛成派や連邦派とは異なる)が邦の権限を完全に奪取するような中央政府の成立を恐れたためである。しかし、ヴァージニア案は、邦の権限を完全に奪取することを目指していたわけではなく、連邦と各邦の均衡がとれるように権限を配分することが大きな目標であった。また、各邦がその邦民に対する権限を保留する一方で、連邦は直接国民に対する権限を行使するという二元制度への移行を目指していたのである。
ヴァージニア案をめぐる討議の過程で統一国家的な概念の主唱者になったのはマディソンとウィルソンである。一方、連邦的な概念は、コネティカット邦代表のシャーマンとエルズワース、ニュー・ジャージー邦代表のパターソンの3人の他、マサチューセッツ邦の代表ゲリー、メリーランド邦の代表ルーサー・マーティン(Luther Martin)が中心となって主唱した。
第3節 全体委員会
5月30日、憲法制定会議は全体委員会を設けることを決定した。実質的に全体委員会は憲法制定会議と同じ機関であったが、代表達はより打ち解けて議論を進めることができた。象徴的にワシントンは議長の座を一時的に降りて、ナサニエル・ゴーラム(Nathaniel Gorham)が全体委員会の議長を務めた。全体委員会での決定は憲法制定会議に対する勧告という形を取ったので、どの決定であれ1度以上の決をとる機会が与えられた。
5月30日から6月13日まで全体委員会は逐条的にヴァージニア案を検討した。ヴァージニア案の大部分は受け入れられたが、ある部分は修正され、曖昧な点は明確にされた。まず国民議会に二院制を採用する点は全会一致で認められた。しかし、両院をどのように構成するのかという点については意見が分かれた。連邦的な概念を主唱する者達は、人民による第一院(下院)の選出に反対し、邦議会による第一院(下院)の選出を提案した。5月31日の票決で、少なくとも一院は人民による直接選挙で選出されることが議決された。
次に問題になったのは行政府の長の構成、権限、そして選出方法であった。ランドルフは行政府の長を複数にすべきだと主張して、単独にすべきだと主張するウィルソンと対立した。マディソンはこの問題の討論を先送りにするように求めた。そして、行政府の長の任期を7年1期に限ることが決まった。また行政府の長は不正行為と義務の怠慢で弾劾され罷免される。審査院なしで行政府の長は単独で拒否権を行使できる。拒否権は両院の3分の2の票数で覆される。3分の2の票数を要件とするのはアメリカ人の発明である。イギリス議会ではこのような要件は採用されていなかったが、諸邦では採用されていた。
さらに行政府の長の選出方法について話し合われた。6月2日、選挙人投票で行政府の長を選出するというウィルソンの提議が否決された後、国民議会が行政府の長を選出する方法が賛成票を集めた。
6月4日、行政府の長を複数にするか、単数にするかという再び問題が取り上げられた。ウィルソンは、諸邦の知事を例にとって単数説を強く唱えた。マディソンはヴァージニア邦の代表達にウィルソンの提案に賛成票を投じるように働きかけた。その結果、行政府の長を単数にする提案は受け入れられた。マディソンの働きかけ以上にワシントンの存在が強い影響を及ぼしたと考えられる。なぜならワシントンこそ新政府の行政府の長になり得るほぼ唯一の人物だと見なされていたからである。多くの代表達は腐敗した人物が権力を一手に握る可能性を恐れていたが、ワシントンなら信頼を裏切らないだろうと思っていたのである。しかし、行政府の長の選出方法については容易に決定せず、論議がこの先も続くことになる。
さらに行政府の長の拒否権に関する論議が後に続いた。メイソンは、絶対的な拒否権を行政府の長に与えることは専制政治をもたらすと反論を唱えた。マディソンの支持の下、立法府は行政府の長の拒否権を3分の2の票数で覆せるという規定を盛り込むことで合意が成立した。その次に、司法府について話し合われた。ウィルソンとマディソンは、判事を行政府もしくは第二院(上院)が任命する案を提出したが、反対派により先送りが決定された。各邦の利益を唱える反対派の抗議にあいながらも、ウィルソンとマディソンは、連邦裁判所の管区を定め、巡回裁判所を設立する権限を国民議会に持たせることに辛うじて成功した。
6月6日、第一院(下院)の選出方法を人民による直接選挙にすべきか否かが再び話し合われた。シェイズの反乱の記憶がまだ新しい中、シャーマンは国民議会の権限を制限するために邦議会による選出を求めた。まずウィルソンがそれに対して、もし直接選挙が行われなければ人民は連邦政府に愛着を感じなくなると反論を行った。マディソンはウィルソンを支持して、衆愚的な選挙の危険性を認めながらも、不完全と悪弊から完全に免れる政府などないので、そうした危険性に対して過度に警戒すべきではないと弁じた。そして、そうした危険性は、人民の権利を認め、人間の本質を認める利点によって相殺されるはずであるから、代表達は人民が考えるように考え、人民が感じるように感じるべきだと述べている。続いてマディソンは憲法制定会議で行った演説の中でも最も重要な演説を行った。人民が直接、立法府の少なくとも一部門を選ぶことは、自由政府の明確な原理であることを再び強く訴え、シャーマンの論を斥けたのである。
6月7日、デラウェア邦代表のジョン・ディキンソンが、第二院(上院)の議員を邦議会が選ぶべきだと提議した。それに対してマディソンは、もしディキンソンの提案を受け入れれば上院の議席が多くなり、その結果、上院に求められる冷静である点、整然としている点、見識がある点といった資質を保つことが難しくなると反論した。
6月8日、邦が制定した不適切な法律に対して拒否権を行使する権限を国民議会に与えるべきか否かが論じられた。最終的に邦の法律に対する拒否権は明記されなかった。僅かに憲法第6条第2項において連邦法の最高法規性が示されたのみである。
ヴァージニア案に関する討論の結果、以下のような点で大筋の合意が成立した。三権分立の原則を守り、人民の直接選挙による第一院(下院)と邦議会の選出による第二院(上院)の二院からなる立法府を設立し、第一院(下院)の任期は3年とし、第二院(上院)の任期は7年とする。また立法府は、諸邦が定めることができない問題を規定する権限と憲法、もしくは条約に違反する諸邦の法律を拒否する権限を持つ。そして、行政府の長は単数であり、7年間の任期で国民議会によって選ばれ再選されることはなく、国民議会の立法に対して拒否権を持つ。一方、国民議会はそれを一定の票数を得れば覆すことができる。さらに連邦判事は第二院(上院)によって指名され、非行なき間、在職できる。最後に憲法の批准は、その目的のために選ばれた代表による会議によって定められる。
小邦を中心とするフェデラリストは6月4日からヴァージニア案の対案を練り始めた。6月11日にシャーマンによって提案された妥協案は、下院の議席を人口比に基づいて配分する一方で上院の議席を各邦1議席ずつ配分するという内容であった。そして、6月15日、ニュー・ジャージー邦代表のパターソンは、コネティカット邦、ニュー・ヨーク邦、デラウェア邦、メリーランド法の支持を受けて9条からなるニュー・ジャージー案を提出した。
ニュー・ジャージー案の骨子は次の通りである。立法府は各邦が平等の代表権を持つ一院制である。現行の連合会議に複数、または委員会形式の行政府と行政府によって指名される終身の判事からなる最高裁を付け加える。そして、連合会議に、関税と印紙税を課す権限、外国および州際通商を規定する権限、邦から分担金を徴収する権限を与え、さらに邦に連邦法に従うように強制できる行政府の長を指名できる権限を与える。そして、司法府には外国人、条約、連邦の通商規定や税の徴収に関連する事例を扱う権限を与える。ニュー・ジャージー案は連合規約の改正を求めるもので新たな憲法案を提示するものではなかった[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:242-245.]。
6月18日、ニュー・ヨーク邦代表のハミルトンが初めて席を立った。ハミルトンの熱弁は5、6時間続いた。ハミルトンはイギリス政府をモデルとして強力な中央政府の樹立を求め、行政府の長を選挙人によって選出し、終身の任期を認めること、さらに行政府の長に絶対的な拒否権と省庁の長を任免する権限、反逆罪を除くあらゆる罪科に恩赦を与える権限、条約を締結する権限など広範な権限を与えること、連邦議会による邦知事の任命を提案した。また邦知事は邦議会によって制定された法律に対して拒否権が与えられる。連邦上院の議員はイギリスの貴族院のように任期は終身とされる。ハミルトンの提案は急進的であり、ヴァージニア案を穏健に見せる役割を果たした。行政府の長に恩赦を与える権限や条約を締結する権限を与える点などハミルトンが提案した幾つかの点は後に採択されている[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:291-293.]。
6月19日、全体委員会はヴァージニア案とニュー・ジャージー案の採決を行った。ニュー・ジャージー案を支持していたコネティカット邦がヴァージニア案支持に転向し、メリーランド邦は代表の間で意見が分かれたので7票対3票でヴァージニア案が採択された。ヴァージニア案は修正を受けたうえで認められ、全体委員会に報告された。しかし、連邦議会における議席配分をめぐる大邦と小邦の衝突は未解決であった。
第4節 6月20日から7月26日
6月20日、再びワシントンが憲法制定会議の議長席に戻った。6月20日から7月2日にかけて全体委員会によって示されたヴァージニア案の各条項が検討された。その最中、コネティカット邦代表のウィリアム・ジョンソン(William Samuel Johnson)が、各邦政府にどの程度の主権が残されるかと問い、連邦政府と各邦政府の権限の管轄をどのように分けるのかという疑問を投げかけた。そうした疑問に対してマディソンは、連邦政府が必ずしも邦政府の権限を完全に奪取しようとしているわけではないと論じた。討論はさらに進み、今度はニュー・ヨーク邦代表のジョン・ランシング(John Ten Eyck Lansing, Jr.)とニュー・ジャージー邦代表のジョナサン・デイトン(Jonathan Dayton)が、各邦は第一院(下院)において、平等に議席を与えられるべきだと提議した。小邦は同数配分を主張し、大邦は人口による比例配分を主張した。こうした主張に対して、6月26日、マディソンは、ランシングとデイトンの提議は小邦の安全を保障するために必要な措置ではないと反論を行った。さらに同日、第二院(上院)について詳細に論じられた。最終的に第二院(上院)の任期は6年とされ、3分の1ずつが2年毎に改選されることになった。
第一院(下院)に関する議論に続いて、第二院(上院)で各邦に平等に投票権を与えるべきだという動議に関する議論が28日から30日にわたって行われた。マディソンやウィルソン、そしてグヴァヌア・モリスはそうした動議に反対を唱えた。彼らの考えでは、各邦の人口の違いを無視して平等に投票権を与えることは、統治されることに同意した人々が平等な声を持つという共和主義の原則に反していた。また大邦が連携して小邦を圧迫する可能性も少ないと指摘し、小邦の危惧を和らげようとした。
結局、7月2日、第二院(上院)の議席配分をめぐって票決が均衡したので、妥協案を考案するために11人委員会が設立された。小邦の代表の中には分離独立を口にする者もいて、この問題に関して妥協が成立しなければ憲法案自体の成立も危ぶまれた。3日後、11人委員会は妥協案を報告した。
同案は主に3つの内容からなる。第1に、第一院(下院)では、各邦は人口4万人につき1席の議席を持ち、奴隷は自由民に対して5分の3の割合で人口に含める。第2に、第二院(上院)では、各邦は同数の議席を持つ。これは前者がナショナリストの考え方、後者がフェデラリストの考え方を取り入れた案と言える。ただし奴隷の人口を5分の3の割合で人口に含める妥協は新たな発想ではない。それは既にマディソンの発案で1783年4月18日に連合会議が採択した連合規約の修正案に盛り込まれ、ウィルソンが憲法制定会議の場で示唆したのである。そして、第3に、第一院(下院)のみが予算の発議権を持ち、第二院(上院)はそれに対する修正権を持たない。各邦が第二院(上院)で同数の議席を持つ点が小邦に対する妥協であり、第一院(下院)のみが予算の発議権を持つ点が大邦に対する妥協である。この妥協はコネティカット妥協と呼ばれている。
マディソンやウィルソンはこの妥協案に反対し、各邦間に確執を残すような妥協は避けるべきだと勧告している。特に第二院(上院)で同数の議席を各邦に割り当てる点について強く否定している。7月16日、最終的に妥協案は僅差で可決された。結局、マディソンやウィルソンの強硬な反対は受け入れられず、11人委員会が報告した妥協の基本方針はほとんど変更されなかった。
7月17日、マディソンは再び邦の法律に対する拒否権を明確に認めるように求めた。それはマディソンが最も重視した点の1つであった。しかし、会議は、そうした明言を避け、単に国民議会の法律と条約を「最高法」であると言及し、諸邦の議会と裁判所がそれに従うべきだと指摘するにとどめた。また会議は再度、行政府の長を人民の直接選挙で選出する案を斥けた。それに加えて、行政府の長の再選を認めるという決定がなされた。
7月18日、全体委員会はマディソンの提案にしたがって、連邦法の下で生じるあらゆる訴訟を管轄する権限を持つ司法府の設立を認めた。従来の制度では諸邦の抵抗により司法府は明確に確立されていなかったのである。しかし、どのように判事を任命するかについては議論の余地を残した。
7月19日、マディソンは行政府の長を立法府によって選ぶことに再び反対した。その一方で北部と南部の均衡をとるために、選挙人方式が最も反対が少ない選択肢であると示唆している。
7月24日、憲法制定会議はすべての決定を再検討し、憲法案を起草するために細目委員会を発足させた。細目委員会はゴーラム、エルズワース、ウィルソン、ランドルフ、そしてラトレッジの5人からなり、それぞれの地域の代表を含んでいた。細目委員会は憲法制定会議で採択されたあわせて1,200語からなる決議を3,700語からなる草稿として起草した。その報告は決議の他にもニュー・ジャージー案や連合規約、ニュー・ヨーク邦憲法やマサチューセッツ邦憲法など様々なものを参考にして作成された。
7月23日から26日にかけては第二院(上院)の定数について話し合われた。第二院(上院)の定数を各邦2人ずつとし、それぞれが別個に票を投じる方式が提案された。別個の2票を与える方式は各邦による投票という色合いを薄めるという意味があった。さらに憲法の批准について話し合われた。邦議会による批准を求める意見に対してマディソンは反対意見を述べた。その代わりにマディソンが求めたのは、人民による合衆国憲法案の批准である。
7月25日、マディソンは行政府の長の選出に関する議論を行った。既に公職にある者が行政府の長を選出するか、もしくは特別に選ばれた選挙人が行政府の長を選出するか、2つの可能性があるとマディソンは論じた。もし前者であれば選択肢は5つである。邦議会、知事、判事、国民議会、そして司法府の5つである。公職にある者が行政府の長を選出することは、その候補と密接な繋がりがあり、党派心に左右され得るし、外国の影響を受けやすいので避けるべきである。さらにマディソンは、強力な邦議会と弱い邦知事によってもたらされる悪弊について論じている。このような論を展開した後、マディソンは、人民によってその目的のために選ばれた人々、すなわち選挙人団による選出方法と人民による直接選挙を掲示した。マディソンは選挙人による選挙方法を推奨した。なぜなら直接選挙は既に否決されていたからである。こうしたマディソンの熱弁にも拘わらず、全体委員会は7月26日、国民議会が行政府の長を選出すべきであると再び議決した。
第5節 細目委員会
妥協案が可決された後、7月26日から8月6日の間に細目委員会で草案が編まれ、その間、憲法制定会議は休会となった。細目委員会の報告の大部分は憲法制定会議の決議を忠実になぞるものであったが、委員会独自の判断による点もある。下院に弾劾を行う権限を与え、最高裁に判決を下す権限のみを与える点、そして公職者に財産資格を設ける条項を削除した点である。
細目委員会による決定で重要な点は、一般的に曖昧な文句で与えられていた権限を明確な特定の権限として明言した点である。連邦議会には18の明確な列挙された権限が与えられ、諸邦は他国と条約を結ぶ権限、紙幣を発行する権限、そして輸入品に課税する権限が禁止された。そうした権限は連合規約で連合会議に認められた権限と多くの部分で共通していた。細目委員会は大統領に立法を連邦議会に勧める権限、官職を任命する権限、他国からの外交官を接受する権限、恩赦を与える権限、法律が執行されるように配慮する権限、軍隊を指揮する権限を認めた。大統領がもし死亡するか、辞職するか、職務遂行が不可能になった時に大統領職の権限と義務を代って上院議長が遂行することが決定された。最高裁と下位の裁判所から構成される司法府の設立が法律によって定められ、連邦政府の定めた法律の下で起きるあらゆる裁判と邦間、または異なる邦の住民間で起きる裁判に関する裁判権を司法府が持つことが定められた。大統領及び財務長官は連邦議会によって選出され、任期は7年とされた。
南部への譲歩として、連邦議会は奴隷の輸入を禁止することができず、輸出品に課税することもできなくなった。アメリカの船舶で輸出品を出荷することを求める航海法が定められることを恐れる南部の代表達に配慮して、細目委員会は、航海法を定めるには両院の3分の2の票数を必要とすると定めた。8月6日、憲法制定会議が再開され、草稿の検討が行われた[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:177-189.]。
第6節 8月7日から8月31日
様々な検討が行われた中でマディソンは、下院議員の人口割合を「4万人以上」に改めるべきだと提案した。将来の人口増加により下院の議員定数が増え過ぎると予測したからである。マディソンの提案の結果、「人口4万人に対し1人」という条文の前に「超えることはできない」という言葉が挿入されることになった。最終的にこの部分は「人口3万人に対し1人を超えることができない」という文言に改められている。また議会の選挙資格に財産資格を課すという動議が提出された。しかし、反対が相次いだため、選挙資格については諸邦の決定に委ねられることになった。
8月9日から11日、そして13日から15日にかけて、憲法制定会議は連邦議員の資格と任期などについて討論した。被選挙資格を得るまでに必要な市民権保有期間について、メイソンとグヴァヌア・モリスがそれぞれ下院議員は7年、上院議員は14年の期間を設けるべきだと提案した。マディソンはこうした提案に対して反対を唱えた。全体委員会は、暫定的に上院議員は9年、下院議員は3年の市民権保有期間を必要とすると定めた。
さらにマディソンは、司法府にも行政府とともに立法府に対する拒否権を持たせるという提案を再び行っている。しかし、判事が政争に巻き込まれることを嫌う代表達が多く、今回もマディソンの提案は否決された。さらにグヴァヌア・モリスも立法府の権限濫用を防止するために大統領に絶対的拒否権を与えるべきだと再び提案した。モリスの提案も否決されたが、妥協として拒否権を覆すために必要となる票数が3分の2から4分の3に改められた。
8月16日、連邦議会の列挙された権限に関する議論でマディソンは、輸出への課税を含めた広範な歳入に関する権限を議会に付与するように主張した。南部の諸邦はそうした権限に対して警戒心を抱くことが考えられた。しかし、マディソンは歳入の確保によって維持可能となる海軍力によってそうした警戒心が相殺されると南部の代表達を説得した。またマディソンは、エルブリッジ・ゲリーの郵便道路と郵便局を設立する権限を議会に与える提案に賛同を示した。しかし一方でマディソンは議会が信用証券を発行する権限を削除することを黙認している。なぜなら議会はそうしたことを行う黙示的権限を持っているとマディソンは確信していたからである。
8月17日、マディソンとゲリーは、交戦権に関して議会は「戦争を行う」権限を持つという文句を「宣戦布告する」権限を持つという文句に変えるように提議した。なぜなら行政府の長は、議会の事前の承認なしに、「突然の攻撃を撃退する権限」を持たなければならないからである。マディソンは、もし政府が突然の攻撃に対して身動きができなければ人民を守ることができないので、大統領は緊急事態を処理する権限を持つべきだと考えていたのである。さらにマディソンは連邦議会が公益のために立法を行う権限を与えようとした。すなわち、北西部領地を管理する権限、連邦管区を管轄する権限、特許と著作権の保護、大学を設立する権限、そして「有用な知識と発見」を流布することなどである。
翌週、憲法制定会議は行政府について逐条的に検討を始めた。特に奴隷貿易や通商に関する条項に関して会議は紛糾した。北部の代表達は、人口に奴隷の5分の3を加える規定や奴隷の輸入を禁じる法律を制定できない規定を激しく攻撃した。北部の代表達は、道義的な観点から批判を行ったのではなく、奴隷の反乱を恐れていた。奴隷の反乱が外国の侵略を招き、それに北部も巻き込まれることを心配していた。南部の代表達は、奴隷制度を危機にさらすような憲法案に南部の諸邦は批准しないだろうと主張した。各邦1人ずつの代表からなる委員会に問題の解決が付託された。8月24日、委員会は次のように報告した。1800年まで黒人奴隷の輸入を禁止することはできない。しかし、一定の税率を超えない範囲で関税を課すことを認める。また航海通商法の制定に両院の3分の2の賛成を必要とする提案は認められない。
この報告に加えて、チャールズ・コーツワース・ピンクニー(Charles Cotesworth Pinckney)は1808年まで奴隷輸入を禁止できない期間を延長するように提案した。最終的にピンクニーの提案は受け入れられた。さらに奴隷輸入に関税を課す点についても、人間を財産と同等視するものだという反対がなされた。そうした反対は受け入れられず、憲法制定会議は連邦議会が課税、もしくは関税を課すこともあり得ることを認めた。
第7節 8月31日から9月8日
一方で、憲法制定会議は両院共同で大統領を選出することを票決したが、選挙人団による投票も検討することになった。しかし、奴隷制度や通商規定の問題に忙殺されていた憲法制定会議は、8月31日、行政府の問題を延滞事項委員会に委ねた。
9月4日にまとまった報告には、選挙人団による大統領選出、大統領の任期を4年とし再選を認める条項が含まれていた。選挙人団の構成は、各邦に選出の権限が与えられ、その選出の方法がいかなる方法であれ、平等の権利を持ち、連邦議会の議員数と同数とする。選挙人の過半数を獲得し首位となった者が大統領に選出される。次位となった者は副大統領に選出される。もし過半数を獲得した候補がいない場合、上院が上位5人の中から大統領と副大統領を選出する。大統領は少なくとも35歳で、出生によりアメリカ市民である者、もしくは憲法制定時にアメリカ市民である者、過去14年間、アメリカに在住した者でなくてはならない。また大統領は、上院の助言と承認にしたがって判事や外交官、その他の役人を指名する権限を与えられるべきだと報告された。こうした報告は9月4日から8日にかけて検討された[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:497-499, 508-509.]。
ノース・カロライナ邦代表のヒュー・ウィリアムソン(Hugh Williamson)は、大統領選挙の際に過半数の票を得た候補がいない場合、上院ではなく下院が各邦1票ずつの方式で決選投票を行うという提案を行った。ウィリアムソンの提案は認められた。議会による大統領選出を望んでいた代表達は、ワシントンを除けば選挙人団の過半数を占める候補が出現する可能性は低く、最終的に大統領選出は十中八九、下院の手に委ねられることになるだろうと考えていたのである。
条約締結権については上院から大統領に移された。また上院が条約を批准する場合の票数について議論された。北部の代表達が単純過半数を提案する一方で、マディソンの他、ミシシッピ川の自由航行権をめぐる確執の記憶がまだ新しい南部の代表達は3分の2を提案した。マディソンは妥協案として、講和条約を批准する場合は単純過半数とすることを提議した。それに加えて、大統領が戦時権限を手離そうとしない場合に備えて、上院の3分の2の票数で大統領の同意なしに講和条約を締結できる案も提案した。最終的には、南部の代表達が望んだように、条約の批准には出席議員の3分の2を要すると決定された。
9月8日、憲法制定会議は延滞事項委員会の最後の提案を採択した。つまり、大統領は反逆罪、収賄罪、その他の重大犯罪について下院による弾劾を受け、そして、上院の判定によって免職されるという提案である。また憲法制定会議は副大統領とその他の行政官を弾劾の対象とし、上院の判定を単純過半数から3分の2の票数が必要なように改めた。さらに下院には予算の発議権が認められた。最後に憲法制定会議は文体委員会を任命した。
第8節 9月9日から9月17日
文体委員会はグヴァヌア・モリス、マディソン、ハミルトンの他2人からなっていた。彼らは憲法案の条文を23条から7条に整理した。また各邦は契約の義務を損なうような法律を定めてはならないという条項が付け加えられた。文体委員会が手を加えた中で最も印象に残るのが「我々合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平安を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、我々と我々の子孫の上に自由の祝福の続くことを確保する目的を以って、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する」という前文である[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:590-603.]。
9月10日、マディソンは憲法修正を特別な憲法修正会議ではなく、両院の3分の2で発議され、4分の3の邦の批准によって行うことを提案した。ランドルフは本来、会議が連合規約の改正のために開催されたのにも拘わらず、新たな憲法案を提出するに至ったことを心配していた。そこでランドルフは憲法案を成立させるために各邦の憲法批准会議の批准だけではなく、連合議会と各邦議会の承認を求めるべきだと主張した。
憲法草案は9月12日に提出され、翌日に印刷されたものが各代表に配布された。憲法草案は代表達によって広く受け入れられたが、逐条的な検討が開始された。その中で議会が大統領の拒否権を覆すために必要となる票数を4分の3から3分の2に戻す提案がなされた。もしその提案が通れば、大統領の拒否権が容易に覆されることを意味した。拒否権は大統領の権威を擁護し、一般的、もしくは党派的な不公正を防ぐために必要であると考えていたマディソンは反対を唱えた。しかし、憲法制定会議は9月12日、議会が大統領の拒否権を覆すために必要となる票数を3分の2に戻すことを決定した。
その一方、ゲリーとメイソンは憲法案に権利章典を盛り込むことを要求した。憲法制定会議はその提案を否決した。連邦政府の権限が憲法によって限定されているので、権利章典をわざわざ明記する必要はないというのが否決の主な根拠である。また、そもそも権利章典に明記されている権利は連邦政府によって与えられたものではないので、連邦政府はそうした権利に介入する権限を持たないのは自明の理であった。
連邦議会は上院での各邦の平等な議決権を奪うような改正を諸邦の同意なしに行ってはならないという条項が付け加えられた。そして、グヴァヌア・モリスとゲリーが中心となって、憲法改正の手続きが細目委員会の案とマディソンの案を組み合わせて定められた。また、両議院の3分の2が必要と認める場合か、3分の2の邦議会の請求によって開催された憲法改正会議によって憲法改正を発議した場合、いずれの場合においても4分の3の邦が批准した改正は憲法の一部となることも最終的に認められた。
9月15日、憲法制定会議は憲法案の最終的な承認に入った。しかし、ランドルフとメイソン、そしてゲリーの3人は憲法案に署名しない意向を示した。3人は連邦議会に無制限で危険な権限を与えることに反対し、諸邦で憲法批准会議を行って憲法案に対する反対が出た後に再度、憲法制定会議を行うべきだと主張して譲らなかった。3人の主張は全会一致で否決された。9月17日に憲法案の署名が行われた。55人の中で最後まで出席したのは41人であり、上記の3人を除く38人が憲法案に署名した。
第9節 ジョン・アダムズとジェファソンの憲法に関する見解
ジョン・アダムズとジェファソンは外交官としてヨーロッパに滞在していたために憲法制定会議に参加していないが憲法案について手紙を交わすことで見解を示している。特にアダムズは憲法制定会議以前に行政首長について詳細かつ具体的に論じた唯一のアメリカの政治理論家であった。1775年、アダムズはリチャード・リー(Richard Henry Lee)に宛てた手紙の中で行政首長に関する構想を最初に示している。行政首長は下院と上院の合同投票で選ばれる。行政首長は上院の助言と同意を以って行政官、士官、外交官を任命し、軍隊を指揮する権限を持つ。
アダムズの考えがさらに精緻化されたのが『政府論』である。アダムズが『政府論』を執筆した契機はトマス・ペイン(Thomas Paine)が発行した『コモン・センス』が一世を風靡したことである。アダムズは『コモン・センス』の影響力は認めたものの、独立後にどのような国家を建設するかという視点を欠いていると批評している。独立の必要性が大陸会議で論じられた後、代表達の中には旧制度からどのように新制度を生み出すべきか悩む者がいた。ジョージ・ウィス(George Wythe)の求めに応じてアダムズは政府の構成に関する自分の考え方を手紙に書いて返答した。それをリーが許可を得てパンフレットの形で出版した。ペインは『コモン・センス』の中で直接民主制と一院制を示唆しているが、アダムズはそうした政治形態を危険なものと見なし、『コモン・センス』に対抗する形で『政府論』を発表することにした。
『政府論』は、政府は万人の幸福を実現するために存在するという理念の下、どのような政体がその目的を実現し得るのかという問題を追究している。アダムズは「人間は危険な生物」であるので、「人間ではなく法の支配」に基づく共和政体こそ最も優れた政体であると主張した。そうした考えは早くからアダムズの脳裏にあった。1772年春の「ブレインツリーでの演説のための覚書」の中で「すべての人間に迫る危険がある。自由政府の唯一の原理は、人民の自由を危険にさらすような権力を生きた人間に信託しないことである」とアダムズは記している。この言葉はクインジーにあるアダムズの像に刻まれている。
さらにアダムズは「その政府が一院制であれば、国民は長らく自由でいることはできないし、ずっと幸福でいることもできない」と一院制に対して反対を唱えている。『政府論』では、行政首長は議会の立法に対して拒否権を持つべきであり、1年で改選され、恩赦を与える権限を持つと論じられている。『政府論』は古から当代に至るまで様々な政府を論じた事例集であり、多くの政治家が邦憲法案や後の合衆国憲法案を構想する際に参考にした。
さらにアダムズは公務の傍ら、1786年の秋から約14ヶ月間かけて『擁護論』を書いている。『擁護論』は1787年に第1巻が刊行され、合衆国憲法を正当化する理論的基盤として広く読まれた。アダムズは『擁護論』で、秩序が損なわれる原因を強力な中央政府の不在だけに求めるのではなく、人間の本性の欠陥に求めている。アダムズは「抑制されずにいれば、人民は、無制限の権力を持つ王や上院と同じく不正で専制的かつ残忍で野蛮になる。1つの例外を除き、多数者は常に少数者の権利を侵害する」と述べている。
こうした悪弊を免れるためには市民の徳が不可欠であるとアダムズは論ずる。しかし、アダムズによれば、独立革命以後、アメリカはヨーロッパ化したために、秩序を維持するのに有用な徳を失った。ではどうすれば秩序を保ちながら自由な政府を維持できるだろうか。
アダムズは、失われてしまった徳の代わりに、「混合政体」をアメリカが採用すればそれが可能であると主張し、イギリスの政治制度は「人類が発明した中で最も素晴らしい制度である」と述べている。混合政体とは、単純な中央政府を構成するのではなく、社会の諸階層から議会の代表をそれぞれ選び出し、権力を均衡、分立させる政体である。諸階層が監視し合うことで、お互いに行き過ぎを抑制できるとアダムズは考えた。つまり、諸階層それぞれの自由を他の階層の侵害から保護することが政府の責務なのである。しかし、一方で貧しい者は富める者と同じく、財産の保護や機会の平等を受けるべきだが、その圧倒的な数によって社会を完全に統制下に置くことは否定されなければならないとしている。それは、少数の富者による多数の貧者への抑圧が防止されるべきであるのと同じく、多数の貧者による少数の富者への抑圧もまた防止されなければならないからである。こうした考えはアダムズ独自の発想ではなく、古代ギリシアの政体やイギリスの政体などを参考にしている。こうした様々な論から、憲法制定会議の代表者達に広く共通する基本的な政治哲学を抽出することができる。生命、自由、そして財産に関する基本的権利、共和政体の樹立、権力分立などである[ Clinton Rossiter, 1787: The Grand Convention (MacGibbon and Kee, 1968), 60-64.]。
ジェファソンはアダムズのように行政首長に関する見解を述べたパンフレットを発表することはなかったが、1784年4月、連合会議に行政委員会を設置するように提案している。連合会議は立法と行政を兼ねていたため、会議が休会中に行政機能を果たす組織が必要であった。ジェファソンの提案は採択され、各州の代表が集まって行政委員会が組織された。しかし、行政委員会は指導者を欠いた組織で各代表が平等であり、意見の調整がうまくいかなかった。多くの委員達が職務をすぐに放棄したために、ジェファソンが提案した行政委員会はまったく体をなさなかった。こうした経験は、行政府の長は複数よりも単数のほうが適切であるという考えのもとになった。
憲法案が提議された後、アダムズはその内容を吟味し、ジェファソンと意見を交わした。アダムズは憲法案について「連邦を保持できるように十分に考えられている」と歓迎している。大統領の任期に制限が課されていない点についてジェファソンは危惧していたが、アダムズは大統領の権限を強化し、選挙の回数を減らして外国からの干渉をできるだけ排除すべきだと述べている。大統領の官職任命を上院が承認する必要がないとも考えていた。ジェファソンがより中央集権的な連邦政府を支持したのに対し、アダムズは各邦の権限をある程度は保留するべきだと主張した。またアダムズは以下のように大統領についてジェファソンに向かって論じている。
「あなた[ジェファソン]は君主制を恐れている。[その一方で]私は貴族制を恐れている。それ故、大統領に上院よりも強い権限を与えるほうがよいと私は考えている。また、すべての官職を任命する権限を、大統領によって任命された枢密院の助言を得るにしても、大統領に与えるほうがよいと私は考えている。もし枢密院の構成員でなければ上院議員及び上院にも決定権や発言権を与えないほうがよいだろう。上院に官職を分配する決定権を与えた結果、党派心や不和が生じるに違いない。あなたは一旦選ばれた大統領が何度も選ばれて終身となることを恐れている。そのほうがよいように私には思える。あなたは外国による干渉、陰謀、影響を恐れている。私もそうである。しかし、選挙が度々行われれば、外国による干渉の危険も繰り返されることになる。選挙の回数を減らせば、それだけ危険も減るだろう。そして、もし同一人物が再選されれば、再選されることは十分ありえますが、外国による干渉の危険は減るだろう。外国人は、見込みがないことを悟って、そういう企みを行う気力を失ってしまうだろう」[ Letter from John Adams to Thomas Jefferson, December 6, 1787.]
さらにジェファソンはアダムズだけではなくマディソンと意見を交わしている。11月初めに合衆国憲法案の詳細を知ったジェファソンはマディソンに、「[私が憲法案に賛成できない]第1の点は、信教の自由と出版の自由をこじつけに頼ることなく明確に規定した権利章典が欠落している点、さらに常備軍の防止、専売の規制、永久不変の効力を持つ人身保護令状、そして、国際法ではなく国法による審理が可能なあらゆることに関する裁判に陪審を認めることが欠如している点である」と指摘している。
また第2の点として、ジェファソンは大統領の任期についても論じている。つまり、任期を7年とし、再任を認めるべきではないと主張している。大統領が終身任期に留まるようになれば、大統領職が世襲化される危険性も増大すると考えたためである。その危険性を防止するためには選挙制だけでは不十分だとジェファソンは考えていた。なぜならジェファソンによれば、ローマ皇帝もドイツ皇帝もポーランド王も何らかの選挙を経た君主制であったからである。ジェファソンは何よりも君主制を恐れていた[ Letter from Thomas Jefferson to James Madison, December 20, 1787.]。
2つの点の中で特に権利章典については、ジェファソンとマディソンの間で詳細な意見が交わされている。第1に、マディソンは、連邦政府の権限が憲法で明確に規定されているのであれば、権利章典で国民の諸権利をわざわざ明示する必要はないと論じた。それに対してジェファソンは次のように回答している。確かに憲法は権利章典なしでも制定できる。かつてジェファソンは人民の自由の実現を大きな目的としてヴァージニア邦憲法を起草したが、権利章典を盛り込もうとは考えなかった。残念ながらその目的は十分に達成されていないが、後から補則を付け加えることで過ちを正すことはできる。合衆国憲法にも「補則という手段で権利章典[を付け加えること]が必要」となるだろう。ジェファソンの考えでは、権利章典は、「付託された権限を立法府と行政府が濫用することから我々守る」防壁であった。
第2に、マディソンは、権利章典に諸権利を明記したとしても、それだけでは人間のすべての本質的権利を自由に認めたことにはならないと訴えた。それに対してジェファソンは、「まったくパンがないよりは半分の塊でもパンがあったほうがましである」と述べ、すべての本質的な権利を確保できなかったとしても、とりあえず確保できるだけの権利を確保しておいたほうがよいと論じた。
第3に、マディソンは、連邦政府の権限の制限と邦政府の連邦政府に対する不断の警戒が権力濫用に対する防止策となるとジェファソンに書き送った。確かに邦政府の連邦政府に対する不断の警戒は重要だが、権利章典は、連邦政府の権力濫用に対して警告を行う際に明確な根拠になり得るとジェファソンは回答した。
そして第4に、マディソンは、これまでの経験によれば、権利章典はあまり効果を発揮していないことが明らかであると言う。これに対してジェファソンは、すべての条件下で権利章典が有効であるとは言えないが、「かすがいが多ければ建物はしばしば持ちこたえさせることができるが、かすがいが少なければ崩壊してしまう」というたとえを引き、権利章典の必要性を強く訴えた。
権利章典の問題や大統領の任期の問題がありながらも、ジェファソンは最終的に、合衆国憲法が「かつて人類に示されたもっとも賢明なものであることは疑問の余地がない」ことを認めている[ Letter from Thomas Jefferson to James Madison, March 15, 1789.]。
第3章 憲法制定会議の大統領制度に関する議論
第1節 大統領制度をめぐる2つの流れ
18世紀末、世襲ではない市民が国家元首となる制度は決して一般的ではなかった。世界の諸国は、世襲の君主制、もしくは独裁制を採用していた。世襲ではない選挙された公職者が政府を主宰するという発想は、西洋の最も革新的な政体からしても当時は独特であった。しかし、歴史的に前例がまったくないわけではなかった。紀元前6世紀、アテネでは籤でアルコンと呼ばれる執政官が選ばれ、現在の大統領に比せられるような責任を担っていた。同様にローマ共和国で共和政が崩壊し帝政に移行する前、コンスルと呼ばれる執政官が同様の責任を担った。その後、ルネサンス期に幾つかのイタリアの都市国家では世襲ではない貴族を行政首長に選んでいた。イギリスでも1649年のチャールズ1世(Charles I)の処刑の後、世襲ではない行政元首が置かれた時期があった。またアメリカ植民地でも、植民地総督が後に大統領が行使するような行政権を行使していた。
こうした歴史的な事例はそれぞれ個別の事例であり、憲法の制定者が関連ある事例として選択できるような伝統を形成していなかった。憲法の制定者はアメリカ独立革命を経験していたが、それでも大統領制度は多くの点で革新的であった。制定者の憲法の概容は、発明と断絶ではなく革新と順応から生じた。そして、イギリスの政治文化から多くの側面を受け継いでいる。共和制の基礎として親しみのある政治思想を確認するとともに、彼らはアメリカ政府の行政府として馴染みのない制度を採用した。
大統領制度はイギリスの遺産と明らかに繋がりを示し、当時のヨーロッパの政治思想の顕著な特徴を持っている。制定者は、イギリスの共和主義のイデオロギーとリーダーシップに関するルネサンスの思想を合体させ、アメリカの行政権の概念を構成した。さらに彼らの植民地総督との経験を踏まえて、制定者に最も大きな影響を与えたのはイギリスの遺産であった。18世紀までにイギリスは立憲君主制になり、政治的自由と市民の権利を尊重する独特の政体になっていた。それは今日の基準からすれば進歩的とは言えないが、そのほとんどが独裁的な政体を採用している他のヨーロッパ諸国を凌駕していた。
イギリスの政治的伝統を除けば、共和政に関する古典的な概念が革命期のアメリカの政治思想を形成した。制定者はギリシアやローマの思想家の古典を参照し、古代の政体の勃興と衰退の歴史的説明から教訓を得た。マディソンやハミルトンは古典哲学から大きな影響を受けていた。さらにアテネやローマ共和国の歴史は人間による統治の重要な教訓を提起した。古典哲学は、イギリスの政治には辺縁的な影響しか与えていないが、アメリカの政治的伝統の発展に貢献したことは否定できない。
共和政、統治、市民の責任に関する古典的な思想は制定者を魅了した。ここで言う共和政とは代議政治の原理に基づいて支配者を選挙によって選ぶ政治である。制定者は、ローマ共和国の勃興と崩壊に対する理解は共和政の生死を握る鍵だと確信していた。多くの者は、ローマ共和政を効果的で正統性のある共和政の最善の歴史的模範だと見なしていた。それ故、彼らは明らかにローマの制度、思想、政治的慣習をアメリカの共和政のモデルとした。その一方で、彼らはローマ共和政の崩壊を、1つの組織に権力が集中することの危険性、そして、たとえ世襲ではなくても抑制されない行政首長が持つ脅威に関する教訓だと考えた。ローマ共和政の崩壊と帝政への移行は、共和政の脆弱性を示している。アメリカ大統領制度の概容を考える者にとって、ローマの歴史は軍のリーダーシップから市民を隔離するだけではなく、軍を市民の統治に対して説明責任を負わせる必要があることを示していた。ローマの執政官の歴史は、行政権は特別の義務と責任に厳しく制限されるべきであり、したがって一般的な権限や権威を与えるべきではないことを示している。
憲法制定会議の間、大統領制度は2つの主要な流れで発展した。1つの流れはヴァージニア案で大まかに規定された行政府の長がより明確に特定化されていく流れである。もう一方の流れは立法府に従属した弱い行政府の長を強化する流れである。こうした2つの流れは行政府の案に関する諸問題を検討する中で次第に明らかとなった。
大統領が新政府で果たす役割に関する議論には3つの課題があった。1つ目は、行政首長は単数か、それとも3人から構成される委員会のように多数であるべきか。委員会形式を支持する者は、もし3人がそれぞれ異なる地域から選ばれれば、すべての主要な問題に関してそれぞれの地域の利害が反映されやすくなると考えた。その一方で1人の行政首長を支持する者は、もし行政首長が1人であれば、全国的な見解を維持し、すべての国民の異なる利害を適切に代表することができると考えた。2つ目は、行政首長は、議会の法に対する拒否権や軍隊を指揮する権限などどの程度の権限を持つべきか。3つ目は、行政首長の任期の長さはどの程度にするべきであり、再選を可能にするべきか否か。任期の長さについては3年、6年、7年、終身などの案があった。さらに代表達は行政首長を選ぶ方式について議論した。邦議会による選出、連邦議会の両院による選出、連邦上院による選出、邦知事による選出、そして人民による選出などが提案された。
行政府の案は憲法制定会議で最も困難を伴う問題であった。そして、その発案は会議の中で最も創造的な行為であった。大統領制度は長い議論となる点について何とか勝利しようとする意志の衝突から生まれたのではなく、適切な活力に満ち、共和政にとって安全な新しい制度を生み出そうとする精緻な努力から生まれた[ Jack N. Rakove, Original Meanings: Politics and Ideas in the Making of the Constitution (Knopf, 1996), 82. ]。
憲法制定会議の代表達が直面した問題は、モデルとしたい行政府に関する経験がないことであった。彼らの目からすればイギリス国王と国王の任命した植民地総督は自由を踏みにじる者であった。独立後に起草された邦憲法は邦知事を脅威をもたらさない存在にしたが、同時に無能にもした。連合規約の下で成立した連邦政府は実質的に行政府の長を持たなかった[ Fred Barbash, The Founding: A Dramatic Account of the Writing of the Constitution (Linden Press/Simon and Schuster, 1987), 175. ]。
代表者達を悩ませたさらなる問題は、行政府の権限に関する二律背反に由来するものであった。彼らは行政府を立法府の行き過ぎを抑制できる程度に強くしたかったが、専制政治に陥る危険性がある程度に強くしたくはなかった。こうした二律背反はアメリカ人に広く共有されるもので、アメリカ人はかつて存在した君主制を強く憎むのと同時にワシントンを王にしたがっていた。しかし、人民のワシントンへの期待は君主制を渇望するものではなかった。代表達と人民はワシントンがかつて大陸軍を指揮している時にそうであったように責任を持って権力を行使することを期待していた。ワシントンであれば安心であるが、その後継者がそうであるとは限らない。フランクリンは憲法制定会議で「指導的立場についた最初の人物は善良な人物かもしれない。その後に続く者がどのような人物かは誰も知らない」と述べている[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:103.]。
代表達が抱えていたこうした困難にも拘わらず、大統領制度は憲法制定会議が続く中でゆっくりと形成された。大統領制度の構想は不明確な状況から明確に規定された大統領制度を創り出す方向に着実に向かって行った。二律背反にも拘わらず、彼らは最初、予期していたのよりもずっと強力な行政府を構成した。
創設された大統領制度に対して概ね4つの姿勢が見られる。憲法によって、強力な大統領制度が創られたと評価する者、憲法によって強力過ぎる大統領制度が創られたと非難する者、憲法によって、適切に制限された大統領制度が創られたと評価する者、憲法によって不適切に制限された大統領制度制度が創られたと非難する者である[ Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 8.]。
第2節 行政権に関するヨーロッパの思想的影響
憲法制定会議で大統領の権限を決定する際に、政治理論は実践的に経験に比べて重要な役割を果たしたとは言えないが、大部分の代表達はロックの『市民政府二論』(1690)やモンテスキュー(Baron de Montesquieu)の『法の精神』(1748)を中心にデイヴィッド・ヒューム(David Hume)やスコットランド啓蒙主義の哲学者の著作多くを学んでいた。どの著作が憲法制定にあたって主要な役割を果たしたのか研究者によって意見が分かれているが、事実、ロックの影響は植民地時代の人民主権や立法権をめぐる多くの初期の争いに見て取れるし、初期の邦憲法の行政府と立法府の関係の決定に見て取れる。ロックはそうした関係において立法府が上位を占め、行政権と連邦権は立法府の一部であり、立法府に責任を負わなければならないと主張した。これは議会政治の本質であり、アメリカ合衆国憲法と大きく異なる点であるが、行政首長に与えられる実際上の権限に関するロックの言及は憲法制定会議の議論と憲法自体に明らかに反映されている。
ロックは、開会中、議会の権限は至高であり、議会の行動が人民の利益を徹底的に損なう場合に、議会を打倒することができる主権を持つ人民によってのみ制限されると論じた。議会が休会中に法に継続性を持たせるために行政首長は実際的な権限を担う。法の執行がなされ、実効力を持つように監視する存続する権限がなければならず、したがって行政権と立法権は分立される。行政首長は議会を招集し解散する権限が与えられるが、それは行政権が立法府に優越することを意味するわけでない。なぜならそうした権限はあくまで信託であり、議会、そして最終的には人民に対して説明責任を負わなければならないからである。
行政権に関するロックの重要な主張はその他に2点ある。ロックは、他国との関係に関連する広範な行動を対象とする連邦権という概念を導入し、連邦の責任と行政府の責任を慎重に分けながら、連邦権と行政権はほとんど分立されておらず、同時に個別の人々の手中にあると論じた。またロックは、必要性に応じて行政首長は法の規定なしに、時には法に反してでも公共の善のために自由裁量に基づいて行動する権限が与えられると主張した。これは大権という言葉で示される。それはもちろん絶対的な権限ではなく、まったく法に制限されない権限でもなく、法を無視してもよいということでもない。その正当化は、法によって直接規定されておらず、異なった状況で定められた現行法によって阻害される場合に、公共の利益を擁護するために行動する必要性に基づいている。この権限に法的な制限は課せられないが、世論という最終的な拒否権によって抑制される。もし大権に関して行政首長と人民の間で議論が起きれば、そうした大権が人民にとって善であるか悪であるかによってその是非が判定される。
憲法は、大統領の外交関係における責任と行政特権に関して広範な権限が内在すると示唆するのみである。そうした権限が著しく拡大されたことは歴史が示している。そのような発展のすべての原因をロックの著作に求めようとするのは馬鹿げている。なぜならそうした発展は歴代大統領が様々な挑戦に直面して何らかの対応をとった結果、生まれたものであるからである。政治理論はそうした劇的な過程にそれ程、多大な影響を与えたわけではない。しかしながら、ロックが行政権の本質について類稀なる洞察を持ち、アメリカ大統領制度の成長において展開されることになる発展の幾つかの点について気付いていたことは重要である。ロックの著作は、アメリカの初期の政治的思想のすべてに大きな影響を与え、ロックの分析はアメリカの政治制度を築く根本的な原理の輪郭を描く手助けをした[ William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea, 1974), 1: 38-40.]。
憲法制定会議に影響を与えたもう1人の政治思想家はモンテスキューである。モンテスキューの著書である『法の精神』はアメリカで1787年以前に入手可能であり、憲法制定会議の代表達が『法の精神』を読み、その中核となる政治理論に親しんでいたことは明らかである。モンテスキューは18世紀初期にイギリスで数年間を過ごし、イギリスの議会制度に深く傾倒した。自由を保持したいと考える政治共同体にとって最善のモデルがイギリスにあるとモンテスキューは確信した。モンテスキューは、イギリスの立憲制度の中で権力は国王、庶民院、貴族院で平等に分与されていると考えた。政府の異なる府を分立させ、それぞれの独立を守るのに十分な権限を与えることによってのみ自由は保障される。立法権と行政権が同じ人物、もしくは同じ組織に握られれば自由はない。何故なら同じ君主か元老院が専制的な法を定めるという危険が生じるからである。
マディソンは『法の精神』をカレッジ・オヴ・ニュー・ジャージーで教科書として使っていた。憲法制定会議の代表の中で9人がカレッジ・オヴ・ニュー・ジャージーの出身であった。マディソンの『法の精神』に関する知識は徹底したもので、20年後に記憶から『法の精神』を引用できた程である。憲法制定会議に出発する前にワシントンのために考察の資料を準備した時に、マディソンはモンテスキューに大いに依拠している。『法の精神』に関する言及がマディソンの手稿に散見され、マディソンはその手稿を憲法制定会議で利用した。ウィルソンやハミルトンも『法の精神』に親しんでおり、憲法制定会議で議論する際にモンテスキューに言及している。
モンテスキューが『法の精神』で展開した三権分立の概念は、憲法制定会議で行われた議論や憲法自体から代表達の共通見解であったことが分かる。そのような広く認められた概念は他にはない。フランクリンのような代表は、モンテスキューの理論を損なってきたイギリスの政治制度に重要な変革が起き、大規模な腐敗によって、三権分立が実践されるよりも実践されないことでその意義を証明したと長らく考えてきた。それでもアメリカ人は、三権分立の原理を放棄せずに実践的に理論を修正しようとする実践家であった。マディソンは『ザ・フェデラリスト』第47篇で、憲法はモンテスキューの三権分立にしたがっていると主張している。しかし、アメリカの行政首長もイギリスの行政首長も理論的に、または機能的に他の府から完全に分立していないのが真実である。過去50年の間で、首相はイギリスの政治制度の中で、議会によって選ばれ、議会に責任を負う真の行政首長として出現した。首相は、権限侵害に対して自らの地位を擁護するためにある程度の独立を保つが、公式な意味では首相は決して独立していない。
ロックとモンテスキューのどちらが憲法第2条に影響を与えたのか正当に判定することはほとんどできない。両者は、彼らが考えたことが、国王の議会を閉会し、解散する権限、拒否権、統帥権、外交権限のようにイギリス法の現行規定に既に存在していると認めている。彼らの貢献で重要なことは、彼らが国王が何故、そのような権限を持つのか合理的な説明を提示しようとしたことにあり、そうした説明は代表達に影響を及ぼした。つまり、彼らは革新的な原理を導入しようとしたわけではなく、現存の意見を強化し、他者にその有効性を説明しようとした。最終的な分析でアメリカ人はイギリスの政治制度を模倣しようとはしなかった。しかし、アメリカ人はイギリスの政治制度の価値ある多くの側面を理解していたし、ロックやモンテスキューの理論を大いに活用した[ William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea, 1974), 1: 49-50.]。
ロックとモンテスキューに加えて、憲法制定会議で行政権を規定する際に非常に大きな影響を与えたのはウィリアム・ブラックストーン(William Blackstone)の『イギリス法釈義』である。『イギリス法釈義』はフィラデルフィアで1771年から1772年にかけて出版された。憲法制定会議の多くの代表にとって、『イギリス法釈義』はイギリス法に関する基本的な参考書であり、イギリスの政治制度に関する最も信頼のおける情報源であった。さらに多くの代表は弁護士であり、『イギリス法釈義』に親しんでいたことは間違いない。
『イギリス法釈義』の「国王の特権について」はこの時代における行政権に関する最も詳細な議論であり、その言葉や概念は憲法第2条の淵源となった。しかし、ブラックストーンが描いたイギリスの政治制度は当時でさえも少し時代遅れであったことは注意すべきである。
ブラックストーンにとって真の権力は国王に存在した。現実には議会が国王の権限を蚕食し始め、首相は政治過程で決定形成の中核になりつつあった。しかし、そうした事実は憲法制定会議で理解されなかった。イギリスの政治制度で起きていた変化はその当時、未だに明確に認識されていなかった。ブラックストーンの価値はイギリスの政治制度が発展するもとになったイギリス法について詳細な解説を加えたことにある。しかしながら、フランクリンやウィルソンは、ブラックストーンの権力の関係に関する記述は現実と乖離していると他の代表に指摘している。
とはいえ『イギリス法釈義』が憲法全体に影響を与え、憲法第2条が「国王の特権について」に大きな影響を受けていることは確かである。『イギリス法釈義』では、国王は外交政策と軍隊の指揮においてほぼ絶対的な権限を有し、理論的に議会の法案を拒否できる権限を有し、議会を閉会し、解散する権限を有する。建国の父祖達は国王の抑制されない権力を非難し、国王の装飾を公然と軽蔑していたが、ブラックストーンの行政権の定義に大きな影響を受け、大統領に同様の責任を与えた[ William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea, 1974), 1: 55-57.]。
第3節 大統領制度の各草案
マディソンは「憲法の父」と称されるが、大統領制度の創始に果たした役割は限定的である。マディソンは、憲法制定会議が始まる少し前に「行政府の長が構成されるべき方式、行政府の長に与えるべき権限について未だに私自身の意見をまとめきれていません」と述べている[ Letter from James Madison to George Washington, April 16, 1787.]。マディソンが主に起草したヴァージニア案は行政府の長について不明瞭にしか規定していない。
ヴァージニア案は「国家行政首長が設けられ、[空白]年間の任期で国民議会によって選ばれ、定期的に規定された回数、決まった俸給を受け取り、増額や減額が行われる際に在任している行政首長職に影響を及ぼすような増額も減額もされず、再任する資格を有せず、国法を施行する包括的権限に加えて、連邦によって連合会議に与えられた行政権を享受するべきであると決議する」と行政府の長について規定している。しかし、行政府の長が単数なのか複数なのか、また参事院、もしくは委員会の議長を務める形式なのかは明確にされていない。任期も決められず、行政府の長が持つべき権限も具体的に列挙されていない[ Calvin C. Jillson, Constitition Making: Conflict and Consensus in the Federal Convention of 1787 (Agathon Press, 1988), 42-47.]。
またヴァージニア案と同じ日にチャールズ・ピンクニーによるピンクニー案が提出されている。ピンクニー案は憲法制定会議における議論の中で重要な役割を果たさなかったが、後に細目委員会によって参考資料として使われている。ピンクニー案の原本は失われたが、ピンクニーは1818年に公文書館のために複製を作っている。ピンクニー案の第8条では以下のように大統領職について言及している。
「合衆国の行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する。アメリカ合衆国大統領が彼の肩書きとなり、彼の称号は閣下となる。大統領は[空白]年間の任期で選ばれ、再任が可能である。大統領は随時連邦の状況につき情報を議会に与え、また必要と考える施策について議会に対して審議を勧告する。彼は合衆国の法律の適切に執行されることを配慮する。大統領は合衆国のすべて官吏を任じ、大使、他の公使、そして最高裁判事を除く他のすべての合衆国官吏を上院の同意を得て、これを任命する。大統領は外国からの公使を接受し、異なる国家の首長と通信を行う。大統領は弾劾を除いて恩赦及び刑の執行延期を行う権限を有する。大統領は合衆国陸海軍及び各州の民兵の最高司令官であり、報酬を受け、その額は任期が継続する間、増減されることはない。その職務を開始する前に、大統領は合衆国大統領の義務を忠実に執行することを宣誓しなければならない。大統領は下院の弾劾を受け、反逆罪、収賄、もしくは汚職について最高裁の有罪判決を受ければその職を免じられる。その免職、死亡、辞任、もしくは不能の場合、別の大統領が選出されるまで上院議長が大統領職の義務を遂行する。上院議長の死亡の場合、下院議長が大統領職の義務を遂行する」[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 618.]
また6月15日に提出されたニュー・ジャージー案では以下のように行政府の長を規定している。
「合衆国は連邦議会において、[空白]人からなり、[空白]年間、在職し続け、定期的に定められた回数で固定給をその職務に対して受け、給与の増減が行われた時に行政府を構成する者に影響を与えるような給与の増減は行われず、国庫から支払いを受け、在職中とその後、[空白]年間、その他の職や任命を受けることができず、2回選ばれる資格を持たず、各邦の知事の多数による要請で連邦議会によって免職される連邦行政官を選出する権限が与えられ、連邦行政官は連邦法を執行する一般的権限に加えて、その他の規定がない連邦官吏を任命し、いかなる場合も連邦行政府を構成する者の何人と雖も軍隊を指揮することは禁じられ、将軍やその他の適格者のように自ら軍事企図を行うことを禁じられるが、すべての軍事行動を指示すると決議する」[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 622.]
さらにハミルトン案では以下のように行政府の長について規定されている。
「合衆国の最高行政権は、選挙され非行なき間、在職する統治者に属する。選挙は上述の選挙区の人民によって選ばれた選挙人によって行われる。行政府の権限と機能は以下の通りである。可決されたすべての法に対して拒否権を有し、可決されたすべての法を執行する。戦争が認められ始まった時に戦争を指示する。上院の助言と承認を得て、条約を締結する権限を有する。財務省、戦争省、そして外務省の長官を単独で任命する。外国に派遣される大使を含むその他すべての官吏を指名し、上院の承認か否定に従う。反逆罪を除いてすべての犯罪に恩赦を与える権限を有し、反逆罪については上院の承認なく恩赦を行うことはできない。統治者の死亡、辞職、もしくは免職の際に、後継者が任命されるまで彼の権限は上院議長によって行使される」[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 623.]
憲法制定会議の初めの2ヶ月の間に決まった事柄は、行政府の長を単数とすることと議会が制定した法律に対して拒否権を行政府の長に与えることであった。その他の問題は1度、決定されてもしばしば決定が覆された。例えば7月17日に憲法制定会議は連邦議会に支配される弱い行政府の長を考案した。しかし、19日と20日には連邦議会から独立した行政府の長が考案された。さらに24日には行政府の長を連邦議会によって選ぶ案に戻った。任期については様々な提案がなされ、8年や15年、時には30年という提案もあった。7月24日に発足した細目委員会が大統領という呼称を決定し、継承について定め、その権限について列挙した。しかし、選出方法、任期、そして再任を可とするか不可とするかは、延滞事項委員会が選挙人による選出、4年の任期、再任を可とすることを提案するまで決まらなかった。
ヴァージニア案における国家行政首長は憲法制定会議が始まったばかりの時点で多くの代表達が望んでいたものと合致するものであった。マディソンが提案した案の中で議会によって選出され列挙された権限もない行政府の長は弱かったが、連合規約の下の政府よりは確実に強かった。確かに行政府の長は議会によって選出されると規定されていたが、まったく従属的というわけではなく、一定の任期を持ち、拒否権を認められ、恣意的な俸給の減額も禁止されていた。
憲法制定会議の代表達の中でもより強い行政府の長を置くことを望んだ中心人物がウィルソンとグヴァヌア・モリスである。しかし、ウィルソンが強い行政府の長は政府の中における世論の影響を強めることができると考えていた一方で、モリスは強い行政府の長によって世論を抑えることができると考えていた[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 12-13.]。憲法制定会議の間、強い行政府の長を求める代表達は勝利に次ぐ勝利を収めた。行政府の長は単数で委員会形式を取らなかった。連邦議会によって1期のみ選ばれるのではなく、独自の選出方法が取られ、再任を可とする。細目委員会は、軍隊の指揮、立法過程への関与、恩赦、そして法律の施行を含む行政府の長に与えられる列挙された権限を示した。連邦上院で各邦に平等の投票権を与えるというコネティカット妥協の後、大邦の代表者達は官職の任命権と条約の締結権を上院から行政府の長に移すという案に賛成した。こうした勝利にも拘わらず、ウィルソンやモリスを中心とする強い行政府の長を望む代表達がすべてを望み通りにしたわけではない。例えば行政府の長に絶対拒否権を与える案は認められなかった。しかし、彼らは最初に構想されていたよりもずっと強い行政府の長を置くように憲法制定会議を動かしたと言える。
第4節 行政府の長の数
行政府の長の数は最初に考えるべき問題であった。第1に、行政府の長は単数か複数か、つまり、行政府の長を1人にするか、委員会形式を取るかという問題である。第2に、行政府の長はその権限を行使する際に参事院に諮るべきか否かという問題である。ヴァージニア案は行政府の長の数に関して明確に規定していない。おそらくマディソンがその問題に関して明確な意見を持っていなかったか、もしくは連邦議会がその問題を自由に決定すべきだと考えていたからであろう。
6月1日、全体委員会でウィルソンは行政府の長を単数とするべきだという動議を提出した。いつもは活発に議論する代表達の間に沈黙が訪れた。どのような行政府が構成されようとも最初の指導者になると誰もが予測していたワシントンの前で議論するのを代表達は憚ったのである[ Charles L. Mee Jr., The Genius of the People (Harper and Row, 1987), 118.]。フランクリンが自由に議論するように勧めると代表達は議論を始めた。行政府の長を強力にしようとする代表達の最初の試練となった。ウィルソンの動議に対してランドルフとシャーマンが中心となって反対を唱えた。ランドルフは行政府の長を単数にすることは君主制の萌芽となるものだと主張し、それぞれの地域から1人ずつを選出して3人が行政委員会を構成する案を代案にするように求めた。シャーマンは理想的な行政府の長は立法府の意思を実行に移す以上の何者でもないと主張し、行政府の長の数を決定せずに連邦議会に決定を委ねるべきだとした[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:65-66.]。フランクリンが行政府の長を複数にすべきだという理由はさらに積極的であった。フランクリンは、行政委員会によって定められた政策は単数の首長によって定められた政策よりも容易く変更されず、より安定して一貫していると論じた[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:102.]。ディキンソンは、王を頭に据えた政府を否定しないと述べた。ディキンソンは、君主制は世界の中で最善の政体であると主張した。しかしながら、アメリカに王を据えるのは問題外だとディキンソンは述べた。
ウィルソンは巧妙に自らの動議を擁護し、行政府の長を単数とすることでリーダーシップが生まれ新しい政府の活力と手早い処置の源になるだろうと論じた。またウィルソンは、行政府の長を単数とすることは行政権の管理に不可欠であるとも論じた。すなわち権力の悪用や無能の責任を行政委員会に対してどのように問えばよいのか。3人に行政権を分与する方式は自制がきかなくなり、お互いの敵意を生むことになる。そうした争いは害毒を政府の中だけでなく、諸邦、そして人民の間に撒き散らすことになる[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 621.]。こうした議論は多くの代表達にとって説得力があるものであった。彼らは君主制を恐れていたが、連合規約の下で連邦政府が行政府の責任の分散からどのような弊害を受けていたのかを認識していた。有産者として彼らは、シェイズの反乱のような無秩序を恐れ、行政府の長を単数にすることで、そうした暴徒や無秩序に委員会形式よりも迅速かつ効果的に対応できると考えた。またマディソンの提案により、行政府の長に連邦法を執行する権限と特別の規定あるもの以外の官吏を任命する権限が与えられることが決定した。
6月4日、憲法制定会議は圧倒的多数で行政府の長を単数にする案に賛同した。数少ない投票記録の中でワシントンはこの動議に賛成票を投じている。行政府の長を単数とする案に反対した者達の平均年齢は55歳である。それに対して賛同者の平均年齢は41歳である。そうした違いは、年長者達の行政府の長に対する観念が植民地総督との長い戦いによって育まれたものであるからだと考えられる。しかし、若い代表者達は、そうした経験をあまり持たず、連合規約と邦憲法における行政権の弱さによる弊害をより心配していた[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 34.]。
第5節 参事院
ヴァージニア案は「行政府と適当な人数の国民司法府は、国民議会の発効する前のあらゆる法律、および各邦議会の拒否権が確定する前のあらゆる法律を検査する権限を有する審査院を設立し、もし国民議会の法律が再可決されないか、もしくは各邦議会が各院の議員の[空白]人によって再び拒否されなければ、審査院の異議は棄却に相当するべきであると決議する」と審査院の拒否権について規定している。そうした種の参事院は邦知事に助言を行うことを目的として13邦すべての邦憲法で規定されている。参事院の構成員は一般的に議会によって選任された。シャーマンは最終的に行政府の長を単数とする案に賛同したが、憲法案を国民に受け入れやすくするために、参事院と権限を分有すべきだと主張した。ゲリーも単数の行政府の長に加えて信頼性を増すために参事院を付属させるように主張した。ウィルソンは、そうした参事院を設けることに反対した。なぜなら参事院は行政府の長を単数とすることで得られる利点、すなわち活力、迅速さ、そして責任の所在を明確にすることを損なうと考えたからである。
参事院を設ける案は6月4日、ゲリーとルーファス・キング(Rufus King)が判事達に立法過程に容喙させることに対して疑念を示した後に棚上げされた。参事院がどのような影響を行政府の長に与えるのかについて代表達の意見は分かれた。参事院は行政府の長を抑制することができると考える者がいる一方で、参事院は司法府の支持とともに議会との関係において行政府の長を強化するものとなるだろうと考える者もいた。
参事院の構想は度々、様々な形式で繰り返し取り上げられた。8月18日、エルズワースは参事院が未だに設けられていないと注意を促した。そして、上院議長、最高裁、及び各省庁の長官からなる大統領に助言を与える参事院を設けることを提案した。8月20日、同様にグヴァヌア・モリスは大統領の執務を補佐するために、最高裁長官及び各省庁の長官からなる参事院を設けることを提案した。大統領は各省庁の長官の所管事項の他に、いかなる事項も討議に付すことができ、参事院の構成員に文書による意見を徴することができる。大統領は常に自己の判断を下し、意見を取捨選択する[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:487-488.]。代表達はエルズワースの提案を討議せず、問題の解決を細目委員会に付託した。細目委員会は、「合衆国大統領は、上院議長、下院議長、最高裁、及び外務、内務、陸軍、海軍、及び財務の各省庁が随時設置されるにしたがい、これらの各省庁の長官より構成され、かつ彼が自己の職務執行に関し、適宜付議する事項に彼を助言する義務がある枢密院を有する。しかし、彼らの助言は彼を拘束し、もしくは彼の採る処置に対する彼の責任に影響しない」と報告した。しかし、憲法制定会議は参事院に関する細目委員会の規定に対して表決を行わなかった。
延滞事項委員会は、各省庁の長官よりその所管事項に関して文書により意見を徴する権限を大統領に与えることを提議した。それに対してメイソンは、上院または議会がニュー・イングランド、中部、そして南部の各地域から参事を2人ずつ選んで大統領に付属させるべきだと提案した。メイソンの提案に対してグヴァヌア・モリスは、延滞事項委員会は、大統領が参事院を自己の不当な政策に同意するように説得し、自己の非行を隠蔽しようとする恐れがあるという結論を下したと答えた。モリスの意見に動かされた代表達はメイソンの提案を否決した。結局、見解の統一がなされなかったために参事院は設けられなかった。
第6節 大統領の選出方法
代表達が大統領の選出方法について一致している唯一の点は世襲制の反対であった。ウィルソンはヴァージニア案で示されている連邦議会が行政府の長を選出する案に反対を唱えた。行政府の長が議会によって選ばれることは、行政府の長が立法府に従属的になることを意味していた。6月1日、ウィルソンは代案として行政府の長を人民の選挙によって選出する案を提案した。ウィルソンは自らの提案が多分に空想的であると認めながら、立法府と行政府がお互いに独立し合い、諸邦からも独立したままでいるためには人民による選挙が必要であると主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:68-69.]。
代表達は人民による選挙というウィルソンの提案を実質的に無視した。原理的にウィルソンの考えはあまりに民主的であった。彼らは、民主政は小さな共同体のみで可能であると考えていたのである。それに加えて、あまりよく知らない遠く隔たった邦の候補者に有権者が投票しなければならない場合、人民による選挙は不可能であると思われた。マディソンは人民に適切な資質を持つ行政府の長を選択するように求めるのは無理なことであるとウィルソンの提案に反対を唱えた。さらに南部の代表達を代表してマディソンは、人民による直接選挙ではより人口が多い北部からの候補者がほとんど常に勝利を収めるだろうと主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:57.]。
また人民による直接選挙は人口が少ない邦は圧倒的に不利であった。例えばデラウェア邦の人口はペンシルヴェニア邦の約10分の1であった。多くの奴隷を抱える南部の邦も不利であった。なぜなら奴隷は投票権を持たないので票数に含めることができないからである。多くの代表達の中には、アメリカのような広大な土地で人民が大統領候補の利点を見極めることは不可能であるという見解の統一があった。メイソンは「行政府の長の適切な性質を選択するように人民に委ねることは、目が見えない者に色の判別を求めるように不自然なことである」と述べた。人民による直接選挙は偏狭なものとなると多くの代表達は考えた[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:31.]。
さらに、6月2日、ウィルソンは選挙人によって行政府の長を選出する案を提案した。選挙のために各邦は選挙区に分けられ、選挙区の有権者は、中央に集まって行政府の長を選出する選挙人を選出するという方式である。ハミルトンも選挙人による間接選挙を提案した。ゲリーは、議会による行政府の長の選挙は、議会と候補者の間で様々な陰謀や取引が行われるようになると主張した。しかし、シャーマンは、行政府の長によって執行されるのは議会の意思であるから、行政府の長は議会に絶対に依存すべきであり、議会から行政府の長が独立すれば専制の原因となると反対を唱えた。最終的にウィルソンの案は8票対2票で否決された。6月9日、議会が行政府の長を選出する方式に不満を抱いていたゲリーは各邦の邦知事によって行政府の長を選ぶ方式を提案した。ゲリーの提案に対してランドルフは、邦知事は、事実上、邦議会に依存しているので邦議会の見解に支配され、邦の利益を偏重する者を行政府の長に選ぶとし、その結果、選ばれた行政府の長は邦の連邦に対する権限侵害に対抗することはできないと反対を唱えた。その結果、ゲリーの提案は否決された。
6月19日、憲法制定会議は行政府の長の選出方法について議論した。マディソンは、行政府の長を連邦議会への従属から自由にするべきだと主張した。さらにマディソンは、自由な政府の根本的な原理は立法府、行政府、司法府の権限が分立していることにあり、それぞれの権限が独立して行使されることにあると述べた。エルズワースは、連邦議会が大統領を選ぶという条文を削除して邦議会が任命する選挙人によって大統領を選ぶ方式を提案した。選挙人は人口20万人を超えない邦には1人、人口30万人を超えない邦には2人、人口30万人を超える邦には3人を割り当てる。憲法制定会議はエルズワースの動議を受け入れたが、選挙人の割り当てに関しては後回しにした。
7月17日、グヴァヌア・モリスは人民による選挙を提案した。モリスは、もし議会が行政府の長を選挙し、弾劾することも可能であれば、行政府の長は議会の単なる手先に過ぎなくなると訴えた。もし人民が行政府の長を選ぶことができるなら、有能な人物か、功労がある人物か、全国的名声がある人物を選ぶと考えられる。しかし、議会が行政府の長を選べば、陰謀と徒党によって支配される。行政府の長が議会から独立しなければ、議会は行政府の権限を侵害し、専制的になる恐れがある。モリスの意見に対してシャーマンは、人民には一般的に候補者を選別する知識がないと依然として反対を唱えた。また人民は同じ邦の出身の候補者ばかりを選ぼうとし、大きな邦に比べて小さな邦は不利になる。さらにチャールズ・ピンクニーも、人民が少数の扇動者によって扇動される危険性があると論じた。モリスはこうした反対に対して、アメリカ全土で行われるような大規模な選挙では大衆扇動の危険性は低くなるし、ニュー・ヨーク邦知事の選挙の例では徒党や陰謀が効果を発揮するのは局地的な場合のみであると主張した。メイソンは、アメリカはあまりに広大なので、人民が候補者の主張を正しく理解するのは難しいと論じた。ウィリアムソンは、人民が同じ邦出身の候補に投票し、人口の多い邦が有利になることは明らかであると主張した。結局、モリスの提案は否決された。邦議会が任命する選挙人によって行政府の長を選挙する案がマーティンによって提案されたが否決された。ウィルソンは人民によって選挙された候補者の中から議会が最後の選択を行う方式を提案した。その方式により陰謀と取引が制限され、人民一般の自由と利益が確保できるとウィルソンは主張した。マディソンは人民による選挙で行政府の長を選ぶ方式が最適であると主張した。続いてエルズワースは、邦議会が任命する選挙人による行政府の長の選挙を提案した。憲法制定会議はエルズワースの提案を受け入れた。
7月20日、選挙人の割り当てについてゲリーは動議を提出した。ゲリーの動議によれば、ニュー・ハンプシャー邦は1人、マサチューセッツ邦は3人、ロード・アイランド邦は1人、コネティカット邦は2人、ニュー・ヨーク邦は2人、ニュー・ジャージー邦は2人、ペンシルヴェニア邦は3人、デラウェア邦は1人、メリーランド邦は2人、ヴァージニア邦は3人、ノース・カロライナ邦は2人、サウス・カロライナ邦は2人、ジョージア邦は1人が割り当てられる。小さな邦の反対にも拘わらず、ゲリーの動議は6票対4票で採択された。さらに、連邦議会議員や連邦官吏は選挙人になれず、選挙人自身は大統領になれないということが認められた。
しかし、憲法制定会議は7月24日と26日にすべての議決を再審議した。選挙人で行政府の長を選ぶという提案は、憲法制定会議の多くの代表達にとって革新的過ぎた。代表達は選挙人が集まった時に外国による扇動を受けるのではないかと恐れた。そのため代表達はヴァージニア案にあるように連邦議会が行政府の長を選出する案に票を投じた。その結果、邦議会が任命する選挙人による選挙は否定され、連邦議会による選挙が復活した。しかし、連邦議会によって行政府の長を選出する方法には2つの欠点があることを代表達は認識していた。1つは、もし議会が権力の濫用を行ったり、行政府の権限を侵害したりした場合、行政府の長は効果的に議会を抑制できない点である。2つは、行政府の長が官職任命権を使って議員の支持を獲得しようとする点である[ Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 24.]。
行政府の長を連邦議会が選出する案は7月と8月に行われた数度の表決で再確認された。行政府の長は、官職任命権と権力を議員の支持を集めるために使わないようにするために再任が認められないことになった。しかし、一方で代表達は、再任を認めることは官職の仕事を遂行するうえで励みとなるということも認識していた。そのため代表達は、再任の可能性を除外することを遺憾に思っていた。その結果、再任を可能とするような選出過程に関する探究は続けられた。これは容易な仕事ではなかった。
ウィルソンは、連邦議員の中から選ばれた15人が行政府の長を選挙するという妥協案を提出した。そうすれば、陰謀が回避され、議会への従属が緩和されることが期待された。モリスは人民による選挙が最善の方法と考えていたがウィルソンの妥協案を支持した。他にも以下のような妥協案が提出された。邦知事か、もしくは邦知事によって選ばれた選挙人が行政府の長を選出する方法、各邦の最良の市民による候補指名とその候補の中から連邦議会か、連邦議会によって選ばれた選挙人によって行政府の長を選出する方法、連邦議会が行政府の長を選出し、再任の際は邦議会によって選ばれた選挙人が行政府の長を選出する方法、抽選で選ばれた連邦議員によって行政府の長を選出する方法などである[ Clinton Rossiter, 1787: The Grand Convention (MacGibbon and Kee, 1968),199.]。
連邦議会によって行政府の長を選出する方法に代る案を探究する試みは8月24日以降、急速に加速した。その日までどのように連邦議会が大統領を選出するかは明確ではなかった。憲法制定会議は、行政府に関する細目委員会の報告を検討した。細目委員会は、行政府の長を連邦議会の投票で選ぶ方式を提案したが、投票をどのように行うかは提案しなかった。その時、行政府の長を連邦議会によって選ぶか、人民によって選ぶかがまた議論された。ダニエル・キャロル(Daniel Carrol)とウィルソンは、モリスが提案したような人民による選挙を提案したが否決された。ラトレッジは諸邦が邦知事を選出する方式に倣って、連邦議会の両院による合同投票で行政府の長を選出する方式を提案した。その方式は実質的に人口の多い邦に有利であると考えられたために小さな邦は反対を唱えたが、ラトレッジの提案は採択された。議会における陰謀と取引、そして行政府の長が従属的になることで議会が専制に陥ってしまう危険性を恐れたモリスは、諸邦の人民が選ぶ選挙人によって行政府の長を選ぶ方式を提案した。しかし、モリスの提案は否決された。ラトレッジの提案は大統領の選出過程で大邦に明らかに有利であったので、既に憲法制定会議を分裂させていた大邦と小邦の間の論争を再燃させる恐れがあった。そうした致命的な分裂を避けるために、コネティカット妥協の唱導者であるシャーマンは8月31日の動議で大統領の選出過程の決定を延滞事項委員会に委ねることを提案した。
9月4日、延滞事項委員会は、大統領を選出する方法として再任に制限を設けず、選挙人を用いる案を提案した。そうした方式は1776年のメリーランド邦憲法で上院議員を選出する方式を参考にしたと考えられる[ 酒井吉栄、『アメリカ憲法成立史研究』(評論社、1965年)、1:190-194。]。大統領は、各邦がそれぞれ採用した方法によって選ばれた選挙人の過半数を獲得して選ばれる。代表達は各邦が選挙人の選出を人民に委ねると予想していた[ Richard P. McCormick, The Presidential Game: The Origins of American Presidential Politics (Oxford University Press, 1982), 25.]。各邦は連邦議会における議員数と同じ数の選挙人を割り当てられる。それは大邦に有利であった。もしどの候補も過半数の選挙人を獲得できない場合、上位5人の中から上院が当選者を決定する。それは小邦に有利であった。また選挙人が結託して陰謀を企てないために、選挙人は全国組織として会合することはなく、各邦の首都で票を投じ、その結果は連邦上院に送付され数えられる。さらに選挙人は出身邦の候補ばかりに票を投じないようにするために異なった2つの邦から2人の候補者を選出することが求められる。次点者は新たに設けられた副大統領として選出される。議会による大統領選出には陰謀と党派的利害が絡む危険性があったし、行政府を議会に従属させることを意味した。選挙人を用いる方式はそうした弊害を避けることができた。また良識ある選挙人は民衆を扇動して大統領になろうとする人物の登場を阻むことができ、かつ全国的選挙の長所を保持することができた[ 丹羽巌、『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993年)、10-11。]。ハミルトンは選挙人方式の利点を次のように述べている。
「大統領を直接選び出す人には、大統領の地位に相応しい素質を分析する能力を持ち、大統領には誰がよいかを理性的に判断のできる人物が好ましい。それには純粋で政治に対する理性的な能力を十分に備えた人々でなければならない。一般大衆より選ばれた少数の人々こそ、そのような複雑な選挙に必要な知識と選択眼を持ち合わせている可能性が強い」[ 丹羽巌、『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993年)、27。]
ただ1つの点のみが大統領を選挙人によって選出する方法において問題となった。過半数を獲得する候補がいない場合、上院が当選者を決定するという点である。大邦は、上院に最終選定を委ねることは小邦に有利だとして反対した。今日のような二大政党制の発展が見込まれていなかったので、ワシントンが大統領を務めた後、どの候補も過半数を獲得する可能性が低いと考えられ、したがって多くの大統領が上院によって選出されることが予想された。メイソンは20回のうち19回はどの候補も過半数を獲得することはないだろうと予測した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:500.]。しかし、代表達は上院の権限が強大になり過ぎることを恐れた。チャールズ・ピンクニーは、自己の任命を上院に依存するが故に大統領は上院の単なる手先となり、上院と結託して下院を圧迫する恐れがあると指摘した。メイソンとランドルフも同様の危険性を指摘した。ウィルソンは、上院が大統領を選出するようになれば、上院に強大な権限を与えることになると論じた。上院は大統領の任命を支配し、司法府の任命権を実質的に掌握し、さらに条約の批准権と弾劾を審判する権限を持っている。そうなれば立法、行政、司法の三権は上院で混合されることになり、他の府を圧迫するようになる。ウィルソンは上院ではなく連邦議会全体に大統領の最終選定権を与えるように提案した。メイソンは、上院に最終選定権を与えないようにするために、過半数の選挙人を獲得できなくても最高の得票者を大統領として選出するべきだと主張した。マディソンは、上院が最終選定権を行使する機会を少なくするために、最高の得票者が3分の1の選挙人を獲得すれば当選を認めるという案を提案した。こうした提案はいずれも否決された。様々な提案の中でシャーマンは、もしどの候補も過半数を獲得できない場合、下院で各邦に1票ずつ与えて票決を行う案を提案した[ Carol Berkin, A Brilliant Solution: Inventing the American Constitution (Harcourt, 2002), 143-144.]。下院で各邦に1票ずつ与える形式は小邦に配慮したためである。上院は下院が大統領の最終選定を終えた後、次点者が決まらない場合、副大統領の最終選定を行う権限が与えられた。9月6日、憲法制定会議はシャーマンの提案を採択した。
第7節 大統領の任期
大統領の選出方法、再任を認めるか否か、そして任期の長さはそれぞれ独立して考えられない問題であった。ヴァージニア案では行政府の長の任期は空白のままであり、再任は認められていなかった。6月1日、こうした規定が全体委員会で検討された時、再任を認め任期を3年とする案、再任を2回認め任期を3年とする案、再任を認めず任期を7年とする案など様々な案が提案された。
6月9日、ゲリーは行政府の長を連邦議会の投票ではなく諸邦の知事の投票で選ぶ案を提案した。邦知事は自身も邦の行政府の長であるため議会よりも有能な行政府の長を選ぶことができると期待された。しかし、ゲリーの案は否決された[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 621.]。代表達の選択は、再任を認めるか否かという点、そして連邦議会による選出を認めるか否かという点に絞られた。マディソンは再任を認める点と行政府の長を連邦議会によって選出する点の両方を同時に憲法案に盛り込むことはできないと主張した。何故ならもし大統領が議会によって選ばれ、かつ再任を認められた場合、大統領は再任されるように政治的影響力と官職任命権を使って議員を抱き込む危険性が考えられたからである[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:68.]。最終的に6月13日に以下のような決議がまとまった。
「1人からなる国家行政首長が設けられ、国民議会によって選出され、任期は7年とし、連邦法を執行する権限を持ち、その他の規定で定められる場合を除いた官吏を任命する権限を持ち、2回選ばれる資格はなく、弾劾され、不正行為、もしくは義務の怠慢で有罪判決を受ければ免職され、固定給を受け、それによって公務に彼の時間を捧げる報酬とし、国庫から支払いを受けると決議する。国家行政首長はあらゆる法を拒否する権限を持ち、その後、国民議会の各院で3分の2の票を得なければ可決されないと決議する」[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 622.]
マディソンの指摘にも拘わらず、7月17日、憲法制定会議は再任を認める点と行政府の長を連邦議会によって選出する点の両方を認めた。しかし、ジェームズ・マックラーグ(James McClurg)が両方を同時に盛り込むことの矛盾点を指摘した時、任期を1期に限るように戻された。さらにマックラーグはグヴァヌア・モリスとジェイコブ・ブルーム(Jacob Broom)の支持を受けて、矛盾点を解決する別の方法を提案した。すなわち、大統領を連邦議会が選出し、任期を罪過なき限り終身とする案である。マックラーグの考えでは、任期を7年とし、議会による再選を認めることは、行政府の長を永久に議会に従属させることを意味した。再選を認める議決の後で行政府の長の独立を保つためには任期を終身にするしかないとマックラーグは主張した。モリスはマックラーグの提案を支持し、終身制により行政府の長の独立が保たれるのであれば、どのような選任方法をとっても問題はないと述べた。メイソンは、行政府の長に終身制を認めることは容易に世襲君主制に転化する危険性があると指摘した。マディソンは、人民による選挙か、もしくは任期を長くすることで行政府の長を議会から独立させることは共和政体を保持するために不可欠であると論じた。マックラーグの提案はメイソンが述べたように過度に君主制を想起させるものだったので代表達にとって受け入れられるものではなかった。
7月19日、マーティンは行政府の長の再選を制限するべきだと動議した。ランドルフはマーティンの動議を支持して、もし行政府の長が議会により再選されることになれば、行政府の長は議会をまったく抑制できなくなると述べた。モリスは、行政府の長が議会により自由に任命され弾劾されるようになれば、行政府の長が人民の利益の保護者になることもできず、単なる議会の従属者になると警告した。そして、モリスは行政府の長を議会から独立させるために、行政府の長を人民の選挙で選び、再選資格を与えるべきだと主張した。キングも再選資格を奪うのに反対して人民が選ぶ選挙人による行政府の長の選出が最善であると主張した。マディソンは一般人民による選挙が望ましいと述べた。ウィルソンは再選資格をなくさない限り、行政府の長を議会が選出すべきではないという見解の一致が見られると指摘した。そして、人民による直接選挙、もしくは間接選挙が受け入れられるようになってきたのは喜ばしいことだとウィルソンは述べた。最終的に憲法制定会議はマーティンの動議を否決する一方で、大統領の任期を7年から6年に短縮することを決定した。任期をもっと短くすべきだと主張するモリスに対してエルズワースは、もし選挙が頻繁に行われれば、行政府の長の地位は十分に強固なものとならないと論じた。エルズワースの考えでは、たとえ不人気になっても行政府の長は遂行しなければならない義務を持っている。
7月24日、行政府の長をどのように選出するべきかという問題が再び議題にのぼった。ウィリアム・ホーストン(William Houston)は、既に同意が成立していたように選挙人が行政府の長を選出する代わりに連邦議会が行政府の長を選出する方式を再び提案した。ホーストンは、選挙人方式は非常に不便であり、多額の費用を要するうえに、有能な人物は選挙人になりたがらないだろうと述べた。結局、憲法制定会議は行政府の長を選出する方式を選挙人による方式から連邦議会による方式に戻すように決定した。任期と再任を認めるか否かも再び議論の対象となった。ウィリアムソンは選挙方法だけではなく任期を7年とし再任を認めない規定も復活させるべきだと主張した。エルズワースは再任を認めない規定を復活させることに反対して、もし再選を認めれば行政府の長は職務に励むことが期待されると主張した。ゲリーは、再任を認めないのであれば、任期を長くすればする程、行政府の長が議会に従属する危険性も抑えられるので任期を10年ないし20年に延期するべきだと主張した。
さらに7月26日、憲法制定会議は行政府の長の任期を1期に限るように決定した。具体的にどのような条文にするかは細目委員会に委ねられた[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 625.]。再任を認めるか否か、それとも連邦議会による選出か否かという問題はまた任期の長さを決定する問題でもあった。もし大統領が連邦議会によって選ばれ、再任が認められない場合、任期を長くするべきだと代表達は考えていた。一方でもし大統領が議会によって選ばれず再任が認められた場合、任期を短くするほうが好ましいと代表達は考えていた。
8月6日、細目委員会は草案を提出した。行政府の長に関する条文は以下の通りである。
「第1節、合衆国の行政権は1人の人物に属する。彼の肩書きは『アメリカ合衆国大統領』であり、彼の称号は『閣下』である。大統領は議会の投票によって選出される。大統領は7年間、在職し、2回選出されることはない。第2節、大統領は、随時連邦の状況につき情報を議会に与える。大統領は必要にして良策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告する。大統領は非常の場合には、議会を招集することができる。閉会の時期に関して両院の間に見解の一致を欠く場合には、自ら適当と考える時期まで休会させることができる。彼は合衆国の法律の適切かつ忠実に執行されることを配慮する。大統領は合衆国のすべての官吏を任命し、この憲法に特別の規定あるもの以外のすべての場合の官吏を任命する。大統領は大使を接受し、諸国の首長と通信できる。大統領は刑の執行延期と恩赦を与える権限を有するが、彼の恩赦は弾劾を防止するために申し立てることはできない。大統領は陸海軍及び各州の民兵の最高司令官である。大統領はその職務に対して定時に報酬を受け、その額は彼の任期の間、増減されることはない。大統領は行政府の職務の遂行を開始する前に、次のような宣誓もしくは確約をしなければならない。『私はアメリカ合衆国大統領の職務を忠実に遂行することを[空白]厳粛に誓う(もしくは確約する)』。大統領は、反逆罪、収賄、もしくは汚職で下院によって弾劾され、かつ最高裁で有罪判決を受ければその職を免じられる。上述のような免職、死亡、辞職、またはその権限及び義務を遂行する能力を失った場合は、別の大統領が選ばれるか、大統領の不能力の状態が去るまで上院議長がその権限と義務を行使する」[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 626-627.]
憲法制定会議は8月24日まで大統領に関する規定を取り上げなかった。大統領に関する規定の議論は8月27日まで行われた。大統領の権限を強めようとする提案も大統領の権限を弱めようとする提案も認められなかった。8月末、憲法制定会議は様々な問題を考案するために延滞事項委員会を発足させた。延滞事項委員会は、選挙人によって大統領を選出し、再任は制限されず、任期は4年とすることを推奨した。憲法制定会議は延滞事項委員会の報告を採択した。
任期を4年とし、再任を制限しないという決定は、任期を1期に限るべきだという主張と任期を終身とするべきだという主張の間の妥協である[ 宇都宮静男、『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974年)、167。]。多くの代表達は再任を制限するという考えに否定的であった。もし大統領が良い治績をあげたのならば、どうして人民は彼を続投させることが許されないのだろうか。議員の再任には制限が課せられないことを考えると、議員よりも継続性と経験が必要とされる行政府の長に再任を認めることは妥当である。国家の緊急時に人民の安全に不可欠な行政府の長を再任できなくするのは懸命なことだろうか。またもし再任が認められないことで政治的野心を阻まれた行政府の長が暴力や憲法に反した方法で権力を維持しようとする可能性もある[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:53.]。
第8節 大統領の弾劾
憲法制定会議の間、代表達は任期が満了となる前に大統領を免職にする場合を想定した。深刻な権力の悪用があった場合、その救済策は弾劾である。弾劾はイギリスの政治制度で歴史に根差した伝統的な慣習である。17世紀の間、大臣や参事の庶民院による弾劾と貴族院による審判は、君主制の権力の中で議会が支配を強め、大臣を議会に対して責任を持たせるうえで大きな役割を果たした[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 233.]。18世紀になって庶民院が不信任決議で大臣を辞めさせることができるようになると弾劾はその重要性を減じた。しかし、行政府が立法府に責任を持つ伝統は残った。
ヴァージニア案では行政府の長の弾劾について明確な規定はないが、多くの代表達はそうした仕組みを憲法案に盛り込むべきだと考えていた。邦憲法の中では7つの邦憲法が弾劾について定めていた。強い行政府の長を推進する代表達は、目標を達成するためには、歯止めが効かなくなった行政府の長を免職できる仕組みを盛り込んで他の代表達を納得させる必要があると認識していた。ディキンソンは連邦議会が邦議会の多数の請求によって行政府の長を免職できるという動議を提出した。ディキンソンは、邦議会にそうした権限を持たせることで各邦が行政府の長を統制できると考えていた。メイソンは、行政府の長を罷免する手段を講ずる必要性は認めたが、罷免権を議会に委ねることで行政府の長を隷属させることは善良なる政府の根本原理に反すると主張した。マディソンとウィルソンは、行政府の長の罷免に邦を介入させることは不当であると反対した。ディキンソンの動議は、デラウェア邦を除くすべての邦の反対で否決された[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 620.]。
弾劾に関する憲法制定会議の統一見解は6月2日に示された。6月2日、全体委員会でウィリアムソンは、行政府の長が非行、または義務を怠ったと弾劾され有罪判決を受けた場合、免職されるという動議を提出した。全体委員会はウィリアムソンの動議を即座に承認した。また司法府の管轄権が弾劾の審判に及ぶことも決定された[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:88.]。しかし、弾劾を誰が行うか、そしてその審判を誰が行うかは必ずしも明確ではなかった。すべての邦は邦憲法で下院に弾劾権を認めていた。審判を行う権限は、2つの邦では裁判所に、他の2つの邦では上院議員と判事から構成される特別裁判所に、残りの邦では上院に与えられていた。
憲法制定会議の統一見解は7月19日にさらに強化された。7月19日、グヴァヌア・モリスはもし大統領の任期が短ければ、時間の経過が問題を解決してくれるのでわざわざ弾劾を行う必要はないと主張した。行政府の独立を保障するために議会によって弾劾を行うべきではないとモリスは考えたのである。キングもモリスの見解を支持して、もし議会が行政府の長を弾劾できるのであれば、三権分立の原理は破壊されると主張した。判事と違って行政府の長は選挙により周期的に審査される。選挙による周期的な審査は弾劾に相当する保障となる。こうした意見に対してマディソンは、行政府の長の無能力、怠慢、もしくは背信に対して何らの予防策は必要であると述べた。任期の制限は十分な予防策ではない。議会の場合はすべての議員が腐敗する可能性は低い。しかし、大統領は単独であるために議会よりも無能力、腐敗などが起こり易い。さらにゲリー、ランドルフ、フランクリン、そしてメイソンが反論を行った。彼らは、弾劾が権力の悪用に対する重要な安全策であり、暗殺という手段に頼らずに暴君を排除する方法であると主張した。こうした反論にあってモリスは自らの論を撤回し、行政府の長の弾劾の必要性を認めた。しかし、大統領の審判を議会が行う以外の方法を周到に規定しなければならないとモリスは付け加えた。代表達は弾劾の必要性を認めた。
細目委員会は、ウィリアムソンが提案した弾劾について明確に定義しようと努め、弾劾を行うべき場合を「反逆、収賄、そして汚職」と定めた。さらに細目委員会は、弾劾の過程を下院が弾劾を行い、最高裁が審判すると明示した。8月27日まで憲法制定会議は弾劾に関する細目委員会の報告を取り上げなかった。モリスは、最高裁長官を含む審査院を設けるのであれば、審査院は弾劾の過程に関与すべきではないと主張した。代表達はモリスの動議を受け入れた。そして、8月31日、延滞事項委員会が発足し、弾劾の問題も扱うことになった。
延滞事項委員会は9月4日に3つからなる報告を提出した。第1に弾劾は下院が行うこと、第2に審判は最高裁長官が議長を務める上院で行うこと、第3に弾劾は「反逆罪か収賄」を根拠として行い、「汚職」という曖昧な根拠で行わないことである。マディソンは、上院に審判を行う権限を与えれば、上院に大統領が従属させられるとして、最高裁が審判を行うように戻すように提案した。それに対してモリスは、少数で構成される最高裁は容易に腐敗させられるので上院に審判を委ねたほうがよいと主張した。シャーマンは、大統領が判事を任命するので最高裁が大統領を審判するのは不適当であると述べた。9月8日、メイソンは「反逆罪と収賄」のみでは、例えば憲法を覆そうとするような多くの危険な侵害行為を取り締まることができないと主張した。そして、メイソンは、「失政」を弾劾の対象に含めるように要求した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:550.]。マディソンが「失政」は実質的に議会における不人気以上の意味を持たないと反対すると、メイソンは失政を「重大犯罪と非行」に改めた。「重大犯罪と非行」は深刻な権力濫用を示す14世紀のイギリスの慣習法の用語である。マディソンの反対にも拘わらず、「重大犯罪と非行」は憲法制定会議によって採択された。
さらに代表達は延滞事項委員会の弾劾に関する報告に3つの修正点を加えた。第1に上院の審判の可決に必要な票数は過半数から3分の2に引き上げられた。第2に副大統領とすべての行政官が大統領と同じく弾劾の対象になることが定められた。第3に公平を保つために弾劾を審判する目的で上院が開会される場合、議員は「宣誓あるいは確約することを必要とする」という規定が付け加えられた。
第9節 大統領の不能力
大統領の弾劾について論じられる一方で、大統領が職務を遂行できなくなる場合についても論じられた。その問題が憲法制定会議で初めて論じられたのは8月6日のことで、大統領職の継承に関する細目委員会の報告が検討された時であった。細目委員会は、大統領が職務の義務と権限を遂行できなくなった場合、上院議長がその義務と権限を遂行すると規定していた。
8月27日、ディキンソンは職務が遂行できなくなった場合とは具体的にどういう状況で誰が判断するのかと疑念を示した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:427.]。職務を遂行できなくなった場合に関する議論を詳細な答えを決めるために後回しするように代表達は決定した。しかし、詳細な答えを決める機会は遂に訪れなかった。その結果、憲法の中で職務を遂行できなくなった場合について明確に定義されずに残った。大統領が職務を遂行できなくなくなったとどのように判断するのか、またどのように継承者に大統領職の権限と義務を受け継がせるのか、そうした過程は未だに不明確である。延滞事項委員会は、単に副大統領、すなわち上院議長を職務が遂行できなくなった大統領の継承者として規定し、何ら明確な説明のないままに「不能力(disability)」という言葉を「無能力(inability)」という言葉に換えた。
副大統領職の設置は1つの問題を解決した。もし大統領が死亡するか、職務を遂行できなくなるか、または弾劾され有罪が確定した場合にどうなるのかという問題である。細目委員会が初めにこの問題を扱った。細目委員会は、上院議長が、新しい大統領が選出されるか、大統領が職務を遂行できるようになるまで大統領の職務を代行するという案を推奨した。マディソンを中心とする代表達は、そうした案は上院に大統領を免職する動機を持たせるものだとして反対を唱えた。結局、この問題は延滞事項委員会に付託された。
延滞事項委員会は、上院議員ではなく副大統領が上院議長を務め、もし大統領職が空席になった場合、副大統領が大統領職を占めるという案を提案した。死亡した大統領の任期が満了を迎える前に特別選挙を行って大統領を選出するという動議を採択したうえで憲法制定会議は延滞事項委員会の案に賛同した。
文体委員会が憲法の最終稿を起草した時にそうした動議は抜け落ちた。誰も誤りに気付かなかった。その結果、憲法制定会議は憲法に2つの曖昧な点を残した。1つ目は、大統領が死亡するか、辞職するか、職務を遂行できなくなるか、または免職された場合、副大統領は新たな大統領になるのか、それとも単に大統領の職務を代行するだけなのかという疑問点である。2つ目は、副大統領が大統領の残りの任期を務めるのか、それとも新たな大統領を選出する特別選挙が行われるまで一時的に任期を務めるのかという疑問点である。こうした疑問点をめぐる論争は、ウィリアム・ハリソンが在職中に初めて死亡した大統領になった時に起きた。最終的に副大統領のタイラーは特別選挙を行うことなくハリソンの残りの任期を務めた。
第10節 三権分立の原理
多くの代表達は、自由を守るためには政府に権力分立の原理を組み込まなければならないと確信していた。したがって大統領の創始を考えるにあたっては権力分立の原理について代表達がどのように考えていたのか知る必要がある。様々な啓蒙政治思想家の中でもモンテスキューの思想が大きな影響を代表達に及ぼしていた。モンテスキューは1748年に書かれた『法の精神』の作者として権力分立に関する託宣者と言えた。モンテスキューの思想は代表達によく知られていた。ハミルトンは『ザ・フェデラリスト』で次のようにモンテスキューの思想を説明している。立法府の権力と行政府の権力が同一の人物か、同一の統治機関の手に握られた場合、自由はあり得ない。なぜなら同じ君主か元老院が専制的なやり方で法律を施行するために専制的な法律を定める恐れがあるからである。また裁判権が立法府に与えられれば、臣民の生命と自由は恣意的な統制の下に置かれる[ Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (New American Library, 1961), 301, 303.]。
合衆国憲法に適用された権力分立の原理は、ある特定の機能を果たすために政府のそれぞれの府に排他的権限が与えられる厳密な分化というわけではなかった。代表達にとって権力分立は実際には分けられた府が権限を共有する形態であり、1つの府の構成員が他の府の構成員を兼ねない形態であった[ Richard E. Neustadt, Presidential Power (Wiley, 1960), 35.]。当初から憲法制定会議は権力分立を守るために2つの禁令を課していた。1つ目の禁令は、現職の行政府の長の給与を変更しないことである。2つ目の禁令は、立法府と行政府に同時に籍を置くことを誰にも認めないことである。両方の禁令はヴァージニア案で示され、最終案でも実質的に変更されずに残った。
行政府の長が議会によって選出されるという条文の後でヴァージニア案は「定期的に規定された回数、決まった俸給を受け取り、増額や減額が行われる際に在任している行政首長職に影響を及ぼすような増額も減額もされない」と規定している。行政府の長に関する他の規定が曖昧なのを考えると、給与に関する規定は詳細なものと言える。マディソンは明らかに給与を増減することで議会が行政府の長の独立性を脅かすことを恐れていた。
憲法制定会議の間、行政府の長の給与に関する条項は僅かに修正されただけである。最終的に代表達は大統領が合衆国、もしくは諸邦から他のいかなる報酬も受けてはならないという規定を付け加えた。6月2日、ウィルソンは、大統領にいかなる報酬も与えるべきではないというフランクリンの演説を読み上げた。フランクリンは、権力を愛し、お金を愛することは多くの人々を駆り立てる原動力となり、その両方が同じ官職において一挙に得られるのであれば、多くの人々の心に深甚な影響を及ぼすと考えていた[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:82.]。代表達はフランクリンの演説を静聴したが、その主張を受け入れなかった。行政府の長の独立を議会から守るためには、大統領職を富裕者のみが占めることができる官職にすることは意味がなかったからである。
大統領の報酬の増減を禁止したことに加えて、立法府の構成員と行政府の構成員を完全に分離する決定は当然の決定であった。ヴァージニア案では連邦議員の資格について「4、国民議会第一院の議員は、少なくとも[空白]歳に達し、各邦の人民によって[空白]年毎に[空白]年の任期で選出され、公務に彼らの時間を捧げる代償として十分な俸給を受け取り、特定の邦がもうける公職、もしくは合衆国の権限の下、第一院の権能に属する特別な公職を除いて、任期中、もしくは任期満了後[空白]年間は、いかなる公職に就く資格も有せず、任期満了後[空白]年間は再選されることはなく、解職請求にも従うべきであると決議する。5、国民議会第二院の議員は、少なくとも[空白]歳に達し、各邦議会がそれぞれ指名した適切な数の人々の中から第一院によって選ばれ、彼らの独立性を保つのに十分な期間その職を保ち、公務に彼らの時間を捧げる代償として十分な俸給を受け取り、特定の邦がもうける公職、もしくは合衆国の権限の下、第二院の権能に属する特別な公職を除いて、任期中、もしくは任期満了後[空白]年間は、いかなる公職に就く資格も有するべきではないと決議する」と規定している。最終案では議会を去った後に公職に就くことを禁じる規定が除外された一方で、連邦議員は在任中、合衆国のいかなる公職にも就くことはできないと規定されている。また憲法は連邦議員が大統領選挙で選挙人を務めることも禁じている。
代表達は、行政府の長が議員を行政府の官職と俸給で抱き込むことができないように行政府と立法府を分離させるように努めた。6月22日、ピアース・バトラー(Pierce Butler)は、イギリスの議員が、彼ら自身と友人のために官職を得ようとすることが腐敗の原因になっていると主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:376.]。さらに翌日、バトラーは、モンテスキューに依拠して、委託された権限を自らの利益のために悪用しようとする者に権限を与えることは賢明ではないと主張した。こうした問題は8月14日にジョン・マーサー(John Mercer)によって再び取り上げられた。マーサーは、政府は政治的影響力によって維持されるものであり、大統領が議員を行政府の官職に任命できないことで影響力を行使できなくなれば、大統領は単なる権威の亡霊になってしまうと主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:284.]。さらに9月3日、ウィルソンとチャールズ・ピンクニーは、もし官職に就く者が1つ以上の職の責任を忠実に果たすには腐敗し過ぎているということになれば、尊敬すべき人々は官職に就きたがらなくなるだろうと論じた。こうした反対にも拘わらず、代表達は行政府と立法府を分離する決定を変えなかった。行政官と議員を兼任することを禁じる特徴は、アメリカの政治制度を議員が慣習的に行政官を務める議院内閣制とまったく異なる制度にした[ James Sundquist, Constitutional Reform and Effective Government (Brookings, 1992), 232-244.]。
しかし一方で、判事が行政府の官職に就く場合については何も言及されていない。ニュー・ジャージー案は判事が行政府の官職に就くのを禁じているが、憲法制定会議の場でそれが議論されることはなかった。それどころか審査院に関する提案では行政府の長に加えて1人か、さらに多くの連邦判事を審査院の構成員とするように提案されていた。判事が行政府の官職に就くことを許すことは代表達の手落ちではなかった。代表達は行政府と司法府を法律を施行する組織として合わせて考えていた。また代表達は、新しい政府の中で最も強力な府は立法府であり、立法府を抑制するためには行政府と司法府が連携しなければならないと考えていた。
第11節 拒否権
代表達は大統領やそれぞれの府に与えられる権限をなかなか列挙しようとはしなかった。ヴァージニア案の主な起草者であるマディソンは、フィラデルフィアに到着する2週間前にワシントンに向かって、行政府の長にどのような権限を与えるべきか未だに具体的に意見をまとめていないと述べている。当初はそれぞれの府に特定の権限ではなく一般的な権限を与えるだけであった。ヴァージニア案で立法府は、「各院は法を案出する権利を有し、連邦によって連合会議に与えられた立法権を享受する権利を国民議会に与えるべきであり、さらに各邦が権能を持たないすべての場合、もしくは、各邦議会の行為によって合衆国の調和が乱される場合において法を制定する」と規定されているだけである。行政府については、「国法を施行する包括的権限に加えて、連邦によって連合会議に与えられた行政権を享受する」と規定され、審査院とともに拒否権を行使できると規定されているのみである。代表達が権限の一般的な授与を好んだのは、特定された権限は時の経過とともに時代遅れとなり、実質的に政府の権限を制限するものとなると考えたからであった。
細目委員会は、憲法案でそれぞれの府の権限を列挙し、憲法制定会議に報告した。憲法制定会議は委員会の報告を採択した。代表達は逐条的に列挙された権限に関して議論を行ったが、権限を列挙すべきだという決定に関しては反対する者は誰もいなかった。
議会が可決した法案を拒否する権限は、ヴァージニア案で示された行政府の長の権限の中で唯一の特定された権限である。弱い邦知事と強い邦議会によってもたらされる弊害は、立法府の権限侵害に対して行政府が自己防衛手段として拒否権を持つ必要性を代表達に痛感させた。しかしながら代表達は多くの権限を行政府の長になかなか与えようとはしなかった。
ヴァージニア案では行政府の長は審査院の協力の下、拒否権を発動できるようになっていた。マディソンはそうした審査院の協力があれば、行政府の長は積極的に拒否権を発動できるだろうと考えていた。マディソンの信念は、ニュー・ヨーク邦では邦知事のみに拒否権が認められているものの、ほとんど拒否権は行使されていない一方で、マサチューセッツ邦では参事院を伴った邦知事が自由に拒否権を行使しているという事実に基づいていた[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 130-131.]。またヴァージニア案は、拒否権を行使された法案は、両院の多数決で再可決されると規定している。
6月4日、ウィルソンとハミルトンは行政府の長に議会の再可決を受けない絶対拒否権を与えるように全体委員会に求めた。それに対してフランクリン、シャーマン、メイソンを中心とする他の代表達は、植民地時代にイギリスの国王や総督が植民地議会の法案に対して絶対拒否権を持っていたことを思い出させた。メイソンは、行政府の長は侵害的な法案に対して、議会が再考することを期待して法制化を延期する権限だけを認めるべきだと主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:101.]。行政府の長に絶対拒否権を与える案は全会一致で否決された。ゲリーは、行政府の長に議院の法案に対する拒否権を与え、それぞれの院で3分の2の票数が集まれば法案は再可決されるという折衷案を提案した。それはマサチューセッツ邦憲法で邦知事に与えられていた拒否権と同様であった。ゲリーの折衷案は採択され、行政府の長は拒否権を審査院と分有するべきだという提案は棚上げされた。
6月6日、ウィルソンとマディソンは司法府の代表を拒否権の行使に関与させる審査院を復活させるように提案した。しかし、両者の提案は否決された。7月21日、再びウィルソンは司法府の代表を拒否権の行使に関与させるように提案した。マディソンは司法府が拒否権の行使に関与することで立法府の侵害からその身を守る機会を提供できる考えてウィルソンの案を支持した。その一方でゲリーは、司法府を拒否権の行使に関与させることは行政府と司法府を混合させることになるという理由で反対を唱えた。またゴーラムは、1人の行政府の長と数人の判事が拒否権の行使に関与することで、拒否権は行政府の長の手から取り上げられ、判事は行政府の長を犠牲にするようになるとして反対した。さらにラトレッジは法が成立する前に判事は法に対する解釈を行うべきではないとして反対した。司法府の代表を拒否権に関与させるという提案は、4票対3票で否決された。次に憲法制定会議は、行政府の長が司法府の構成員を指名し、もし上院の3分の2の反対がなければその指名は確定されるというマディソンの提案を取り上げた。しかし、数人の代表が任命権を連邦議会から取り上げることに反対した。結局、マディソンの提案は6票対3票で否決された[ David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents, Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama (The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 625-626.]。
8月6日の報告で細目委員会は、拒否権に関する全体委員会の決定に忠実に沿いながら2つの未解決の問題を解決した。1つ目の問題は、大統領のみに拒否権を与えたことである。2つ目の問題は、大統領が法案に対応するまで、法案が可決されてから7日間の期間を与えることである。その期間中に大統領によって署名もされず拒否もされなかった法案は法となる。しかしながら大統領が拒否権を行使する機会を持つ前に休会することで議会が思い通りにすることを防ぐために、重要な例外が設けられた。もし議会が7日以内に休会した場合、大統領は法案を拒否するために単に無視すればよいことになった。そのような拒否権は後に「握りつぶし拒否権」と呼ばれるようになる。
8月15日と16日、憲法制定会議は、細目委員会の報告に関して大統領の拒否権を強化する修正を加えるように決議した。再可決に必要な票数が3分の2から4分の3に引き上げられた。さらに議会が法案を別の名前で呼んで拒否権の行使を免れようとさせないために、拒否権の対象が「すべての命令、決議、そして票決」に拡大された。最終的に、大統領が拒否権を行使できる期間は7日間から日曜日を含まない10日間に延長された。
拒否権に関する最後の修正は9月12日に加えられた。9月12日、文体委員会は最終案を提出した。ウィリアムソンは大統領の拒否権を覆すのに必要な票数を4分の3にするという条項を再考するように代表達に求めた。ウィリアムソンは4分の3の条項を提案した1人であったが、そのような規定では大統領に多くの権限を与えることになるとして反対したのである。いかなる形式の拒否権も認めようとしなかったシャーマンはウィリアムソンの提案を支持した。
グヴァヌア・モリス、ハミルトン、そしてマディソンは4分の3の条項を擁護しようとした。モリスは、共和政体を危機にさらす法の不安定さを防止するために4分の3の条項が必要であると訴えた。モリスの考えでは、法が不足するよりも法が過剰に制定されるほうが社会にとって有害であった。さらにマディソンは、立法府の不正と権力侵害を抑制するために拒否権がいかに重要かを代表達に納得させようとした。モリスもマディソンも代表達を説得することはできなかった。ゲリーは、3分の2の票数で十分な保障となり、4分の3の票数は少数者に過大な権力を与えることになると主張した。最終的に、大統領の権限に関して疑念を抱く代表達に憲法案に速やかに署名させるために、憲法制定会議は再可決に必要な票数を4分の3から3分の2に戻した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:585-587.]。しかし、3分の2の票数は、総議員数の3分の2であるか、それとも出席議員の3分の2であるか憲法は明確に規定していない。後に1919年の最高裁の判決により、出席議員の3分の2であることが確定した。
第12節 行政権
ヴァージニア案では行政府の長について「国家行政首長が設けられる」と規定されている。全体委員会はこの規定に「1人の人物によって構成される」という文言を付け加えた。さらに細目委員会は、「合衆国の行政権は1人の人物に与えられる。彼の称号は『合衆国大統領』とされ『閣下』とされる」と規定した。行政権の帰属を明言する文言はピンクニー案を参考にしていることは明らかである。細目委員会の行政府の長に授与する権限を明らかにした条項は重要である。なぜなら大統領の権限が議会の恣意的な授与によるものではなく憲法に由来するものであることを明確に規定したからである。
「行政権」という言葉は一般的な用語で曖昧な言葉であった。それは列挙された権限以上の内容を持ち、特定されない権限を付与し得るものであった[ Richard M. Pious, The American Presidency (Basic Books, 1979), 29.]。そうした権限の中で第1に考えられるものは非常時大権である。大権についてはロックが『市民政府二論』で詳細に論じていたので、代表達にとって馴染みのある概念であった。大権とは、人民がその支配者に公共の善のために場合によっては法に反しても自由な選択で物事を行うことを許すことである[ John Locke, The Second Treatise on Government (Bobbs-Merrill, 1952), 91-96.]。
大統領の権限が憲法で列挙されている権限の枠内を超え得るという理論は、グヴァヌア・モリスのお蔭で憲法自体の条文によって支持されている。モリスは文体委員会で主な起草者としての役割を果たした。委員会の責務は単に憲法案の文体を印刷するのに適した形式に変えることであった。強い行政府の長を推進する考えを持っていたモリスであったが、実質的にできることはほとんど何もなかった。モリスのそうした傾向はよく知られていて、大統領を強化するために何らかの大きな変更を加えればすぐに知られる可能性があった。モリスは大統領に行政権を授与する条項を「行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する」と特に変更を加えなかった一方で、議会に立法権を与える条項を「この憲法によって与えられる一切の立法権は、合衆国議会に属する」と変更した。
「この憲法によって与えられる」という文言が立法府の権限に加えられている一方で、行政府の権限に加えられていないという事実は、行政府の権限が「この憲法によって与えられる」範囲を超えることを認めるものだと考えられた。さもなければ、なぜ立法府の権限に「この憲法によって与えられる」という文言が加えられているのに、行政府の権限には同様の文言が加えられていないのか説明できないからである[ Charles C. Thach Jr., The Creation of the Presidency, 1775-1789 (Johns Hopkins University Press, 1969), 138-139.]。
第13節 統帥権
ヴァージニア案では行政府と立法府に一般的権限を与えることが明記されているだけで軍隊を誰が指揮するのか規定されていない。それはヴァージニア邦の代表達の間で意見の統一がなされず、誰に軍事権限を与えるか未だに不明確であったためである。18世紀の多くの政治哲学者は、戦争と講和の権限は行政府に属すると考えていた。しかし、憲法制定会議の初期の段階では、連合規約の下で連合会議が軍隊を制御したように連邦議会が軍隊を制御するのが当然だと多くの代表達は考えていた。6月1日、憲法制定会議がヴァージニア案の行政府の長について取り上げた時に、チャールズ・ピンクニーは行政府の長の権限を戦争と講和にまで拡大するべきではないと主張した。それは行政府の長を君主に変えてしまう恐れがあるとピンクニーは訴えた。強力な行政府の長を主張するウィルソンさえピンクニーの見解を支持した。ウィルソンは、イギリス国王が持っていたような権限は行政府の権限を決定するのに適切な参考とはならないと述べた。そして、戦争と講和のような権限は本質的に立法府の権限であると述べた。さらにウィルソンは、法の執行と官吏の任命が厳密に行政府の長の権限であると付け加えた。
全体委員会ではこの問題は取り上げられなかった。細目委員会が大統領の列挙された権限の中に初めて軍事的役割を示す条項を盛り込んだ。細目委員会は大統領が「合衆国陸海軍、及び諸邦の民兵の最高指揮官」であることを規定した。しかし一方で連邦議会には「戦争を行う権限、軍隊を徴募する権限、艦船を建造し擬装する権限、連邦法を執行し、条約を守り、反乱を鎮圧し、侵略に対抗するために民兵を召集する権限」が与えられた。8月17日にこれらの条項が検討された時、代表達は混乱した。「戦争を行う権限」には明らかに実際の戦闘行為を指揮する権限が含まれていると考えられる一方で、大統領には最高司令官の職務が与えられていたからである。いったい立法府と行政府のどちらに実際に兵士達を指揮する権限があるのかが問題となった。
細目委員会によって提示された曖昧な規定を明確にするために、憲法制定会議では議論が行われた。ピンクニーは下院に戦争を行う権限を与えることに反対した。なぜなら下院は人数が多過ぎて決定を下すには緩慢過ぎると考えられたからである。条約を締結する権限を与えられた上院のみに戦争を行う権限を与えるべきだとピンクニーは主張した。しかし、ピンクニーの案を支持する者はいなかった。バトラーは議会が軍事的な問題に対して迅速に対応できるか疑念を示し、大統領に戦争を行うのに必要なすべての資格を与えるように求めた。バトラーの提案を支持する者も誰もいなかった。マディソンとゲリーは、大統領に広範な軍事的権限を与えることに躊躇しながらも、議会は外国の侵略に対して迅速に対応できないと指摘した。そのため.議会の「戦争を行う権限」を「宣戦布告する権限」に換え、大統領が突然の攻撃に対して迅速に対応できる余地を残した。シャーマンは、行政府の長が侵略に迅速に対応できるようにすべきだが戦争を開始できるようにするべきではないとしてマディソンとゲリーの意見に賛同した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:318.]。また行政府の長に戦争権限を与えるべきではないと主張していたメイソンも「戦争を行う権限」を「宣戦布告する権限」に換える案を支持した。マディソンとゲリーの動議は採択された。
マディソンとゲリーの動議が採択された後、バトラーは立法府に戦争権限を与えたのと同じく、講和の権限、つまり条約を締結する権限も立法府に与えるべきだと提案した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:318-319.]。明らかに代表達は、国家を交戦状態に置く権限を議会に与える一方で、大統領に侵略を撃退する権限と議会による授権の後で戦争を行う権限を与えることを規定していた。しかし、憲法の僅かな条項と代表達の性急な議論によって多くの重要な問題が解決されずに残された。大統領は国家が攻撃を受けるまで待たなければならないのか。侵略の危機が差し迫っている場合、大統領は先制攻撃ができないのか。急激な攻撃に対して国を守る権限は、海外のアメリカ市民と利益を守るために行使できるのか[ Forrest McDonald, The American Presidency: An Intellectual History (University Press of Kansas, 1994), 173-174.]。
「戦争を行う権限」と「宣戦布告する権限」に関して代表達は議論したが、大統領を最高司令官とする条項についてはほとんど議論しなかった。2邦を除いてすべての邦で邦知事が邦の軍隊の最高司令官とされていた。そのため強力な行政府の長に反感を抱く代表でさえ、大統領を最高司令官にする条項に特に何の疑問も抱かなかった。最高司令官の権限は、戦争、侵略、反乱の際に軍隊に指示を与えることであるという共通見解が代表達の間にあった。またそうした権限は、戦争を開始し、戦争を終わらせる権限と同一ではないという共通見解もあった。最高司令官は軍隊を徴募し維持する権限を持たない。軍隊を徴募し維持する権限は議会にある。そうした点で大統領の最高司令官としての権限は、邦知事の権限よりも制限されていると言える。邦知事は自らの権限で民兵を召集することができるのに対して、大統領は議会が召集した軍隊を指揮するだけである。明らかに代表達は大統領を最高司令官とすることで、戦争を開始し、戦争を終わらせる権限を与えようとはしていなかった。その一方で、軍隊を指揮する権限を、多人数によって構成され、常に開かれているわけではない議会に与えるよりも大統領に与えるほうがよいという利点はまったく議論の余地のないことであった。
8月27日、憲法制定会議は諸邦の民兵の制御に関して、大統領は現に召集されて合衆国の軍務に服することが確定したうえで民兵の最高司令官として務めるというシャーマンの動議を議論の余地もなく受け入れた。したがって最終的に憲法では、第2条第2節1項において「大統領は合衆国の陸海軍及び現に召集されて合衆国の軍務に服する各州の民兵の最高司令官である」と規定されている。
第14節 閣僚
憲法は第2条第2節1項において「大統領は行政各部省の長官から、それぞれの部省の職務に関する事項につき、文書によって意見を徴することができる」と規定している。代表達は「行政部各部省の長官」という言葉を閣僚を構成する各省庁の長官という意味で規定したわけではない[ Anthony J. Bennett, The American President’s Cabinet: From Kennedy to Bush (St. Martin’s Press, 1996), 2.]。事実、憲法の中には「閣僚」に対する明確な言及はない。こうした規定は延滞事項委員会によって提案され、9月7日に全会一致で採択された。しかし、こうした案の原型はヴァージニア案が提案した審査院に見られる。
多くの代表達は何らかの形式の審査院を設けようとしたが、結局、審査院は設けられなかった。なぜなら誰を審査院に加えるか、または審査院を単なる諮問機関にするか、それとも行政権を分有させるのかなどについて様々な意見があり1つにまとまらなかったからである。
閣僚に関する代表的な案としてグヴァヌア・モリスとチャールズ・ピンクニーの案が挙げられる。8月20日、モリスとピンクニーは、行政府に5つの省庁を設ける案を提案した。5つの省庁の長は、司法長官、内務長官、財務長官、外務長官、国防長官で構成され、それぞれ大統領に責任を負う。モリスの提案をもとに、細目委員会は「合衆国大統領は、上院議長、下院議長、最高裁、及び外務、内務、陸軍、海軍、及び財務の各省庁が随時設置されるにしたがい、これらの各省庁の長官より構成され、かつ彼が自己の職務執行に関し、適宜付議する事項に彼を助言する義務がある枢密院を有する。しかし、彼らの助言は彼を拘束し、もしくは彼の採る処置に対する彼の責任に影響しない」とまとめた。細目委員会の案は議論されなかったが、大統領が省庁の長官から助言を受けるという発想は、9月4日の延滞事項委員会の報告の基礎となった。9月7日、メイソン、フランクリン、ウィルソン、ディキンソン、そしてマディソンは審査院を設けるべきだと再び主張したが、様々な論点をめぐってこれ以上の事態の紛糾を望まなかった代表達は、延滞事項委員会の報告をそのまま受け入れた。
第15節 恩赦権
植民地時代、恩赦を与える権限は総督の権限であった。ただし反逆罪や殺人罪に関しては、植民地総督は、国王の裁定があるまで刑の執行猶予を行うことしかできなかった。他のどの邦よりも大きな権限を与えられたニュー・ヨーク邦知事も、反逆罪や殺人罪に関しては次の議会が開かれるまで刑の執行猶予を行うことしかできなかった[ Francis Newton Thorpe, The Federal and State Constitutions: Colonial Charters, and Other Organic Laws of the States, Territories, and Colonies, Now or Heretofore Forming the United States of America (Scholarly Press, 1909), 2633.]。またヴァージニア邦やジョージア邦では邦知事に恩赦権は与えられていなかった。大統領に恩赦の権限を与えるべきだと最初に提案したのはハミルトンである。6月18日の演説の中でハミルトンは、行政府の長に反逆罪を除くすべての違法行為に対して恩赦を認める権限を与えるべきだと主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:292.]。細目委員会は、大統領が「執行猶予と恩赦を認める権限を有し、その恩赦は弾劾を防止するために申し立てられることはない」と勧告した。
本来、恩赦は国王が持つ権限であった。イギリスではすべての犯罪は国王に対する違法行為だと見なされていた。したがって違法行為を許す権限は国王の特権であった。合衆国ではすべての犯罪は行政府の長ではなく法に対する違反行為だと見なされる。そのためどの邦憲法も邦知事に単独の恩赦権を認めていない[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 220-221.]。
8月25日、シャーマンは大統領の恩赦に上院の同意を必要とするように修正する動議を提案した。シャーマンの動議は否決された。8月27日、マーティンが、恩赦を有罪判決が出た後にのみ認める動議を提出した。それに対してウィルソンは共犯者の証言を得るために有罪判決が下る前に恩赦を認めるべきだと主張した。マーティンは動議を撤回した。9月12日、文体委員会は恩赦を「合衆国に対する犯罪」に限った。すなわち、恩赦の対象から諸邦の法を除外し、連邦法に対する違法行為に限ったのである。9月15日、ランドルフは、反逆罪に大統領自身が加担する可能性があるので反逆罪に対する恩赦を認めないという動機を提出した。ウィルソンはもし大統領自身が反逆罪に加担していたとしても、大統領は弾劾され罷免され得るとして反対を唱えた[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:426, 626.]。ランドルフの動議は否決された。その結果、最終的に憲法は第2条第2節1項で大統領は「合衆国に対する犯罪につき、弾劾の場合を除く他、刑の執行延期及び恩赦を行う権限を有する」と規定された。大統領の恩赦権は抑制されていない権限である。
第16節 外交権限
憲法制定会議が始まった当初、大部分の代表達は外国と条約を締結する権限は議会に与えられるべきだと考えていた。連合規約の下では連合会議に条約を締結する権限が与えられるのが慣習であったし、ヴァージニア案でも条約を締結する権利については明示されていないが、「連邦によって連合会議に与えられた立法権を享受する」と規定されている。
条約を締結する権限を行政府と立法府が分有する案を初めて示したのはハミルトンである。6月18日の演説でハミルトンは、行政府の長が上院の助言と承認とともにすべての条約を締結する権限を持つことを示唆した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:292.]。ハミルトンの示唆は憲法制定会議で論議の的にならず、細目委員会は上院が条約を締結する権限を持つことを提案した。下院が条約を締結する権限を与えられなかったのは、交渉における秘密を保持するのに構成員が多い下院は適していないと代表達が判断したためである。
細目委員会の提案は激しい議論を巻き起こした。メイソンは条約を締結する排他的な権限を上院に持たせれば、上院は条約という手段で国家全体を売ることができると主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:309.]。マディソンは、邦のみを代表する上院よりも全国民を代表する行政府の長が条約の締結権を持つべきだ考えていた。条約締結権は地域的な利害にも関係していた。南部の代表者達は、将来、何らかの条約によって、ミシシッピ川の自由航行権が奪われるのではないかと恐れていた。同様にニュー・イングランドの代表者達も、ニューファンドランド沖の漁業権が侵害されるのではないかと恐れていた。結局、条約締結権については延滞事項委員会に付託された。
9月4日、延滞事項委員会は、上院の助言と同意を得て条約を締結する権限を大統領に与え、かつ批准に上院の出席議員の3分の2の同意を必要とするという案を提案した。上院のみに条約締結権を認めていた細目委員会の提案からすれば延滞事項委員会の案は格段に大統領により大きな外交権限を与える提案であった。南部の代表者達やニュー・イングランドの代表者達の不安を和らげるために設けられた3分の2の同意を必要とするという条項は激しい議論の的となり、数多くの修正動議が提出された。3分の2という文言を削除して単純過半数に改める動議が提出された一方で、上院の出席議員の3分の2という文言を上院の総議員数の3分の2に改める動議が提出された。また下院を条約締結の過程に含めるという動議もウィルソンによって提出された。ウィルソンの動議に対してシャーマンは、条約を締結する場合の秘密の保持を下院に期待することはできないとして反対を唱えた。ウィルソンの動議は否決された。
さらに戦争を終わらせる目的とした条約の締結に対して単純過半数の同意を適用するという動議もマディソンによって提出された。マディソンの動議は全会一致で採択された。さらにマディソンは、大統領の同意なく上院が3分の2の賛成だけで講和条約を締結できるようにするという案を提案した。マディソンは戦争状態から非常時大権を得る大統領が講和条約の締結を妨害する危険性を考えたのである。バトラーは、腐敗した大統領に対する予防策になるとしてマディソンの提案を支持した。ゴーラムは、戦争遂行の手段は大統領の手中ではなく、議会の手中にあり戦争遂行のための予算を打ち切るだけで戦争を終わらせることができるとしてそうした予防策は不要だと主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:540.]。またグヴァヌア・モリスは、いかなる平和条約も人民の利益の保護者である行政府の長の同意なくして締結されるべきではないと反対を唱えた。マディソンの提案は否決された。ゲリーは、講和条約は漁業権や領土などの重要な問題を決定するので、むしろ締結に多くの票数を必要とすると主張した。キングは平和条約を例外とする規定を削除するように求めた。キングの要望は採択された。その結果、延滞事項委員会が提案した通りに条約締結権は認められた。大統領に上院とともに条約締結権を認める提案は比較的に激しい議論の的にはならなかった。それは、コネティカット妥協が認められた後に、行政府の長に強い権限を与えようとする代表達と小邦の代表達の間で同盟が形成されたことを反映している。条約締結権に関する規定は外交を上院と大統領のどちらが主導するべきかという争いの原因となった。
大統領が全権大使その他の使節を接受する権限は細目委員会によって規定された。また細目委員会は大統領が外交使節を接受する権限に加えて、それを邦知事に連絡することを認めている。8月25日、憲法制定会議は邦知事に連絡する必要性を認めなかった。外交使節の接受に関してほとんど議論がなされなかったために、それが実質的なものか、それとも儀礼的なものに過ぎないのかという点について不明確であった。実際には、外交使節を接受する権限、場合によっては接受を拒否する権限は、大統領を外国からの通信の単独の受納者とするとともに、どの政府を外交的に認めるのかの単独の決定者とした。
第17節 任命権
憲法は第2条第2節2項で「大統領はまた、全権大使その他の外交使節ならびに領事、最高裁判所の判事、およびこの憲法に任命に関する特別の規定あるもの以外の、法律をもって設置される他のすべての合衆国官吏を指名し、上院の助言と同意を得て、これを任命する。ただし、連邦議会は、その適当と認める下級官吏の任命の権を、法律をもって、大統領のみに、あるいは司法裁判所に、もしくは各省の長官に与えることができる」と規定している。さらに同3項で「大統領は、上院の閉会中に官吏の欠員が生じた場合には、その欠員を補充することができる。ただし、その任命は次の会期の終わりに効力を失う」と規定している。連合規約の下では官職の任命権はすべて連合会議に与えられていた。またヴァージニア案でもそうした慣習を踏襲し、議会による任命を提議していた。
官職任命権は憲法制定会議において激しい議論を巻き起こした問題の1つであった。なぜなら任命権を有する機関が他のいかなる機関よりも強い権限を握るようになると代表達は確信していたからである。ほとんどの代表達は官職を設ける権限を行政府ではなく立法府に与えるべきだと考えていた[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 190.]。6月1日、マディソンは、規定されている以外のすべての官職を任命する権限を行政府の長に与えるようにヴァージニア案を修正する案を提案した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:67.]。この決定は、立法府の介入なく行政府の長が判事、公使、そしてその他の官職を任命するべきだという強い行政府の長を推進するウィルソンやハミルトンの意見を助長した。
司法府の任命権について代表達は2つの立場に分かれた。上院に任命権を与えるべきだという立場と大統領に任命権を与えるべきだという立場である。上院はすべての邦から選出される議員から構成されているので大統領よりも被任命者について詳しい知識を持っていると上院による任命を支持する者は主張する。さらに大統領は多くの人数から構成される議会よりも陰謀や縁故主義に影響され易い。司法府の任命権は従来、国王に属していた権限なので、人民は国王と同じく大統領に対しても警戒の目を向けるようになるだろう。それに対して大統領が司法府の任命権を握るべきだと主張する者は、大統領のみが判事を広範で全国的な視野で選ぶことができると反論した。ウィルソンは議会のような多人数の組織による任命は経験上、不適当であり、陰謀や偏向が伴うと主張した。6月13日、代表達は、上院に連邦判事を任命する権限を与えるというマディソンの動議を採択した。マディソンは多数で構成される議会は必ずしも裁判官の任命に適当な判断者ではないとしながらも、上院は人数が少なく限られた人々の組織であるので裁判官の任命に適当であると主張した。
7月から8月にかけて、立法府と行政府のどちらが官職の任命において不公平なのか、または任命される官職についてその資格をよく知っているのかについて白熱した議論が繰り返された。多くの代表達は、ジョージ3世と植民地総督達が官職任命権を利用して議員の支持をうまく得ようとしたのを覚えていて、行政府の長に官職任命権を与えることをこころよく思わなかった。ウィルソンは大統領のみに司法府の任命権を与えるように訴えた。しかし、ウィルソンの提案は拒絶された。上院でも人数が多過ぎて適切な判断が下せないので、マサチューセッツ邦に倣って上院の助言と同意を以って行政府の長が連邦判事を指名するという折衷案がゴーラムによって提出された。マディソンは、行政府の長による指名と、一定期間内にその指名が上院の3分の2によって否決されない限り確定するという案を提案した。しかし、小さな邦は上院に任命権を与えるという従来の姿勢を変えなかった。またエルズワース、ゲリー、そしてメイソンは、行政府の長による任命に対して司法府の独立を侵害するものだとして反対を唱えた。憲法制定会議は、最終的にすべての動議を否決して、全体委員会の報告通り、上院に司法府の任命権を与えることに決定した。
7月21日、代表達は司法府の任命権を上院のみに与えることを再確認した。細目委員会は、上院の権限の中に公使の任命権を加え、さらに財務長官を議会が選出することを加えた。また細目委員会は、憲法によって規定されている以外のすべての官職を任命する権限を大統領に与えることを再確認し、合衆国のすべての官職を任命する権限を与えた。しかしながら、省庁の長や省庁のその他の官職を指名する責任がどこにあるのか未だに不明確であった。
8月の終わりにかけて、大統領に司法府の任命権を与えるべきだと信じるグヴァヌア・モリスとウィルソンは、上院が新しい判事を任命するために元の判事を弾劾しようとする危険性を示唆した。8月17日、代表達は大統領に財務長官の任命権を与える動議に反対を唱えた。代表達は財政に関する権限を議会の手に残しておこうと考えたのである。8月24日、代表達は、大統領の官職を任命する権限を拡大させる一方で、判事と公使の任命を上院の管轄から外す動議を通過させた。ディキンソンの動議は、既に規定されている官職を除いて憲法によって設けられるすべての官職と今後、設けられるすべての官職に対する任命権を大統領に与えると宣言している[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:405.]。最終的に問題は延滞事項委員会に付託された。
条約締結権と同様に、延滞事項委員会は、9月初め、官職任命過程において大統領の役割をより重くする案を提案した。判事や公使、その他の官職はゴーラムの折衷案に基づいて上院の助言と同意を伴って大統領によって任命されることになった。大統領の任命が認められるには出席議員の単純過半数を要する。再びウィルソンは大統領単独に官職任命権を与えるように代表達を説得しようとした。ウィルソンの考えでは、官職の任命に上院を介入させることは貴族制に至る危険な傾向であった。しかし、ウィルソンの動議は受け入れられなかった[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:522.]。
3つの点を加えた後で憲法制定会議は延滞事項委員会の報告を採択した。9月6日、上院の閉会中に生じた欠員を補充する権限が大統領に与えられた。9月14日、財務長官を任命する権限が議会から大統領に移された。9月15日、議会は、下級官吏の任命権を大統領、裁判所、もしくは各省の長官に与えることができると規定された。大統領と上院が任命権を分有する仕組みは、大統領単独に任命権を与えるべきだという意見と上院に任命権を与えるべきだという意見の妥協である。
第18節 教書権
大統領の権限を列挙する中で、細目委員会は、「大統領は、随時連邦の状況につき情報を議会に与え、自ら必要にして良策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告してもよい」と規定している。細目委員会は明らかにピンクニー案を参考にしてこの規定を盛り込んでいる。同様の規定はニュー・ヨーク邦憲法にも見られる。ニュー・ヨーク邦憲法は「すべての会期において邦の状況を立法府に伝えること、良い政府、福祉、そして幸福に関すると思われるような問題を考慮するように勧告することは知事の義務である」と定めている。
拒否権をめぐって激しい議論をした代表達も教書権についてはほとんど何も議論していない。それは、拒否権が立法府を犠牲にして行政府を強化する試みだと考えられた一方で、教書権に関する規定は大統領にそれ程重要な権限を与えるとは考えられなかったからである。大統領が立法府に立法を勧告することは立法府を弱めることにはならないと考えられた。なぜなら立法府は大統領の勧告を必ずしも受け入れる必要がないからである。また議会に情報を伝える義務を大統領に負わせることで、議会はより良く立法を行うことができると考えられた[ Francis Newton Thorpe, The Federal and State Constitutions: Colonial Charters, and Other Organic Laws of the States, Territories, and Colonies, Now or Heretofore Forming the United States of America (Scholarly Press, 1909), 2633.]。
教書権に関する文言は8月24日のグヴァヌア・モリスによる動議によって修正された。モリスは、施策について議会に対し勧告するのを大統領の義務にすべきだと訴えた。憲法制定会議はモリスの動議を受け入れて、「してもよい」という文言を「そして」に入れ換えた。したがって最終案は、「大統領は、随時連邦の状況につき情報を議会に与え、そして、自ら必要にして良策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告する」となった。強力な行政府を最も警戒している代表達でさえもこの規定にほとんど反対しなかったことは、大統領が立法府の指導者になることをまったく予見していなかったことを示している。
第19節 議会の招集
細目委員会は、非常の場合に両議院を招集する権限、つまり特別会期を設ける権限を大統領に認めている。さらに閉会の時期に関して両院の間に見解の一致を欠く場合は、大統領が適当と考える時期まで両院を休会させることができると規定している。ジェームズ・マクヘンリー(James McHenry)は条約や大統領の官職任命を考慮するために上院だけを開会する選択肢を大統領に与える修正を提案した。マクヘンリーの提案が受け入れられ、最終案は、「大統領は非常の場合には、両議院あるいはその一院を招集することができる」と規定された。
第20節 法の執行への配慮
ヴァージニア案によれば、行政府の長は「国法を施行する一般的権能」を持つと規定されている。6月1日、マディソンはその文言を「国法を実行に移す権限と随時国民議会に委託された権限、もしくは本質的に立法府の権限でも司法府の権限でもないその他の権限を執行する権限」を持つように改めるように提案した。立法府と司法府に関する規定は、チャールズ・コーツワース・ピンクニーの不適切な権限を行政府に与えるべきではないという示唆に基づいている。ピンクニーは代表達にマディソンの修正を不必要だとして削除するように説得した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 1:67.]。議論は他には起こらなかった。細目委員会は、大統領は「合衆国の法律が滞りなく忠実に執行されることを配慮する」と規定した。細目委員会の提案は議論の余地なく採択され、最終的に大統領は「法律の忠実に執行されることを配慮する」と規定された。強大な大統領制度を警戒する代表達がこの規定に関してほとんど何も異議を申し立てなかったのは不思議なことである。
そうした文言の由来はどこにあるのか。ジェイが起草した1777年のニュー・ヨーク邦憲法の中では、「能力の最善を尽くして法の忠実に執行されることを配慮する」ことが邦知事の義務であると規定されている。少なくともヴァーモント邦が似たような条項を定めていた。他の邦はそのような条項はなかった。
第21節 大統領の呼称
憲法制定会議の最初の2ヶ月間、代表達は行政府の長を「国家行政官(national executive)」、「最高行政官(supreme executive)」、もしくは「長官(governor)」と呼んでいた。8月6日、細目委員会はその報告の中で初めて「大統領(president)」という用語を使用した。プレジデントという称号は連合会議の議長にも使用されていたし、その他にも4 邦でも使われていた。代表達が君主的、もしくは専制的な官職を作るのではないかと恐れている人達にとってプレジデントという称号は馴染み深く安心できる称号であった。細目委員会で「大統領」という用語が提案されると、憲法制定会議は議論の余地なくその提案を受け入れた。
プレジデントという言葉の原義は、「他の者に先立って座る者(one who sits before others)」であり、独立革命以前はジェームズタウンで「植民地の長官」の意で使用されていたという。もともとはラテン語で praesident であり、「支配する者」という意味であったらしい。
プレジデントが日本で「大統領」と訳されるようになったのはいつか。江戸時代の和英辞書である『諳厄利亜語林大成』は既にプレジデントを収録している。しかし、あてられている訳語は、「首魁(カシラ)」である。「大統領」という訳語はまったく見当たらない。また 1857 年に上海で発行された新聞を翻刻した『官板六合叢談』によると、合衆国大統領は「合衆國首領」と記載されている。また福沢諭吉が和訳した『華英通語』では、プレジデントの訳語として「監督」があてられている。『英和對譯袖珍辞書』では「評議役ノ執頭、大統領」という訳語が記載されている。つまり、少なくとも幕末には「大統領」という訳語が既に考案されていたことは確かである。
「大統領」という訳語の初出は判明している限りにおいては 1853 年のフィルモア大統領の親書である。現時点では、これより先に「大統領」という訳例は見当たらない。この親書は、オランダ語と漢文を介して英語から邦文に訳された。その際に蘭文和解では「伯理璽天德」と音訳され、そして漢文では「大統領」となっている。『ペルリ提督日本遠征記』によると、ペリーが幕府に英語正文と蘭訳、漢訳を手交し、オランダ語通訳のアントン・ポートマン(Anton Portman)が堀達之助に対してその文書の性質を説明したとある[ M. C. ペリー、『日本遠征記』(土屋喬雄・玉城肇訳、岩波書店、1948年)、2:248-249。]。またペリーは望廈条約を参考にして中国語に堪能なサミュエル・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams)に手伝わせて条約の草稿を書いている[ エミリー・ウォリナー、『ジョン万次郎漂流記』(宮永孝訳、雄松堂出版、1991年)、150。]。「大統領」という訳語の発案者はウィリアムズである可能性が高い。
第22節 大統領の宣誓
憲法第2条第1節8項は、「大統領はその職務の遂行を開始する前に、次のような宣誓もしくは確約をしなければならない。『私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う(もしくは確約する)』」と規定している。憲法第6条3項で「上院ならびに下院議員、各州議会の議員、および合衆国ならびに各州のすべての行政官ならびに司法官は、宣誓あるいは確約により、この憲法を支持すべき義務を負う」と規定されているものの、宣誓の文言が明確に規定されているのは大統領のみである。大統領の宣誓が法の執行ではなく職務の遂行に関して明確に規定されているのは、憲法で大統領に大権を暗示的に授与していると考えられると主張する者もいる。
大統領の宣誓の文言については憲法制定会議で実質的に何も議論されなかった。宣誓の前半は8月6日に細目委員会が提案した。8月27日、メイソンとマディソンは、宣誓に「最善の判断と権限で合衆国憲法を維持、保護、擁護する」という文言を付け加えるように提案した。ウィルソンは特別な大統領の宣誓は不要であると反対したが、メイソンとマディソンの提案が通った[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:427.]。9月15日、代表達は「最善の判断と権限で」という文言を「全力を尽くして」に換えたが、この変更を説明する議論に関して何も記録は残されていない。
その当時、諸邦で広まっていた慣習に反して、憲法制定会議は宗教的宣誓を大統領やその他の連邦職員に課すことを禁じた。多くの邦憲法が知事に就任する条件としてキリスト教、場合によってはプロテスタントを忠実に支持することを盛り込んでいた。例えばノース・カロライナ邦憲法は、邦知事が神の存在、プロテスタント主義の真実を確認し、邦の平和と安全に反するような宗教的信念を持たないように規定している。8月30日、チャールズ・ピンクニーは、合衆国のいかなる公職または信任による職務についても、その資格として宗教上の審査を課せられることはないという動議を提出した。シャーマンは、広まっている自由がそうした審査に対する十分な安全保障となるとしてピンクニーの提案は不要であると反対した。しかし、ピンクニーの動議は憲法制定会議によって採択された[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:468.]。
1853年、ピアースは「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」と言う代わりに「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に確約する」と述べた。また1789年4月30日に行われた最初の就任式でワシントンは誓約の言葉の締め括りとして「神に誓って」という言葉を付け加える慣習を始めた[ Charles C. Euchner and John Anthony Maltese, Selecting the President (CQ Press, 1997), 142.]。
第23節 大統領の被選挙資格
大統領に選出されるための資格要件はなかなか定められなかった。そうした遅れは、憲法制定会議が問題を無視したからではなく熟考したからである。大多数の代表者達は、憲法で資格を認められた構成員からなる議会が大統領を選ぶという考え方を持っていた。そのためわざわざ憲法で大統領に資格要件を定める必要はないように思われた。しかし、8月中旬までに代表者達は議会による大統領の選出という考えを変えた。そのため憲法で資格要件を認められていない組織が大統領を選出する可能性が出てきた。新しい選出方法の導入により、大統領に資格要件を付ける必要が出てきた。職務の権限が大きければ大きい程、資格要件をより厳しくすべきだという考え方から資格要件は厳しいものになると思われた。
8月20日、ゲリーは、大統領の資格要件を定めるために細目委員会を再開すべきだという動議を提出した。2日後、細目委員会は大統領の資格要件について報告した。その報告によれば、大統領は少なくとも35歳で、合衆国市民であり、少なくとも14年間合衆国に居住した者でなければならないと規定された。9月4日、延滞事項委員会は、その報告を修正した案を示した。すなわち、少なくとも35歳で、生まれによる市民か、もしくは憲法が採択された時に市民であり、少なくとも14年間合衆国に居住した者を資格要件とする。9月7日、憲法制定会議は改正案を採択した。判事やその他の任命される官職の資格要件は含まれていなかった。そうした官職は資格要件が示されている者によって選ばれるからである。
それぞれの資格要件には独自の理由がある。年齢の資格要件を設けるには2つの理由がある。1つ目の理由はある程度の年齢にならなければ人間の成熟が現れないからである。2つ目の理由はある程度の年齢の人物であれば有権者がその人物を評価する経歴を持てるからである。
居住と市民権を資格要件とするには、良い政府の原理に基づいているわけではなくその当時の政治状況が関係している。大統領に14年間の居住を求める資格要件は、独立戦争中にイギリスに渡った親英派や独立戦争に参加するために合衆国に移住した外国の士官を除外するためであった。細目委員会は21年間の居住を資格要件として提案したが14年間に短縮された。居住の資格要件をあまりに長くすることは、ハミルトン、バトラー、そしてマクヘンリーといった代表達をも除外してしまうことを意味したからである。
生まれによる市民を大統領の資格要件として求めるのも当時の政治状況を反映している。憲法制定会議の間、代表達が、イギリスの名誉革命のように合衆国を支配させるためにヨーロッパの君主を呼ぶつもりだという噂が広まった。ジョージ3世の次男の名前が度々そうした噂にのぼった。外国の支配者を呼ぶということはまったく例がなかったわけでもなかったし、またその噂を聞いたアメリカ人にとってまったく非常識というわけでもなかった。憲法で独立した単独の行政府の長を設けることは、大統領制度が潜在的な君主制だと疑う反対者達から非難を受けるだろうと代表者達は考えていた。そのため少なくとも大統領を生まれによる市民に限ることによって外国の君主を呼ぼうとしているという噂を完全に打ち消す必要があった。
またジェイはワシントンに宛てて「我々の連邦政府の政権に外国人が参入するのを強く抑制し、アメリカ軍の最高指揮権を生まれによる市民だけに与えず、委譲しないと明確に宣言することは賢明ではなく、理性的でもないかどうか私に示唆することを許して下さい」と述べている[ Letter from John Jay to George Washington, July 25, 1787.]。つまり、軍の最高司令官の地位が外国人に渡ることが恐れられていたのである。
多くの邦が邦知事に資産に関する資格要件を設けている一方で、憲法には資産に関する資格要件は含まれていない。しかし、大統領の資格要件に関する条項が認められる1ヶ月以上前、代表達は邦知事の資格要件と同様の資格要件を設けることに同意していた。7月26日、憲法制定会議は、メイソン、チャールズ・ピンクニー、そしてチャールズ・コーツワース・ピンクニーの判事、議員、行政府の長の資格要件に財産を含むべきだという動議を採択した。細目委員会がその動議を事実上、無視したので、8月10日、チャールズ・ピンクニーは再度、動議を提出した。細目委員会の議長であるラトレッジは謝罪してピンクニーの動議を支持した。ラトレッジは、財産に関する資格要件をあまりに高く設定すれば多くの人々を不快にさせる一方で、あまりに低く設定すれば要件そのものが無意味となるので委員の間で合意が成立しなかったと主張した。フランクリンは資産を資格要件に含めるという考え方に対して攻撃した。ピンクニーの動議は否決された[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:249.]。実際は具体的にどの程度の資産を資格要件として認めるかは難しい問題であったので、それが憲法において資産が資格要件として含まれていない主な理由であると考えられる。
選挙資格については各州に委ねられた。そのため憲法修正第26条が成立するまでほとんどの州が選挙資格年齢を21歳としていた。しかし、憲法修正第26条によって18歳以上の国民に一律に選挙資格が与えられるようになった。18歳という年齢の主な根拠は18歳に定められている徴兵年齢による。また憲法修正第15条によって、人種によって投票権を制限することが禁じられ、憲法修正第19条で婦人参政権も認められた[ 丹羽巌、『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993年)、23-24。]。
第24節 副大統領制度
代表達の間で副大統領職に相当する官職は植民地時代の副総督職であった。副総督は、総督が死亡するか、不在の場合、総督の権限を代行した。しかし、多くの植民地では副総督は常在する官職ではなかった。
独立後、コネティカット邦、マサチューセッツ邦、ニュー・ヨーク邦、ロード・アイランド邦、そしてサウス・カロライナ邦の5邦が邦憲法で副知事について規定していた。副知事は知事と同様の方法で選出され、必要に応じて知事として行動する責任を負った。またニュー・ヨーク邦の副知事は、邦上院の議長を務め、票決が均衡した際に1票を投じる権限を持っていた。その他の邦は、知事の死亡、不在、そして不能の際に異なった方法をとった。例えばヴァージニア邦とジョージア邦では枢密院の長が知事の権限を継承する者として指定されていた。デラウェア邦とノース・カロライナ邦では上院議長が継承者として指定されていた。ニュー・ハンプシャー邦では上席上院議員が知事の権限を継承することになっていた[ John D. Feerick, From Failing Hands: The Story of Presidential Succession (Fordham University Press, 1965), 23-38.]。
副総督や副知事の存在が、副大統領職を設けるという憲法制定会議の決定にどの程度の影響を与えたのか知ることは難しい。議論の中で副総督や副知事に関する言及は記録されていない。また憲法制定会議の後半に至るまで副大統領職を憲法案に盛り込む提案はなされなかった。副大統領職は大統領の選出方法が決定された結果、生まれた官職である。
代表達は当初、議会が行政府の長を選出すべきだと考えていた。しかし、結局、選挙人による選出方法が採択された。選挙人は各邦によって選出されることになったが、その結果、選挙人が自分の邦の候補のみに票を投じて、全国的に選ばれた候補が出ない恐れがあった。延滞事項委員会は、その問題を、選挙人にそれぞれ2票を与え、違う邦の候補に投票するように求めることで解決した。そして、次点になった候補が副大統領となることが決定された。延滞事項委員会の一員であったウィリアムソンは、副大統領職が望まれて設けられたのではなく、選挙人にそれぞれ2票を与える選挙制度が決定された結果、導入されたものであると述べている[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:537.]。しかし、副大統領職の創設は憲法制定会議を悩ませていた2つの問題を解決した。
1つ目の問題は上院議長の役割である。議長は慣習上、票決が均衡した場合のみに投票権を持つことになっていたが、その場合、議長を務める上院議員の出身邦はほとんどの票決で2票のうち1票を失うことになる。反対に議長を務める上院議員にすべての票決で投票することを認めた場合、その上院議員の出身邦にもとからの2票に加えて票決が均衡した場合の議長分の1票を与えることになり、邦の投票権の平等という連邦上院の原則が崩れてしまう恐れがあった。延滞事項委員会は、このジレンマを解決するために、副大統領を上院議長とし、票決が均衡した場合のみ投票権を持つようにすることを提案した。大統領に対する弾劾の審判は例外で、その場合は最高裁長官が上院議長を務めることになった。しかし、副大統領に対する弾劾の審判で副大統領自身が上院議長を務めることを禁じていない。
2つ目の問題は、大統領職が予期しない出来事で空席になった場合の継承である。ヴァージニア案もニュー・ジャージー案も大統領職の継承については何も言及していない。6月18日、ハミルトンはその長大な演説の中で、行政府の長が死亡するか、辞職するか、弾劾され免職されるか、それとも国を空ける場合、上院議長を務める上院議員が大統領の権限を代行する案を提示した。しかし、ハミルトンの案はほとんど考慮もされず、議論もされなかった。8月6日の報告の中で細目委員会はハミルトンの案を大幅に受け入れ、「大統領が前述のように免職、死亡、辞職し、彼の職務上の権限と義務を遂行する能力を失った場合、新しい合衆国大統領が選出されるか、もしくは大統領の不能力の状態が去るまで、上院議長がその権限と義務を遂行する」と規定している。8月27日にこの規定に関して論議された際に多くの不満が出た。マディソンは上院議長が大統領の継承者として認められれば、上院は積極的に大統領職を空席にさせようとするので、審査院の構成員に大統領の権限を代行させるべきだと主張した[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:427.]。グヴァヌア・モリスは最高裁長官を継承者にすべきだと提案した。最終的にウィリアムソンは、問題を先送りするように求めた。そのため憲法制定会議は延滞事項委員会に判断を委ねることにした。
9月4日、延滞事項委員会は、「大統領が前述のように免職、死亡、辞職し、彼の職務上の権限と義務を遂行する能力を失った場合、新しい合衆国大統領が選出されるか、もしくは大統領の不能力の状態が去るまで、副大統領がその権限と義務を遂行する」と報告した。3日後、ランドルフは副大統領がいない場合、「連邦議会は法律により、大統領および副大統領について、免職、死亡、辞職もしくは不能力の場合に、大統領の職務を行うべき官吏を定めることができる。この官吏は、これにより、大統領が選任される時が至るまで、その職務を行う」という規定を付け加えた。マディソンはランドルフの提案の最後の部分を、「右のような不能力の状態が去り、もしくは大統領が選任されるに至るまで」に換えるように求める動議を提出した。マディソンの動議は可決され、提案通りに修正された[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:535.]。
マディソンがランドルフの提案を修正した理由は明らかである。マディソンは、死亡した大統領に代わる大統領を選ぶための特別選挙を議会が実施するようにさせたいと考えていた。多くの代表達は、大統領の継承者は特別選挙が行われるまで大統領の一時的な代理として務めるだけだと考えていた[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:137, 146, 163, 172.]。しかし、文体委員会が憲法の最終案を整える過程で代表達のそうした意図は無意識に抜け落ちた。文体委員会は、延滞事項委員会の報告とランドルフの提案にマディソンの修正を加えたものを1つの条項にまとめた。9月15日、代表達は書き誤りを発見し、「新たな大統領が選ばれる時期が来る」という文言を「大統領が選任される」に改めた。その結果、憲法第2条第1節6項は、「大統領が免職、死亡、辞職し、または上記の官職の権限および義務を遂行する能力を失った場合は、同上は副大統領に移り属する。連邦議会は法律により、大統領および副大統領について、免職、死亡、辞職もしくは不能力の場合を規定し、その場合に大統領の職務を行うべき官吏を定めることができる。この官吏は、これにより、右のような不能力の状態が去り、もしくは大統領が選任されるに至るまで、その職務を行う」と規定している。
継承に関する代表達の意図は文体委員会によって不明確にされた。文法的には、「同上」という言葉が、「上記の官職」つまり、大統領職を指すのか、それとも「権限と義務」だけを指しているのか不明確である。それは継承の際に副大統領が大統領に昇格するのか、それとも単に一時的に大統領職を代行するのかという疑問を招いた。「大統領が選任されるに至るまで」という文言も、前大統領の任期の終わりまでを意味しているのか、特別選挙が実施されるまでを意味しているのか不明確である[ John D. Feerick, From Failing Hands: The Story of Presidential Succession (Fordham University Press, 1965), 48-51.]。
憲法制定会議において副大統領職に関して特に目立った議論は起こらなかった。9月4日、ゴーラムは、大統領選挙で次点の者が副大統領となるという規定のみでは僅かな票数であまり知られていない人物が当選する恐れがあると主張した。シャーマンは大統領候補として次点となるくらいであれば十分に有能な人物が選ばれる可能性が高いとしてゴーラムの主張を斥けた。
9月7日、副大統領が上院議長を務める案について議論された。ゲリーは副大統領を上院議長とすることで行政府と立法府の独立が損なわれると主張した。副大統領は大統領と親密であるから、副大統領を上院議長とすることは事実上、大統領を上院議長にするのに等しい。シャーマンはこうした主張に対して、副大統領が上院議長にならなければ果たすべき職務がないと論じた。さらにシャーマンは上院議員の中から上院議長を選べば、各邦の投票権の平等の原則を損なうことになると述べた。メイソンは、副大統領職は上院の権利を侵害するものだと主張して短い議論を締め括った[ Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press, 1937), 2:537.]。実際、副大統領が立法府の一部なのか、行政府の一部なのか、それとも両方の一部かは憲法上、不明確である。こうした反対にも拘わらず、憲法制定会議は圧倒的な票数で副大統領職を設ける案を採択した。
憲法制定会議後、副大統領をめぐる議論はそれほど活発ではなかった。『ザ・フェデラリスト』では第68篇でのみ副大統領について言及されている。副大統領職は、上院で票決が均衡した際に1票を投じる議長を務めるために必要である。さらに大統領と同じ方法で選出された者が大統領の代役を務めるために副大統領は必要である[ Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (The New American Library, 1961), 411-414.]。ハミルトンの論は、反フェデラリストのクリントンが提起した懸念に応じたものである。クリントンは後にジェファソン、マディソン両政権下で副大統領を務めることになるが、1787年11月、「カトー」という名前で、副大統領職は不要で危険な官職であると論じた。クリントンによれば副大統領を上院の議長にすることは、行政府と立法府の権限を混同することであり、そうした権限を常に1つの邦の出身者に与えることは不公平である[ Cecelia M. Kenyon, ed., The Antifederalists (Bobbs-Merrill, 1966), 305.]。マーティンも、批准に反対して、ペンシルヴェニア邦やヴァージニア邦のような大きな邦が、副大統領が上院の議長を務めることで利益を得ると指摘した。つまり、単に選挙で次点の者が副大統領に選出されるのであれば1つの大きな邦の票数だけで選出されることもあり得る。もしそうなれば実質的にその邦は他の邦に比べて上院で不公正な影響力を持つことになる。メイソンも同様に上院において副大統領が投票権を持つことは立法府と行政府の権限を混同させることになると副大統領制度に反対を唱えた。リーは、副大統領に明確な資格要件がないことに懸念を示した[ John D. Feerick, From Failing Hands: The Story of Presidential Succession (Fordham University Press, 1965), 52-54.]。
副大統領制度の擁護者は、副大統領が上院の議長を務めることを利点と見なした。彼らの観点では、国全体で副大統領を選出することは、上院にとって良いことであった。マディソンは、1つの邦が選んだ上院議員を議長にするよりも広く国全体の人民が選んだ者に議長を任せたほうが望ましいと述べた。ウィリアム・デイヴィー(William R. Davie)は、国民全体が選出した副大統領が、票決が均衡した場合に1票を投じることは可能な限り公平だと主張した。エルズワースとシャーマンは、副大統領は立法府と行政府の権限を混同して行使しているわけではなく、副大統領職自体が継承の場合を除いて立法府の一部であるとそれぞれ論じた[ John D. Feerick, From Failing Hands: The Story of Presidential Succession (Fordham University Press, 1965), 52-55.]。副大統領制度をめぐる論争は、主に副大統領職が立法府と行政府の権限を混同しているという点に向けられ、大統領職の継承についてはほとんど向けられなかった。それが大統領職の継承について明確な規定がなされなかった理由である。
第4章 憲法案批准
第1節 フェデラリストと反フェデラリスト
前述のように、フィラデルフィアで開催された憲法制定会議は、もともと、まったく新しい憲法案を提案するためではなく、連合規約に修正を加えるために招集された。託された任務を無視したことは、長い間、秘密裡に会議を進めたこともあって、議論の的になることは明らかであった。さらに連邦政府により強化した権限を与えた点や立法府の構成案など憲法案の幾つかの条項も議論の的になることは明らかであった。中でも大統領制度の創始は国中を驚かせる提案であった。憲法案を支持する派はフェデラリストと呼ばれ、憲法案に反対する派は反フェデラリストと呼ばれた。
フェデラリストは警戒すべきなのは専制政治ではなく、むしろ国家を解体させ、分裂させようとする動きであると考えていた。外交、軍事、通商に関する権限は本来、統一国家的な性質を持つものであり、連邦政府に付託されるべきである。またどのような形態の政府であれ課税権はその存立に欠くことはできない。そして、独立戦争を通じて苦労して獲得した権限を13邦の間で分割することは避けるべきである。
その一方で、各邦で行われた憲法批准会議の中で、反フェデラリストが特に非難を集中させたのが大統領制度である。反フェデラリストは大統領制度を偽装した君主制だと非難し、イギリス国王が貴族院とともにイギリスを支配するように大統領は貴族的な上院とともに合衆国を支配することになるだろうと主張した。大統領制度に最も強硬な反対を唱えたのがパトリック・ヘンリー(Patrick Henry)である。1788年6月7日、ヴァージニア邦憲法批准会議で大統領が国王に容易になり得る可能性を示唆して反フェデラリストの不安を代弁した。またヘンリーはヴァージニア邦憲法批准会議で以下のように大統領制度が参事院を伴わない点を批判している。
「合衆国大統領は憲法上、参事院を有していない。こんなことは凡そ信頼できる正常なる政府にあっては聞かざるところである。したがって大統領は的確な情報ないし助言を受けることができないだろう。そして、概ね側近の者やお気に入りによって左右されることになるだろう。あるいは上院の手先になるだろう。または国政参事院が主要行政機関の長官の間から構成されるだろう。これこそ凡そ自由な国における参事院としては、最悪にして危険極まるものである。というのは彼ら官吏達は自分達を遮蔽保護し、彼らの職務上の不始末に対する検察を妨害しようとして、凡そ危険かつ圧政的な手段を結束してとるようになるかもしれないからである。それ故、連邦憲法にもし提案したように6名からなる参事院、すなわち東部諸州より2人、中部諸州より2人、そして南部諸州より2人、下院において各邦単位の投票によって任命され、上院と同様の任期と交替制による参事院が設置されたならば、大統領は信頼できる的確な情報と助言を常に受けることになっただろう。その参事院の長は大統領の空席ないし不能力の場合には、合衆国の臨時副大統領として行動するものとなっただろう。そうすれば上院が長期にわたって開会することは余程避けられただろう。かように憲法に参事院を致命的にも欠いたことから、官職任命に際しての上院の不要な権限が生じ、また立法府の一院たる上院と大統領の警戒すべき相互依存と連携が生じたのである。そこからまた不必要な官吏たる副大統領が登場した。副大統領は他に仕事がないために上院議長とされ、よって行政権と立法権を危険にも混合させ、ひいては諸邦の中のあるものに、他の諸邦に対して不必要かつ不当なる優先権を常に与えている。合衆国大統領は反逆罪に対して恩赦を施す無制限の権限を有している。この権限は、大統領が犯罪を犯すべく秘かに唆した者を刑罰から庇い、またそれによって大統領自身の罪を暴かれることを妨げるために、行使される時もあるかもしれない。すべての条約を国の最高法と宣言することによって、大統領と上院は立法の専権を多くの場合に持つことになる。これは条約を法と然るべく区別し、また信頼に値する同意をなし得る下院の同意を必要とすることにすれば、避けられただろう」[ アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1951年)、2:331-332.]
ヘンリーの他にも反フェデラリストは、「君主的な」大統領と「貴族的な」上院が官職任命権と条約締結権を、下院を除外して分有していると非難した。ペンシルヴェニア邦憲法批准会議の代表達は、1787年12月18日に憲法案の条約締結に関する条項は外国の干渉を招き得るという報告を出版した。その報告によれば、上院は定足数を満たすのに14人で十分であり、そのうち3分の2、つまり10人が大統領の上程した条約に同意を与えれば条約が成立する。そうなれば外国が賄賂を用いて条約を締結させるのはたやすいことである[ Ralph Ketcham, ed., The Anti-Federalist Papers and the Constitutional Convention Debates (New American Library, 1986), 251.]。
君主制は反フェデラリストの主な不安の種であり、大統領制度は非難から免れた点はほとんどなかった。ヴァージニア邦とノース・カロライナ邦の憲法批准会議は、16年間のうち大統領の任期が8年間を超えないようにする修正を憲法案に加えるべきだと提議した。ジョージ・クリントンは1787年11月、「カトー」という名でニュー・ヨーク・ジャーナルに論説を発表し、モンテスキューを引き合いに出して大統領の任期は長過ぎるので1年に改めるべきだと論じた。さらにクリントンは、審査院の欠如によって大統領が適切な情報や助言が得られないと指摘した。
憲法案に対する最も辛辣な非難は、憲法制定会議に参加した代表自身によって行われた。例えばメイソンは選挙人によって大統領を選出する方法は、ほとんどの場合、過半数を獲得する候補が現れず、結局、大統領の選出は下院に委ねられるので人民を欺くものであると非難した[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 117.]。マーティンは、大統領の拒否権は、もし覆されなければ、大統領が議会に優越していることを示すものだとメリーランド邦憲法批准会議で述べた[ Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield, 1999), 145.]。興味深いことに、大統領制度は2人の将来の大統領からも非難を受けている。ジェファソンは、無制限に再選され軍隊を指揮する権限を持つ大統領はポーランド国王の悪い版になるだろうと述べている。モンローは、大統領が終身制になるのではないかと恐れていた。
第2節 『ザ・フェデラリスト』
憲法第2条は、諸邦に憲法案を批准させようとするフェデラリストにとって大きな政治問題であった。大統領制度が新しい政府の中で最も革新的であるだけではなく、単独の行政府の長という性質はアメリカ人にかつて独立革命で打倒した君主制を想起させた。反フェデラリストはそうしたアメリカ人の恐れを利用した。反フェデラリストに対抗するために、フェデラリストは憲法批准会議において大統領制度の長所と憲法が大統領に課している制約について論じた。フェデラリストは、ハミルトン、マディソン、そしてジェイが、ローマ共和政の政治家であるプブリウス・ヴァレリウス(Publius Valerius)に因んで付けた「プブリウス」の名の下で新聞に発表された一連の論説を論拠として憲法案を擁護した。一連の論説は後にまとめられ『ザ・フェデラリスト』と呼ばれるようになった。
『ザ・フェデラリスト』の執筆の端緒となったのはテンチ・コックス(Tench Coxe) という人物である。コックスは1787年9月頃に「憲法案に関する見解」をマディソンに送り、続けて憲法擁護の基礎となる材料を送り続けた。マディソンは憲法擁護のための論を書くことをハミルトンと協議すると約束した。その結果、ハミルトンとジェイとともにマディソンは、「プブリウス」という共同名義で『ザ・フェデラリスト』を執筆することになった。
『ザ・フェデラリスト』の執筆の意義は、人民に憲法案の利点に関する詳細な議論を示すことにあった。そもそも憲法制定会議は、憲法案が公表されるまで一般には、まったく新しい憲法案を考案するのではなく、単に現行の連合規約に修正を加えるだけの集まりだと考えられていた。そのため、多くのアメリカ人は新しい憲法案についてほとんど何も知らないに等しかった。中でもニュー・ヨーク邦は根強い反対を唱える党派があり、その成功が全国的に大きな重要性を持っていた。憲法反対論者に対抗する有効な論陣を張ることが『ザ・フェデラリスト』の第1の目的であった。
各篇の執筆者が誰かについて確実に判明しているのは、第18篇から第20篇の3篇を除き、ハミルトンによる49篇、マディソンによる14篇、ジェイによる4篇である。第18篇から第20篇の3篇は、マディソンが1786年に古代や現代の連邦制について自身でまとめた覚書やハミルトンの手による資料などを参考にしている。誰がどの篇を担当したかについて主な根拠は、ハミルトンが死の直前に書いた覚書と晩年にマディソンがワシントンの出版業者に送った一覧であるが、両者には食い違いが見られる。そのため残りの篇の著者については諸説ある。
1788年3月、ハミルトンはフェデラリストの第69篇から第77篇を書いて大統領制度について論じた。第69篇は、大統領制度が潜在的な君主制だという反フェデラリストの非難に応えている。ハミルトンは、イギリス国王が世襲で終身制なのに対して、大統領は選挙によって選ばれ限られた任期のみ務めると論じた。国王が議会の可決した法案に対して絶対拒否権を持つのに対して、大統領の拒否権は議会によって覆されることもあり得る。国王が宣戦布告し、陸海軍を徴募できるのに対して、大統領はそのいずれもできない。国王は自らが適当だと考えれば条約を結ぶことができる。しかし、大統領は上院の同意がなければ条約を締結することができない。国王がどんな理由であれいつでも議会を閉会できるのに対して、大統領は閉会の時期に関して両院の間に意見の一致を欠く場合のみ議会を閉会できる。国王が官職を創設し、自由に任命できるのに対して、大統領は官職を創設することができず、任命にも上院の同意を必要とする。国王が通商に関する多くの点で権限を持っているのに対して大統領の通貨や通商に関する権限は大幅に制限されている。最後にハミルトンは、国王が弾劾を受け免職されることはないのに対して、大統領は弾劾を受け免職され得ると指摘した[ Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (The New American Library, 1961), 415-422.]。
イギリス国王と大統領の対比においてハミルトンはイギリス国王の特徴について無視している点がある。ハミルトンがイギリス国王の特徴として挙げた点は、17世紀のものであった。18世紀になって国王に比して国会と内閣の影響力は強まっている。例えば、イギリス国王が国会の法案に対して最後に拒否権を行使したのは、アン女王(Queen Anne)の1707年である。しかし、『ザ・フェデラリスト』の第69篇は、効果的に反フェデラリストの大統領制度に対する批判に反駁していると言える。ハミルトンは、反フェデラリストのクリントンが就いていたニュー・ヨーク邦知事が行使する権限よりも、多くの場合で大統領の権限は小さいと論じている。ハミルトンは議論を大統領職、イギリス国王、ニュー・ヨーク邦知事の3者の比較で構成している。ハミルトンの議論の主な目的は、アメリカ人が戦ったイギリス国王と同様の権限を大統領が持つという懸念に対して反駁することである。ハミルトンは、そうした反駁を大統領と国王の権限を逐一比較することで綿密に行った。ニュー・ヨーク邦の人民に議論がより親しみやすくするために、ハミルトンはニュー・ヨーク邦知事との比較も導入した。もし大統領の権限がニュー・ヨーク邦知事と同様であれば、ニュー・ヨーク邦の人民は、大統領が潜在的な君主制と批判することもないだろうとハミルトンは考えたのである。
『ザ・フェデラリスト』の第70篇でハミルトンは大統領によってもたらされる活力が良い政府には不可欠であると論じた。政府の活力は、外部からの侵略から社会を守るために必要であり、また暴徒から財産を守り、野望、派閥、無政府状態による混乱から自由を保障するためにも必要である。憲法案によって創造される政府の中で大統領によってもたらされる活力の源泉は、単一性、持続性、適当な給与、そして十分な権限の4つによって構成される。大統領が単独であることで、決断力、行動力、秘密性、迅速性など好ましい点が生じる。それに比べて委員会形式の多頭制は、意見の不一致によって分裂し、迅速な行動を欠き、結果的に党派が形成される。また多頭制では構成員の間で競争心が生まれ、悪意にまで発展する恐れがある。その結果、激しい闘争が起きる。闘争の結果、公職の尊厳は損なわれ、権能は弱まり、政府の計画は停滞してしまう。そうなると国家が非常事態に陥った場合、適切な政策がとられるのを阻害する可能性がある。さらにお互いに責任をなすりつけ合うので、行政府に失政の責任を問うことが難しくなる。失政が実際にあったと認められても誰に責任を問えばよいのか定めることが難しくなる。そうした確執は行政府の特質であるべき迅速性を損なう。その結果、国民の安全保障に不可欠な戦争遂行の場合には、多頭制の弊害が強く出る。同様のことが参事院を設けることについてもあてはまる。参事院のある徒党が全行政機構の機能を妨害し麻痺させることもあるだろう。たとえそのような徒党が存在しなくても、内部の意見の不一致があるだけで行政機能は弱体化してしまう。イギリスのような君主制においては、参事院は国王が罪過なきように監督する機関となり得る。しかし、アメリカのような共和制においては、参事院は憲法上必要とされている大統領自身の責任を消滅させるか、激減させるかしてしまう。また人民の監視の対象は複数であるよりも単数であったほうが自由の保障の点では望ましい。自由や権利を保障するために多頭制を採用するという考えが提示されているが、多頭制が必ずしも自由や権利を保障しないことは明らかである。なぜなら巧妙な指導者が1人いて、その他の少数者を陰謀に巻き込めば、権力はより濫用されやすくなる。もし権力が1人の人物に与えられれば、その者は厳重な監視下に置かれる。つまり、参事院は、行政府の迅速性を阻害するだけではなく、大統領の過失の隠れ蓑として利用される可能性がある[ Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (The New American Library, 1961), 423-430.]。
第70篇は行政府の権限を論じ、大統領制度を論じた部分でも最も引用される部分である。ハミルトンは、大統領の活力が行政府の最も重要な部分だと信じていた。活力は大統領の権限拡大に関する最もよく言及される口実であり要素である。もし『ザ・フェデラリスト』が主題を1つ持つとすれば、活力の重要性がその主題であり、憲法に生命を吹き込む主題である。ハミルトンは大統領がその責務を果たすためには活力が必要であることを示した。大統領の権限は、伝統的に君主制に関連付けられる活力、秘密性、迅速さをもたらすために意識的に設計された。さらにハミルトンは政府の目的について述べる。ハミルトンは個人の保護が政府の目的だと考えた。他の篇でハミルトンは、公正を行き渡らせるために樹立された政府の目的は公共の幸福であり、公共の善であると主張している。特に人民の幸福はその一般的な自由と権利の保護を意味する。ハミルトンはそうした人民の幸福を守るうえで活力のある大統領がもたらす利点を述べた。第1は、外国の攻撃から社会を守ることである。第2は、堅実な法の管理である。第3は通常の公正な司法の裁きを妨げる違法な徒党から財産を保護することである。第4は、自由の確保である。
『ザ・フェデラリスト』の第71篇から第73篇では、大統領制度は活力にとって不可欠な資質を他にも持つと論じられている。第71篇の論題は任期である。行政府に活力を与えるためには持続性が必要である。4年間の任期は大統領が自信と決意を持って行動するのに十分な時間であるのと同時に、公共の自由にとって危険となる程、長くはない。また長期の任期が認められることによって大統領の下で運営される行政機構が安定する。短期間で職を辞めなければならない場合、大統領は独自の判断を行うことで社会から非難を受ける危険を冒そうとは思わなくなるだろう。大統領は公共の福祉の擁護者として、時には人民の過ちを正すことが義務である。それには大統領が長い任期を与えられ、その意思を敢然と決意を持って実行し得るだけの立場に置かれていなければならない。任期が長ければ、任期の終了までに大統領が適当だと判断した施策の妥当性を社会に理解させることが見込める。そうすることで大統領は有権者の間で尊敬と好意を獲得する機会が与えられ、大統領の確固とした姿勢も支持されるようになる。その結果、大統領は自信と決意を持って行動することができる[ Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (The New American Library, 1961), 431-434.]。
第71編でハミルトンは大統領制度の活力を続けて論じている。ハミルトンは、強力な権限と影響力を持った大統領が強力な国家を建設するには不可欠であると信じていた。ハミルトンは、政策を形成するうえで人民の.意思が果たす役割を強調する共和制の原理と安定した効率的で賢明な政府の必要性の間で均衡をとろうと努めた。ハミルトンは、共和政の原理が、人民の見解に影響を与えるようなあらゆる情動に基づいて政府が行動することを求めてはいないと主張した。人民は公共の善を促進しようとするが、彼らは必ずしもそれを促進する手段について正しい見解を持っているとは限らない。それ故、大統領が公共の善を決定する十分な独立性と活力を持ち、不安定で激しやすい立法府の影響と釣り合いをとることができるようなることが不可欠である。しかし、こうしたハミルトンの立場は、安定性や効率性よりも自由や独立性を重んじる反フェデラリストの反感を招いた。近代史を通じて、歴史家は人民の意思の至高性と政治的安定の間の本質的な緊張を指摘する。民主政体は根本的に人民の意思に基づいている。しかし、それは多数派が賢明に見えるが実は破滅的な政策を採用する危険性を常に孕んでいる。ハミルトンはそうした行き過ぎを抑える強力な行政首長の必要性を痛感していた。
『ザ・フェデラリスト』の第72篇で、ハミルトンは、無制限に再選を認めることは、報酬を求めることが人間の行いの強い誘因となるので好ましいと主張する。そうした誘因がなければ、大統領は怠惰になってしまうか、極端に走って権力を不法に行使するかしてしまう。再選を認めず、新たな任期を務めないで退任を求めることは生じる弊害が多いので大統領に再選を認めるべきである。再任が認められなければ新任の大統領が多くなり、そうした大統領はそれぞれ助言者や補佐官を伴うので行政府の多くの側面で分裂的な変化がもたらされる。大統領は再選について心配することがないので良識的な行動をとる誘因が失われる。再選を禁じられることで大統領は自発的に権力を手放すよりも権力を簒奪しようと試みるようになる。国家は経験に富んだ大統領を必要としている。大統領の任期を1期に限れば、経験に富んだ大統領を在任させるうえで得られる恩恵を享受できなくなる。特に国家の危機の際に有能で経験に富んだ大統領のリーダーシップをアメリカ国民が得られなくなることは有害である。また大統領が頻繁に変わることは不安定さをもたらす。また再選を認めることで人民が望むだけ有能な大統領を在任させることができる。任期の制限には、業績を気にせずにいられるので大統領の独立性が保たれ、人民に専制に対する防止策が与えられるなど確かに利点があると考えられるが、そうした利点には些か疑問点がある[ Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (The New American Library, 1961), 435-440.]。
第72篇でハミルトンは大統領がアメリカの王になろうとするという心配を克服しようと努めた。ハミルトンは君主制を明らかに支持しているわけではないが、活力ある強力な大統領を唱導した。結局、そうした強力な行政首長の不在が連合規約の欠陥だったのである。憲法はもともと大統領の再任に制限を課さなかったが、1951年に成立した憲法修正第22条によって大統領の任期は2期に制限された。その修正はフランクリン・ルーズベルトが4期にわたって大統領を務めた後に制定された。
『ザ・フェデラリスト』の第73篇で、ハミルトンは、大統領に適切な報酬を与えることが政府の活力に必要だと主張している。さらに任期の期間中に議会が大統領の報酬を増減することができないという規定をハミルトンは重要視している。もしそうした禁止事項がなければ大統領が議会の意思に追従してしまうとハミルトンは警告した。第73篇の後半では、拒否権を立法部による権力侵害を防止する手段として、さらに立法府が不適切な法案を可決するのを防ぐ手段として説明している。ハミルトンは立法府が党派の影響を受けて、公共の利益を損なう法を可決することがあると警告している。そのような場合、大統領がそうした法案を阻止できる能力を持つことが必要不可欠である。共和政体では、大統領は立法府の決定を覆すのを常に躊躇うともハミルトンは指摘する。しかも大統領の拒否権は絶対拒否権ではなく、議会は3分の2の投票で覆すことができる。
第73篇は憲法の原理である均衡と抑制の原理を示している。憲法の制定者は、権限を分散し、どの府も強力になり過ぎないようにすることが必要であると考えた。第73篇は特に議会の権限に課された制限について扱っている。ハミルトンは、共和政体では、人民の声を直接反映するために立法府が最も強大になると主張する。立法府が政府を完全に独占しないように、その他の府が自己防衛を行う憲法上の手段を必要とする。多くの点で憲法は異なる府の間で競合を生み出すように設計されている。憲法の制定者は、そうした競合によって公共の善を損なうような政策が実行されたり、専制が台頭したりするのを妨げると信じていた。
続いて第74篇では大統領の統帥権と恩赦権について論じられている。軍隊に指示を与えることは、特に権限の行使が単独で行われなければならないことを示している。軍事権限を複数の行政官に分散させることは破滅に繋がる。ハミルトンは、恩赦に議会の支持を求めることから生じる利点について考慮しながらも、恩赦は大統領単独で行うのが最善だと主張した。もし恩赦が集団によって決定されるのであれば、そうした集団は人道的な条件で恩赦を与えたり、状況によって求められる公正を支持したりするのにそれ程、重圧を感じなくなる。さらに議会の判断は党派心によって左右され易い。大統領が迅速に恩赦を与えることが国益によって必要不可欠な場合がある。例えば、国内の静謐を回復するために、大統領が反乱軍の指導者に恩赦を与えることが必要になるかもしれない。もしそうした恩赦が、議会の承認を得るために遅れれば、重要な機会が失われてしまう可能性がある。
反フェデラリストはヨーロッパで国王が恩赦権を濫用してきたように大統領が恩赦権を濫用するのではないかと恐れた。重大犯罪に対する最初の恩赦は、ウィスキー暴動で連邦法を暴力で否認しようとした指導者に対してワシントンによって与えられた。したがって、こうした初期の恩赦権は、ハミルトンが主張したように、国内の騒擾に対して平和と秩序を回復させるために用いられたことになる。しかし、建国初期以来、恩赦権は寛容や公正といった理由ではなく政治的理由で行使されていると激しい議論の的になっている。
第75篇では大統領が上院と条約締結権を分有することが適切であると主張する。ハミルトンは、憲法が条約を締結し承認する役割を立法府と行政府に誤って混合させているという批判に答えた。条約の締結は、行政府と立法府のどちらの範疇にも本来、完全にあてはまらない。したがって立法府と行政府の役割を混合させることは適切である。条約締結権は大統領に限られるべきだと主張する者がいる。ハミルトンは、大統領はヨーロッパの君主と違って限定された期間しか在任しないと注意を促した。大統領は1人の市民に戻ることを前提に、個人的な利益を優先して国益を損なうような条約を締結しようとするかもしれない。それ故、大統領の権限は議会によって抑制されなければならない。その一方で議会は条約の締結に関してもっと大きな権限を持つべきだと主張する者がいる。ハミルトンは、それは条約締結の過程に不必要な遅延と非効率をもたらし、アメリカの交渉における立場を弱めると主張した。また下院が条約締結権に関与しない妥当性について論じられている。下院は、見聞の広さ、見解の一致、決断力、秘密保持、臨機応変さなどの条約締結に必要な資質を欠いている。
第75篇は、それ以前に論じられた問題、条約締結権を再び論じている。それは、政府の活力と権力の分立の間の憲法に埋め込まれた根本的な緊張を示している。一方で、憲法の制定者は、大統領が外国と効率的に交渉できるくらい十分に強力であるように望んだ。もし大統領が弱ければ、他の国の首長は大統領を適切に扱わないだろう。しかしながら、同時に、憲法の制定者は、大統領が強力になり過ぎることも避けようと考え、条約を批准する権限を上院に与えた。第75篇は、アメリカ憲法の重要な思想的基盤である性悪説を示している。憲法の制定者は、政治家は個人的な利益のために公共の善を犠牲にしてでもその権力を使いがちであると考えていた。もし大統領がヨーロッパの君主のように単独で条約を締結できれば、自分自身のためのその権限を使うようになるだろうと憲法の制定者は恐れた。例えば個人的な関係を持つ企業を利するように大統領が外国と通商条約を結ぶ危険性が考えられる。条約締結に関する上院の監視なくして、大統領が個人的な利益のために条約を締結するのを阻止することはできない。
第76篇では大統領の官職任命権について論じられている。ハミルトンは、上院の助言と同意を伴って官職を任命する大統領の権限を擁護した。官職任命を行うには3つの方法がある。官職を任命する権限を1人の人物に与える。多人数の組織に与える。多人数の組織の同意を伴って1人の人物に与える。ハミルトンは最初の2つの選択肢を否定した。多人数の組織は党派の利害に左右され易く、業績に基づいて官吏を公平に選ぶことは難しい。その一方で、1人の人物に官職任命権を与えることは、官吏の選択を曇らせる縁故主義と腐敗を生じる原因となる。しかし、多人数の組織が官職の任命を行うよりも識見のある1人の人物が官職の任命を行うほうが、責任が分散されず義務感を持つので最適である。大統領は慎重に官職に任命する人物を調査し、公平に最適な人物が選ばれるように配慮する。上院の同意は大統領の縁故主義に対する抑制になり、不適切な人物が任命されるのを妨げる。上院によって指名が拒絶される可能性は、大統領が慎重に人物を選ぶ動機となる。大統領が上院に圧力をかけて腐敗した不適切な候補者を支持するように働きかけるのではないかという懸念がある。それに対してハミルトンは、少なくとも上院議員はある程度の美徳を持つのでそうしたことは起こり難いだろうと主張した。
第76篇では、再度、権力分立と抑制と均衡の原理の重要性が示されている。ハミルトンは大統領と上院の両方が欠点を持つ可能性を指摘した。したがってそのいずれにもすべての官職任命権を委ねることはできない。またそれは憲法制定において重要な役割を果たした妥協と実利主義を示している。憲法の制定者は、憲法によって創造される政治制度が完全であるとは主張していない。むしろ、彼らは、権力の濫用を防止する有効な唯一の手段は、異なる府が相互に監視し合う動機と能力を持つことであるという信念を持っていた。ハミルトンが危惧した官職任命に党派が及ぼす影響はアメリカ史の中で現実であることが証明された。官職任命を反対政党が大統領の攻撃に使うことは稀なことではない。ハミルトンは、上院に大統領の指名を承認する権限を与えることで腐敗を防止しようと努めた。しかし、不幸なことに上院の指名の承認は政治的な動機に左右されがちである。官職任命はしばしば、指名者の適性に関する議論ではなく政治的口論の的になっていることは明らかである。
第77篇では、第76篇に続いて大統領の官職任命について論じられている。そして、総括として、ハミルトンは反フェデラリストによる様々な反対に答えている。ハミルトンはまず、上院に官職任命の承認を得ることは、政府の安定性によって重要であると主張する。そして、ハミルトンは、官職任命において大統領に上院が不適切な影響力を持つことを否定している。むしろ様々な栄誉と報酬を得ているために大統領が上院に影響を及ぼす可能性が高い。しかし、必要であれば、上院は大統領の官職任命権を抑制できる。それは不適切な影響とは言えない。さらに行政府と立法府が官職任命でそれぞれ役割を果たすようにすることで、憲法は、官職任命が評判を問題とし、人民の精査に服することを本質的に保障する。ハミルトンは憲法で規定されている官職任命の過程とニュー・ヨーク邦で規定されている官職任命の過程を、議会の承認に従わずに決定を下す小さな組織に完全に官職任命権を委ねる危険性を示すために比較した。ハミルトンは、ニュー・ヨーク邦の官職任命過程は、その結果、縁故主義と腐敗に支配されていると主張した。憲法によって行政府に与えられた権限は良い政府を運営するのに不可欠であり、人民への適切な依存と適切な責任という共和制の諸原理と行政府に必要とされる活力を調和させている。ハミルトンは大統領制度に関する憲法の規定は、共和政体の自由の原理を侵害することなく、活力を与えるすべての必要条件を効果的に組み込んでいると結論付けた[ Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (The New American Library, 1961), 441-463.]。
第77篇は、行政府に与えられた権限と制限について擁護した一連の論の最後を占めている。第77篇の主題は、連合規約で欠如していた強力で活力のある行政首長の必要性とアメリカ人の自由を脅かさない行政首長の必要性の間の均衡をとることである。ニュー・ヨーク邦の官職任命過程に触れることでハミルトンは論をニュー・ヨーク邦の人々に受け入れやすくした。ハミルトンは、憲法によって提示される政治制度がニュー・ヨーク邦の政治体制よりも優っていると大胆にも断言した。
『ザ・フェデラリスト』がそもそもニュー・ヨーク邦の人々に憲法案に批准するように呼びかけるために書かれたことは記憶に留めておく必要がある。もし『ザ・フェデラリスト』をアメリカ全体や後の世代に向けて書かれた1冊の本と見なすと読者は混乱するかもしれない。『ザ・フェデラリスト』は大まかに明確な問題について整理されているが、個々の篇はしばしばお互いに直接関係のない幅広い事柄を扱っている。それは、『ザ・フェデラリスト』が、絶えず変化しつつある世論に対応して書かれたことに起因している。著者は、あまり組織化されずその関心も様々であった反フェデラリストが憲法案に対して行う特定の批判に答えようとした。それ故、『ザ・フェデラリスト』の読者は、個々の篇によって進められる特定の議論を結び合わせて統一的な主題を抽出しなければならない。
第3節 各邦の批准
大部分の歴史家は、初めはアメリカ人の大多数が憲法案に反対であったということに同意している。実際、多くの邦で強く激しい反対論が巻き起った。しかし、批准をめぐる争いでフェデラリストには2つの利点があった。第1の点は、憲法制定会議に参加した代表達自身によって憲法案がどのような反論に対しても適切に擁護され得た点である。第2の点は、表に出ることはなかったがワシントンが積極的に憲法批准を推進するハミルトンやマディソンの活動を援助した点である。
1787年12月7日、デラウェア邦が憲法案に批准した最初の邦となった。デラウェア邦が最初に憲法案に批准したのは、フェデラリストが新憲法における小邦の有利を説くことができたからである。新憲法の下、小邦は大邦と同じく2人を連邦上院に送ることができ、大統領選挙人の数でも優遇されている。そのために小邦は本来、得ることができる以上の権限を手に入れることになる。こうした説得が功を奏し、デラウェア邦は批准に至った。その5日後、ペンシルヴェニア邦は41票対23票で、権利章典の欠如に対して懸念を示した後、憲法案を批准した。フェデラリストは反フェデラリストが組織化される前に批准を完了させる戦略をとり、見事に早期の批准に成功した。多くの邦で権利章典の欠如への懸念が示されたので、フェデラリストは最初の連邦議会に権利章典を憲法に加えるように提議することを約束した。
1787年12月18日にニュー・ジャージー邦が、そして1788年1月2日にジョージア邦が全会一致で憲法案を批准した。続いて1月9日、コネティカット邦は128票対40票の大差で憲法案を批准した。マサチューセッツ邦では、激しい反対が見られたが、権利章典を最初の連邦会議に提議するというフェデラリストの約束によって2月6日、187票対168票の僅差で憲法案を批准した。4月28日、メリーランド邦は63票対11票の大差で憲法案を批准した。5月23日、サウス・カロライナ邦は149票対73票で憲法案を批准した。そして、6月21日、ニュー・ハンプシャー邦が憲法案に批准したことによって合衆国憲法は成立した。
ヴァージニア邦とニュー・ヨーク邦という大きな邦の批准がまだであったが、もし新政府が成功を収めれば、孤立してしまうことの不利を悟って2邦も憲法案に進んで批准することが期待された。6月25日、ヴァージニア邦は89票対79票の僅差で合衆国憲法に批准した。ヴァージニア邦では激しい議論が行われた。ヴァージニア邦で大勢を覆したのはランドルフ邦知事である。ランドルフ邦知事は憲法制定会議で憲法案に署名しなかったことを釈明し、現状では連邦の瓦解を見るよりは批准に票を投じたほうがましであると述べた。ランドルフは「政治の問題に思考を向け、最もふさわしい共和政体を考えるすべての人士は、選出の時期、選出の方法、権限の量など行政府の長から生じる大きな困難について同意するだろう」と述べた[ Debate in Virginia Ratifying Convention, June 17, 1788.]。7月26日、ニュー・ヨーク邦も30票対27票で合衆国憲法に批准した。クリントン邦知事は大土地所有者と足並みを揃えて憲法案の批准に反対した。新憲法によって邦政府が関税の徴収権を失えれば、さらに高率の税金がかけられるのではないかと恐れたのである。そうした反フェデラリストに対してハミルトンやジェイを中心にするフェデラリストは善戦し憲法の批准に漕ぎ着けた。ノース・カロライナ邦とロード・アイランド邦は最初の大統領が選ばれ、最初の連邦議会が始まった後にようやく合衆国憲法に批准した。
憲法批准をめぐる議論が行われている間、反フェデラリストは、憲法は中央政府による専制の可能性を許していると批判した。反フェデラリストは市民の権利を明確にし、立法府、行政府、司法府に制限を課す権利章典の採択を求めた。新たに連邦議会が発足した後、権利章典が提案された。憲法修正第1条から第10条で構成される権利章典は、1791年に3分の2に州の批准を得て成立した。権利章典の目的は政府の三府に明確な領域を与えることである。第2条、第3条、そして第4条は明らかに行政府に制限を課している。行政府は人民が武器を携行する権利を奪ってはならず、恣意的に兵士を人民の家屋に宿営させることはできず、裁判所の令状なしで逮捕、捜索、押収を行うことはできない。さらに第9条と第10条は連邦政府全体に制限を課し、憲法で列挙されていない権限は州と人民に留保されるとしている。
合衆国憲法は建国の父祖達が後世に残した最大の業績である。それは、それぞれが至上の主権を持つ諸州を構成単位として至上の主権を有する連邦政府を形成するという難題を成し遂げたからである。また大統領制度というこれまでの歴史でほとんど例を見ない独特で広範な制度を規定した点で大きな意義を持つ。そうした制度が果たして有効に機能し得るかはその後の歴史が証明することになった。
第5章 憲法の修正条項
第1節 憲法修正第12条
憲法制定会議で大統領制度の創始に関して様々な決定がなされた。合衆国憲法が成立した後、大統領制度に関する憲法修正は4回にわたって行われている。1804年に成立した修正第12条、1933年に成立した修正第20条、1951年に成立した修正第22条、1967年に成立した修正第25条である。
大統領と副大統領を選挙人によって選出することを規定する憲法第2条第1節2項から4項は、憲法制定会議の末期と各邦の憲法批准において最も議論が少ない部分であった。しかし、選挙人方式が新しい政府の制度を大きく変える最初の例となった。修正第12条により、選挙人が大統領候補に2票を投じ、最も多数の票数を得た者が大統領に選ばれ、次点の者が副大統領に選ばれる方式から、選挙人が大統領候補と副大統領候補に別々に票を投じ、それぞれ最も多数の票数を得た者が大統領と副大統領に選ばれる方式に変更された。また修正第12条により、過半数の選挙人を得た大統領候補がいない場合、従来は上位5人の候補の中から下院が大統領を選ぶようになっていたが、上位3人の候補の中から下院が大統領を選ぶように変更された。選挙人が副大統領を選ぶことができない場合に副大統領を選ぶ権限を上院に与える条項は従来のままである。過半数の選挙人を得た副大統領候補がいない場合、上位2人の候補の名から、上院が過半数で副大統領を選ぶ。また副大統領に就く資格として大統領と同じ資格が課された。さらに、3月4日までに大統領が選出されない場合、副大統領が大統領の職務を行うと規定された。
選挙人方式は、憲法制定会議で、政党が組織されず大統領選挙に影響を及ぼさないという仮定の下で考案された。憲法制定会議の代表達は政党を党派的利害に基づくものだとして否定的に見ていた。政党の代わりに邦や既存の組織が大統領候補を指名すると代表達は考えていた。そうすることで最も人気があり適格な候補者が大統領になり、2番目に人気があり適格な候補者が副大統領になると予想していた。
憲法制定会議の代表者達の予測に反して、ワシントン政権下で連邦派と民主共和派が形成され、それぞれ独自の大統領候補と副大統領候補を擁立するようになった。その結果、1800年の大統領選挙で問題が生じた。民主共和党を支持する73人の選挙人がジェファソンとバーにそれぞれ1票ずつ投じた。両者に票を投じた選挙人はジェファソンを大統領に、バーを副大統領にすることを望んでいたが、憲法上、ジェファソンとバーは大統領の座をめぐって同じ票で均衡したと見なされた。憲法第2条第1節3項に基づいて下院がジェファソンとバーのどちらを大統領に選出するか決定を委ねられることになった。
下院を支配していた連邦党は、35回もジェファソンが当選に必要となる州の過半数の票を獲得するのを妨げた。36回目の投票で下院はジェファソンを大統領に、バーを副大統領に選出することをようやく決定した。1804年の大統領選挙で連邦党が陰謀を企むのではないかと不安に思う者がいた。民主共和党の候補が勝利したとしても、連邦党を支持する選挙人が1票を民主共和党の副大統領候補に投じれば、本来、副大統領候補であった者が大統領に選ばれる恐れがあった。
もともとの憲法の条項は政党の出現と連邦党の陰謀に対応できないと認識した民主共和党は、1803年12月、憲法修正第12条を提案した。強固な連邦党に支配された州を除いて修正の批准は迅速に進み、1804年6月に修正は成立した。
選挙人に大統領候補と副大統領候補にそれぞれ票を投じることを求める修正第12条は、修正に至った問題を解決した。1800年以来、どちらが大統領と副大統領に立候補したのかをめぐって混乱は起きていない。対立する政党の指導者が副大統領に選ばれる可能性がなくなったことで大統領の単一の行政府の長としての性格が強められた[ David E. Kyvig, Explicit and Authentic Acts: Amending the U.S. Constitution (University Press of Kansas, 1996), 115-116.]。
憲法上、もともと無力であった副大統領職は、憲法修正第12条によって2番目の大統領候補という地位も失った。憲法修正第12条が成立する前から、副大統領候補の指名は、大統領候補と地域的、もしくは党派的な均衡をとるために使われた。副大統領職は権限だけではなく権威も奪われたので、野心のある有能な政治家は副大統領候補の指名を避けるようになった。副大統領職は長い間、活動停止に追い込まれ、しばしば凡庸な政治家によって占められた。議会における議論の中で少なくとも一部の議員は憲法修正第12条が副大統領制度に影響を与えることを鑑みて、副大統領制度の廃止に動いた。しかし、結局、副大統領制度の廃止には至らなかった。
選挙人をめぐる問題の一部は後に「不誠実な選挙人」として問題になった。憲法制定会議の代表達は、選挙人が自らの良識に従って大統領候補に投票するだろうと考えていた。しかし、現代では選挙人は有権者が支持する候補に投票するように選ばれるのであり、独自の判断で誰を支持するか決定するわけではないと考えられている。1789年と1792年の大統領選挙では、選挙人が自らの良識に従って大統領候補に投票したことは明らかであった。1796年の大統領選挙でも選挙人は投票前にまったく何も誓約を求められなかった。1800年の大統領選挙では連邦党と民主共和党の対立構造が明らかになり、両党はそれぞれ大統領候補を擁立した。そのため選挙人は自党の大統領候補に投票することを期待されて選出されるようになった。したがって、選挙人が自らの良識に従って大統領候補に投票するという憲法制定会議の代表達が想定した前提は崩壊したのである。
42州とコロンビア特別行政区では投票用紙に大統領候補と副大統領の名前が記載されているだけで選挙人の名前すら記載されていない。有権者が支持する候補に投票するように選挙人に義務付ける憲法上の規定は存在しない。26州とコロンビア特別行政区は、現在、法で選挙人は予め表明した候補を支持しなければならないと定めているが、憲法修正第12条に違反している可能性がある。
歴史的に、1789年以来、2万人近くの選挙人が選ばれてきたがその中で11人のみが不誠実な選挙人である。不誠実な選挙人は誰も処罰されていない。罰則規定があるのは5州のみである。ミシガン州とノース・カロライナ州では不誠実な選挙人の票は数えられず、他の選挙人候補によって代わられる。不誠実な選挙人が選挙の結果を左右した事例はない。しかし、不誠実な選挙人が登場する頻度は近年になって増している。不誠実な選挙人が出たのは1792年、1820年、1948年、1956年、1960年、1968年、1972年、1976年、1988年、2000年、2004年である[ CQ Press, Presidential Elections 1789-2008 (CQ Press, 2010), 189.]。2000年の大統領選挙では、コロンビア特別行政区の選挙人の1人が85パーセントの一般投票を得たアル・ゴア(Al Gore)に投票せずに棄権した。その選挙人は、コロンビア特別行政区が議会での代表権を欠いていることを抗議するために棄権したと述べた。そのような目的のために投票権を利用した選挙人は他にはいない。また2000年の大統領選挙のような接戦で不誠実な選挙人が出た例も他にはない。2004年の大統領選挙で、ミネソタ州の選挙人はジョン・ケリー(John Kerry)を大統領に、ジョン・エドワーズ(John Edwards)を副大統領に投票することを誓約していたが、明らかに間違いだと考えられるが、エドワーズを副大統領だけではなく大統領に投票した。
不誠実な選挙人の問題に加えて、一般投票で一定の票数を得た大統領候補、もしくは副大統領候補が選挙人による投票が行われる前に死亡する可能性がある。それは実際に1872年の大統領選挙で起きた。自由共和党と民主党の連立大統領候補であるホーレス・グリーリー(Horace Greeley)は42パーセントの一般投票を得た。しかし、選挙人による投票が行われる前の11月29日に死亡した。もし選挙人による投票が行われるまでグリーリーが生きていれば66票を獲得しただろう。実際にはグリーリーの票は他の4人の候補に分かれた。グリーリーに3票が投じられたが、議会はそれを無効とした。グラントが既に過半数の選挙人を獲得していたために選挙の結果には何も影響しなかった。
憲法修正第12条は、選挙人の過半数を獲得できる候補がいない場合、上位5人から下院が大統領を選出する従来の規定から、上位3人から大統領を選出するように改めている。5人から3人に数を減らしたのは二大政党制度の出現による。二大政党制度の下では、5人の候補者が選挙人を獲得する可能性は低いと考えられる。事実、1824年の大統領選挙でどの候補も過半数の選挙人を獲得できなかった時、選挙人を獲得できた候補は4人のみであった。下院が3人の中から当選者を選ぶという規定により、下院は大統領の就任に間に合うように当選者を決定することができた。1825年に当選者を決定する前に、下院は憲法修正第12条における手続き上の不明確な点を明らかにした。議会が定めた重要な規則の1つは、州による投票で当選者を決定する際に、出席している州の過半数ではなく、州の総数の過半数を必要とするという規則である。もう1つの規則は、下院は、他の業務に妨害されることなく当選者を決める投票を継続するという規則である。最後の規則は、下院議員は各州のためにそれぞれ設けられた投票箱に秘密投票で票を投じることができるという規則である。こうした規則は法制化されていないため、容易に変更される可能性がある。
憲法修正第12条は重要な問題について未解決のままである。「もし下院が右のような選任を行う権利の発生を見た場合に、次の3月4日まで大統領を選任しない時は、副大統領が、大統領の死亡あるいはその他の憲法上の不能力を生じた場合と同じく大統領の職を行う」と憲法修正第12条は規定している。この規定は「大統領の任期の開始期と定められた時までに大統領が選定されていない場合、または大統領の当選者がその資格を備えるにいたらない場合には、副大統領の当選者は、大統領がその資格を備えるにいたるまで大統領の職を行う」と規定する憲法修正第20条に取って代わられている。また下院は当選者が決定するか、もしくは大統領の任期が切れるまで投票を続けなければならない。下院が当選者を決定できなかった場合、副大統領が大統領となる。大統領となった副大統領は憲法修正第25条に基づいて新しい副大統領を指名しなければならない。この指名は議会の承認を必要とする。
憲法修正第12条が成立して以来、どの副大統領候補も過半数の選挙人を獲得できなかった事例は1例のみである。1836年の大統領選挙で民主党の大統領候補のヴァン・ビューレンは過半数の選挙人を獲得できた一方で、副大統領候補のリチャード・ジョンソン(Richard M. Johnson)は副大統領に当選するのに1票足りなかった。ジョンソンは父親から相続した奴隷を内縁の妻とし、その妻が死亡した後も黒人女性と混血の女性の恋人を持っていた。そのためヴァージニア州の23人の民主党の選挙人はジョンソンを支持することを拒んだ。上院は上位2人、つまりジョンソンとホイッグ党の副大統領候補のフランシス・グレンジャー(Francis Granger)の中から当選者を選ぶことになった。その結果、33票対16票でジョンソンが副大統領に選ばれた。しかし、もしホイッグ党が上院を支配していれば結果はどうなったかという疑念が残る。さらに憲法修正第12条は、「上院議員の総数の3分の2をもって定足数」とすると規定しているが、もしある党の上院議員達が副大統領の選出を妨害しようと欠席すればどうなったかという疑念も残る。
こうした疑念はあるが、憲法修正第12条の下、上院は、下院が大統領を選出するよりも容易に副大統領を選出することができるようになった。上院は上位2人の候補者から当選者を選ぶだけでよく、当選に要するのは州の多数ではなく、上院議員の総数の過半数である。
連邦法と州法によって、憲法に示されている一般的規定に加えて、選挙人の選出、認証、人名表の作成に関する手続きが定式化されている。選挙人は1845年に定められた法に従って11月の第1月曜日の次の火曜日に選出される。憲法上、選挙人を選ぶ方式は各州の自由であるが、1876年に州議会による選挙人選出を一時復活させたコロラド州を除き、1860年以来、すべての州は州法によって選挙人を一般投票で選ぶ方式を採用している。選挙人を州議会が選ぶ方式を最後まで残した州はサウス・カロライナ州である。1828年までに他の州はそうした方式を廃止していた。
メイン州とネブラスカ州以外のすべての州が勝者総取り方式を採用している。勝者総取り方式では、州の一般投票で最多数の票数を得た候補がその州のすべての選挙人を獲得する。メイン州とネブラスカ州は、州全体で最多数の票数を得た候補が2人の選挙人を獲得し、残りの選挙人は下院選挙区1つにつき1人の割合でその選挙区で最多数の票数を得た候補に分配される。
もし大統領選挙の結果をめぐって何らかの紛争がある州で起きた場合、連邦法は、その州が既存の手続きに従って独自に解決するように規定している。1876年の大統領選挙ではまだそのような規定がなかったために、4州の選挙人の投票が問題となった時、議会は選挙委員会を作ることで解決を図った。その結果、委員会はすべての選挙人の投票を共和党のヘイズのものと認めた。ヘイズは一般投票で民主党のティルデンの後塵を拝していたが、委員会の裁定により、185票対184票で選挙人投票において勝利を収めた。不正が行われたのではないかという非難が国中に渦巻いた。1887年、議会はもし将来、同様の事態が起きた場合にその解決を州に委ねることを決定した。
全国の選挙人団は1つの団体として決して集わない。その代わりに選挙人は12月の第2水曜日の後の月曜日にそれぞれの州で会合して投票する。その後、投票結果はワシントンに送付され、副大統領を議長とする両院合同会議で数えられる。最近では、1961年にニクソンが、1969年にヒューバート・ハンフリー(Hubert H. Humphrey)が、そして2001年にゴアが自らの敗北を両院合同会議で宣告した。1989年にジョージ・H・W・ブッシュは両院合同会議で自らの当選を宣告した。
選挙人方式に対しては以下のような批判がある。国民の投票権を制限し、普通選挙の精神に反する。選挙人は選挙人団として州毎に選ばれるが、それは国民の意思を正確には代表していない。人口の多い州より人口の少ない州のほうが有利である。一般投票で最も多くの票数を獲得した大統領候補でも選挙人の獲得数で敗れる場合がある[ 丹羽巌、『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993年)、39。]。
実際に、憲法修正の提案の中で最も多いのが選挙人方式の改廃である。一般投票と選挙人投票の不均衡は明らかである。1912年の大統領選挙でウィルソンは41.8パーセントしか一般投票を獲得できなかったのにも拘わらず、81.9パーセントの選挙人を獲得した。一方、同じくウィルソンは1916年の大統領選挙で1912年の大統領選挙を上回る49.2パーセントもの一般投票を獲得したのにも拘わらず、52.2パーセントの選挙人しか獲得できなかった。僅か3,420票差でカリフォルニア州を制したことによりウィルソンの勝利が確定した。もしカリフォルニア州で敗北していたらウィルソンは選挙人投票で逆転されていただろう[ CQ Press, Presidential Elections 1789-2008 (CQ Press, 2010), 148.]。他にもレーガンは1980年の大統領選挙で50.8パーセントの一般投票しか獲得していなかったのに拘わらず、実に90.9パーセントの選挙人を獲得した。また一般投票で勝利したのにも拘わらず選挙人投票で敗れる例もある。1876年の大統領選挙ではティルデンがヘイズに一般投票で3パーセントの差をつけたのにも拘わらず1877年の妥協の結果、選挙人投票で敗れた。1888年の大統領選挙ではクリーブランドがベンジャミン・ハリソンに一般投票で0.8パーセントの差をつけたのにも拘わらず選挙人投票で敗れ、再選を阻まれた。最近の例は2000年の大統領選挙である。ゴアはジョージ・W・ブッシュに一般投票で0.5パーセントの差をつけたが、選挙人投票で敗れた。
1824年の大統領選挙で最も多くの選挙人を獲得しながらも下院による決選投票で敗れたジャクソンは選挙人方式の廃止を提案している。ジャクソンは1828年の大統領選挙で勝利して大統領に就任した後、次のように提案している。
「すべての政治問題におけるように、この問題についてもその対策の要点は世論の自由な活動に対して存在する障害をできるだけ少なくするということである。然らば、行政府最高長官の官職が公正に表現された多数人民の意思のみに従って特定市民に付与されるように我々の政治体制に修正を加えるように努力しよう。したがって私は大統領及び副大統領の選挙における中間介在的な諸機構を一切撤去するように我が憲法を修正することを勧告したい。そのやり方によっては、各州に対してそれが大統領と副大統領の選挙において現在有する相対的な比重を崩さないようにすることができるだろう。そして、第1回の選挙で所期の目的が達せられない場合には、第2回の選挙では、最高得票者2人の中から決選投票によって決するように仕組んでおけば十分であろう。かかる修正案に関連してであるが、行政府の最高長官の任期を4年または6年に制限することがよいと考えられる」[ アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1952年)、3:441。]
最近では選挙人方式をめぐって4つの修正が広く議論された。ケネディやリンドン・ジョンソンなどを含む提唱者は、各州の選挙人が、その州で最多数の一般投票を得た候補に自動的に投票する案を提案している。そうした案は選挙人団を無傷で残すが、選挙人を実質的に廃止することになる[ Stephen J. Wayne, The Road to the White House: The Politics of Presidential Elections (St. Martin’s Press, 1992), 291.]。またそうした案は、不誠実な選挙人の問題を解決し、第三政党が得た選挙人を主要な政党の候補と取引する材料に使う可能性を排除する。しかし、自動的に選挙人を割り振る案の政治的な主な課題として、国民、もしくは議会の関心を呼び起こすことができないという点がある。またその案によって改善される欠点は相対的に微小である。
1950年代に人気を集めたのがヘンリー・ロッジ(Henry Cabot Lodge, Jr.)上院議員とエド・ゴセット(Ed Lee Gossett)下院議員によって提案された案である。彼らの案は、大部分の州で採用されている勝者総取り方式を廃止し、州の一般投票の得票率に応じてその州の選挙人を候補に割り振るという案である。もしこの案が実現すれば、各大統領候補は、対抗者に一般投票で大きく差を空けられると予測される州であっても諦めずに選挙運動を活発に展開するようになるという利点が考えられる。また第三政党の候補が立候補する動機を持ち易くなるが、どの候補も過半数を獲得できず、大統領の選出は下院に、副大統領の選出は上院に委ねられる可能性が高くなる。政治的には、大きな州がこの案を大統領選挙における優越を脅かす案と見なしている。
メイン州やネブラスカ州で行われているような方式をすべての州で採用するという案もある。州の一般投票で最多数を獲得した候補が2人の選挙人を獲得し、残りの選挙人は下院選挙区毎に1人ずつ割り振られ、それぞれの選挙区で最多数を獲得した候補がその選挙区に割り振られた選挙人を獲得する。この案は得票率に応じて選挙人を割り振る案の長所と短所のすべてを持っている。
全国の一般投票で最多数を獲得した候補に102人の選挙人をボーナスとして与える案が提案された。ボーナスの選挙人の数が102人である理由は、50州とコロンビア特別行政区にそれぞれ2人ずつ選挙人を割り振ったと想定したからである。この案は実質的に議会が大統領の選出に関与する可能性を排除している。この案の問題は、1960年の大統領選挙のように全国の一般投票の得票率が僅かに0.2パーセントしか違わない場合、ボーナスをどの候補に与えるか決定するのに長い時間がかかり、したがって早期に当選者を決定することが難しくなることにある。
大統領選挙を改革する提案の中で最も人気がある案は選挙人を廃止し、人民の直接投票で大統領を選出する案である。直接投票を提案する案は多く出されたが、その大半が大統領の選出に少なくとも40パーセントの得票率を必要とする点で共通している。もしどの候補も40パーセントを獲得できない場合は、上位2人によって決選投票が行われる。ニクソン、フォード、そしてカーターはそうした案を支持していた。1969年、下院は338票対70票で直接選挙を認める修正を憲法に加えることを可決した。しかし、1979年、上院で同様の表決が行われたが、賛成は51票にとどまり、修正を発議するのに必要な3分の2の賛成が得られなかった。多くの国民は世論調査において直接選挙に対して肯定的である[ Stephen J. Wayne, The Road to the White House: The Politics of Presidential Elections (St. Martin’s Press, 1992), 299-300. ]。
直接選挙による大統領選挙の利点は、大統領選挙をその他のアメリカの選挙と同じ形式にすることができる点、その過程を国民により分かり易くすることができる点、どの候補も過半数の選挙人を獲得できない場合に議会が大統領を選出する可能性を排除できる点、そして、1824年、1876年、1888年、2000年の4回の大統領選挙で起きたように全国の一般投票で劣る大統領が選ばれる可能性を排除できる点にある。
直接選挙による大統領選挙に反対する者は、そうした方式は憲法上で認められた連邦主義を侵害し、第三政党の形成を助長し、その結果、どの候補も40パーセントの得票率を得ることが難しくなり、決選投票において第三政党が主要な政党と取引しようとするようになると主張する。
ゴアが一般投票でジョージ・W・ブッシュに勝利しながらも、選挙人の獲得数で選挙に敗北した2000年の大統領選挙の直後、改革を求める新しい声があがった。例えばヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)上院議員は、直接選挙を支持して選挙人を廃する案を提案した。しかし、憲法の修正を求める声は、フロリダ州の選挙人をブッシュとゴアのどちらが獲得するか議論する声に打ち消された。
政治的に、大統領を直接選挙で選ぶ案は、大きな州と比べて選挙人方式で利点を持つ小さな州の連合によって阻まれた。選挙人は州の連邦上院議員の数と連邦下院議員の数に応じて割り当てられる。連邦下院議員の数は人口比に応じて決定されるが、連邦上院議員の数は人口比ではなくどの州でも2人と決められているので小さな州にとって有利であった。
現在、有志によって各州で全国一般投票法を成立させる運動が進んでいる。全国一般投票法は、全国の一般投票で最多数を得た候補に州がすべての選挙人を獲得させるという法である。同法は、選挙人方式を変えることなく、各州議会が選挙人を選ぶ方式を任されている憲法上の規定を利用して、実質的に直接選挙を実現しようとする試みである。現在、7州が全国一般投票法を制定している。7州の選挙人の合計は132人であり、今後、賛同する州が増え、過半数の270人を超えれば、全国一般投票法は実効的になる[ Alexander S. Belenky, Who Will Be the Next President? A Guide to the U. S. Presidential Election System (Springer, 2013), 126-127.]。
第2節 憲法修正第20条
1933年に成立した憲法修正第20条は「死に体」修正としても知られている。大統領、副大統領、そして連邦議員が選出されてから就任するまでの時間を短縮している。退任する大統領、副大統領、そして連邦議員の政治的影響力が低下する期間、すなわち死に体の期間をできるだけ短くすることが主な目的である。修正が成立する前、もし大統領が特別会期を招集しなければ、新たに選ばれた連邦議員の休止期間は、11月の第1月曜日の後の火曜日、つまり投票日から、憲法第1条第4節2項で定められた翌年の12月の最初の月曜日までの13ヶ月であった。大統領と副大統領が就任するまでの期間は投票日から翌年の3月4日までの4ヶ月であった。大統領就任の日付が3月4日に定められたのは連合規約に基づく連合会議の決定による。1788年に合衆国憲法が批准された後、連合会議は1789年3月4日を新しい憲法下で新政府を開始する日付と決定した。そして、1792年に3月4日を大統領の任期の開始日とする法が定められた。
憲法修正第20条の主要な起草者であるジョージ・ノリス(George W. Norris)上院議員は3つの欠点を修正しようとした。もともと3月4日が新政府の開始日と定められたのは、当時の旅行が困難であり、時間を要するものであったからである。第1の欠点は、2年に1度、議会に死に体の会期が訪れることである。その会期は選挙の後の12月から翌年の3月まで続き、敗北した政党の退職する議員を多く含むことになる。第2の欠点は、大統領が就任する前に議会が開会されないことで、現行の制度では死に体の議会に、もし選挙人によって大統領と副大統領を選出できない場合、大統領と副大統領を選出させることになる。これは1801年と1825年に実際に起きた。第3の欠点は、国に実質的に2人の大統領、現職大統領と大統領当選者が4ヶ月も並存するのは長過ぎる。
死に体と大統領の並存の問題を解決するために、憲法修正第20条第1節は、1月20日正午を大統領と副大統領の4年の任期の開始日とし、1月3日正午を連邦議員の任期の開始日とした。17日間の猶予を与えれば、もし大統領の選出が下院に、副大統領の選出が上院に委ねられた場合も十分な時間的余裕を持てると考えられた。大統領の就任日の繰上げは、旧制度の移行期において、世界恐慌で苦しむアメリカ国民が1932年の大統領選挙で敗れたフーバーと勝利したフランクリン・ルーズベルトの間で起きた4ヶ月にわたる膠着状態を見た時にその有効性が証明された。しかし、大統領当選者は、当選から11週間で大急ぎで人員や政策を政権の開始に備えて適合させなければならなくなった[ Richard E. Neustadt, Presidential Power (Wiley, 1980), 219.]。1993年に大統領としてクリントンが政権初期に直面した多くの問題は、性急に人員と政策を準備したことによる。
ノリスは憲法修正第20条を大統領と副大統領の選出過程における2つの問題を解決する手段として使った。憲法修正第20条第3節は、もし任期の開始日の前に大統領当選者が死亡した場合、副大統領当選者が大統領になると規定している。1967年に成立した憲法修正第25条第2節の下、大統領職を継承した副大統領当選者は、新しい副大統領を指名し、議会の承認を得ることになる。
大統領当選者の死亡の場合に加えて、憲法第20条第3節は、もし任期の開始日までにどの大統領候補も過半数の選挙人を獲得できないか、あるいは下院で当選者を決定できない場合、副大統領当選者が、大統領が選ばれるまで大統領代理となると規定している。憲法第2条第1節5項の下、年齢、市民権、もしくは居住期間の条件によって大統領当選者が大統領に就任する資格を持たなかった場合も、大統領が資格を有するようになるまで副大統領当選者が大統領代理となる。また憲法修正第20条は、大統領当選者と副大統領当選者がその資格を備えることができない場合に、議会はどのような方法で誰が大統領の職務を行うか決定するかを法で決めることができると規定している。
その規定に従って、議会は1947年に大統領継承法を可決した。同法は、大統領、もしくは副大統領が選出されるまで下院議長が大統領代理となると規定している。大統領代理になることで下院議長は大統領の資格要件を満たすだけではなく、議員を辞職しなければならないと考えられる。下院議長に続く継承順位は上院仮議長である。上院仮議長の次は国務長官であり、その後は各省の長官が省の創設された順番に従って続く。
大統領当選者、もしくは副大統領当選者が正式に当選が宣告される前に死亡した場合を想定して憲法修正第20条第4節は制定された。憲法修正第20条4節は、そのような不測の事態に備えて議会が法を制定することしか求めていない。しかしながら議会はそのような法を制定していないので、もし実際に不測の事態が起これば即興で法を制定しなければならない。議会が採り得る選択肢は、選挙人を数える際に大統領当選者が死亡している場合、その候補者の当選を宣告し、憲法修正第20条第3節に基づいて副大統領当選者を大統領と認めるか、副大統領当選者が死亡している場合、憲法修正第25条第2節に基づいて大統領の宣誓が行われた後に新大統領に副大統領を新たに指名させるかである。議会のその他の選択肢は、敗北した大統領候補の中から下院に大統領を選ばせることである。技術的には議会が死亡した候補が大統領に不適格であることを宣告し、敗北した候補の選挙人を数え、上位3人の候補の中から大統領を下院に選出させることが考えられる。しかし、二大政党制度の下で行われた多くの大統領選挙で、当選者の他に選挙人を獲得できたのは1人だけである場合が多いという問題点がある。
1932年3月2日、憲法修正第20条は容易に議会を通過し、1933年2月6日、異論もなく批准された。歴史上、すべての州が即座に批准を認めた唯一の修正である[ David E. Kyvig, Explicit and Authentic Acts: Amending the U.S. Constitution (University Press of Kansas, 1996), 274.]。奇しくも修正が成立した9日後に大統領当選者のフランクリン・ルーズベルトの暗殺未遂事件がフロリダ州マイアミで起こり、修正の必要性を実感させた。
1933年2月15日、ルーズベルトが演説を終えた直後に、無政府主義者のジュゼッペ・ザンガラ(Giuseppe Zangara)が5発の銃弾を放った。その時、ルーズベルトはシカゴ市長のアントン・サーマク(Anton Cermak)と会話中であった。ルーズベルトは無傷であったが、サーマクは右肺に銃弾を受け、その他、数人が負傷した。シークレット・サーヴィスに護衛されてルーズベルトはその場を去った。サーマクは銃創が原因で19日後、亡くなった。ザンガラは死刑判決を受け、1933年3月20日に処刑された。
第3節 憲法修正第22条
憲法修正第22条は、何人も2回を超えて大統領に選出されてはならないと規定している。また前大統領から大統領職を引き継いだ大統領も2年以上、在職した場合、1回を超えて大統領に選出されてはならないと規定している。もし大統領職を引き継いだ大統領が2年未満しか在職しない場合、2回の選出が許され、合計の任期は10年未満となる。憲法修正第22条は、議会がこの問題を考えている当時の大統領であったトルーマンを対象外にするように考えられ、「本条の規定は、それが効力を生ずる時に任期にある大統領の職にある者またはその大統領の職を行う者が、その任期の残余期間中大統領の職にありまたは大統領の職を行うことを妨げるものではない」と規定している。憲法修正第22条は、2期在任の伝統を破って4選を果たしたルーズベルトに対する共和党が支配する議会の非難の表れである。
大統領の在職は2期までに限るべきだと公式に表明した初めての大統領はジェファソンである。3期目に出馬するように求めるヴァーモント州議会からの手紙に、1807年12月10日、ジェファソンは以下のように答えている。
「行政首長の業務の終わりについては憲法で定められていませんし、慣習でも定められていませんが、彼の在任は、名目上、4年ですが、実際は終身になるかもしれず、歴史はそれがいかにたやすく世襲に変わるのを示しています。短い選挙期間で責任を持つ代議政府は人類に多くの幸せをもたらすと信じて私はそうした原理を本質的に傷付けるような行動をとらないことが義務であると感じますし、2期を越えた任期の延長に対する最初の例をもたらした模範的な前任者によって打ち立てられた健全な先例を無視する人物になるのは気が進みません」[ Letter from Thomas Jefferson to the Legislature of Vermont, December 10, 1807.]
ジェファソンがワシントンを模範的な前任者として言及したのは完全に適切であるとは言えない。ワシントンは自発的に2期で大統領職を退いたが、それは何らかの原理に基づいたわけではなく、政治の世界から引退したいという個人的な欲求が強かった。しかし、ジェファソンによる任期を2期に限る伝統は大統領制度にすぐに定着した。ジョン・クインジー・アダムズはそうした伝統を「暗黙の補足的な憲法」と述べている[ Arthur B. Tourtellot, The Presidents on the Presidency (Dobleday, 1964), 34-35.]。さらにホイッグ党員と多くの民主党員は大統領の任期を1期に限るべきだと議論するようになった。実際、ジャクソン以降、リンカンが登場するまで選挙で当選して2期務めた大統領は1人もいなかった。ジャクソンも大統領の任期を6年に延ばす一方で1期に限るように憲法を修正するべきだと主張していた。ワシントンからフーバーまでの30人の大統領の中で20人が1期だけか、もしくはそれ以下の任期しか持たなかった。
19世紀後半から20世紀初期にかけて、3期目の問題は時折、議論されるだけであった。グラントとウィルソンは3期目に向けて意欲を見せたが、2期目の終わりに人気が低迷していたために大統領候補指名獲得でさえ難しいと思われた。セオドア・ルーズベルトの事例はさらに複雑である。ルーズベルトが大統領選挙で当選したのは1904年の1回だけであり、その前に前任者のマッキンリーの任期を引き継いで3年半在職した。1908年、ルーズベルトは再指名を辞退した。ルーズベルトの人気を考えると当選は確実に思われたが、ルーズベルトは大統領の任期を2期に限る伝統を「賢明な慣習」と評した。しかし、4年後、ルーズベルトは再び大統領選挙に出馬した。1908年にルーズベルトは「3杯目のコーヒー」を飲むことを否定したが、それはコーヒーを再び飲まないと決意したわけではなく、「もちろん私が意味したのは3期続けての任期」だと述べた[ Edward S. Corwin, The President: Office and Powers, 1787-1984 (New York University Press, 1984), 378.]。
1940年に大統領の任期を2期に限る伝統はフランクリン・ルーズベルトによって破られた。1937年、ルーズベルトは3期目の可能性を完全に排除しなかったが、1941年1月20日の大きな抱負は後継者に大統領職を引き継ぐことだと述べた。数多くの民主党員が大統領選挙に出馬する意思を固めた。しかし、ルーズベルトは2期目が経過するにつれ、自らの政策と計画に抵抗する議会にますます苛立ちを募らせるようになった。1939年に第2次世界大戦が始まると、アメリカのみが世界情勢の喧騒から逃れ続けることができる見込みはほとんどなかった。1940年7月の民主党全国党大会でルーズベルトは最終的に3期目への意欲を公表した。全国党大会の代表達は圧倒的多数でルーズベルトを支持した。
ルーズベルトの立候補の正当性について世論は分かれ、共和党員は彼らの候補者であるウェンデル・ウィルキー(Wendell Willkie)を応援するために「3期目を阻止せよ」と叫んだ。民主党員はリンカンの言葉を引用して「川の流れの中で馬を変えること」は馬鹿げていると反論した。ルーズベルトは1940年の大統領選挙で勝利を収めたが、一般投票の差は、1936年の1,108万票から494万票に減少した。第2次世界大戦の勝利が目前となっていた1944年の大統領選挙では、ルーズベルトは360万票差で勝利した[ CQ Press, Presidential Elections 1789-2008 (CQ Press, 2010), 153-155.]。そして、ルーズベルトは4期目に入って3ヶ月もしないうちに病死した。
議会は大統領の任期を制限していない憲法に決して満足していたわけではなかった。1789年から1947年に至るまで270もの大統領の任期を制限する決議が議会に提出された。ルーズベルトの登場は、この長い間、懸案事項だった問題に党派的な側面を付け加えた。1932年、共和党はルーズベルトのニュー・ディール連合によって権力の座を追われた。保守的な南部の民主党員は、リベラル派と北部の民主党員に党の支配権を譲り渡した。
1946年の中間選挙で共和党は上下両院で多数派を奪還した。1947年2月6日、下院は大統領の任期を2期に限る修正を憲法に加える案を285票対121票で可決した。下院の案は、1期を完全に務め、もう1期を1日でも務めた大統領は再選を求めることはできないと規定している。共和党議員は全会一致でこの修正を支持し、民主党議員は47人が賛成し、121人が反対した。民主党議員の賛成票は大部分が南部の民主党議員の票であった。3月12日、上院は1期を完全に務め、もう1期を半分未満務めた大統領に再選を認めるように変更したうえで憲法修正を59票対23票で可決した。共和党議員は下院と同じく全会一致で修正を支持した。民主党議員は13人が賛成し、23人が反対した。下院の案と上院の案の違いは速やかに調整され、1947年3月24日に議会は最終決定を下した。
憲法修正第22条をめぐる議論は、党派的な問題に憲法上の原理が被されていた。共和党は、大統領の任期を2期に限ることでアメリカ国民は過度に個人化した大統領制度の脅威から守られると主張した。さらに共和党のレオ・アレン(Leo Allen)下院議員は、国民に大統領が在任する期間を制限できる機会を与えるべきだと述べた。それに対して民主党のエステス・キーフォーヴァー(Estes Kefauver)下院議員は、国民はもし大統領が再任を求めれば、4年毎に大統領が在職を終わらせるべきか否か判断する機会を持つことができると答えた。大統領の任期に制限を設けなかった憲法制定会議の決定にほとんど注意が払われることはなかった。また議会は修正が副大統領にもたらす好ましい政治的影響を予見することもなかった。2期を務めた大統領が再任を禁止されることで、副大統領は政権内の地位を維持したままで次の大統領候補指名を獲得するために公然と選挙運動を行うことができるようになった。
憲法修正第22条が発議された後、批准を求められた各州の反応は様々であった。憲法修正第22条が成立するまで3年11ヶ月を要した。議会の発議から成立に至るまでの期間は2番目に長い。ちなみにその期間が最も長かったのは、議会が議員報酬を引き上げるのを制限する憲法修正第27条である。1789年に発議されてから1992年に成立するまで203年を要した。1947年に18の州議会が修正第22条を承認した。いずれの州も共和党の地盤であった。その後、批准はゆっくりと進んだ。南部は民主党の地盤であったが、トルーマンが公民権法を推進したことによって、人種分離を求める南部の州議会は修正を批准するようになった[ David E. Kyvig, Explicit and Authentic Acts: Amending the U.S. Constitution (University Press of Kansas, 1996), 332-333.]。その結果、1951年2月27日、憲法修正第22条は成立した。成立後、さらに5州が批准し、批准した州は41州となった。
憲法修正第22条が成立して以来、2期を完全に務めた大統領がまだそれ程多くないために、修正が近代的大統領制度と現代的大統領制度にどのような影響を与えたのか見極めることは難しい。ケネディは1期目の3年目で暗殺された。1963年11月22日に大統領職を引き継いだリンドン・ジョンソンはケネディの任期の半分未満しか務めていないので、さらに2期務めることができた。しかし、1968年に人気が低迷していために、ジョンソンは大統領選挙に出馬することを断念せざるを得なかった。ニクソンは1972年に再選されたが、2期目の半分が過ぎる前に辞任した。フォードはニクソンの任期の半分以上を務めたために、さらに1期しか務めることが認められていなかった。しかし、フォードは大統領選挙で敗北した。1976年の大統領選挙でフォードを破ったカーターは1980年の大統領選挙でレーガンに敗北し、1期で大統領職を追われた。レーガンの後継者のジョージ・H・W・ブッシュもクリントンに再選を阻まれた。
憲法修正第22条の適用を受けた最初の大統領はアイゼンハワーである。1960年にアイゼンハワーは3期目に立候補する意欲を持っていたという。大統領としてアイゼンハワーは憲法修正第22条に対して「深い懸念」を抱いていた[ Michael R. Beschloss, Mayday: Eisenhower, Khrushchev, and the U-2 Affair (Haper and Row, 1986), 3.]。レーガンは憲法修正第22条の適用を受ける2番目の大統領であった。レーガンは2期目に大統領の任期を2期に制限する条項を撤廃するために憲法を修正することを主張した。ただしレーガン自身には適用されない形式での修正である。結局、レーガンの主張は認められなかった。アイゼンハワーやレーガンの人気にも拘わらず、アメリカ国民は憲法修正第22条の撤廃を望む様子をまったく見せなかった。アメリカ国民の間には、大統領は強力な指導者であるべきだが、強力になり過ぎるのを防ぐために限られた時間のみ指導者であることを許されるという見解の一致が行き渡っているようである。しかし、大統領の任期を制限することによって、大統領の権限は縮小されることになる。また大統領は3期目を目指して大統領選挙に出馬できないことで自党の支持を失う恐れがある。それと同時に大統領の影響力が弱まる恐れがある[ 宇都宮静男、『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974年)、176-177。]。
第4節 憲法修正第25条
憲法修正第25条は、副大統領職の空席と大統領の不能力という2つの問題を取り扱うために制定された。大統領が免職、死亡、辞職した場合に副大統領が大統領の権限を代行するのではなく、大統領職を継承する権利についても取り扱われている。もともとの憲法の規定では、大統領が免職、死亡、辞職した場合に副大統領は大統領になるのか、それとも単に大統領代理となるのか不明確であった。1841年にウィリアム・ハリソンが死亡した時、タイラーは副大統領が大統領職を継承する権利を明言し、その後の継承の前例を作った。憲法修正第25条第2節によれば、副大統領職が空席になった場合、大統領が副大統領候補を指名し、議会の承認を受けることになっている。憲法修正第25条第3節と第4節によって、大統領の不能力を扱う具体的な手続きが明示された。こうした条項によって、大統領単独か、もしくは副大統領及び閣僚の過半数が大統領の不能力を宣告した場合、大統領の権限は一時的に副大統領に移る。大統領の不能力をめぐって大統領と副大統領及び閣僚の間で論争が起きた場合、解決は議会に委ねられている。
憲法第2条第1節6項は、大統領が免職、死亡、辞職、または不能力に陥った場合は、その権限は副大統領に移ると規定している。しかし、「同上」という言葉が、大統領の「権限と義務」が副大統領に移ることを意味するのか、単に「上述の職」、つまり、大統領職が移るのか明確ではない。また憲法は、不能力とはどのような状態であるのか、必要に応じてどのように副大統領が大統領の職務を開始すればよいのか、そして副大統領は実際に大統領になるのか、それとも一時的に大統領の権限を代行するだけなのか明記していなかった。
憲法の曖昧な規定によって生み出されたこうした問題は、ガーフィールドとウィルソンが長い間、不能力に陥った時に明らかになった。ガーフィールドが銃撃されたのは1881年7月2日だが死亡したのは9月19日である。閣僚は状況を議論するために会合し、アーサーは副大統領として合法的に大統領になれるが、そうすることでもしガーフィールドが回復した場合、職務を再開する妨げとなると結論付けた。
ウィルソンの閣僚と多くの議員は、1919年と1920年にウィルソンが長期にわたって病床についた際に、トマス・マーシャル(Thomas R. Marshall)副大統領に一時的に大統領の権限を移そうとしたが、憲法に明確な規定がなく、ホワイト・ハウスの職員の抵抗もあったために実現しなかった。ガーフィールドとウィルソンの不能力は非常に長期にわたったが、マディソン、ウィリアム・ハリソン、アーサー、クリーブランド、マッキンリー、ハーディング、フランクリン・ルーズベルト、アイゼンハワー、ケネディ、レーガンなど約3分の1の大統領もその任期中に一時的に不能力に陥っている。
副大統領が死亡、辞職、免職の場合か、もしくは大統領職を継承した場合、副大統領職は空席になる。副大統領職が空席になった事例は18回である。1812年、マディソン政権下のクリントン副大統領が在職中に死亡し、1813年まで副大統領職は空席となった。マディソン政権2期目のゲリー副大統領も1814年に在職中に死亡し、1817年まで副大統領職は空席となった。ジャクソン政権下のジョン・カルフーン(John C. Calhoun)副大統領は連邦上院議員に選出されたことで辞職し、ジャクソンの1期目の残りの任期が終わるまで副大統領職は空席となった。1841年、ウィリアム・ハリソンの死去に伴ってタイラーは大統領に昇格し、1845年まで副大統領職は空席となった。3年11ヶ月に及ぶこの空席は史上最も長く副大統領職が空席となった期間である。1850年、テイラーの死去に伴ってフィルモアは大統領に昇格し、1853年まで副大統領職は空席となった。1852年の大統領選挙で副大統領候補として当選したウィリアム・キング(William DeVane King)は結核のためキューバで療養中であり、同地で宣誓を執り行った。しかし、1853年4月18日にキングは死亡し、ほとんど何も副大統領としての責務を果たさなかった。キングの任期は最も短い副大統領の任期である。1865年4月、リンカンの暗殺に伴ってアンドリュー・ジョンソンは大統領に昇格し、1869年まで副大統領職は空席となった。グラント政権下のヘンリー・ウィルソン(Henry Wilson)副大統領は1875年に在職中に死去し、1877年まで副大統領職は空席になった。1881年、アーサーはガーフィールドの暗殺に伴って大統領に昇格し、1885年まで副大統領職は空席となった。クリーブランド政権1期目のトマス・ヘンドリックス(Thomas Hendricks)副大統領は1885年に在職中に死亡し、1889年まで副大統領職は空席となった。マッキンリー政権1期目のギャレット・ホバート(Garret A. Hobart)副大統領は1899年に在職中に死亡し、1901年まで副大統領職は空席となった。1901年9月にマッキンリーが暗殺された後、セオドア・ルーズベルトは大統領に昇格し、1905年まで副大統領職は空席となった。タフト政権下のジェームズ・シャーマン(James Sherman)副大統領は1912年に在職中に死去し、1913年まで副大統領職は空席となった。1923年にクーリッジはハーディングの死亡に伴って大統領に昇格し、1925年まで副大統領職は空席となった。1945年、トルーマンはフランクリン・ルーズベルトの死去に伴って大統領職を継承し、1949年まで副大統領職は空席となった。1963年、ケネディの暗殺に伴ってリンドン・ジョンソンは大統領に昇格し、1965年まで副大統領職は空席となった。ニクソン政権下でアグニュー副大統領は1973年10月に辞職し、約2ヶ月後にフォードが副大統領に就任するまで副大統領職は空席となった。1974年8月、ニクソンの辞任によってフォードが大統領に昇格したために、新たにネルソン・ロックフェラー(Nelson A. Rockefeller)が副大統領に就任するまで約4ヶ月間、副大統領職が空席となった。
憲法修正第25条が成立するまで、大統領職と副大統領職が同時に空席になる事態に備えて大統領継承法が定められていた。1792年から1886年までは、そのような事態が起きた場合、上院仮議長が大統領に、下院議長が副大統領となり、特別大統領選挙を行うと規定されていた。しかし、ガーフィールドの暗殺によって1792年大統領継承法が見直された。ガーフィールドを継承して副大統領であったアーサーが大統領に昇格したために副大統領職が空席になった。1792年大統領継承法は上院仮議長と下院議長を副大統領に次ぐ継承順位に置いているが、上院仮議長も下院議長もその当時は空席であった。下院は招集されておらず、上院も党派間の争いによって上院仮議長が決まっていなかった。こうした事態を改善するために1886年大統領継承法が制定された。1886年から1947年までは、国務長官とその他の閣僚が継承順位に置かれた。
そして、1947年大統領継承法によって、副大統領の次に下院議長が大統領職を引き継ぐように規定された。その次は上院仮議長である。そして、国務長官、財務長官、国防長官、司法長官、内務長官、農務長官、商務長官、労働長官、保健福祉長官、住宅都市開発長官、運輸長官、エネルギー長官、教育長官、退役軍人長官と閣僚が続く。ジョージ・W・ブッシュ政権で国土安全保障省が設立され、国土安全保障長官が継承順位の末席に加わった。しかし、これまで大統領職と副大統領職が同時に空席になるといった事態は1度も起きていない。
大統領の不能力と副大統領職の空席に関する国民と議会の関心は低く、大統領が不能力に陥った時に関心が高まったと思えば、危機が過ぎた後、またすぐに低くなった。しかし、1945年から1963年の間、大統領をめぐる一連の出来事が、憲法上のこうした問題について関心を集める契機となった。1945年以降の核兵器及び大陸間弾道ミサイルの発明と拡散によって、有能な大統領がいつでも権限を行使できるように求める声が強くなった。アイゼンハワーは、1955年には心臓発作で、1956年には回腸炎とその手術で、1957年には卒中で不能力に陥った。さらに1963年のケネディの暗殺により、心臓疾患を持つリンドン・ジョンソンが昇格して大統領になり、副大統領が不在になったため、法的に指定される第1の継承者は、慢性的な疾患を持つジョン・マコーマック(John W. McCormack)下院議長となった。
憲法修正第25条の明らかな1つの契機となったのが、アイゼンハワーが副大統領のニクソンに宛てた手紙の公表である。その手紙の中でアイゼンハワーは、もし自分が再び不能力に陥った場合、不能力が去り、大統領が権限の返還を要求するまで副大統領が大統領代理を務めるように指示した。さらに、もしアイゼンハワーが不能力に陥り、何らかの理由で意思を副大統領に伝えられない場合、アイゼンハワーが大統領の権限を復活させると決定する時まで副大統領自身の判断で権限を肩代わりするように指示した。
アイゼンハワーが示した方針は、ケネディとジョンソン、ジョンソンとマコーマック、1964年の大統領選挙後はジョンソンとハンフリーに受け入れられた。しかし、アイゼンハワーの方針は大統領の不能力の問題を完全に解決したわけではない。アイゼンハワーの手紙は法的強制力を欠く。また不能力でありながらそれを認めようとしない大統領を解任できるか否かについては定められていない。さらに結果的に生じる副大統領職の空席をどうするかについて言及されていない。
1963年12月、ケネディが暗殺されて間もない頃、憲法修正に関する司法委員会小委員会の長を務めるバーチ・バイ(Birch Bayh)上院議員は、大統領の不能力と副大統領職の空席を解決する憲法修正を図るために公聴会を開くことを宣言した。アメリカ法曹協会の特別委員会と協力してバイは小委員会の公聴会の叩き台となる修正を起草した。バイが起草した条項は若干の手が加えられて憲法修正第25条として成立した。
1964年9月29日、上院は修正を全会一致で可決した。しかし、下院はなかなか動こうとしなかった。おそらく、副大統領職の空席を埋める修正が、従来の制度では副大統領がいない場合、大統領職を継承することになる下院議長に対する軽侮だと見なされたからであろう。しかし、1964年の大統領選挙でハンフリーが副大統領に選出された後、上院は再び全会一致で修正を可決し、下院も1965年4月13日、368票対29票で修正を可決した。
初めから憲法修正第25条に関する議会の懸念は、不能力の規定に向けられていた。バイの草稿と議会によって認められた案は、修正の第3節と第4節で3つの異なった状況を対象にしていた。1つ目の状況は、まず大統領がその職の権限と義務を遂行できなくなることを認識する。大統領から上院仮議長と下院議長に手紙が送られ、副大統領が大統領代理となる。不能力が去ったことを伝える手紙によって大統領はその権限を回復する。
2つ目の状況は、大統領が不能力に陥ると同時にその職の権限と義務を遂行できなくなることを認識できない場合である。副大統領と閣僚が状況を議論する会議を開く。もし副大統領と閣僚の過半数が大統領の不能力を宣告する場合は、大統領が議会に手紙で不能力が去ったことを伝えるまで副大統領が大統領代理となる。
不能力に関する3つ目の状況が最も困難な状況である。精神的な不調や突然の身体的な不調のように、大統領が不能力に陥っているか否か議論になる可能性がある。大統領が不能力ではないと否定しても副大統領と閣僚は違ったように判断するかもしれない。憲法修正第25条は、もしこうした事態が起きた場合、議会の判断に従って副大統領が大統領代理となることを想定している。議会は大統領が不能力か否か判断するのに最大3週間の猶予が与えられ、大統領自身の判断を覆すのに両院の3分の2の票を必要とする。3分の2の票を必要とするように規定されているのは、大統領に疑わしきは罰せずの利益を与えるためである。憲法修正第25条は、大統領が不能力である限り、その権限は副大統領に移ると規定しているだけなので、大統領が、不能力が解消されたと主張する場合、すべての過程がもう1度繰り返されることになる。
バイを批判する者は、不能力の決定に関して行政府に過度の権限を与え過ぎていると指摘する。立法府、司法府、行政府の代表から構成される委員会に不能力を決定させる案も提案された。バイは自らの提案を、政権外の者に大統領から権限を剥ぎ取る可能性を認めることは憲法上の三権分立の原理を侵害する恐れがあると擁護した。最終的に、立法府にある程度の権限を与え、不能力の宣告を避けるために大統領が閣僚を罷免する可能性を排除するために、憲法修正第25条は、閣僚に代わって議会が選ぶ他の機関の長の過半数が大統領の不能力を宣告できるように規定している。
興味深いことに、憲法修正第25条は不能力の決定に関して詳細な手続きを規定しているのに拘わらず、不能力が何であるのか明確に定義していない。議会の討論から、不能力が無能、怠惰、不人気、もしくは弾劾され得る行為を意味していないのは明らかである。議会は、不能力に関して特定して明記することは、医学の見解の変化によって時代遅れとなる可能性があると考えた[ John D. Feerick, The Twenty-fifth Amendment (Fordham University Press, 1992), 200-202.]。
議会は、副大統領職が空席となった時に直ちに新しい副大統領を任命する必要性を認めた。それにより、大統領職が与党に引き継がれる可能性と常に副大統領が大統領の不能力に関する規定を実行できる可能性が高まった。空席が生じた際に大統領が新しい副大統領を指名し、両院の過半数による承認を受けるというバイの提案は、憲法修正第25条第2節として結実した。議会、もしくは前回の大統領選挙の選挙人団が副大統領を指名する案が提案された。また大統領による副大統領の指名を認めるか、拒絶する権利を放棄するか議会に時間制限を課す案も提出された。いずれの案も否決された。
憲法修正第25条の批准に対して強い反対はなかった。1967年2月10日、憲法修正第25条は成立した。最終的に3つを除くすべての州が批准した。憲法修正第25条が実際に適用される機会はすぐに訪れた。1973年10月10日、連邦裁判所で収賄に関する容疑で告発されていたアグニューは司法取引の一環として副大統領を辞職した。10月12日、ニクソンは憲法修正第25条に基づいて、すぐに後任を指名した。後任となったのがフォードであり、憲法修正第25条第2節の適用を受けた初めての副大統領になった。約2ヶ月に及ぶ調査の後、11月27日、上院は92票対3票でフォードの指名を承認した。続いて12月6日、下院も387票対35票でフォードの指名を承認した。1974年8月9日、ウォーターゲート事件で弾劾され有罪判決を受けるのを避けるために今度はニクソンが辞職した。ニクソンの辞職に伴ってフォードが大統領になった。8月20日、フォードはニクソンと同じく憲法修正第25条に基づいてニュー・ヨーク州知事のロックフェラーを副大統領に指名した。議会は約4ヶ月に及ぶ調査を行い、12月10日、上院は90票対7票で、12月19日、下院は287票対128票でロックフェラーの指名を承認した。
憲法修正第25条第4節及び第5節はそれ程、適用される機会はなかった。1981年3月30日、暗殺未遂事件によってレーガンは負傷した。手術前にレーガンの意識ははっきりしていたが、レーガンは権限を副大統領に委譲する文書に署名しなかった。その一方で、大統領の側近は、副大統領及び閣僚の過半数が大統領の不能力を申し立てる可能性についてホワイト・ハウスで議論するのを妨げた。1985年7月、癌の手術を行う前にレーガンは大統領の権限を副大統領に委譲する文書に署名したが、そのような短期間の場合に憲法修正第25条を適用する必要はないと述べた。
1991年5月、ブッシュは不整脈で入院した時に、もし電気ショック療法が必要な場合は副大統領に権限を委譲する考えを示した。しかし、電気ショック療法は不要であることが分かり、そのような措置はとられなかった。
2002年、結腸内視術のために鎮静状態になった時にジョージ・W・ブッシュは憲法修正第25条を適用した。1月29日午前7時9分、ブッシュは、大統領の義務と権限を遂行できないために副大統領を大統領代理とする旨を記した下院議長と上院仮議長宛の手紙に署名した。午前9時24分、ブッシュは大統領の義務と権限を再び遂行できる旨を記した手紙を下院議長と上院仮議長に送った。このような措置をとった理由をブッシュは、同時多発テロのような事件があった後、大統領は自らの職責について十分に慎重にならなければならないと述べた。