ロバート・スミス海軍長官 |
ロバート・スミス(1757.11.3-1842.11.26)はペンシルヴェニア植民地カーライルの商家で生まれる。2才の時、ボルティモアに移る。独立戦争に際しては、大陸軍に従軍した。カレッジ・オブ・ニュー・ジャージー(現プリンストン大学)を1781年に卒業。戦後、法曹界に入り、海事法を扱う。ペンシルバニア政界でも重きをなし、合衆国憲法批准を推進した。1789年の大統領選挙に際しては選挙人を務めた。メリーランド州下院議員、同州上院議員なども務めた。新政権発足にあたり、ジェファソンはスミスの兄サミュエル・スミス将軍を海軍長官に指名しようとしたが断られ、人事は難航した。ジェファソンの考えに従って、海軍の縮小を行う人物が見つからなかったためである。長官急募の広告でも出そうかと冗談をジェファソンが言うほどであった。ようやくスミスが海軍長官職を引き受けた。
スミスの在任期間は一時期、中断されている。司法長官職が空席になった時、スミスはジェファソンに司法長官職への異動を申し出た。ジェファソンはそれを認め、同時に後任の海軍長官としてジェイコブ・クロウニンシールドを指名した。両者の指名を上院は承認したが、クロウニンシールドは海軍長官就任を拒否した。そのためスミス海軍長官に留まった。後任が決まるまで短期間だが、司法長官も務めた。海軍長官としてスミスは補給網の整備に尽力し、トリポリ戦争を優勢に導いた。トリポリ戦争が終わると、ジェファソンは海軍縮小を再び推し進め、大型艦に代わって安価な小型砲艦で海岸警備を行うようにスミスに命じた。スミスはそうしたジェファソンの方針に対して内心で反対していた。また出港禁止令に対しても反対しながらも、実施に協力している。スミスはマディソン政権でも任に留まった。 |
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